8-上

文字数 9,662文字

 タクは、自分の執務室(しつむしつ)でオンラインミーティングに(のぞ)んでいた。相手は政府の高官だ。不用意な発言は命取りになりかねない。特に自分の担当業務の成績が(かんば)しくない時は。
「現状、成人男性から取り出した細胞にY染色体を移植(いしょく)する(こころ)みは成功していません。」ここで口を挟む()を与えてしまうと、一気にやり込められてしまう。相手が口を開く前に、タクは話を続ける。「次善策(じぜんさく)の第一段階として、対象の精子と女性から取り出した卵子で人工授精を行い、胎児(たいじ)の育成を進めています。現在の研究チームはこの胎児育成に特化させ、成人男性の細胞に対するY染色体の移植は、別の研究チームを編成して引き継がせる予定です。」
〈新しい生命の誕生は喜ばしい事だが、今の我々に未来は無いのか。〉
 想定された意見だ。
「対象から取り出した精子のストックはまだ充分にあります。Y染色体の移植には、思いの(ほか)手間取(てまど)っていますが、研究を継続します。加えて、もう一つプロジェクトを立ち上げさせて(いただ)きたい。」
 自分達の利益にしがみつく為政者(いせいしゃ)などクソくらえだ。私は、お前達の(ため)に働いているのではない。純粋にこの国の未来の為に働いているのだ。
〈何も、新しいプロジェクトを立ち上げなくても良いんじゃないか?予算は振り向けられないぞ。〉
 分かり切った意見しか言えないのか。予算など当てにしていない。
「追加予算は必要ありません。現行プロジェクトのバックアップとして、本来人類が持つ生態での繁殖(はんしょく)(こころ)みます。」
〈そんな事が出来(でき)るのかね。実現出来るとは思えないが。〉
「対象の居場所を特定しました。」
〈なんと!〉
「現在、我々の管理下にあります。」
〈ならば、()ぐに連れ戻して実験に参加させたまえ。〉
「いいえ。試験遂行(すいこう)に充分なだけのY染色体のストックは確保しています。加えて、諸外国の干渉(かんしょう)を避けるには、表面上、対象は失われたままとした方が、都合が良いかと。」
〈局長、そりゃ、軍の実力を軽視(けいし)していないかね。〉〈まあまあ、この前、アンドロイドの侵入を許して、今の事態を引き起こした前例がある以上、そうとも言えんだろう。〉
「状況が変われば連れ戻しますが、今、その必要はありません。現状をうまく利用して、新しいプロジェクトを立ち上げます。」
()(ほど)、新しい個体がそこで生まれれば、サンプルが多様になり、試験を成功に(みちび)ける可能性は広がる(わけ)か。〉
「はい。ホライズン・プロジェクトと名付けました。」
 自分の事しか頭にない連中には、お前達を元の体に戻せる可能性を広げるためだと思わせておけば良い。本当に目指すのは、人類の新しい地平線だ。雄斗よ、頭の固いお偉方(えらがた)の思いなど気にする事は無い。歴史の地平の彼方(かなた)でお前はアダムになるが良い。

 夕方から始まるビル二階の食事会に、雄斗は半分壊れた木箱を(かか)えて参加した。車座(くるまざ)に座り、持ち寄った料理を並べ、(いも)から作った蒸留酒を()()わす人の(わき)に、雄斗は木箱を置き、それを踏み台にして立つ。
「皆さん、聴いて下さい!」
 てんでにお(しゃべ)りを始めていた一同は、何事(なにごと)が始まったかと雄斗を振り返る。
「皆さん、毎日畑で仕事して、こうやってみんなで食事して生活出来(でき)てます。ちっちゃいけど、自治会もあって、きちんと人間らしく楽しく生きてます!…ですよね?」
 見回せば、雄斗が何を言いたいのか分からず、みな、ポカンとした顔で見ている。
