おれたちの戦いはこれからだ!
文字数 2,224文字
「あんた、遅かったじゃないの。なにモタモタしてたのよ」
たどりついた大学病院のICU前で母からなじられたときには、親子の縁はここまでかと心底思った。
最大の忍耐力を行使して無言を貫いていると、背後から「ご家族の方ですか?お嬢さん?」と声がかかる。
「あ、先生!やっと来たんですよ、こんなコでごめんなさい」
「ははは。お嬢さん、お父様はとりあえず、今は落ち着いておられます」
「……よかった……」
「膝から崩れそうになる」という状態を、リアルで体験することになるとは。
「もともと、心臓に疾患をお持ちだったんですよね?」
「……はい」
父は無事、父は無事。
言い聞かせて、呼吸を落ち着かせる。
「3か月後に、ステントを入れる予定でした」
「ちょっとお話をうかがっても?」
聞いていないのだろうかと思いながら医師について行くと、当然のような顔をして母がくっついてくる。
「あ、奥様はこちらの休憩室にどうぞ。お疲れになりましたよねぇ」
「大変でしたね」なんて看護師さんからねぎらいの言葉をもらって、まんざらでもなさそうな母が離れていった。
さすが人間のプロ。
扱いがお上手である。
こじんまりした簡易診察室のような部屋に入ると、担当医師がイスを勧めて、レントゲン写真などを見せてくれた。
「お母さまからは、一応、お話は聞いたんですが」
「えっと、要領を得なかった、とか?」
「いやー、あはは」
「ご、ごめんなさい」
「あははは」
「なんか、余計なこととか、言っちゃったりとか」
「あはは、まあまあ。で、最初に症状が出たのは、いつくらいですか?」
「半年ほど前、だったと思います。夕食後って聞いてますが、自宅で意識が遠のいたらしくて……」
自分は医療関係者じゃないから、どれほど適切な説明ができたかはわからない。
けれど、父の診察に付き添ったときに言われたこと、覚えていることなどを医師に伝えた。
「なるほど、わかりました。やっぱり今回、その動脈壁がはがれてしまったのでしょうね。こちらで手術をと思うのですが、お母さまがねぇ」
「ああ、ごめんなさいっ」
なにをやらかしたんだろう。
いくら謝っても足りないくらいだ。
「甥っ子さんがせっかく紹介してくれた病院にかかっているんだから、そっちの了解がないとダメだと」
「ええ!だって、緊急を要するのでは?」
「予断は許しませんね」
「お願いします!ぜひ、お願いします!母は説得します!」
「では、承諾書などの準備をしてしまっていいですか?」
「お願いします!」
膝につくくらい頭を下げてから、簡易診察室を飛び出した。
「ねえ、甥っ子君に連絡しないと」
どこで調達したのか、カップのホットコーヒーを片手に、母がのんびりと振り返る。
倒れたその場にもいなくて、ICUにいる父の状態も見ていないからだろうか。
緊急性などまるでわかっていないような母が、「甥っ子、甥っ子」と従兄の名を連呼している。
選挙かっ!
けれど、今はツッコんでいる時間も惜しい。
「従兄だって忙しいに決まってるよ、お医者様だもの。ここでの手術をお願いしようよ」
「ダメ。甥っ子君に確認しないと」
「お医者さん同士、さっきの先生と知らない仲じゃないと思うな、従兄は」
嘘も方便。父の命大事に。
「そうお?……そうよねぇ。あんたと違って、甥っ子君は優秀だし、顔が広いから」
もう、自分のプライドなど、どうでもいいのだ。
「そうそう。だから、担当の先生も張り切って手術してくれるんじゃないかなあ、と思うなあ」
「そうよね、甥っ子君の名前出したら、はっとした顔してたもの」
いや、それは気のせいだと思うけど。
「承諾書とかの署名がいるから、準備しよう。従兄にはメールしておく」
「そうねえ。じゃあ、頼んだわ」
やっと母を立ち上がらせることができたときには、大きなため息が出た。
こっちの寿命は縮んだし、父などは、リアルに命の瀬戸際だったというのに。
「お父さんいないから、今日は夕飯、なに食べようかしら」
のほほんとしている母に、他人の庭の果実を盗ることだけはしてくれるなよ、と思う。
「そうだ。この近くにホテルあるじゃない?あんたはあそこに泊まりなさい。お父さん心配だから。帰っちゃったら、深夜は来られないでしょ」
んなもん、タクシー呼べばいいじゃないと思うけれど。
「はいはい。かしこまりました」
無駄な抵抗はせずに、おざなりな返事をしておく。
これからは、ガンジーを師匠と呼ぶことにしよう。
東京湾を囲む工場地帯を眼下に見下ろすホテルは、高ぶっていた気持ちを落ち着かせるには、もってこいの場所だった。
もちろん、費用は母が出してくれるはずもないので、自腹だ。
「大して高いホテルじゃなくてよかったわね」と、通常運転の慰めのお言葉もいただいた。
しかし。
今回の我が母 には参った。
これから年を重ねるにつれて、こういうことは増えていくのだろうと思えば、気は重くなる一方。
本当は、母も携帯を持ってくれるといいのだけれど。
どうしても嫌だというなら、首にICチップでも埋めちまうか。
どこの獣医さんでやってくれるかな。
なんて埒もないことを考えているうちに、夜は深まっていく。
「母を恋うる歌」という演歌があるらしいけれど、「母を憂える歌」でデビューしようかと、本気で思うホテルの一夜。
母との戦いは、まさに今、これからだ!
