2-下
文字数 10,745文字
それからいリハビリの日々が始まった。毎日、サクラとセイヤと過ごす日々だ。朝になるとサクラがやって来る。雄斗 を起こして、着替えさせ、雄斗が苦労しながら歯磨 きと顔を洗っている間に、朝御飯を用意する。用意された朝御飯を、雄斗はこれまた苦労しながら口に運ぶ。雄斗が食事をしている間、サクラは雄斗の傍 らで彼の介助 をする。朝食が終わって暫 くすると、セイヤがやって来る。その日のリハビリの始まりだ。雄斗を車椅子に乗せ換えて、リハビリルームに連れて行く。そこから昼飯迄 、たっぷりリハビリの時間だ。セイヤは決して急がなかった。まずはマッサージ、そして、血行が良くなったところで、少しずつ四肢 を動かす練習をする。長く続けず、雄斗が疲れてしまう前に休憩を挟んで、また続けられる。
昼飯は、サクラがリハビリルームの隣の部屋迄 お弁当を持ってくる。そこで、セイヤ、サクラと三人で昼飯を食べる。昼寝の時間を挟んで午後のリハビリになる。三時にはそれも終了し、自室に戻る。雄斗が午後のリハビリをやっている間に、サクラが雄斗の部屋の掃除を済ませておいてくれる。セイヤとはそこまでで、次の日まで会わない。サクラは、部屋の掃除を済ませると一旦 いなくなる。夕方にもう一度姿を見せて、雄斗に夕飯を食べさせて帰って行く。
雄斗が生まれた時代からすれば遠い未来の筈 なのに、人間の生活はそれ程 変わっていない。雄斗の介助も、リハビリの相手も、部屋の掃除だって、機器は見慣 れない最新の物らしい姿をしているが、操作するのは人間だ。何だが考えてみると不思議だったが、過去の人間である雄斗には、その方がストレスにならなかった。
時々、検査用の採血だとか、健康状態を確認しにアイリーンが顔を見せるが、それ以外はほぼセイヤとサクラと三人で過ごす日々に、雄斗は徐々 に精神的な安定を取り戻していった。
最初は筋肉大好きナルシストにしか見えなかったセイヤだったが、会話をする中でそれだけじゃない事も知れた。確かに自分大好き、筋肉大好きではあるが、いつも前向きな思考をしている。雄斗の状態を常に気遣 い、雄斗と同じ目線で話してくれる。まるで気の置けない兄さんの様 な存在に思えてくる。サクラも優 しい女性だ。いつもにこやかに、柔らかい物腰 で雄斗に接してくれる。二人の存在でどれだけ雄斗が救われているだろう。リハビリの日々が始まって一週間もしない内に、雄斗と二人は冗談を飛ばし合える間柄 になった。何だか、この二人ならば、何を訊 いても素直に答えてくれそうだ。
「ねえ、僕がコールドスリープしてから、どのくらい眠っていたのか分かる?」
ある日、雄斗はまず一番知りたい情報からセイヤに尋 ねる。
「何、気にしているんだ?それを知ってどうする。」
セイヤは明るい。それだけで何だか救われる。
「僕には、コールドスリープで仮死 状態に入って、次に気付いたらこの世界だったって感じだから、どのくらい経 っているのか分からないんだ。他にこんな話が出来 る人もいないし、なんか他の人には、僕が訊 いたらいけないかな、なんて思えて。」
もしかしたら、時間が経過したのじゃなく、異世界に行ってたりしないだろうか。
「そんな気を回さなくても良いだろ。何でユウトが知っちゃいけないんだ。大丈夫だ。」
セイヤが雄斗の肩をバンバンと叩 く。
「じゃあ、教えてよ。どのくらい経 っているか。」
雄斗のセイヤを見る目は真剣だ。
「ん。そうしたいが、知らん。」
え?
