第1話 仏花
文字数 5,861文字
ここは、とある商店街にひっそりと佇む小さな花屋。天気のいい日でも、その店内は薄暗く妖しげ。それでいて、ふんだんに魅惑の香りを漂わせる。営業日が店主の気まぐれで決まるその場所は、望む者の前にだけ姿を現す秘密の花園。
***
「あいつ、ほんと何なの。地獄に落ちろっての」
星子 は赤く目を腫らしながら帰宅途中だった。その足取りは急ぎ足というより競歩の速さ。思い出の商店街を通り抜けて、あいつと過ごしたこの街を一刻も早く出たかった。
30分ほど前に遡る。その日は、彼と付き合い始めて5周年の記念日。星子はケーキを片手に彼の家へと向かっていた。
「隆 くん、喜んでくれるかな」
彼好みの、甘さ控えめなガトーショコラ。商店街にある有名なお店で予約して買っていった。
彼のアパートに到着し、ドキドキしながら呼び鈴を鳴らす。彼はいつものように、すぐにドアを開けてくれた。だけど恒例の「いらっしゃい」のハグはなく、どこかよそよそしい態度で迎え入れた。
星子は思った。
(……もしかして、隆くん緊張してる?もしかして、プロポーズとか考えてる?)
記念日だし、お互い年頃だし、5年もの月日を共にしたのだからと、星子は確信にも近い期待を抱いてリビングのソファに座った。そしてケーキの箱を両手で持ち、隣に座った彼に満面の笑顔で差し出した。
「隆くんの好きなガト・・・」
「ごめん星子、別れよう」
「え……?」
何を言っているかわからなかった。いや、理解することを心が拒んでいた。頭の回転と、心臓が止まりそうだった。彼は視線を落とした。そして正面に向き直って、顔も逸らした。彼の横顔を見ても、星子にはそれが本当に隆かどうかわからなくなっていた。
「どういうこと?え、私何か悪いことした?」
「違うんだ。星子は何も悪くない。俺が、不甲斐ないだけだ」
「え、待って、よくわかんないんだけど。え?5年も付き合ったよね?いつも一緒に笑ってたよね?何で?他に好きな人できた?」
「それはない」
「じゃあ何でよ」
「いま言うから。ちょっと落ち着けって」
「落ち着けるわけないじゃん!」
隆は反射的に星子に振り向く。彼女がこんなに声を荒げるのは初めてだった。その瞳には溢れんばかりの雫が溜まっていた。
隆は言った。この数週間、2人の将来を真剣に考え抜いたそうだ。しかし彼女を幸せにできる自信がなく、ゆえに今は結婚への踏ん切りがつかず、覚悟が決まるまで待たせるばかりで傷つけたくないから、別れを決意したのだと、そう言った。
「私は幸せにしてほしいなんて思ってない。2人で一緒に幸せになろうよ。これまでも、そうしてきたじゃない」
隆はただ「ごめん」とだけ呟いて、一方的に星子を突き放した。
「じゃあもういいよ!!」
星子は立ち上がり、隆を目がけ豪速球でケーキの箱を投げつけて、その場を後にした。
***
私は、あいつに幸せにしてもらいたかったわけじゃない。5年も付き合って、まだ覚悟が決まらないだと?そんな女々しい男と思わなかった。虫唾が走る。こっちから願い下げ。だけど、悔しい。本当は、あいつと永遠 に幸せに過ごす日々を夢見てた。一緒にケーキを食べてお祝いしたかった。また明日ねって言いたかった。そばに、いたかった。そんな未練がましい私が嫌いだ。大っ嫌いだ。
「あいつ、ほんと何なの。地獄に落ちろっての」
安っぽい言葉が口をつく。それは自分を奮い立たせる呪文みたいなものだった。そうでもしないと、今にも膝から崩れ落ちそうだ。ああ、早くこの商店街を抜けて電車に乗り、どこかへ行きたい。ここじゃないどこかへ行きたい。
しつこく涙を出そうとする目元を抑えて、バッグの中のスマホに手を伸ばす。電車の時間を調べようとしたところへ、甘い香りが鼻をかすめた。
「いいにおい」
あまりの芳しさに足が止まる。それは花の香りのようだった。だが周囲を見回しても、花屋らしいお店はない。近くにあるのは、肉屋と電気屋と何屋かわからない暗くて狭いお店。暗いお店のショーウィンドウには漆黒のベルベッドカーテンが引かれ、中の様子が見えない。全体的に黒に統一された外観で、ともすれば魔法使いが住んでいそうな雰囲気を醸し出している。