打ち切りを希望したいが、コアな登場人物がいるから連載決定。
次回にご期待……、したくないなぁ。
たどりついた大学病院のICU前で母からなじられたときには、親子の縁はここまでかと心底思った。
最大の忍耐力を行使して無言を貫いていると、背後から「ご家族の方ですか?お嬢さん?」と声がかかる。
「あ、先生!やっと来たんですよ、こんなコでごめんなさい」
「ははは。お嬢さん、お父様はとりあえず、今は落ち着いておられます」
「……よかった……」
「膝から崩れそうになる」という状態を、リアルで体験することになるとは。
「もともと、心臓に疾患をお持ちだったんですよね?」
「……はい」
父は無事、父は無事。
言い聞かせて、呼吸を落ち着かせる。
「3か月後に、ステントを入れる予定でした」
「ちょっとお話をうかがっても?」
聞いていないのだろうかと思いながら医師について行くと、当然のような顔をして母がくっついてくる。
「あ、奥様はこちらの休憩室にどうぞ。お疲れになりましたよねぇ」
「大変でしたね」なんて看護師さんからねぎらいの言葉をもらって、まんざらでもなさそうな母が離れていった。
さすが人間のプロ。
扱いがお上手である。
こじんまりした簡易診察室のような部屋に入ると、担当医師がイスを勧めて、レントゲン写真などを見せてくれた。
「お母さまからは、一応、お話は聞いたんですが」
「えっと、要領を得なかった、とか?」
「いやー、あはは」
「ご、ごめんなさい」
「あははは」
「なんか、余計なこととか、言っちゃったりとか」
「あはは、まあまあ。で、最初に症状が出たのは、いつくらいですか?」
「半年ほど前、だったと思います。夕食後って聞いてますが、自宅で意識が遠のいたらしくて……」
自分は医療関係者じゃないから、どれほど適切な説明ができたかはわからない。
けれど、父の診察に付き添ったときに言われたこと、覚えていることなどを医師に伝えた。
「なるほど、わかりました。やっぱり今回、その動脈壁がはがれてしまったのでしょうね。こちらで手術をと思うのですが、お母さまがねぇ」
「ああ、ごめんなさいっ」
なにをやらかしたんだろう。
いくら謝っても足りないくらいだ。
「甥っ子さんがせっかく紹介してくれた病院にかかっているんだから、そっちの了解がないとダメだと」
「ええ!だって、緊急を要するのでは?」
「予断は許しませんね」
「お願いします!ぜひ、お願いします!母は説得します!」
「では、承諾書などの準備をしてしまっていいですか?」
「お願いします!」
膝につくくらい頭を下げてから、簡易診察室を飛び出した。
「ねえ、甥っ子君に連絡しないと」
どこで調達したのか、カップのホットコーヒーを片手に、母がのんびりと振り返る。
倒れたその場にもいなくて、ICUにいる父の状態も見ていないからだろうか。
緊急性などまるでわかっていないような母が、「甥っ子、甥っ子」と従兄の名を連呼している。
選挙かっ!
けれど、今はツッコんでいる時間も惜しい。
「従兄だって忙しいに決まってるよ、お医者様だもの。ここでの手術をお願いしようよ」
「ダメ。甥っ子君に確認しないと」
「お医者さん同士、さっきの先生と知らない仲じゃないと思うな、従兄は」
嘘も方便。父の命大事に。
「そうお?……そうよねぇ。あんたと違って、甥っ子君は優秀だし、顔が広いから」
もう、自分のプライドなど、どうでもいいのだ。
「そうそう。だから、担当の先生も張り切って手術してくれるんじゃないかなあ、と思うなあ」
「そうよね、甥っ子君の名前出したら、はっとした顔してたもの」
いや、それは気のせいだと思うけど。
「承諾書とかの署名がいるから、準備しよう。従兄にはメールしておく」
「そうねえ。じゃあ、頼んだわ」
やっと母を立ち上がらせることができたときには、大きなため息が出た。
こっちの寿命は縮んだし、父などは、リアルに命の瀬戸際だったというのに。
「お父さんいないから、今日は夕飯、なに食べようかしら」
のほほんとしている母に、他人の庭の果実を盗ることだけはしてくれるなよ、と思う。
「そうだ。この近くにホテルあるじゃない?あんたはあそこに泊まりなさい。お父さん心配だから。帰っちゃったら、深夜は来られないでしょ」
んなもん、タクシー呼べばいいじゃないと思うけれど。
「はいはい。かしこまりました」
無駄な抵抗はせずに、おざなりな返事をしておく。
これからは、ガンジーを師匠と呼ぶことにしよう。
東京湾を囲む工場地帯を眼下に見下ろすホテルは、高ぶっていた気持ちを落ち着かせるには、もってこいの場所だった。
もちろん、費用は母が出してくれるはずもないので、自腹だ。
「大して高いホテルじゃなくてよかったわね」と、通常運転の慰めのお言葉もいただいた。
しかし。
今回の我が
これから年を重ねるにつれて、こういうことは増えていくのだろうと思えば、気は重くなる一方。
本当は、母も携帯を持ってくれるといいのだけれど。
どうしても嫌だというなら、首にICチップでも埋めちまうか。
どこの獣医さんでやってくれるかな。
なんて埒もないことを考えているうちに、夜は深まっていく。
「母を恋うる歌」という演歌があるらしいけれど、「母を憂える歌」でデビューしようかと、本気で思うホテルの一夜。
母との戦いは、まさに今、これからだ!
打ち切りを希望したいが、コアな登場人物がいるから連載決定。
次回にご期待……、したくないなぁ。