「知らないって、どういう事?」
「俺は聞かされていないんだ。ユウトがどのくらい昔の人なのか。」
セイヤはすまなそうに言う。
「え、そうなんだ?じゃ、今年が何年なのか教えて下さい。西暦で。西暦って言い方で良いのかな?」
雄斗は何だか焦 ってくる。
「いや、そんなの知らないなぁ。」
「えぇ、ちょっと、揶揄 わないでよ。」
「いやいや、揶揄っているつもりは無い。真面目 な話さ。」
「そんな訳 ないでしょ。今が何年か分からなきゃ、日常生活困るじゃない。」
「…いや。」
セイヤは慌 てる雄斗の顔を、真顔 で見つめて首を振る。
「え…。」
最初はまさかそんな訳が無い、絶対冗談か嘘だと決めつけていたが、段々セイヤが正直に言っていると分かってきて、言葉を失う。
「うん、まあ、ユウトには信じられないかも知れないけど。」固まってしまった雄斗の様子を見て、セイヤはすまなそうに話し始める。「今の世界じゃ、今年が何年かなんて、気にする人は居ない。年だけじゃない。今日が何月何日かだって気にしない。それを知って何になる?…そうか、ユウトは生命が有限の時代に生きていたから、今がいつかを知るのが必要だったんだ。でも俺達は違う。いつまでも生きていられるんだ。だったら、今がいつかを知る必要なんてないだろ?」
「それでも、人との約束とか困るでしょ。未来の時間に会おうとしたら、どうやって約束するんですか?」
「未来かぁ!凄 い表現だね。そりゃ、俺達も、ユウトの言う未来の予定を約束する事だってある。でもそれは、五日後とか、一ヶ月後とかそういう表現で十分だろ。細かい時間まで指定したければ、お互いのスケジュールに情報を入力すれば良い。」
「スケジュール…。」
「そう、みんなアプリケーションを持っている。…ユウトは、まだ持っていないけど、大丈夫、此処 で暮らしていくなら、みんなインストールするから。」
「じゃあ、誰も僕が何年間眠っていたのか分からないんだ。」
「ん~、きっとサイガ博士なら分かるんじゃないか。訊 いてみれば良い。」
セイヤは全開の笑顔をみせた。
雄斗はサクラにも聞いてみた。雄斗に与えられた部屋で彼女と二人きりになる夕食の時間を狙 って、話を切り出す。
「ねえ、この研究所の人達はみんな若く見えるけど、いくつなのかな。」
セイヤの時と同じ質問をしても、同じ答えが返って来るだろう。雄斗は攻め方を変える。
「え~、ユウトには若く見える?きっと本当の歳 を聞いたら、驚いちゃうわよ。」
サクラは雄斗の夕飯の支度 をしながら答える。
「サクラさんは、僕と同 い歳 くらいに見える。」
けど、言っている事もやっている事もしっかりしていて、きっと雄斗より年上だろう。
「あら、レディに歳を訊 くなんて失礼ね。」
「御免 なさい。」
サクラは、夕飯の支度 の手を止め、ベッドにいる雄斗の傍 まで歩 み寄る。
「そう言う、素直な所は好きよ。」
雄斗の目の前で囁 いて微笑 む。予想もしない展開に雄斗の心がざわつく。
「みんな若く見えるのは、生まれ変わっているからよ。」戸惑 う雄斗の反応を楽しんで、夕飯の支度に戻りながら、サクラは付け加える。「何度も何度も…。好きなだけ生まれ変われるから。」
雄斗は、何だか質問なんかどうでも良い気になってくる。
「生まれ変わるって、どういうこと?」
「ん~?そのまんま。新しい自分を若い時からやり直すって事。ユウトは今いくつ?」
「コールドスリープに入った時は十七歳でした。」
自分には歳 を訊 くなと言っておきながら、サラッと雄斗の歳を訊いてくる。相手がサクラだと、そんな事は気にならない。
「ふうん。」サクラが天井を見上げて考える。「たぶん、私もそのくらいかな、この体は。私達も歳を取るんだよ。どんどん老 けてっちゃう。でね、そうしたら、新しい若い体に生まれ変わるの。そうやっているんだよ。」
「え、じゃあ、結婚して子供が出来 て、その子が大きくなったら…」
「アハハハ。」
急にサクラが大声を上げて笑う。雄斗は驚いて、喋 るのをやめる。
「今の人達はそんな事しないわ。個人の権利が尊重されているもの。人が死なない世界よ。子供を作ったりしない。勿論 、結婚もしない。それぞれの人権を尊重して生きているの。」
「え、じゃあ、結婚したいとか誰も思わないの?自分の子供が欲しいとか。」
「そう言う事は、VRで経験出来るから。そうしたい人はVRで体験すれば良いのよ。」
「VR?…あ、バーチャルリアリティーって事か!」
「ユウトの時代もVRは存在したの?」
「うん、あった。」
「じゃ、話が早いわね。今は現実に可能な事を殆 どVRで経験出来る。だから、自分のやりたい事はVRで経験しながら、それぞれが相手の人権を尊重して生きているの。」
「そうなんだ。」
人が死なない、誰もが若々しい姿で街を闊歩 し、お互いに笑顔で挨拶 を交 わしながら行き交 う街並みを想像してみる。
「どう、素晴 らしいでしょ。」
「じゃ、サクラさんはどんな体験をVRでしているの?どんな事が趣味?」
雄斗は、勢い込んで質問する。
「さあ、夕食が出来たわ。テーブルに来て食べて頂戴 。」
サクラが、ベッド迄 雄斗を迎 えに来る。サクラに手伝ってもらって、雄斗は車椅子に移り、テーブルに移動する。テーブルには、暖かそうな料理が並んでいる。料理は雄斗のいた時代と違っているけれど、使っている食材は想像がつく。馴染 みの食材にほっとする。
「サクラさん、料理が得意だから、いい奥さんになると思うんだけどな。」
「あらそう?それって褒 めてくれているのかしら。」
「そうだよ。女性らしいって事。料理もVRで習うのかな。サクラさん、付き合っている彼氏はいないの?優 しくて女性らしいサクラさんを、男ならみんな好きになると思う。」
「さっきも言ったでしょ。今は個人の権利を尊重する社会なの。お互い他人の生活に干渉 しないわ。異性と付き合いたければ、VRで十分だもの。」
「え~、そんなの味気 ない。」
「ユウトもその内、VRを体験するでしょ。現実と変わらない経験に驚くわよ。」
「そうなんだ。いつも、サクラさんはどんなVRを使っているの。」
「ユウト、個人は尊重されなければならない。」サクラは急に真面目 な顔になると、雄斗を正面から見つめる。「他人のプライベートに立ち入らない。」
それまでの柔らかい物腰 とは一線を画 す、冷徹 に主張する声に、雄斗は言葉を失い、サクラを凝視 する。
「さ、食べて頂戴 。」
雄斗は言われるまま、スプーンを手に取った。
サクラが帰り、一人寝る前にベッドに横たわりながら、雄斗は考えていた。このところ、毎日リハビリで体を使っているから、直 ぐに眠くなって前後不覚に眠りに落ちる日ばかりだったが、今日はなんだか直ぐに眠れそうになかった。照明を落とし、薄暗い部屋の中で天井を見つめる。
いつも優 しく雄斗に接してくれていたサクラの冷たい表情、突き放すような言葉が、まだ雄斗の心をざわつかせている。あの時だけだ。直 ぐにサクラはいつものサクラに戻って、雄斗に優しく接してくれたし、そのときは、それ程 ショックを受けたとは感じなかった。だけど、こうやって一人になってみると、あの時のサクラの表情が脳裏 に蘇 ってくる。
この世界に目覚めてから今迄 の日々を思い返す。最初は何だか分からなかった。体だけじゃなくて、脳みその働きも不十分だったのか、ぼうっとしたまま、周囲で起きている出来事を受け止めていた。それから、この研究所で関わる人達を覚えた。そして、サクラやセイヤとは仲良くなったつもりでいた。それは自分の勘違 いだったのか。確かにみんな雄斗に気を遣 ってくれる。此処 で生活出来る様 に、言わなくてもサポートしてくれる。でも何故 だろう、時々自分は独 りだと思い知らされる。薄暗い部屋。窓のないこの部屋で、自分は飼われているのと変わらないのじゃないか?
