許してください

文字数 1,477文字

 着信音がトラウマになりそうだ。
 
 今夜も「お母さん」と表示されたスマホが震えている。
「取らなきゃいいじゃない」
 左から悪魔が(ささや)く。
「取らないとあとが怖いぞお」
 右から悪鬼が(ささや)く。
 どっちも地獄じゃないか。
「はい?」
 今回の「はい?」は、ライトな諦め成分多めで。
 お風呂に入ろうかなと思っていたタイミングだから、気分的にも少し余裕がある。
「あんた、土曜日こっちに来なさい」
「来れる?」ではなく、いきなり「来なさい」。
「休日出勤がなければ、行けるけど」
 今ほど休日出勤を望んだことがあるだろうか、いや、ない。
「そ。じゃあ、お昼過ぎに待ってるわね」
 プツっ。
 部長!やる気に満ちている社員に、休日出勤のご下命を!!

 なんて望みが叶うこともなく。
「なんですか、この紙類は」
 台車に乗せられた折り畳み式のコンテナの中には、輪ゴムでまとめられた冊子が、いくつも積み重ねられている。
「町内会で配る、市の広報よ。今年、班長だから、うち。お父さんが手伝ってくれるって言ったけど、ほら、心臓があれじゃない?」
 心臓に疾患が見つかって、ステントを入れる予定になっている父を引き合いに出されては、諦めるほかはない。いや、最初から、抵抗する選択肢はないけれど。
「うちの班って、何件だっけ」
「20件くらいかな」
「にしては、量が多くない?」
「1件、マンションが入ってるのよ。そこはエントランスに置いておくと、担当の人が配ってくれるんですって」
 ほぉ。そういうシステムなんだ。
 妙に部数が多いのも納得。

 ただのポスティングなので、のんびりと台車を押しながら町内を回っているときに、事件は起きた!

「あれ、何の実だったかしら」
 突然、足を止めた母が、通りかかった家の庭先を指さしている。
 ごつごつと丸い、こぶしよりも少し小さな黄色い実が、細い枝にくっつくようにしてなっている。
「ああ、ボケの実だね」
 春先には、真っ赤な可憐な花を咲かせていたのを思い出して答えた。
「あれ、食べられるんじゃない?」
「ボケは生食はできないよ。カリンと同じ。いい香りがするらしいけど」
 道路からその木までは距離があるので、嗅がせてあげられないのが残念だなんて、仏心は無用だった。
「食べられるわよ。あんた、あれ採ってきて食べてごらん」
「食べられないって言ったよね?!」
 どうして。
 どうして、よそ様の庭になる実を食べたがるのだ、母よ。
 しかも、「食べられない」と言った本人に食べさせるのかいっ!
「硬いし、すっぱくて渋いはずだよ」
「あら、食べたことあるんじゃない」
「本に書いてあったんだよっ!」
 幼少のみぎり、「はい、誕生日プレゼント」と言って「食べられる山野草・果実」の本をくれたのは、あなただ。
「いや、食べられる。採っておいで」
 まったく引きそうにはないが、ちょっと問題がある。……いや、問題はすでに大ありなんだけど。
「他人のお庭だよ?門を開けて入らないと採れないじゃん。不法侵入だし、窃盗です」
「役に立たないわねぇ」
 ブラボー!神さまっ。
 役立たず認定いただきました!
 渋々歩き出した母の背中を追って、神に感謝をささげる。

「熟した果実に毒はないですが、早熟のものは体内に入ると毒性に変わる成分が含まれているので注意が必要です。 生のままで食べると苦みがあり、場合によっては腹痛を起こすことも。そのまま食べることはおすすめしません」

 帰宅後、「食べられる山野草・果実」を読み返して、胸をなでおろしたことは言うまでもない。
 まずいだけではなく、危うく病院送りの危機だった。
 我が(まま)よ。
 本当にもう、お許しください。
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