第6話 公安部副部長のロマンス ⑤
文字数 2,712文字
「はあ……あのな、まず断っとくが、俺はそういう色事の経験は一度しかない」
「そうなのですか」
意外だ。思う直江をよそに、及川は続ける。
「だから、今から話すのも、ろくに経験を積んでない人間の単なる主観でしかない。到底、アドバイスなどと呼べる代物じゃない。てか、アルティメット失敗談だ。それでもいいな」
聞かれた直江は、ゆっくりと頷いた。及川はもう一度深くため息をついてから話し始める。
「断る理由がないから――お前が悩む理由の大元はこれで合ってる、な?」
「はい」
返事を聞き、及川はすぅと息を吸う。そして、
「あぁー……だよなぁ、そう考えるよなぁ」
頭をがしがしとかきむしり、しんどそうに声をあげた。青木と直江はそれに驚く。もっと淡々とぶっきらぼうに話すものと勝手に想像していた。
「ちょ、あの、部長? あんまりアレなら無理しない方が良いっすよ?」
「は、はいっ! 青木君の言う通りです! 俺は自分で何とかしますので!」
「うるせえ、もう黙って聞いてけ!」
狼狽え気遣う二人の言葉を、及川は跳ね除ける。
確かに直江とはそれほど親しい間柄ではない。平生ならば、助けを求められても「知るか」と一蹴する相手である。それでも、今回に限っては、どうしても放っておけなかった。
今の直江が、悩むその思考が、どうにもかつての自分に重なった。
「……まあその、なんだ。断る理由がないからと付き合って、そんでフラれた男がいたんだよ」
「え、あ……」
「つまり俺なんだが」
「でしょうね」
言って、おっとと青木は口に手をやる。じっとりとした目で及川に睨まれた。
「……まあ、そういう訳だから、ろくでもない思い出だ。……あーここからはほんとに俺個人の話になるわけだが、反面教師と思えば有用だろ。うん、こうはなるな」
うつむき加減で、人差し指を揺らしながら言う及川に、直江は「よろしくお願いいたします」と遠慮がちに答える。
「その、な。別にフラれたのがショックで辛くて悲しくて……って訳じゃないんだ。もちろん、動揺はした。けど、ちょっと考えれば、落ち度はこっちにあるって納得できたからな」
「納得、ですか?」
聞かれて及川は、今日何度目かの渋い顔をする。意図的に葬っていた記憶が徐々に掘り返されて、それが思ったよりも辛かった。しかし、話すと決めたのは自分だ。及川は答える。
「なんつーかほら、告白を受けた理由が理由だろ? だからって惰性で付き合ってたつもりはなかったんだが……でも、本心じゃない態度ってのは感づかれるらしくてな……」
観念して当時を、かつての恋人の顔を思い出す。
明るい性格だった、基本的に笑っていた。けれど彼女が周囲に見せるその陽気は、笑顔はどこか歪だった。心の奥底でそう振る舞おうと冷たく判断して、決めた結果を表面にのっけただけのような、そんな無機質を及川は感じていた。
――でも、自分には、自分にだけは違ったように思う。余裕な笑みは、からかう言葉は、自分を困らせて喜ぶ態度は、歪みなく純粋だった気がするのだ。そう思ったから、あの時の彼女は、及川にとっても特別になった。大切な友人だった。だからこそ、わざわざフるなんてことはしたくなくて、けれど――
「――最後に『今まで付き合わせちゃってごめんね』ってさ、それ以来友達ですらなくなった。まあ流石に分かるよな、自分が間違ってたって」
そこまで言い終えて、及川は心底疲れたという様子で、身体を背もたれに預ける。そして、傍にあったうちわを手に取り、パタパタと顔を仰いだ。
「まあそういうわけだ。今は結構割り切っていたつもりだったがな……ったく、お前がな、あの時の自分と似てるもんだから……。つい重ねてしまって、冷静に話せなくなる。つーか、ゲボ吐くほどしんどい」
言って直江に、ぴっとうちわを突きつける。
「とにかく、俺ですらそこそこの罪悪感で苦しむ羽目になるんだ。お前みたいなクソ真面目に、この轍を踏むのはお勧めしない」
そう言ったのを最後にいよいよ脱力して、「あぁー」とけだるげに呻き天井を仰いだ。
直江は神妙な顔で及川の言葉を咀嚼する。彼の言わんとすることは、十分以上に理解できた。好きじゃないなら付き合うな。つまりそういうことだ。
話を聞いてよく分かった、同情で付き合うなど絶対にやってはならない。相手を一層みじめにする、傷つける。それは人として間違った行いだ。そう自覚するから、最後に罪悪感が残る。
「俺は……」
熊野七智を好きなのか? 直江は、そうだと断言できなかった。断言できない時点できっと、答えはでている――
――青木の方を向く。これからの為に、助言をもらおうとする。
だが、察した青木は呆れ顔で口を開いた。
「あのさ、それはちょっと性急じゃない?」
「え?」
「だから、熊野さんを好きじゃないって結論を出すの、急ぎ過ぎてるだろ絶対」
大方、告白の断り方を聞こうとしたんだろうけどさ――青木は言う。言い当てられて、少し動揺する直江に、及川は上を向いたまんま声を飛ばす。
「おー、そうだぞ。俺の話は体験談であって、アドバイスじゃねーからな。これで結論出すのだけは勘弁だ」
身体をぐんと前に戻して、顔を直江の正面に持ってくる。
「だいたい、その熊野とやらをちゃんと知ったのは昨日が最初なんだろ。人となりもよく分からねえで、好きも嫌いもあったもんかよ」
青木も同意して、続ける。
「そうそう、直江は色恋を固く考えすぎなんだよね。数学の問題かなんかと勘違いしてない? 人との関わりだぜ、直江一人のサイドだけで考えたって答えなんか出るわけないじゃん」
「……確かに」
言われて直江は、はっとする。全くもってその通りだ。良く知りもしない相手を、好きになどなるはずもない。だが、直接関わり合って、熊野を知れたなら、話は違ってくるかもしれない。
「俺としては、その一週間の猶予すら延長して良いと思うよ。先ずは友達からってのも全然ありだと思うしさ」
「左に同じ。てか、畑野遅いな」
青木は言いながら、直江の肩をぽんとたたく。及川はすでに、話題から興味が逸れはじめていた。
直江は少しの間目を瞑り、それから勢い良く立ち上がった。驚く二人に向かって、ぴったし九十度に腰を曲げる。
「ありがとうございました! 大変為になりましたっ! 俺、まずはしっかり、彼女と向き合ってみます!」
「お、おう、そうか……」
「が、頑張れー」
「はいっ‼」
そう大きく返事をして、勢い良く部室を出ていく。
及川と青木は、そんな直江を呆然と見送った。