昔観 た映画を思い出す。サブスクリプションを使って自室で観た。宇宙船に乗って地球に帰還 する。長い旅の間、乗組員は眠った状態で過ごす。地球に帰って来たと思ったら、そこは猿が支配していて、人間は家畜 の様に扱 われている。結局そこは、未来の地球だった。
ついつい、今の自分の境遇 と重ねてしまう。自分は宇宙船に乗っていた訳 じゃないから、此処 は紛 れもなく地球だし、自分と接するのはちゃんとした人間だけど、多分 自分は、あの宇宙船の乗組員と同じ孤独と混乱を感じている。映画の主人公は猿に捕まり、檻 に閉じ込められた。今の自分はそうじゃないのか?映画では、最後に猿との闘争 に打ち克 ち、恋人を連れて自由になった。自分はどうなるのだろう。この未来の人達の本当の仲間になれて、自由になれるのだろうか。自分が愛する人、愛してくれる人に出会えるのだろうか。
「昨日、サクラさんを怒らせちゃった。」
次の日、リハビリの休憩中に雄斗はセイヤに打ち明けた。
「なんだい?何をやらかした?」
雄斗は、昨晩のサクラとのやり取りを話して聞かせる。
「ハハハハ。」
セイヤは遠慮 なしに声を上げて笑う。
「僕は、そんなに非常識な事しちゃったのかな。」
「現代は、プライベートを尊重するからな。他人には過度に干渉しないのがルールさ。ユウトだって、自分の欠点を言われたり、裸を見られるのは嫌 だろ。」
「うん。仮死 状態から起きたばかりの時、セイヤさんとサクラさんに僕の裸は隅々 まで全部見られちゃったけど、凄 い恥ずかしかったよ。」
「フフン、そう言う訳 さ。」
「でも、それじゃ、人を好きになったり、嫌いになったりしないのかな。」
「おいおい、俺達だって人間だぜ。人を好きになる事だってある。一晩中一緒に過ごすって事もな。」セイヤは片目を瞑 って見せる。「でも、それはVRでだ。生身 の人間同士ではやらない。」
またVRか。
「VRで?それじゃ、二次元の世界じゃないか。実体が無いのは嫌だな。」
「二次元?実態が無い?ユウト、ほんとにVRが分かっているのか?」
「知ってるよ。」雄斗は両手で楕円 を作って見せる。「こんなゴーグルみたいなのを頭に着 けて、立体に見えるって奴 。」
「おい、何言っているんだ。」セイヤは小さく溜息 を吐 く。「…ま、ユウトは大昔の人だからな。いいか、そんな装置は使わない。実際に体で経験するのと同じ経験をするんだ。」
「?」
雄斗には言っている意味が理解出来 ない。セイヤはそれを察して、休憩時間を過ぎているのに、説明を続ける。
「脳と直接接続するのさ。さっき、ユウトが言ったやり方じゃ、外からの刺激は目を通して入って来るって仕組 みだろ?こっちからアプローチするときはどうするんだ?例 えば触ろうとしたら?」
「触る?そのVRで見えている物に?」
「そう。」
「マニピュレータを操作するか、グローブを嵌 めて…」
「それじゃ、触った感覚は無いだろ。」
「そりゃ、あくまでバーチャルだから。」
セイヤは首を横に振る。
「いや、違う。」セイヤが自分の頭を人差し指でつつく。「ここで考えるんだ。触ろうって。自分の手を動かす訳 じゃない。そうすると、VRの世界の俺の手が動いて、相手に触れる。そうすると、頭の中に触っている感触も伝わって来る。岩に触れれば、ごつごつした冷たい岩の感触が、肌に触れれば、柔らかくて暖かい滑 らかな肌の感触がさ。」
雄斗の反応がまだ薄いのを見て取ると、セイヤは更に説明を続ける。
「えっと、何て言ったかな…、ちょっと待って。…そう、シナプス。人工シナプスってやつを使うんだ。こいつが俺達の体の中に埋 め込んである。」
「え?」
装置を自分の体の中に入れてあるのか?