「ユウト、何言い出した?」
 誰かが、隣の者に小声で話し掛けるのが聞こえる。
「だ、だから、皆さん、いろんな事情があって、シティから離れて、此処(ここ)にやって来たんでしょ。ドロップアウトしたって、OR民だって、自分で自分にレッテル貼って。」
「ユウト!」
 彼の声を聞きつけて、部屋を飛び出して来た少女のアイリーンが怒っている。
「ちょっと待って!」片手を前に出して、アイリーンの動きを制する。「これ言わなきゃ。僕はこれ言わなきゃって決めたんだ。…皆さん、聴いて下さい。そうやって、(ただ)自分の終末を待つために此処に居るんですか?」
「ユウトはまだまだ先があるだろうけど、俺等(おれら)はなぁ。」
 一人の言葉に周囲が同意している。
「確かにみんな中年です。でも、まだ十年、二十年生きていくんでしょ。…人に()っては、十年無いかも知れないけど…、でも…、でも、あと一年だったとしても生きていくんでしょ。だったら、その時間をどう生きるかじゃないですか!」
 輪の中で、ヨキは黙って雄斗の話を聴いている。止めに来たアイリーンも、無理に雄斗を引きずり降ろそうとはしない。
「そりゃ、兄ちゃんは、なぁ。」
 輪の中から声が()れる。(ふく)み笑いも聞こえる。
「そうじゃない、そうじゃないんです。…僕も、一度は自分の運命から逃げてしまいました。でも、(ようや)く気付いたんです。逃げてもしょうがないんだって。変えられるのは自分しかいないんだって。…だから、提案です!此処(ここ)で暮らして分かりました。此処はOR民って後ろ指差されながら、隠れて暮らすだけの寂しい所じゃない。人間がお互い(つな)がって、怒ったり、笑ったり、喧嘩(けんか)したり、喜びあって、本当に人間らしい生活が出来る場所なんです。だったら、僕達の国にしちゃいましょう。此処は僕等の独立国だって宣言するんです。」
 一瞬後、人の輪から笑いが()き起こる。
「国を作るだって?」「どこの国がそれを承認してくれるんだい。」「そんな事しなくても、今のままで充分幸せだよ。」
「外の人間がどう(とら)えるかなんか気にしなくて良いじゃないですか。僕等の気持ちの中には踏み込めない。僕等はお互いを思って生きる。誰かに強制されるのじゃない。自分達が胸を張れる生き方をしましょう。…そうじゃないですか。」
 みんな、話を聞いている。だけど、どうも相手にされていない感じだ。
「じゃ、ユウトがこの国を運営してくれ。」「そうだよな。一番長生きしそうだから。」
 半分以上揶揄(からか)われている。急にこんな事言う自分がおかしいのだろうか。
「それは無理です。…勿論(もちろん)、僕も参加しますが、僕はこのビルに居て、(ようや)く畑をやっている皆さんを知ったぐらいです。此処(ここ)には、服を作ったり、石鹸(せっけん)を作って洗濯したり、昔からある発電システムを管理している人達もいるんでしょ。だから、沢山(たくさん)の人に協力してもらわないと…」
「そうだよなぁ。」「だったら無理だろ。」「ま、もっとよく此処(ここ)を知ってから考えてみなよ。」
 駄目(だめ)だ。こんな新参者(しんざんもの)の自分が思い付きで話しても、誰もちゃんと聞いてくれないのか。穴が有ったら入りたいと言うのは、こういう事か。
 雄斗は、それ以上話すのをやめて、木箱から降りる。木箱を(かか)えて、黙ってその場を後にする。
「ユウト、頑張ったね。」
 しょぼくれて廊下を歩く横から、少女のアイリーンが声を掛ける。
「良いよ、(なぐ)めてくれなくて。全然駄目だ。」
「そんな事ない。きっと、ユウトの気持ちは、みんな分かってくれたよ。」
 いつもなら、目立つことをするなと(おこ)(はず)のアイリーンなのに。それだけ自分が落ち込んで見えるのだ。
