負けるな
文字数 2,938文字
会場に駆け込むと大歓声が全身を震わせた。一際大きな男が道着を整えている。草井だ。
「一本!」
主審は右手を高く挙げた。草井は礼をして喜ぶ素振りも見せず踵を返した。
昨日渡されたプリント用紙にはトーナメント表が記されてある。優勝するためにあと3回勝たなければならないようだ。
相手の選手が泣き崩れている。私もつい最近負けたばかりだ。私の場合は泣かなかった。いや、泣けなかった。陸上競技というのはタイム計測がある。トップ選手達と私との間には大差があった。私が自己ベストを何度も塗り替えようとも、トップ選手達は常に私以上にタイムを短縮していた。だから私は表彰台に上がったことはなかったし、悔やしさというよりも諦めに近い感情が勝っていた。
だから、泣き崩れているあの選手が少し羨ましかった。その悔しさは希望でもある。私の努力は希望か? いや、ただの意地だ。勝てないまでも、負けないために。
でも、その意味のないような努力を認められたみたいで嬉しかった。昨日、草井が言ってくれた言葉が嬉しかった。
草井は当然のように優勝するのだろう。非凡な才能と体格で相手を圧倒するのだろうと勝手に決めつけていた。でも間違っていた。勝ち上がる度に対戦相手も強くなり、簡単な試合なんて一つもなかった。首や胸元に痣をつくり、汗を流し息を荒げ、負けそうな場面もいくつもあった。すべて一本勝ちでもなく、技ありもいくつも取られていた。決勝戦は満身創痍だった。草井よりも身体の小さい対戦相手はスタミナと機動力で対抗していた。草井はやっとのことで、その体格差を利用し勝利をもぎ取った。
私が思い描いていた圧倒的な勝利とは程遠い泥試合だったのだ。草井は泣いて喜んでいた。私は大きな勘違いをしていたようだ。草井も努力をしていたのだ。きっと私なんかよりもずっと努力していたに違いない。じゃないとあんなにも涙が出るわけがない。
あの頃の肥満の少年と短髪の少女に言ってあげたい。
「負けるな」
つい口から溢れてしまった。すると草井が私に気がついた。物理的に私の声が届いたわけではない。歓声もあったし、距離もあるのだから。
草井は袖で涙を拭い私の方へ身体を向けて放った。
「清野おおおお! やったぞおおおお!」
私も感極まって涙が溢れ出す。そして呼応する。
「負けるなあああああああああ!」
会場中の視線が集まった。興奮して、言葉を間違えてしまったようだ。
「勝ったんだよおおおお!」
草井がそう言うと会場は笑い声に包まれた。
翌日、
『放課後、屋上で待つ』
メッセージが届いたのだ。果たし状かよ! とだけツッコミをいれて返信した。私と草井は別々のクラスで、会場の笑いを誘って以来、顔を合わせていない。
しばらくすると勢いよくドアが開いた。神妙な面持ちの草井は私を見つけると、一目散に私の元に駆け寄ってくる。
おお! 凄い迫力だ!
「何だ! やるのか!」
私はふざけて、昨日の草井を真似て構えてみせた。それを無視しするようにして草井は言った。
「昨日は観に来てくれてありがとう」
深々と頭を下げる草井……構える私……。
「えっ、ああ……優勝おめでとう……ございます」
何だ……この空気は……?
「優勝したら言おうと決めてたんだ。清野……お」
野太い声がうわずった。大きなはずの草井が小さく感じる。草井らしくないな。
「何よ! ちゃんとしなさいよ!」
俯いていた草井は私を睨みつけた。
「お前が好きだ!」
大声で放たれたその言葉は、私の胸を真っ直ぐ貫いた。思ってもみない意表を突いた告白に思考が停止しフリーズしてしまった。
幼少期を除いて、真剣に『好き』と言われたことはなかった。同じ顔の桜がいたこともあるが、短髪にしたあの一件以来、腫れ物のような存在である私を好きになる男などいるはずもなかったからだ。
こういう時なんて言えばいいのだろうか。適切な言葉がどこを探しても見当たらない。オロオロしている私を見兼ねて草井は口を開いた。
「わかってる。わかってるんだ。でも言いたかった。伝えたかったんだ。俺の素直な、この気持ちを……。ずっと好きだったんだ。虐められてる俺を庇ってくれていた時からずっと。そして清野が俺をここまで導いてくれたんだ。ありがとう」
「……私は何もしてないよ」
「そんなことない。虐めが無くなった後も、清野は俺から離れて行こうとはしなかった。虐められた元凶である俺に対して、何も変わることなく接し続けてくれていたんだ。本当に付き合ってるんじゃないかって、いう陰口も気にせずに……。だからいつまでもこのままじゃいけない、逆に今度は俺が清野を守れるように強くなりたい、変わりたいと思って柔道を始めたんだ。運動が苦手で大声を出すことさえもままならないような俺にとって練習は地獄そのものだった。俺にあったのは、このデカい身体と、清野が言ってくれた『本当は強い』って言葉だけだったんだ。だから誰よりも牛乳を飲み、飯を食べた。俺は清野の言葉を信じていただけで、優勝できたんだ。強くなれたんだ。そして、俺なんかより強いのは清野だ」