「驚く程 の事じゃない。」セイヤは親指と人差し指を近づけて摘 まむような形を作る。「こんな小さい奴 が耳の後ろに入れてあるだけさ。」
そう言って、自分の金髪を掻 き上げて耳の後ろを見せる。何もおかしい所がある様 には見えない。目を凝 らしてみると、耳の後ろの側頭部 が僅 かに膨 らんでいる様だ。
「外とは通信で繋 がっている。これで何でも実際に目の前で繰り広げている様に体感出来るって訳 さ。凄 いだろ?…一回これを経験しちまったら、すぐ病 みつきになるぜ。」
今度は、雄斗の肩に腕 を回し、顔を近づけて声を落として話し続ける。
「ユウトだってやりたい事があるだろ?例 えば、良い女を侍 らせて好きにするとか、それとも、変態プレイがしてみたいか?」
びっくりして、雄斗は上体を引く。見れば、セイヤが意味有り気 に片目を瞑 る。
「俺は、ハーレムが好きなんだよ。美女をこう、何人も侍 らせて、その日の気分で好きな様に出来 るんだぜ。どうだ?やってみたいだろ?」
セイヤの余 りの変わりように驚いて雄斗は反応出来ない。
「良いか、VRだからだ。VRだから、自分の好きな様に出来るんだ。これが現実の女だったらどうだと思う?もっと優 しくしろだの、人権無視だの、こっちの思い通りなんかになる訳が無い。VRの中の女は俺の思い通りだ。好きな時に好きな場所で好きな女を思い通りに出来る。男のロマンだと思わないか?」
勢いに押されて、雄斗は小さく頷 く。
「だろ?それを実感出来るんだ。現実に起きているのとまるで変わらない。そりゃそうだ。神経と直接繋 がっているんだから。」セイヤが興奮して鼻息を荒 くしている。
自分の目の前にいるセイヤは、いつもの快活な青年とはまるで別人だ。この人の中には、こんな欲望が隠れているのか。
「悪い悪い。驚かせ過ぎちゃったな。VRなら制限がない。現実には出来ない経験をリアルに体験出来るところが魅力 なんだ。だからやっている内に、どんどん過激になっていっちまう。ま、その内ユウトも出来る様になるから、そうしたら、なんでもやってみるんだな。」
セイヤは雄斗に回していた腕でポンポンと肩を叩 く。
「さて、リハビリに戻ろう。」
「ちょっと、ユウト。」
二人が女性の声に振り向くと、リハビリルームにアイリーンが入って来るところだ。
「検査結果についてサイガ博士から話があるから、私に付いて来てくれる。セイヤ、今日のリハビリはここまでにして。」
セイヤは片手を上げて承知した旨 を態度で示す。
「ユウト、じゃ、また明日な。」
雄斗は、慎重 に歩いて車椅子に座る。アイリーンが車椅子を押してくれる。
サクラさんやセイヤさんに質問したけれど、結局、自分が知りたかったことを訊 けていない。廊下を移動しながら、今度はアイリーンにも質問してみる。
「あの、僕は一体、どのくらい仮死状態だったのですか?今は一体、僕が生まれた時代からどのくらい経 っているんですか?」
雄斗は、車椅子を押すアイリーンを振り返らない。
「あら、ユウトに教えていなかったかしら?大体八百年ってところね。」
「八百年?え?はっぴゃく…ねん?」
アイリーンがさらりと言った言葉を、反復する度 に雄斗の声が大きくなる。
時間の大きさを想像してみる。元々暮らしていた時代から八百年遡 ったら、鎌倉時代だ。鎌倉時代に庶民 がどんな暮らしをしていて、自分の先祖が何処 にいたのかなんて知らない。そんな時代まで先祖を辿 るのは無理だ。それなら八百年経 った今の世界で、父さんと母さん、それに奈那どころか、その末裔 を探すのすら不可能なんじゃないだろうか。
「そんな長い間眠っていたのに、こうやって蘇生 する事だけでも奇跡でしょ。ユウトはとっても幸運なんだから。」
「それじゃ、えっと、何で僕を起こしたんですか?」
自分の病気の情報を把握 していなかった。病気が治 せる世の中になったから起こしてくれた訳 じゃない。
「前にサイガ博士が言っていたと思うけど…、私達は、遠い昔にコールドスリープした人達を助ける仕事をしているの。コールドスリープに使っていた施設は壊れてしまったから、仮死状態を続けるのは、とっくに不可能になってる。だから、まだ救える可能性がある命を救おうとしているの。」
雄斗は黙って考えた。あれは、現実だった筈 だ。雄斗がカプセルから出られたとき、サイガ博士は、雄斗が救世主 だと言った。今アイリーンが話す理由とはしっくりこない。
車椅子は、サイガ博士の研究室の扉 を通って中に入る。そこには博士とシュンがいる。
「やあ、ユウト君。リハビリは順調かな。」
自分の椅子に腰かけて、雄斗が来るのを待っていた博士が、車椅子の雄斗の姿をみて声を掛ける。いつもの様 に甲高 く力強い声。
「はい、でもまだ、長い距離は歩けないです。」
「短い距離ならば、大丈夫なんだね?」
「あ、二、三歩ぐらいは掴 まらなくても歩ける様になりました。」
「そうか、じゃ、後は筋肉が付いていけば問題ない。元々歩いていたんだし、運動機能に問題無いから。」
サイガ博士が笑顔を作る。雄斗の車椅子はアイリーンに押されて、サイガ博士と対面する位置迄 進んで止まる。
「ユウトのゲノムを調べたよ。君の言っていた問題のある部分というのが、大体想像出来た。」
博士は、モニターを直接操作して、A、T、G、Cの文字がランダムに並んだ表を表示させる。
「多分、この部分だね。」博士は表示された表の一部を拡大する。「この並びが体内のエネルギー変換に関わっているんだ。正常な体内では、十分に糖分 があれば、優先的にエネルギー源として使われるんだが、君の場合、何かの拍子 に、糖分があってもたんぱく質をエネルギーに使ってしまう様になる。体の中の筋肉を消費してまでね。」
博士はここで話を切った。雄斗には返す言葉がない。
そうだ。きっと博士は自分が抱 えている異常のメカニズムを正確に読み当てている。それなら治 す方法もあるんじゃないか?
