第3話『推し、燃ゆ』宇佐見りん

文字数 3,513文字

今回ご紹介するのは、

宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』


いわずと知れた、第164回芥川賞受賞作品。

前回の『夏嵐』がしょっぱなから桐乃の趣味に走りすぎたから、メジャーどころの芥川賞作品を持ってきて軌道修正を図ろうという魂胆ね。

(ドキッ)

(バレている……)


高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』と迷ったんだけど、こちらはすでに『キリモドキ』で取り上げているので、今回は『推し、燃ゆ』で。
芥川賞とか読むのね。意外。

桐乃はあまのじゃくだからベストセラー作品は避けて通りそうなのに。

あ、うん。

基本的にはそうなんだけど、あらすじを読んで面白そうだなと思ったら毛嫌いせずにちゃんと普通に読むよ。

この作品、タイトルのインパクトが強烈だし、あらすじを知らなくても冒頭の一行めで読者の心をガッチリ掴むわよね。
「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。」

P.3 より抜粋

そうなんよ。出だしの一文でタイトルの意味をこんなにはっきりと提示してくる作品、なかなかないと思う。

それにこの「推しが燃えた」という言葉の威力たるや。なんらかのジャンルに推しがいるひとからすれば、この一文の破壊力のすさまじさ、想像がつくよね。

主人公は高校生のあかりという少女。

「あたし」という一人称で語られる内面世界から、彼女にとっては決して大げさではなく

「推しがすべて」

なのが痛いほど伝わってくるし、推しを推すためだけに生きている、といってももはや過言ではないレベル。

「あたし」の推しは「まざま座」というアイドルグループのメンバー・上野真幸(まさき)。

CDやDVDや写真集は保存用・鑑賞用・貸出用に三つ買い、放送された出演番組はダビングして何度も観返し、ラジオやテレビなど、あらゆるメディアで語られる推しの発言を聞き取り、紙に書き起こす。

そうして、それらの解釈をブログに記録し公開している。

ものすごい熱量やな……。

ファンの鑑ね。

その推しが「燃えた」ところから、少しずつ、彼女の日常が変化していくのだけど。

桐乃は、読んでみてどう感じたかしら?

この子めっちゃ生きづらいやろうな、と思った。実際、家でもバイト先でもつまずいてばっかりで、しんどそう。
そうね。本人には悪気はないしがんばっているつもりなんだけど、端から、とくにこの場合は家族から見ると、だけれど、全体的にだらしなくて、わざと手を抜いて楽をしているように思われてしまうのよね。
片付けもできないし(部屋のようすからして、なかなかの汚部屋ぶり)、学校でいわれたことややるべきことをすぐに忘れてしまうし……というか、そもそも覚えること自体が苦手なんだよね、たぶん。

それなのに、推しに関することだけはものすごい熱量で打ち込んでいるから、やりたくないことは放置しているだけなんじゃ、と思われてしまう。

そんな彼女には、保健室で勧められて受診した病院で「ふたつの診断名」がつけられていて。作中ではその病名についてはいっさい触れられないのだけど、これはいま話していた彼女のようすから察するに、おそらく発達障害なのではないかと思われるわね。
うん。バイト先の定食屋兼居酒屋での場面でも、常連客からのイレギュラーな注文にうまく対応できずにフリーズしたり、同時にいくつものミッションをこなすことが難しくて頭のなかがパニック状態に陥ってしまうようすが描かれている。

というか、この常連客のうちのひとりが「ハイボール濃いめ」を頼むんだけど、当然ながら濃いめだと料金が高くなるんだよね。それを「おまけしてよ」という。

「正規の料金」ではなく「量は増やして、でもお金は取らないでサービスしてくれ」というマニュアルにはないイレギュラーに、あかりはとっさに対応できない。

「もう、無理いわないでくださいよー」とか

「ちょっとだけですよ」

と軽くあしらうことが、彼女にはできないんだよ。

うざいお客よね。
小手鞠、めっちゃ笑顔で毒舌やんか。

黒いところ駄々漏れやで。


まあ、この一件も、連れのひとがとりなしてくれたり、当の本人も無神経なだけで悪い人間じゃないんだよね。ただ無神経なだけで。

私、アレルギーとか、苦手でどうしても食べられないものが入っているとか、そういうやむを得ない事情以外でお店でわがままな注文する客、嫌いなのよね。(にっこり)
(そういえば小手鞠、飲食店でアルバイトしていたことがあったな)