「え!」
「お前の優しさは『強さ』そのものだ。その優しさが俺を強くしてくれた。自分の信念を貫く強さ、それは清野から教わったことだ。『負けるな』っていい言葉だよな。いつ勝てるかわからないけど、強くなる為の原動力になる。俺は清野をこれからもずっと応援してる。そして、ずっと好きだと思う。何故なら、清野を越える女性なんてこの先ずっと現れないからだ。だから俺は待つことにした。清野が俺を好きになってくれることを……」
草井は踵を返し、軽く手を挙げ背中越しに言った。
「……あばよ」
「最後だけクソダサいんだよね……カッコつけんなよ……」
声にならない声は草井に届くことなく私は泣き笑いした。
その日の夜、私はメッセージを送った。
『まずは優勝おめでとう。昨日の草井達也の勇姿は世界一かっこよかった。私は勘違いしてた。草井は大きくて強くて当たり前、そう思ってた。でも違った。努力も苦労も無しに日本一にはなれないよね。
あの時『本当は強い』って言ったのは、あれは草井がイジメられながらも無遅刻無欠席だったからだよ。
草井と一緒にイジメられて初めて知ったんだ。
眠りにつく時、二度と朝が来ないで欲しいと本気で願ったり、朝がきたら体は動かないし、朝食も喉を通らない。吐き気さえする。
電車を待つ時、変な考えが頭を過ぎるんだよね。
そんな勇気もないくにせにね。
そして毎日の習慣で勝手に自分の足が、重たい体と心を学校まで運ぶんだ。
また一日が始まって、家に帰って胸を撫で下ろす。
毎日それの繰り返し。
私は数カ月だけだったけど、草井は何年も繰り返してたと思うとね……。
だから草井は強いと思ったんだ。
私は草井達也と出会ったこと、同じ時間を共有したこと、こんな私を好きになって告白してくれたことを誇りに思います。
でも好きっていうのとは違かった。ごめん。
あの時私は強いって言ってくれたけど、きっと人は弱いから優しくできるんだよ。
それだけはわかってほしかった』
次の日、草井は腫らした片目を瞑り、親指をたてて微笑んだ。
草井……ウインク……かよ……。
「一本!」
主審は右手を高く挙げた。草井は礼をして喜ぶ素振りも見せず踵を返した。
昨日渡されたプリント用紙にはトーナメント表が記されてある。優勝するためにあと3回勝たなければならないようだ。
相手の選手が泣き崩れている。私もつい最近負けたばかりだ。私の場合は泣かなかった。いや、泣けなかった。陸上競技というのはタイム計測がある。トップ選手達と私との間には大差があった。私が自己ベストを何度も塗り替えようとも、トップ選手達は常に私以上にタイムを短縮していた。だから私は表彰台に上がったことはなかったし、悔やしさというよりも諦めに近い感情が勝っていた。
だから、泣き崩れているあの選手が少し羨ましかった。その悔しさは希望でもある。私の努力は希望か? いや、ただの意地だ。勝てないまでも、負けないために。
でも、その意味のないような努力を認められたみたいで嬉しかった。昨日、草井が言ってくれた言葉が嬉しかった。
草井は当然のように優勝するのだろう。非凡な才能と体格で相手を圧倒するのだろうと勝手に決めつけていた。でも間違っていた。勝ち上がる度に対戦相手も強くなり、簡単な試合なんて一つもなかった。首や胸元に痣をつくり、汗を流し息を荒げ、負けそうな場面もいくつもあった。すべて一本勝ちでもなく、技ありもいくつも取られていた。決勝戦は満身創痍だった。草井よりも身体の小さい対戦相手はスタミナと機動力で対抗していた。草井はやっとのことで、その体格差を利用し勝利をもぎ取った。
私が思い描いていた圧倒的な勝利とは程遠い泥試合だったのだ。草井は泣いて喜んでいた。私は大きな勘違いをしていたようだ。草井も努力をしていたのだ。きっと私なんかよりもずっと努力していたに違いない。じゃないとあんなにも涙が出るわけがない。
あの頃の肥満の少年と短髪の少女に言ってあげたい。
「負けるな」
つい口から溢れてしまった。すると草井が私に気がついた。物理的に私の声が届いたわけではない。歓声もあったし、距離もあるのだから。
草井は袖で涙を拭い私の方へ身体を向けて放った。
「清野おおおお! やったぞおおおお!」
私も感極まって涙が溢れ出す。そして呼応する。
「負けるなあああああああああ!」
会場中の視線が集まった。興奮して、言葉を間違えてしまったようだ。
「勝ったんだよおおおお!」
草井がそう言うと会場は笑い声に包まれた。
翌日、
『放課後、屋上で待つ』
メッセージが届いたのだ。果たし状かよ! とだけツッコミをいれて返信した。私と草井は別々のクラスで、会場の笑いを誘って以来、顔を合わせていない。
しばらくすると勢いよくドアが開いた。神妙な面持ちの草井は私を見つけると、一目散に私の元に駆け寄ってくる。
おお! 凄い迫力だ!