「でも、残念だが」博士の表情が曇 る。演技だと思うくらいあからさまに。「現代においても、遺伝子配列との因果 関係は解明されていない。」
話の意図が上手 く伝わっていないと感じた博士は言葉を足 す。
「つまりね、残念だが、この病気の治療法は、現代でも確立出来ていないんだ。」
「え?」初めて雄斗の表情が変わる。「病気、治せないって事ですか。」
博士は雄斗をしっかりと見つめて頷 く。
「何で…、僕がいた時代から八百年経っているんですよね。」
「ああ。…誰かに教えてもらったかな。」
「私がさっき。」
雄斗の背後でアイリーンが答える。
「それでも、治せないなんて…」
雄斗の目が泳いでいる。
「我々は、違う道を進んでしまったんだ。生まれ変わるっていう選択をね。」
博士の言葉に雄斗は反応しない。最早 さっきの言葉で頭の中がいっぱいだ。
「発症する前の自分の細胞を残しておいて、新しく生まれ変われば良いだけさ。」
離れた所にあるデスクに座って、彼等のやり取りを傍観 していたシュンが口を挟 む。サイガ博士はシュンを一瞥 する。
「そう、だから、絶望する必要は無いんだ。まずは、元のように普通の生活が出来 る体力を取り戻す事に専念しよう。生まれ変わる技術は確立している。君もその恩恵に与 れるんだから。」
「…僕が生きていた時代の先生は」消えそうな声で雄斗は視線を落としたまま話す。「発症を抑 える薬があるって言っていました。今もその薬は有りますか?」
「薬?」
サイガ博士は視線をアイリーンに向ける。アイリーンは黙ったまま、小さく首を横に振る。
「…ああ、大丈夫、君が望むならば、薬は用意出来るさ。安心してくれ。」博士はもう一度、雄斗に微笑 みかける。「精密検査の結果は問題ないよ。それ以外でユウトの体に悪い所は無い。うん、とっても良い。だから、普通の生活が出来る様 になって、新しい人生をエンジョイしようじゃないか。」
「もう、この病気の治療法は研究されていないんですか?」
雄斗の気持ちは少しも持ち上がって来ない。
「うん、そうだね。誰も病気で死なない社会になってしまった。特定の病気の治療法は研究されていない。」
博士は、それまでの明るい喋 り方とは違い、毅然 とした態度で言い放つ。
話はそれ以上続かなかった。見るからに雄斗のテンションが落ちてしまっていて、これ以上別の話をしてもしょうがないとサイガ博士が判断した。車椅子をアイリーンが押して、雄斗は自室に帰った。
雄斗との面会を終え、アイリーンが雄斗の車椅子を押して研究室から出て行くと、直 ぐにシュンが口を開く。
「遺伝子 治療について話さなくて良かったんですかね。」
「ん?教えない方が良いだろう。話がややこしくなる。」
サイガ博士は、モニターに向かって仕事を進めながら答える。
「でも、いずれ知りますよ。セイヤやサクラとは仲良くなった様だから。それに、たとえ彼等が話さなくても、いずれ外の世界と関われば、誰かが教えるでしょう。」
シュンも自分の仕事を進めながら、離れたデスク間を声だけが飛び交 う。
「後になれば何を言い出しても構 わない。今、そんな知識を与えて、遺伝子治療をしてくれとせがまれるのは厄介 だ。プロジェクトが終わらないまでも、完成する目途 が立った後なら、ユウトの意思で何でも好きにさせてやれば良いだろ。」
「ふん、そういう事ですか。兎 に角 、今は何も手がついていない自然のままの遺伝子が大切ですね。」
「そうだ。」
二人はそれ以上話す事も無く、仕事に没頭 した。
夕食中も、それが終わってサクラが帰った後も、雄斗の頭の中では、さっきサイガ博士に言われた言葉が鳴り響 いていた。
この病気を治す手段はない。
自分は一体、コールドスリープを選択して何を得たのだろう。何故 あの時、コールドスリープを選択したのだろう。コールドスリープから目覚めたら、どんな世界が待っていて、そこで自分はどんな生活を送ると想像したんだっけ。多分 未来の自分なんか何も想像すらしていなかった。今から思い返せば、そもそもあんまり良く考えもせずに決断した様に思える。何でそうなったんだ?
