第3話 矢島辰幸の苦悩

文字数 1,802文字

ユニオン リープル・自由な結びつきと解釈される。
共に暮らし、夫婦同然の関係であっても、あえて結婚しないカップルのことを指す。結婚という形式に束縛されることを嫌い、互いの自由や生き方を尊重する。フランスでは、ユニオンリーブルが5組に1組を占めており、役所に届ければ証明書が発行される。結婚と同等の権利も与えられる。
矢島辰幸のスマホの履歴に残るその文面は、昔と今とでは感覚が異なっていた。
遠いヨーロッパの国の制度を、日本に当てはめて考えるのには無理があり、周囲の理解も得られない現実もある。
矢島がかなでと暮らし始めて5年。
幾度も周りの雑音には悩まされていた。
付き合い当初の意思も揺らぎ始め。

「かなではどう思ってるのだろう?」

と、考えてしまうが、それを口には出せなかった。
口にした途端、全てが終わるかも知れない…。
生き方を変えるというのはそういうことなのだ。
これから先も、価値観や世間体を気にしつつ、理想と現実との乖離にそっと苦しめば良い。
矢島は葛藤していた。
かなではよく。

「落ち着いたら籍を入れたらいいと思うの」

と、言ってはいるが、それはいつ頃で、何がキッカケとなるのだろう?
子供が出来たらなのか、ただなんとなくなのか…。

川越市駅から徒歩15分の賃貸マンション。
家賃は12万円。
それでも3LDK、ルーフバルコニー付きの我が家に矢島は満足していた。
家賃はふたりで折半。
勿論、光熱費も通信費も同じ様にしていた。
介護福祉士として働く前は、小劇場を中心に舞台俳優として活動していた矢島だが、その経験は仕事に活かされていた。
介護施設での催事では、司会を任されて場を盛り立てた。
今更ながらに思うこともあった。

「もう少し、舞台をやってたらなんとかなったのかな?」

と。
矢島は、冷蔵庫を開けて厚揚げと水菜、それになめこのパックを取り出した。
時刻はすでに20時をまわっている。
夕刻に、かなでから連絡は入っていた。
帰りが遅くなると。
我が家の決まりごとー夕食の担当は早くに帰宅した方が余り物でご飯をつくる。余計な物は買わない。外食は控えることーを、守りながら、矢島の脳裏に幼馴染の涼子の言葉が浮かんだ。
数日前の同窓会での会話を思い出しながら、矢島は水菜となめこの味噌汁を作り始めた。

「あたし、実は矢島君タイプだったんだから!」

酒に酔った涼子は、矢島の隣に座ると太腿を密着させながら笑っていた。

「結婚しないの? だってそれってただの内縁関係じゃない。なんか変だよ。もしかして奥さん、じゃなくて彼女? 他に男がいるんじゃない? だってココ日本だよ。あーあ。あたしだったらすぐに籍入れちゃうなあ。だって好きな人なんだもん」

矢島は、厚揚げを炒めながら溜め息をついた。
パートナーといった言葉が、こんなにも周りに理解されない現実がイヤだった。
玄関の扉が開いて、かなでが謝りながら矢島に近付く。

「ただいま~」

ちょっとした罪悪感に苛まれ、矢島はかなでの顔を見れないでいた。
するとかなでは、矢島に腕をからませながら言った。

「たっちゃん。厚揚げ焦げてるよ~」

かなでは、このカウンターキッチンがお気に入りで、互いの仕事が休みの前日には、シェイカーを片手にカクテルを作った。
マタドールやグラスホッパー。
矢島は、その味を忘れかけている自分に淋しさを覚えていた。
かなでは矢島の手料理を。

「おいしい」

と、言いながら食べてくれる。
なめこと水菜の味噌汁。
厚揚げの生姜焼き。
焼いただけのランチョンミート。
それらをペロリと平らげて後、かなでは片付けを始めた。
帰りが遅くなった側が皿洗い担当。
これも、決まりごとのひとつだった。
かなでは食器を洗いながら、テーブルで珈琲を飲む矢島に話しかけた。

「たっちゃん、あのさあ」

「ん?」

「新しい仕事もらったんだけど聞いてくれる?」

「うん。どんな仕事?」

かなでは一通り洗い物を終えると、矢島に企画書を見せた。
矢島はその内容に驚いて。

「重っ、大丈夫なの? これ?」

「もう引き受けちゃって」

「台本とかあんの?」

「もちろん」

「だよね」

かなではバックからUSBメモリーを取り出した。

「そんでね。これにお母さんが残した声が入ってるんだって。たっちゃん、一緒に聴こうよ」

「え?一緒に?」

「ひとりじゃやだもん」

矢島は乗り気ではなかったものの、今にも泣きそうなかなでの顔を見ると断り切れず。

「寝ながらでもいい?」

「ありがとう」

かなでは笑顔で頷いていた。

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