草井達也

文字数 3,240文字

 憔悴しきった私は熱いシャワーを浴びた後、自分の制服と大きなブレザーとジャージをクリーニングに出すことにした。ジャージのネームタグには『小林由美』と書かれており、ブレザーの内側には『草井達也』と刺繍されている。

 ……クサイ……草井達也……! この名前を見て私は全てを思い出した。彼は小学生の時かなり太っていたせいで虐められていた。そんな彼を舞が助ける姿を何度か目撃していた。

 私は彼の名前とイジメられている理由を調べ、舞と彼の関係を煽るようなことを彼らの教室の黒板に描いた。とても酷く。

 そして彼と一緒に舞はイジメられるようになった。いや、私自身がそうなるように仕向けた。

 黒板に書いた草井という名前を忘れていたということもあるが、あの太った少年と彼が同一人物だとは思いもしなかった。それは見た目の変化が大きく、太っているというよりも逞しい体つきと短く刈り上げられた髪型から、全くの別人といってもいいほど、過去の彼とは見た目が違ったのだ。

 しかし同じ校内にいるのだから、普通なら気付くはずだろうが、私というヤツは自分以外の人間には無関心だったようだ。

 クリーニング屋に行った後、このまま家に帰る気にはなれなくて、いつも朝日を見ている河川敷に来ていた。

 雲ひとつない完璧なまでの晴天をもたらす太陽が不様な私を照らすと共に、薄汚れた川の水面をキラキラ輝かす。どんなに川の水が汚れていようと、水面さえ光っていれば南の島の海とさほど変わりはない。

 だけど近かよったらどうだろうか。その実は臭いだけの生活排水だ。
 
 一斗缶が流れてきた。ああ……と不意に私の口から洩れる。一斗缶の周りだけが淀んでいる。廃油が棄てられたのだろうか。あの廃油はじわじわと広がり、やがてこの川全体を汚し海を汚していく。あれこそ私だと思った。

 私は次々と周りの人たちを汚していった。草井くんのことも、小林さんのことも、そして舞のことも……親も然り。私が気付かぬうちに、他にもたくさんの人を汚しただろう。うなだれる私を太陽は照らし続ける。そんなにも眩しく、いつまでそこにいるのなら、いっそのことこの躰を焼いてほしい。私が誰だかわからなくなるように黒焦げにしてほしい。そしたら全部帳消しにならないかな。なるわけないよな。罪は消えない。消せない。だから罪は罪なんだ。

 折られた鼻は治っても、心の傷は完全に完治することはない。何年たっても厭な思いをしたことを覚えている。それこそ、まさに傷なんだ。

 罪に大きいも小さいもない。警察に捕まるような罪を犯していなくても、人の心をいたぶりなぶり傷つける事も立派な罪だ。

 ケータイが鳴る。

『初登校どんな感じ?』

 トミーくんからメールだ。彼は心配しているに違いない。何故なら髪を切られ鼻を折られた理由も私は言っていない。いや、正しくいえば……言えないだけ。彼は私が学校でイジメられていると勘違いしてるのかもしれない。

 だから絵文字をバカみたいに多用し、安心させる内容のメールを返信した。

 送信した後、深い溜息が洩れた。結局このメールも嘘。心配させないための嘘じゃない。自分を守るための嘘だ。一つの嘘は百の嘘を生む。私は嘘で人を傷つけ、嘘で自分を作り上げてきたんだ。

 そんな私には手を差し延べてくれる人は一人もいなかった。休み時間になると私のまわりに人が集まり、みんな私の気をひこうと必死で、愛想笑いをしてあげるだけで喜んでいた。あれはなんだったんだろう。友達ではなかったんだろうか。……そうなんだろうな。

 明日から三年間、私は一人きりで生きていくのかな。嫌がらせを受け、陰口をたたかれ、虐められるのかな……。自業自得だ。

 土日をはさんだ翌日の朝は、起きるのが辛かった。目覚めると同時に先日の出来事がフラッシュバック。布団を頭から被ると、しばらくしたら呼吸が苦しくなって顔を出した。ドアの向こうから私を呼ぶお母さんの声。行かなくちゃ……学校に行かなくちゃ……。

