第6話

文字数 1,248文字

 気づけば卒業も間近となり、奨学金の返済プランだけが決まったキバヤシは何もない門出を迎えようとしていた。就職のアテはもちろん、自分の進むべき道も何一つとして決まっていなかった。ただ、大学生活が終わろうとしていた。なんだか卒業式に出ることもバカらしく思え、スーツや羽織袴をきて成人式のようにはしゃぐ男子達や、振袖姿で親と記念写真を撮る女子達を横目に、キバヤシは卒業証書だけもらってバイトに向かった。
 惰性でバイトを週6日続け、事あるごとに後輩の子を家に連れ込み、22歳の春が過ぎていった。後輩の子がいつものように黙って帰って行った後、キバヤシは鏡で自分の顔を見て驚いた。エントリーシートに貼られた誰にも負けない笑顔の代わりに、目標を見失った若者の顔が深夜のユニットバスに映っていた。それからしばらくして、その後輩の子はバイトを辞めた。LINEをしても返信が来なくなった。その理由がよくわからなかったが、。思えばその子とはデートらしいデートもしたことがなかったし、プレゼントを上げたこともなかった。そもそも、付き合うとか付き合わないとか、そんな話になったこともなかった。キバヤシは今更ながらすまない気持ちになった。

 とある日、突然地元の親戚のおじさんから携帯に電話があった。母が死んだと告げられた。倒れたのは昨日だったが、「息子は就職活動で忙しいから連絡しないでください」と言って、その翌日に息を引き取った。少し体調がよくなり、再び近くの水産工場にパートに出た矢先だった、とそのおじさんは言った。その夜キバヤシは実家に向かった。新幹線で行くには現金が足りず、とりあえず翌日朝には着ける高速バスに乗った。真っ暗な海岸線を進むバスの車内でキバヤシは小さい頃のことを思い出していた。
 どうしようもなく寒い夜、寒すぎて寝れない、電気毛布が欲しいと母に文句を言ったことがあった。すると母は「これならどう?」と、強い力で小さなキバヤシの体を抱きしめた。苦しいから離してと言ってもなかなか離してくれず、キバヤシがやっとの思いで腕から逃れると体が熱くなっていた。「ほらあったかくなったでしょ」「そりゃそうだけど」そんなやりとりの後、また一緒に布団に入る。その後は大抵すぐに寝付くことができた。こんな素晴らしい思い出を持っている自分はやはりファンタジスタだ、キバヤシはそう思ってみたものの心が救われることはなかった。

 バスは変わらず夜の海岸沿いを走り続ける。暗い海の向こうにイカ漁船の灯りがいくつか浮かんでいる。不意にLINEが入った。後輩の女の子からだった。
「キバヤシさん、お元気ですか。バイト行ってますか。今度良ければ一緒にお出かけしたいです」
暗い車内にメッセージがぼんやりと光っていた。キバヤシは声を出さずにそのメッセージを何度か読み返した。それから大きく息をついて、しばらく目をつむった。不意に閉じた目から涙がこぼれてきて、手の甲で拭った。それから「ファンタジスタ」と呟こうとしたが、唇はうまく動かなかった。

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