「…ありがとう。」
 その夜、ユウトは壁を見つめて寝た。

 サクラがサイガ研究室に入って行くと、サイガ博士とタクが(けわ)しい表情で向かい合っている。互いに何も話していないが、空気が張り詰めていて、少しでも何かあれば爆発しそうだ。
「なんでそうなる。ちゃんと理由を説明しろ。」
 先に口を開いたのは、サイガ博士だ。言葉に(いか)りが(にじ)んでいる。
「研究のスピードを上げるためだ。」
 タクはさらりと口にするが、一歩も引かないという彼の固い意志が伝わる。
「研究が遅いと言うんだな。」
 サイガ博士の言葉に、タクは返事をしない。
「あなたは、研究者じゃないから分からないだろうが、誰にやらせたところでスピードは変わらない。その上、今から別の人間に(たく)すとなれば、現状を理解する(まで)の時間が必要だ。(かえ)って時間がかかる事になるぞ。」
「そうかも知れんが、そうならないかも知れん。第一、これは決定事項だ。」
 部屋に入った場所で、二人のやり取りを見つめたまま、サクラは固まってしまった。とても割り込めそうにない。シュンは実験をしているのか、部屋には居ない。もしかすると、この事態を察して姿をくらましたのかも知れない。
「だったら、僕をクビにすれば良いだろう。」
 博士は開き直る。
「なんでそういう事になる。君達の成果は評価している。だから、胎児(たいじ)の研究は続けてもらいたいのだ。」
 今度は博士が答えない。硬い表情のまま、向かい合うタクを(にら)んでいる。
「君も、今迄(いままで)の成果を無駄にしたくない(はず)だ。引き続き研究してくれ。精子サンプルは後日、引き継ぐ者が決まったら、取りに来させる。」
 タクはそこまで話すと、研究室の出口に向かう。
「おい、それだけか。こっちの意見を聴かないつもりなら、わざわざ此処(ここ)に来なくても、メッセージでそう指示を出せば良いだろ!」
 タクの背中に博士が文句を浴びせる。立ちすくんでいるサクラとタクが交差するから、博士の罵声(ばせい)がサクラに向けられている(よう)錯覚(さっかく)を覚える。タクが部屋を出て行っても、博士は怒りを持て(あま)したまま、研究室の入り口を(にら)んでいる。
「あの…」
 サクラは(おそ)る恐る、声を掛ける。
「何だ。」
「何かあったんですか?」
 ()かれた博士は、フンと鼻で笑うと、どっかりと自分の椅子に腰を下ろす。
「報復だよ。」
「?」
 さっきの二人の会話から、大体(だいたい)の内容は想像出来る。むしろ、博士の言葉の方が分かり(づら)い。
「試験結果が悪いから、私達から対象のY染色体を取り上げようというのさ。」
 やっぱりそう言う事か。
「彼には、研究成果が(かんば)しくないのは、私達の試験の仕方(しかた)に問題があるからだとしか思えていないんだろ。…そうじゃない。原因は他にある(はず)だ。」
「それで、研究を別のチームに移すんですか?」
「全部じゃないそうだ。今進めている胎児(たいじ)三十体の育成研究は、継続しろという事だ。それが彼のお(なさ)けだ。…で、何の用だ?」
「ええ、シュンに用事があったんですけど、いない様ですね。」
「きっと、インキュベーター室だ。」
「分かりました。行ってみます。」
 サクラは、そそくさと研究室を後にする。
 時間が無くなった。決行しなければ。
 彼女は、急ぎ足でその場を後にした。

 雄斗が(しり)すぼみな演説(えんぜつ)をした次の日、ヨキが一緒に畑に行こうと言う。(ひざ)はなかなか良くならないらしく、畑仕事に出たり出なかったりしている。出るとしても、畑に姿を(あらわ)すのは太陽が高く昇ってからだ。ヨキが朝一番から畑に出ようとするのは久し振りだ。