(あまり深く突っ込むのはやめよう)

で、炎上の原因となった「ファンを殴ったらしい」という事件の詳細については、さまざまな憶測が飛び交うものの、はっきりとわからないままで。
でも確実に、その事件が推しのファン離れとアンチの出現という形で影響を及ぼすのよね。
そう。それに抗うように、あかりの推しにかける熱量はいや増していく。推し以外のためにはお金を使わない、というくらいの徹底ぶりで。

そのあたりからもう、彼女の日常は緩やかに破綻へと向かっていくんだよね。

それ以前の時点ですでにもう危ういかんじだったともいえるけれど、ますます拍車がかかるのよね。
あかりは母親と姉との三人暮らし。父親は海外に単身赴任中。

子どもたちが幼いうちから教育熱心だった母親と、その母親の機嫌を窺いながら育った姉。

なにをやっても要領が悪くて勉強も苦手なあかりに対して、母親の当たりは強い。その顔色を窺いながらも、妹には優しく接する姉。


お姉ちゃん、優しいなって桐乃は思ったよ。たとえそれが「なにもできないかわいそうな妹」に対する哀れみを含んだものだとしても。

母親の期待を一身に背負わされて、母親の機嫌を損ねることをひどく恐れているお姉さんこそ、かわいそうという気もするけれどね。

このお姉さんが一度だけ、怒りをあらわにしたことがあるのよね。

そう、大学受験前のピリピリしていたときにね。

例のごとく母親からお小言を食らっていたあかりが「がんばってるよ」といい返すと、

「やめてくれる」と。

「自分は寝る間も惜しんで勉強しているし、母親は具合が悪くても無理して仕事に行っているのに、推しばっかり追いかけているあんたがどうして『がんばってる』なんていうの。否定された気になる」と。

好きなことだけして生きているように見える妹がその程度でがんばっているというのなら、私たちはいったいなんなの、という気持ちになったのね、きっと。
なんかね、いま話していて桐乃は『おいしいごはんが食べられますように』に出てくる押尾さんを思い出したよ。状況は全然違うんだけど。
え? ああ、なるほど……。

本来なら背負う必要のない他人の荷物まで背負わされてしまう、みたいなかんじ?

うん。そんなかんじ。

しかも、フォローされている側はべつに「助けてもらっている」という意識もなく、このあかりの場合は、姉の言い分がまったく理解できないんだよね。

べつに否定なんてしていないのに、と腑に落ちない。

この場面に限らずなんだけど、このお話の語り手であるあかりの内面描写は終始淡々としていて、タイトルの炎上とは裏腹に、全体的に温度は低めな印象。感情が爆発する場面ももちろんあるんだけど、おおむね冷静で、落ち着いていて、読みやすい。
そうね。

あかりの推しへの心酔ぶりは「推し」というものを理解できないひとには異様にしか映らないかもしれないけれど、彼女が推しに傾倒するに至った経緯やその背景は、意外とすんなり呑み込むことができたように思うわ。

「背骨」とまでいっているよね。

生活の中心であり、彼女にとっての背骨。


あのね、桐乃は、これはもう信仰っていう域に入っているのでは、と思ったよ。

実際、部屋に推しのグッズを祀った祭壇もあるし、部屋じゅう推しのメンバーカラーである青に統一されているみたいだし。全財産をはたく勢いで買い込むグッズは、グッズそのものが欲しいというより、もはやお布施のようで。

あかりの推しへの愛は、信仰そのものに思える。

でも、あかりの推しは神さまじゃないわ。
そうなんよ。

上野真幸というひとりの人間なんだよ。

だから……。

彼が人間じゃなければ良かったと思う?
うんにゃ、それはない。

彼が12歳のときに演じたピーターパンに出会わなければ、たぶんあかりがここまでなにかに熱中することはなかっただろうし。

なにかに過度に依存するのはとても危険だけど、もしそれが心の支えになるのなら、一概に否定はできないとも思う。

両刃の剣だけど。

ピーターパンというのが象徴的ね。

「おとなになんかなりたくない」

それでも、ひとはいつかおとなになる。

ずっと夢の世界では暮らせないんだよ。

切ないわね。
人間だもの。
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