どうやら、このお店が香りの発信源らしい。私は好奇心に任せて、入り口のドアから店内をのぞいてみる。ドアが開いてはいるものの店内は真っ暗で、営業中かどうか不明だった。
「入るの?入らないの?」
突如お店の奥の方から響いてきたその声に、私は思わず肩を震わせる。返事に困っていると、また声が響いてきた。
「早く決めなさいな。ドアの前に突っ立っていられちゃ、営業妨害よ」
言葉は冷たいのに、艶っぽいその声音はこちらを誘うようだった。もう、どうにでもなれ。私は自暴自棄になりながら店内に足を踏み入れる。
「お、お邪魔します……」
センサーライトだろうか。照度の低いオレンジ色の明かりが灯り、店内をぼんやりと照らした。店内には所せましと花桶が並べられ、新鮮で美しい花々が咲き乱れている。中には見たことのない植物もあった。
「奥へどうぞ」
声の主は見えないが、誘われるまま奥へ進む。両側をてんこ盛りの切り花で縁取られた通路の突き当たりには木製の黒いカウンターがあった。おしゃれなシーリングライトが照らすその場所は、さながらバーカウンターを思わせる。その背後の棚にはカラフルなリボンやラッピング用の包装紙が整然と並べられていた。そして、カウンター内からこちらを見つめる店員さんが1人。中性的な顔立ちで性別は判別できない。
「ようこそ、セラムへ。私は店主のアレクシス」
「どうも」
「さあ遠慮なく座って。じっくり選びたいでしょう?」
「あの、何を?」
「ちょっとあなた。花屋で花を選ぶ以外に何があるのよ?」
そこで初めて、ここが花屋であるとわかった。
「そうですよね。すみません」
カウンターの前に置かれた、丸みのあるスツールに腰掛ける。失礼とは分かりながらも、なんとなく謎の店主に視線が行ってしまう。全体的に細身のシルエットで、ややつり目がちな瞳と右目の涙ボクロが妖艶な印象を与えるその人は、黒いシャツに黒いエプロンをかけている。好きな色は絶対黒に違いない。髪の毛は羨ましいほどツヤツヤで前髪を右分けにし、やや長めの顔まわりの髪を左耳にかけている。艶のある唇から溢れる声は低く、というより男性のものに思えるのだが、果たして性別はどちらだろう。カウンターに置かれた右手は手入れが行き届いており、なんなら私より潤っていた。けれど女性にしては節が主張しているような……。
「あなたわかりやすいわね。“性別が謎の生命体だなあ”なんて考えてるんでしょう」
観察しているのがバレたらしい。アレクシスさんはいたずらっ子のようにニヤリと笑って私をなじった。
「あ、いえ。その、すみません」
「別に責めてなんかないわよ。それにこちらの性別は重要じゃないでしょう。ほら、聞かせて。どんなお花がお望みかしら?」
望むものなんて、今は思いつかない。あるとしたらそれは。
「仏花、ですかね」
「これからお墓参りにでも行くの?」
「いえ。気分的に、私が死んでるので。それがお似合いかなって」
「そう。ちょっと待ってて」
短い言葉を残して、彼(と呼ぶことにする)はバックヤードへと入っていった。じっくり選べ、とか言ってたくせに案外淡白なのかもしれない。いや、むしろ普通の行動か。勝手に、一方的に、優しさを期待していたのはこっちの方だ。
「お待たせ」
彼は私の目の前に白いソーサーを置き、その上にゆっくりと揃いのティーカップを置いた。持ち手をこちらに回しながら「カモミールティーよ」と添えてくれた。ホカホカの湯気から、落ち着く香りが立ち上る。
「あの、こちらはおいくらに?」
「サービスに決まってるじゃない。目元を真っ赤に腫らした女性から、お金を巻き上げるほど落ちぶれてなくてよ」
「す、すみません」
私は流れ落ちそうになる涙と鼻水を必死にこらえ、ハンカチを取り出そうとバッグの中を手探りするが、アレクシスさんがカウンター下からボックスティッシュを出して差し出してくれた。ありがたいことに鼻に優しい柔らかティッシュだった。私は遠慮なく2枚引き抜き、鼻をかむ。