随分(ずいぶん)、張り切ってたな。どうしてあんな事しようと思ったんだ?」
 二人で畑に向かいながら、()ぐにヨキは昨日の雄斗の演説の話を持ち出す。雄斗にとっては、失敗をぶり返される様なものだ。
「もう、良いです。ちょっとした思い付きですから、忘れて下さい。」
「そうかい?何か決意があって話したんじゃなかったのかい?」
「そりゃ…、そうですけど。」
「良かったら、その辺、教えてくれよ。」
「あの、皆さんは…、って言うか、僕はなんですけど、シティから逃げて来ました。それも自分じゃ何も出来ず、女性が逃がしてくれたんです、(みずか)らを危険に(さら)してまでして。でも、このままじゃ守れないって、助けてくれた女性すら守ることが出来ないって思って。」
 アイリーンに教えられた話の通りなら、政府も諸外国も、雄斗の遺伝子(いでんし)を欲しがっている。なら、自分を(うば)いに来るとしても、決して殺されない。でもアイリーンは違う。抵抗すれば、いや、抵抗しなくても殺されかねない。最早(もはや)彼女は、この国にとっても、C国にとっても裏切り者だ。
「守ってばかりじゃ、勝てないでしょ?どんなスポーツでも、一生懸命守って零点(れいてん)に抑えても、それだけじゃ勝てない。一点でも良いから攻めて点を入れなくちゃ。」
「なるほど、それが、ユウトの考えかい。」
 こんな話じゃ、感心してはくれない。でも、これしか話しようがない。
「ま、良いんじゃないか。」ヨキはやけにあっさりと言う。「みんな、判ってはいるのさ。でも、昨日のユウトは、俺達にゃ真っ直ぐ過ぎたんだ。だから、()(かく)しみたいなもんだ。みんな根は良い(やつ)だから。」
 ヨキは雄斗を見て、満面の()みを作る。ヨキの話が(つか)み切れないまま、その笑顔に()られて、雄斗は苦笑(にがわ)いで返した。

 夜中にサイガ博士の情報端末で緊急アラームが鳴り(ひび)く。アラーム音で目を()ました博士は、飛び起きると着替えもせずに部屋を飛び出す。博士の寝室は研究所の敷地の中、研究棟(けんきゅうとう)とは別棟(べつむね)居住棟(きょじゅうとう)にある。走れば五分で自分の研究室に辿(たど)り着ける。
 棟を出ると、芝生(しばふ)の広場で()ち合いが始まっている。植込(うえこ)みに身を隠した者同士が弾丸を飛ばし合う。何百年()とうが、結局運動エネルギーを持った物体で肉体にダメージを与えるのが、一番効果的な殺傷力(さっしょうりょく)(そな)えている。
「博士、危ないから戻って下さい!」
 顔馴染(かおなじ)みの警備隊員から声が飛ぶ。
「これは、陽動だ!誰かが、研究室に侵入した!」
 (たま)が飛んで来る恐怖など感じないかの様に、少し身を(かが)めただけで、博士は真っ直ぐに研究棟の玄関を目指す。それを見た警備員達は、援護(えんご)射撃とばかり一斉(いっせい)に相手に向けて射撃する。玄関のガラス窓には、(すで)(いく)つか弾痕(だんこん)出来(でき)ている。それを横目で見ながら、博士は自動扉(じどうとびら)の中に転がり込む。夜だったのが幸いしたかも知れない。昼間なら、博士は間違いなく(ねら)()ちされていただろう。
 無事に研究棟に入り込めたからと言って安心してはいられない。事件は自分の研究室で起きている。博士は(きた)えた筋肉を躍動(やくどう)させて、階段を一段置きに()けあがる。
 研究室のフロアまで来てみれば、照明の消えた暗い廊下(ろうか)を逃げていく男の後ろ姿が見える。
「待て!」