 私は食べたくもない朝食を喉に押し込んで、笑顔でお母さんに、いってきます、を言う。

 舞も毎朝こんな心境だったのかと思うと、申し訳ない気持ちと、今自分がおかれている立場への不安が混ざりあって、軽い引き付けを起こした。吐きそうだったが意地で堪えた。

 そして私は、負けるな強くなれ、と心の中で何度も何度も唱え学校へ向かった。近づいていくにつれ重くなる体と心。……帰りたい。

 学校に着き上履きに履き替えているだけで視線に囲まれる。そして私の半径二メートルは、あらゆる雑言で隙間なく埋め尽くされる。耳栓をしてもきっとダメだろう。皮膚から言霊が浸透してくる。

 恐る恐る教室に入ると賑やかだった教室内が静まり返ると同時に、ギロリという視線が私を集中放火。すぐに教室から出たくなったが、負けるな強くなれ、と小さく繰り返し、席に着いた。
 
 当たり前だけど、私が汚した床はキレイになっていた。悪意と嘲笑の中、私は机に視線を落としてやり過ごす。聴こえてくる聴こえてくる。聴きたくなくても聴こえてくる。もう厭だ。

 ケータイがバイブする。今の私に電話かメールをくれるのは、お母さんかトミーくんだけだ。でも今回は違った。いつも私と一緒にいてくれた中学時代は友達と呼べる子だ。メールを開くとリンクが貼ってあり私は恐る恐るそれを開いた。私のケータイから悲鳴がなり、先日の惨めな私の動画が再生される。私は慌てて動画を停止する。嘲笑の波が私に押し寄せる。

「おはよう!」

 一際大きくよく通る野太い声は荒波を一気に鎮めた。隣の席に彼が座ると言いようのない安心感が私を包み込む。

 私に向かって、おはよう、もう体調は大丈夫なのか? と、ニッと笑う愛嬌のある彼の笑顔に何故か泣きそうなる。

「あっ、そうだ。迷惑かけてごめんなさい。あと、ブレザーありがとう。ちゃんとクリーニングにだしたから」

 クリーニングのハンガーとビニールがついたままのブレザーを草井くんに渡した。

「わざわざすまんね」

 彼はビニールを破き大きなブレザーに袖を通しハンガーを手にした。

「それ私が捨てとくよ」

「いや、いいんだ。うちに持って帰るからさ。クリーニング屋のハンガーって丈夫だから、お袋が喜ぶんだよな」

 そう言って彼は机の横にハンガーだけをかけた。大きな身体。小さな机の横にプラプラと揺れるハンガー。その光景が妙で面白い。

「そんな汚ねえの、よく着れるな?」

 男子生徒が草井くんのブレザー指でつまんだ。私の上がっていた頬が落ちる。

「なに言ってんだよ。クリーニングだしてもらってんだぞ。俺、汗っかきだから、キレイにしてもらって逆に助かるよ。しかもハンガー付きだぜ」

 そう言ってハンガーを人差し指に掛けてクルクルと廻し始めた。男子生徒は、危ねえからやめろよ! と頭を抱え、草井くんはガハハと豪快に笑う。するとクラス全体も笑った。

 そして彼は、あのさあ! と教室中に響かせるように強く言った。緩んでいた空気が締まったのがわかった。

「みんなしてコソコソなんか話してるみたいだけど、こういうの耳の穴が痒くなるんだよな。なんか言いたいことあるんならさ、普通に言えばいいだろ!」

 彼の野太い声に押し黙る群れ。だけど馬鹿にしたように顔を見合わす人達もいる。それを見た草井くんは再び口を開く。

「彼女を庇ってるつもりはないけど、ただイヤなんだよ、誰かが悪く言われるのはさ。でも! 誰か誰かを悪くいうのはもっと見たくないんだよ。陰口言ってる時のみんなどんな顔してるかわかるか? 醜いよ!」

 草井くんがそこまで言うと、薄ら笑いが消える。そして、しかめっつらをした女子が言った。

「この前、小林さんが言ってたこと……あれ多分本当のことでしょ? 草井と清野 舞が一緒に虐められるように仕組んだのもこの女だって言ってたじゃない!」

 草井くんは目だけで私を見た。私は目を反らした。何かに突き刺されたように呼吸が止まる。

「お、俺は……」
   
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