「何だ! やるのか!」
私はふざけて、昨日の草井を真似て構えてみせた。それを無視しするようにして草井は言った。
「昨日は観に来てくれてありがとう」
深々と頭を下げる草井……構える私……。
「えっ、ああ……優勝おめでとう……ございます」
何だ……この空気は……?
「優勝したら言おうと決めてたんだ。清野……お」
野太い声がうわずった。大きなはずの草井が小さく感じる。草井らしくないな。
「何よ! ちゃんとしなさいよ!」
俯いていた草井は私を睨みつけた。
「お前が好きだ!」
大声で放たれたその言葉は、私の胸を真っ直ぐ貫いた。思ってもみない意表を突いた告白に思考が停止しフリーズしてしまった。
幼少期を除いて、真剣に『好き』と言われたことはなかった。同じ顔の桜がいたこともあるが、短髪にしたあの一件以来、腫れ物のような存在である私を好きになる男などいるはずもなかったからだ。
こういう時なんて言えばいいのだろうか。適切な言葉がどこを探しても見当たらない。オロオロしている私を見兼ねて草井は口を開いた。
「わかってる。わかってるんだ。でも言いたかった。伝えたかったんだ。俺の素直な、この気持ちを……。ずっと好きだったんだ。虐められてる俺を庇ってくれていた時からずっと。そして清野が俺をここまで導いてくれたんだ。ありがとう」
「……私は何もしてないよ」
「そんなことない。虐めが無くなった後も、清野は俺から離れて行こうとはしなかった。虐められた元凶である俺に対して、何も変わることなく接し続けてくれていたんだ。本当に付き合ってるんじゃないかって、いう陰口も気にせずに……。だからいつまでもこのままじゃいけない、逆に今度は俺が清野を守れるように強くなりたい、変わりたいと思って柔道を始めたんだ。運動が苦手で大声を出すことさえもままならないような俺にとって練習は地獄そのものだった。俺にあったのは、このデカい身体と、清野が言ってくれた『本当は強い』って言葉だけだったんだ。だから誰よりも牛乳を飲み、飯を食べた。俺は清野の言葉を信じていただけで、優勝できたんだ。強くなれたんだ。そして、俺なんかより強いのは清野だ」
「え!」
「お前の優しさは『強さ』そのものだ。その優しさが俺を強くしてくれた。自分の信念を貫く強さ、それは清野から教わったことだ。『負けるな』っていい言葉だよな。いつ勝てるかわからないけど、強くなる為の原動力になる。俺は清野をこれからもずっと応援してる。そして、ずっと好きだと思う。何故なら、清野を越える女性なんてこの先ずっと現れないからだ。だから俺は待つことにした。清野が俺を好きになってくれることを……」
草井は踵を返し、軽く手を挙げ背中越しに言った。
「……あばよ」
「最後だけクソダサいんだよね……カッコつけんなよ……」
声にならない声は草井に届くことなく私は泣き笑いした。
その日の夜、私はメッセージを送った。
『まずは優勝おめでとう。昨日の草井達也の勇姿は世界一かっこよかった。私は勘違いしてた。草井は大きくて強くて当たり前、そう思ってた。でも違った。努力も苦労も無しに日本一にはなれないよね。
あの時『本当は強い』って言ったのは、あれは草井がイジメられながらも無遅刻無欠席だったからだよ。
草井と一緒にイジメられて初めて知ったんだ。
眠りにつく時、二度と朝が来ないで欲しいと本気で願ったり、朝がきたら体は動かないし、朝食も喉を通らない。吐き気さえする。
電車を待つ時、変な考えが頭を過ぎるんだよね。
そんな勇気もないくにせにね。
そして毎日の習慣で勝手に自分の足が、重たい体と心を学校まで運ぶんだ。
また一日が始まって、家に帰って胸を撫で下ろす。
毎日それの繰り返し。
私は数カ月だけだったけど、草井は何年も繰り返してたと思うとね……。
だから草井は強いと思ったんだ。
私は草井達也と出会ったこと、同じ時間を共有したこと、こんな私を好きになって告白してくれたことを誇りに思います。
でも好きっていうのとは違かった。ごめん。
あの時私は強いって言ってくれたけど、きっと人は弱いから優しくできるんだよ。
それだけはわかってほしかった』
次の日、草井は腫らした片目を瞑り、親指をたてて微笑んだ。
草井……ウインク……かよ……。