雄斗は、自分にとって、ついこの間の出来事 を思い出そうと努力する。
確かあの時、あの現在から逃げ出したかったのだ。好きだった遠藤さんに彼氏がいたからじゃない。それも、理由の一つではあったけど、もっと大きな理由は、自分が病気になって、もしかしたら、症状を抑えられなくて、どんどん痩 せこけて動けなくなっていく。自分の友達は、みんな明るい将来が待っていて、就職して、結婚して、家族が出来て…。自分だけ取り残されて、その上、友達は会う度 にきっと憐 れみをもって自分を見る。それは耐えられない。必ず発症する訳 じゃないとしても、そうなってしまってから後悔しても、もうどうにもならない。だから、新しい可能性に賭 けたんだ。
父さん、母さん。独 りぼっちだ。
連絡出来 ないどころか、残っている物は何もない。自分の頭の中にある記憶だけ。とても想像出来ないけれど、父さんも母さんも、奈那でさえ、はるか昔に居なくなってしまった世界に、自分は一人取り残されている。どうやって勇気を振り絞れば良い?これから自分がどうなって行くのかも分からない中で、何を頼りに頑張れば良い?
『俺の子だからな。』
あの日、父さんは、そう言って笑った。僕は父さんの子だ。此処 で、こんな所で、挫 けて死んでしまう訳には行かない。もう少し。今は辛 くても、もう少し頑張れば、きっと道は開ける。だから今は頑張って、あの選択をして良かったと思える様にするんだ。
昼飯は、サクラがリハビリルームの隣の部屋
雄斗が生まれた時代からすれば遠い未来の
時々、検査用の採血だとか、健康状態を確認しにアイリーンが顔を見せるが、それ以外はほぼセイヤとサクラと三人で過ごす日々に、雄斗は
最初は筋肉大好きナルシストにしか見えなかったセイヤだったが、会話をする中でそれだけじゃない事も知れた。確かに自分大好き、筋肉大好きではあるが、いつも前向きな思考をしている。雄斗の状態を常に
「ねえ、僕がコールドスリープしてから、どのくらい眠っていたのか分かる?」
ある日、雄斗はまず一番知りたい情報からセイヤに
「何、気にしているんだ?それを知ってどうする。」
セイヤは明るい。それだけで何だか救われる。
「僕には、コールドスリープで
もしかしたら、時間が経過したのじゃなく、異世界に行ってたりしないだろうか。
「そんな気を回さなくても良いだろ。何でユウトが知っちゃいけないんだ。大丈夫だ。」
セイヤが雄斗の肩をバンバンと
「じゃあ、教えてよ。どのくらい
雄斗のセイヤを見る目は真剣だ。
「ん。そうしたいが、知らん。」
え?
「知らないって、どういう事?」
「俺は聞かされていないんだ。ユウトがどのくらい昔の人なのか。」
セイヤはすまなそうに言う。
「え、そうなんだ?じゃ、今年が何年なのか教えて下さい。西暦で。西暦って言い方で良いのかな?」
雄斗は何だか
「いや、そんなの知らないなぁ。」
「えぇ、ちょっと、
「いやいや、揶揄っているつもりは無い。
「そんな
「…いや。」
セイヤは
「え…。」
最初はまさかそんな訳が無い、絶対冗談か嘘だと決めつけていたが、段々セイヤが正直に言っていると分かってきて、言葉を失う。
「うん、まあ、ユウトには信じられないかも知れないけど。」固まってしまった雄斗の様子を見て、セイヤはすまなそうに話し始める。「今の世界じゃ、今年が何年かなんて、気にする人は居ない。年だけじゃない。今日が何月何日かだって気にしない。それを知って何になる?…そうか、ユウトは生命が有限の時代に生きていたから、今がいつかを知るのが必要だったんだ。でも俺達は違う。いつまでも生きていられるんだ。だったら、今がいつかを知る必要なんてないだろ?」
「それでも、人との約束とか困るでしょ。未来の時間に会おうとしたら、どうやって約束するんですか?」
「未来かぁ!