 博士は男目掛(めが)けてダッシュする。全身に付いた筋肉が彼の体重を重くしているが、それに負けないだけ足の筋肉も(きた)えている。走る速さには自信がある。逃げる男との距離はアッと言う間に詰まる。男が緊急避難用の階段に逃げ込もうとする直前で捕まえて引き倒す。この階段を知っていると言う事は、内部に精通(せいつう)した者だ。肩から保冷バッグを下げている。間違いない。精子サンプルを盗みに来たのだ。
 ()み合う中で、博士の脇腹(わきばら)に激痛が走る。見る間に周囲が(あふ)れる血液で暖かくなる。痛みに耐えかねて博士の動きが(にぶ)ると、男は博士を跳ね()け、投げ出された保冷バッグを拾って緊急避難用階段に消える。
 男の顔は見えた。知らない男だった。
 博士は遠のく意識の中で、それだけ思った。

 強奪(ごうだつ)は、(わず)か十分前後の銃撃戦の最中(さいちゅう)に完了していた。機動部隊が応援に()け付けた時には、(すべ)てが終わっていた。タクが研究所に到着したのは、(さら)に三十分後になった。
 研究棟の前の芝生は、戦場跡(せんじょうあと)に変わっている。現場調査のため照明がたかれ、植え込みの(かげ)から(のぞ)仕留(しと)められた者の上半身を浮かび上がらせている。研究棟の玄関ドアは弾痕(だんこん)だらけだ。
「なんてザマだ!」
 タクは怒りを抑え切れず叫ぶ。その声に、報告の(ため)に彼に近付こうとしていた警備隊員が一瞬(ひる)むが、タクの様子を(うかが)いながら、(おそ)る恐る近付く。
「三体のアンドロイドが研究所敷地内に降下、銃撃戦となった模様です。」
「またアンドロイドか。一体、前回の襲撃(しゅうげき)から何を学んだんだ。」
「襲撃者は全て鎮圧(ちんあつ)されました。ですが…、これとは別に研究棟内で盗難がありまして…」
「盗難?」
 タクが(まゆ)をひそめる。
「はい、サイガ研究室に窃盗犯(せっとうはん)が侵入した模様です。サイガ博士が腹を刺されて重体です。」
 タクは、(すべ)てを聴き終わる前に、研究棟に向けて大股(おおまた)で歩き出す。警備隊員は何とか彼に付いて行く。
 研究棟はさっきまでと違い、全棟照明が()けられ、軍の特殊部隊員がそこここで警備に当たっている。サイガ研究室のある階の廊下には、血だまりが出来ている。恐らくさっき(まで)そこにサイガ博士が倒れていたに違いない。
「犯人は?」
 周囲の状況を観察しながら、タクが警備隊員に()く。
「逃走中です。特殊部隊員が後を追っています。」
「警察は?」
「通報していません。軍の管轄(かんかつ)で処理しています。…連絡した方が良いですか?」
「いや、しなくて良い。軍の諜報部(ちょうほうぶ)管轄で対応を頼む。」
 タクは、サイガ研究室の入り口から内部を見回す。物盗(ものと)りが入った割には整然としている。唯一(ゆいいつ)手が付けられているのは、サイガ博士のデスクの抽斗(ひきだし)だ。上段右側の抽斗(ひきだし)が開けられて、恐らくそこに入っていたと(おぼ)しき物が周囲に散らばっている。次にタクは隣の解析室を(のぞ)く。此処(ここ)にも(ぞく)は侵入している。壁際(かべぎわ)の冷凍保管庫の(とびら)が大きく開けられている。
「犯人はどうやら、あの保管庫を開けて中の物を持ち出した(よう)です。」
「やられた…。」
 思わず、タクの口から()れる。事情が分からない警備隊員は平気な顔でいる。犯人は、雄斗の精子サンプルをピンポイントで(ねら)って盗んで行った。保管場所も、それを開ける(かぎ)()()も、研究室に入るセキュリティも、(すべ)て把握した上で犯行に(のぞ)んでいる。周到に計画された犯行だ。タクは、ふと思いつき、今度は少し離れたインキュベーター室へと急ぐ。警備隊員もタクについて行く。インキュベーター室は鍵が掛かっている。恐らく(ぞく)は入っていないのだろう。