「スケジュール…。」
「そう、みんなアプリケーションを持っている。…ユウトは、まだ持っていないけど、大丈夫、
「じゃあ、誰も僕が何年間眠っていたのか分からないんだ。」
「ん~、きっとサイガ博士なら分かるんじゃないか。
セイヤは全開の笑顔をみせた。
雄斗はサクラにも聞いてみた。雄斗に与えられた部屋で彼女と二人きりになる夕食の時間を
「ねえ、この研究所の人達はみんな若く見えるけど、いくつなのかな。」
セイヤの時と同じ質問をしても、同じ答えが返って来るだろう。雄斗は攻め方を変える。
「え~、ユウトには若く見える?きっと本当の
サクラは雄斗の夕飯の
「サクラさんは、僕と
けど、言っている事もやっている事もしっかりしていて、きっと雄斗より年上だろう。
「あら、レディに歳を
「
サクラは、夕飯の
「そう言う、素直な所は好きよ。」
雄斗の目の前で
「みんな若く見えるのは、生まれ変わっているからよ。」
雄斗は、何だか質問なんかどうでも良い気になってくる。
「生まれ変わるって、どういうこと?」
「ん~?そのまんま。新しい自分を若い時からやり直すって事。ユウトは今いくつ?」
「コールドスリープに入った時は十七歳でした。」
自分には
「ふうん。」サクラが天井を見上げて考える。「たぶん、私もそのくらいかな、この体は。私達も歳を取るんだよ。どんどん
「え、じゃあ、結婚して子供が
「アハハハ。」
急にサクラが大声を上げて笑う。雄斗は驚いて、
「今の人達はそんな事しないわ。個人の権利が尊重されているもの。人が死なない世界よ。子供を作ったりしない。
「え、じゃあ、結婚したいとか誰も思わないの?自分の子供が欲しいとか。」
「そう言う事は、VRで経験出来るから。そうしたい人はVRで体験すれば良いのよ。」
「VR?…あ、バーチャルリアリティーって事か!」
「ユウトの時代もVRは存在したの?」
「うん、あった。」
「じゃ、話が早いわね。今は現実に可能な事を
「そうなんだ。」
人が死なない、誰もが若々しい姿で街を
「どう、
「じゃ、サクラさんはどんな体験をVRでしているの?どんな事が趣味?」
雄斗は、勢い込んで質問する。
「さあ、夕食が出来たわ。テーブルに来て食べて
サクラが、ベッド
「サクラさん、料理が得意だから、いい奥さんになると思うんだけどな。」
「あらそう?それって
「そうだよ。女性らしいって事。料理もVRで習うのかな。サクラさん、付き合っている彼氏はいないの?
「さっきも言ったでしょ。今は個人の権利を尊重する社会なの。お互い他人の生活に
「え~、そんなの
「ユウトもその内、VRを体験するでしょ。現実と変わらない経験に驚くわよ。」
「そうなんだ。いつも、サクラさんはどんなVRを使っているの。」
「ユウト、個人は尊重されなければならない。」サクラは急に
それまでの柔らかい
「さ、食べて
雄斗は言われるまま、スプーンを手に取った。
サクラが帰り、一人寝る前にベッドに横たわりながら、雄斗は考えていた。このところ、毎日リハビリで体を使っているから、
いつも
この世界に目覚めてから
昔
ついつい、今の自分の
「昨日、サクラさんを怒らせちゃった。」
次の日、リハビリの休憩中に雄斗はセイヤに打ち明けた。
「なんだい?何をやらかした?」
雄斗は、昨晩のサクラとのやり取りを話して聞かせる。
「ハハハハ。」
セイヤは
「僕は、そんなに非常識な事しちゃったのかな。」
「現代は、プライベートを尊重するからな。他人には過度に干渉しないのがルールさ。ユウトだって、自分の欠点を言われたり、裸を見られるのは
「うん。
「フフン、そう言う
「でも、それじゃ、人を好きになったり、嫌いになったりしないのかな。」
「おいおい、俺達だって人間だぜ。人を好きになる事だってある。一晩中一緒に過ごすって事もな。」セイヤは片目を
またVRか。
「VRで?それじゃ、二次元の世界じゃないか。実体が無いのは嫌だな。」
「二次元?実態が無い?ユウト、ほんとにVRが分かっているのか?」
「知ってるよ。」雄斗は両手で
「おい、何言っているんだ。」セイヤは小さく
「?」
雄斗には言っている意味が理解
「脳と直接接続するのさ。さっき、ユウトが言ったやり方じゃ、外からの刺激は目を通して入って来るって
「触る?そのVRで見えている物に?」
「そう。」
「マニピュレータを操作するか、グローブを
「それじゃ、触った感覚は無いだろ。」
「そりゃ、あくまでバーチャルだから。」
セイヤは首を横に振る。
「いや、違う。」セイヤが自分の頭を人差し指でつつく。「ここで考えるんだ。触ろうって。自分の手を動かす
雄斗の反応がまだ薄いのを見て取ると、セイヤは更に説明を続ける。
「えっと、何て言ったかな…、ちょっと待って。…そう、シナプス。人工シナプスってやつを使うんだ。こいつが俺達の体の中に
「え?」
装置を自分の体の中に入れてあるのか?
「驚く
そう言って、自分の金髪を
「外とは通信で
今度は、雄斗の肩に
「ユウトだってやりたい事があるだろ?