「おい、早くシュンを呼んで、此処(ここ)の鍵を開けさせろ!」
「は、はい。」
 警備隊員は、(あわ)ててその場を後にする。残ったタクは、今後の対応策に頭をフル回転させた。

 事件に関する内容は次々に明らかになった。事件後、研究所のインフラ管理課に勤めていた職員が一名行方不明になっており、犯人はこの男の可能性が高かった。軍が追っているが、行方(ゆくえ)(つか)めていない。恐らく、(すで)に出国してしまっただろう。犯人がその男だとして、研究者と関わらない彼が、サイガ研究室に難なく出入り出来(でき)、その上冷凍保管庫の鍵の()()を知っているのは不自然だ。研究者が(すべ)て帰宅した後の研究室の(とびら)は、該当研究室に在籍する研究者のIDが無ければ開かない。右耳の後ろに埋め込まれたマイクロチップとの通信で個体認識される。研究者のマイクロチップ内のデータを盗み取り、複製を作ればなりすませるが、研究者のマイクロチップの中身を読み取る機会が男にあったとは思えない。(さら)に、日頃出入りしない研究室の内部の状況を把握しているなど、協力者が居なければ出来ない芸当(げいとう)だ。
 協力者は誰だ?
 容疑者は多くない。窃盗犯(せっとうはん)()らえようとしたサイガ博士は対象外だ。もし、犯人を取り押さえようとした行為が、自分に容疑が掛からない様にするための欺瞞(ぎまん)だったとしても、腹を刺されて死ぬ危険を(おか)すのはやり過ぎた。事実、意識不明に(おちい)り、数日後に落命している。アイリーンのIDは、今でも研究室に入るアクセス権が残っているが、本人が逃亡した際に、恐らく体内からマイクロチップを排除したと思われる。更に、雄斗の精子が採取、保管されたのは、彼女が試験から(はず)れた後だ。保管場所を彼女は知らず、協力者になり得ない。セイヤは、雄斗の体が自由になった時点で役目を終えて、この研究から外れている。元々、研究室には近づかない存在だった。残るはシュンとサクラ。タクは、シュンとサクラの身辺を調査するように命じた。
 しかし、調査結果を待たずとも、程無(ほどな)く協力者ははっきりした。数日後、サクラが行方(ゆくえ)をくらました。彼女の自宅、残された彼女の持ち物の解析が早急(さっきゅう)に進められた。けれど、彼女が事件に関与した証拠は見付けられなかった。他者とのやり取りや、行動履歴(りれき)は、徹底的(てっていてき)に消去されている。むしろその徹底ぶりが、彼女は只者(ただもの)でないと指し示していた。

 サイガ研究室メンバーで残ったのはシュンだけになった。タクは、博士とは対照的な、陰気(いんき)で頼りない雰囲気が(ただよ)う彼を研究室に訪ねた。彼は、一人になっても浮足(うきあし)立つ事もなく、むしろ、熱心に研究に打ち込んでいる。タクが訪ねた時も、育成中の胎児(たいじ)の成長データを熱心に検討している最中(さいちゅう)だった。
「子供達の成長はどうだい?」
 研究室に入るなり、シュンに声を掛ける。出来るだけ、前向きな話が出来る内容を選ぶ。
「はい、順調です。一人も欠ける事無く、成長しています。」
「そりゃ、良かった。」シュンに近付きながら、不自然なくらい明るく振舞(ふるま)う。「その調子だ。しっかり結果を出してくれ。」
「あの…、精子ストックが盗まれてしまったので、他のグループに研究を引き継げなくなってしまいました。」
 タクの表情が一瞬真顔(まがお)に戻る。
「気にするな。別にやりようが無い(わけ)じゃない。少し、研究ペースが(とどこお)るだけだ。」
「でも、成人男性から得た未分化細胞にY染色体を移植するには、Y染色体が無いと…。」
「君の子供達がいるじゃないか。」シュンの言葉を(さえぎ)って、タクは強い調子で言う。「あの子達が順調に育てば、彼等からいくらでもY染色体を取り出せる。三十例もあれば、他の細胞との相性も検討出来るかも知れない。…そうだろ?」
「ああ…、そうですね。単純な事に気付きませんでした。あの子達はY染色体を受け継いでいるんですね。」
 (ようや)くシュンの表情が緩む。
「気を付けてくれたまえ。今度は、赤ん坊を(ねら)って(ぞく)が侵入するかも知れない。」
 シュンが驚いた顔をタクに向ける。
「そうですね。セキュリティを厳重にしないと。」
「そうさ。この赤ん坊達は、他国の垂涎(すいぜん)(まと)なんだから。…とは言え、A国はもう興味がないかも知れないがな。」
「A国が?それはつまり、今回の襲撃(しゅうげき)はA国だったと?」
 タクは肩をすくめてみせる。
「それじゃ精子サンプルは、もう向こうに渡ってしまったんですね…。」
 シュンは肩を落とす。
「赤ん坊が無事だった事を幸運だったと考えよう。(もっと)も、A国は東洋人のゲノムを持った赤ん坊など眼中(がんちゅう)に無かったかも知れないが。」
「…何で、そんな事を俺に教えるんですか。」
 タクを見るシュンの眼は警戒している。
「君には、このプロジェクトの新しいリーダーをお願いしたいんだ。私達は運命共同体だ。隠し事をしてはいけないだろ。」
 タクはシュンの肩に手を置いて、片頬(かたほお)で笑う。シュンはタクを見つめたまま黙っている。きっと(すさ)まじい勢いで、脳が計算している事だろう。
「今回の事件、どうやら、内部で手引きした人間がいた様なんだ。」
「え?俺じゃないです。」
 (あわ)てて、シュンは否定する。
「分かっているよ、君じゃない。」即座にタクは肯定(こうてい)(なだ)める。「だから、君を信じてプロジェクトも任すんじゃないか。…どうやら、サクラだった様だ。」
「え?」
 大きく見開いた眼が、タクの顔を(とら)えたまま止まっている。
「君は、サクラとは親しかった様だね。」
「いや、別に、(ただ)の仕事仲間として…。」
「そうか、そうだよね。分かっている。実は、サクラが失踪(しっそう)してしまったんだ。何もかも消し去って。君、何か思い当たることは無いかい?」
「何か…」
シュンは視線を壁に移す。彼の様子をタクはじっと見つめる。シュンの鼻には汗の粒が浮いている。
「…何も思いつきません。」
 タクは、シュンの肩から手を(はず)す。
「そうか。…何か思い出した事が有れば、小さな事でも良いから教えてくれ。」
 タクは研究室の入り口に向かう。
「あの…、ほんとにサクラはいなくなっちゃったんですね。」
 タクの背中にすがる(よう)にシュンの声がする。
「それが何か?」
 タクは振り返り、シュンの表情を(うかが)う。
「いえ…。これで自分一人になっちゃったなって。誰か研究を手伝ってくれる人を入れてもらえませんか。」
「考えておこう。このプロジェクトメンバーの選考チェックが甘かったのは、私の責任だ。まさか、裏切り者が二人もいたなんて。」
 サクラとアイリーン。他国のエージェントが長い年月と巧妙(こうみょう)な工作で、こんな研究の中枢(ちゅうすう)まで入り込んでいるとは想像以上だ。だとしたら、この二人だけではない。他にもいると思って人選には徹底的な調査をしなければ。
「ああ。」タクの言葉にシュンは寂しそうな顔をする。「あの二人、いつも張り合っていたから。特にお互いの事になると、どっちも(ゆず)らなかったな。」
「アイリーンか。」
 タクは、壁を見て考え込んだ。
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