びっくりして、雄斗は上体を引く。見れば、セイヤが意味有り
「俺は、ハーレムが好きなんだよ。美女をこう、何人も
セイヤの
「良いか、VRだからだ。VRだから、自分の好きな様に出来るんだ。これが現実の女だったらどうだと思う?もっと
勢いに押されて、雄斗は小さく
「だろ?それを実感出来るんだ。現実に起きているのとまるで変わらない。そりゃそうだ。神経と直接
自分の目の前にいるセイヤは、いつもの快活な青年とはまるで別人だ。この人の中には、こんな欲望が隠れているのか。
「悪い悪い。驚かせ過ぎちゃったな。VRなら制限がない。現実には出来ない経験をリアルに体験出来るところが
セイヤは雄斗に回していた腕でポンポンと肩を
「さて、リハビリに戻ろう。」
「ちょっと、ユウト。」
二人が女性の声に振り向くと、リハビリルームにアイリーンが入って来るところだ。
「検査結果についてサイガ博士から話があるから、私に付いて来てくれる。セイヤ、今日のリハビリはここまでにして。」
セイヤは片手を上げて承知した
「ユウト、じゃ、また明日な。」
雄斗は、
サクラさんやセイヤさんに質問したけれど、結局、自分が知りたかったことを
「あの、僕は一体、どのくらい仮死状態だったのですか?今は一体、僕が生まれた時代からどのくらい
雄斗は、車椅子を押すアイリーンを振り返らない。
「あら、ユウトに教えていなかったかしら?大体八百年ってところね。」
「八百年?え?はっぴゃく…ねん?」
アイリーンがさらりと言った言葉を、反復する
時間の大きさを想像してみる。元々暮らしていた時代から八百年
「そんな長い間眠っていたのに、こうやって
「それじゃ、えっと、何で僕を起こしたんですか?」
自分の病気の情報を
「前にサイガ博士が言っていたと思うけど…、私達は、遠い昔にコールドスリープした人達を助ける仕事をしているの。コールドスリープに使っていた施設は壊れてしまったから、仮死状態を続けるのは、とっくに不可能になってる。だから、まだ救える可能性がある命を救おうとしているの。」
雄斗は黙って考えた。あれは、現実だった
車椅子は、サイガ博士の研究室の
「やあ、ユウト君。リハビリは順調かな。」
自分の椅子に腰かけて、雄斗が来るのを待っていた博士が、車椅子の雄斗の姿をみて声を掛ける。いつもの
「はい、でもまだ、長い距離は歩けないです。」
「短い距離ならば、大丈夫なんだね?」
「あ、二、三歩ぐらいは
「そうか、じゃ、後は筋肉が付いていけば問題ない。元々歩いていたんだし、運動機能に問題無いから。」
サイガ博士が笑顔を作る。雄斗の車椅子はアイリーンに押されて、サイガ博士と対面する位置
「ユウトのゲノムを調べたよ。君の言っていた問題のある部分というのが、大体想像出来た。」
博士は、モニターを直接操作して、A、T、G、Cの文字がランダムに並んだ表を表示させる。
「多分、この部分だね。」博士は表示された表の一部を拡大する。「この並びが体内のエネルギー変換に関わっているんだ。正常な体内では、十分に
博士はここで話を切った。雄斗には返す言葉がない。
そうだ。きっと博士は自分が
「でも、残念だが」博士の表情が
話の意図が
「つまりね、残念だが、この病気の治療法は、現代でも確立出来ていないんだ。」
「え?」初めて雄斗の表情が変わる。「病気、治せないって事ですか。」
博士は雄斗をしっかりと見つめて
「何で…、僕がいた時代から八百年経っているんですよね。」
「ああ。…誰かに教えてもらったかな。」
「私がさっき。」
雄斗の背後でアイリーンが答える。
「それでも、治せないなんて…」
雄斗の目が泳いでいる。
「我々は、違う道を進んでしまったんだ。生まれ変わるっていう選択をね。」
博士の言葉に雄斗は反応しない。
「発症する前の自分の細胞を残しておいて、新しく生まれ変われば良いだけさ。」
離れた所にあるデスクに座って、彼等のやり取りを
「そう、だから、絶望する必要は無いんだ。まずは、元のように普通の生活が
「…僕が生きていた時代の先生は」消えそうな声で雄斗は視線を落としたまま話す。「発症を
「薬?」
サイガ博士は視線をアイリーンに向ける。アイリーンは黙ったまま、小さく首を横に振る。
「…ああ、大丈夫、君が望むならば、薬は用意出来るさ。安心してくれ。」博士はもう一度、雄斗に
「もう、この病気の治療法は研究されていないんですか?」
雄斗の気持ちは少しも持ち上がって来ない。
「うん、そうだね。誰も病気で死なない社会になってしまった。特定の病気の治療法は研究されていない。」
博士は、それまでの明るい
話はそれ以上続かなかった。見るからに雄斗のテンションが落ちてしまっていて、これ以上別の話をしてもしょうがないとサイガ博士が判断した。車椅子をアイリーンが押して、雄斗は自室に帰った。
雄斗との面会を終え、アイリーンが雄斗の車椅子を押して研究室から出て行くと、
「
「ん?教えない方が良いだろう。話がややこしくなる。」
サイガ博士は、モニターに向かって仕事を進めながら答える。
「でも、いずれ知りますよ。セイヤやサクラとは仲良くなった様だから。それに、たとえ彼等が話さなくても、いずれ外の世界と関われば、誰かが教えるでしょう。」
シュンも自分の仕事を進めながら、離れたデスク間を声だけが飛び
「後になれば何を言い出しても
「ふん、そういう事ですか。
「そうだ。」
二人はそれ以上話す事も無く、仕事に
夕食中も、それが終わってサクラが帰った後も、雄斗の頭の中では、さっきサイガ博士に言われた言葉が鳴り
この病気を治す手段はない。
自分は一体、コールドスリープを選択して何を得たのだろう。
雄斗は、自分にとって、ついこの間の
確かあの時、あの現在から逃げ出したかったのだ。好きだった遠藤さんに彼氏がいたからじゃない。それも、理由の一つではあったけど、もっと大きな理由は、自分が病気になって、もしかしたら、症状を抑えられなくて、どんどん
父さん、母さん。
連絡
『俺の子だからな。』
あの日、父さんは、そう言って笑った。僕は父さんの子だ。