「よかったら、話聞かせて?」
全くの初対面なのに、この人ならわかってくれると素直にそう思えた。その言葉を待ち望んでいたような気さえした。私はカモミールティーを1口含んでから、ゆっくり説明を始める。
「さっき、5年付き合った彼氏にフラれたんです。今日が2人の記念日で、お祝いのケーキも準備して、もしかしたらプロポーズしてくれるかもなんて期待していたんですけど。会ってすぐに別れを切り出されて。あいつほんと、地獄に落ちた方がいい」
「ええ、確実に落ちるでしょう。それにしても急な話ね。理由は聞いたの?」
その質問は興味本位ではなく、真剣に私と向き合ってくれているのが感じとれた。彼の不思議な包容力に甘えながら、私は次を続けていく。
「私を幸せにする自信がないから、今は結婚とか考えられなくて、覚悟決まるまで待たせっぱなしで傷つけたくないとかほざいてました」
「あらあら。絶望的に情けない言い訳ね」
「でも、こっちにも非があったんじゃないかなって思うんです。決め手に欠ける存在だったんですよ。5年の月日を重ねても覚悟を決めかねるほど、私には価値がないんです。だって、他に好きな人ができたわけでもなく、話あうでもなく、彼は別れを選んだ。……私、いつからお荷物になってたんだろう」
ずっと愛していたのに。その言葉は嗚咽にかき消され、紡がれることはなかった。悔しくて言いたくなかったから、ちょうどよかったけれど。
「あなた、優しすぎたのね」
箱ティッシュをこちらに寄せ、アレクシスさんは柔らかく微笑んでくれた。私にだけ注がれた眼差しが優しくて、全部受け止めてくれていて、涙が止まらなくなった。
あいつのせいで泣くのは心底悔しい。だけど同時に、120パーセントの本気であいつを否定できない自分がいる。お願い、私の心から出ていって。私をこれ以上、責めないで。
箱ティッシュに伸びる手が止まらなくなり、私は謝った。
「すみません、ティッシュ……たくさん使っちゃってごめんなさい……涙…止まらなくて……」
「涙は止めたらダメよ。ティッシュなんか好きなだけ使ってちょうだい」
「あり、ありがっ……うううぅー」
今はティッシュの柔らかささえも涙を助長する。
「いいこと?涙は浄化よ。悲しい思い出を、いい思い出に変えるための儀式なの。だから無理して止める必要も、心を誤魔化して耐える必要もない。思うままに垂れ流しといたらいいのよ。それを乗り越えたなら、また笑える日が必ず来るのだから」
「ううぅ……そうですかねえぇ…うわぁぁ」
アレクシスさんは、子どものように泣きじゃくる私を見て笑った。そして、やれやれといった表情で、乱れっぱなしの私の前髪を手櫛でそっと整えてくれるのだった。
「まあ、止めるなとは言ったけど、人前で泣くときは気をつけなさいよ。本気で泣くときは、色気なんて気にしてられないだろうから」
「色気なんて、ないですぅ。私なんか、色気とは…縁遠い人間なんですよぉ。だからこんな……うぅぅ」
「あなたねえ」
「痛っ!」
結構な強さで額にデコピンをくらい、副作用で涙が止まった。
「“私なんか”って言うの、やめなさい」
「えぇ、でも」
「“でも”も禁止。いい?彼1人にフラれたからって、全人類に見放されたわけじゃないでしょ。そこを履き違えないことね。それに、気づいてないなら言ってあげる。あなたには“優しさ”という素晴らしい価値がある。相手は一方的に突き放してきたのに、むしろあなたが反省するなんて、誰もができることじゃない。共有した5年間に執着せず、腹くくって別れたんでしょ。理不尽なことした彼を、手放してあげたんでしょ。その懐の深さ、誇りに思いなさいよ」
ありがとうございます。途中で嗚咽に邪魔されながらも、私は何度も伝えた。
「ほら、お礼はいいからちゃんと鼻拭きなさい。焦らず落ち着いて、ね。私はゆっくりお花を選んでくるから、これでもつまんで待ってて」
彼はカウンター下から個包装のクッキーを取り出し手渡してくれた。そしてあの柔らかい微笑みを残して花桶の海の中へと姿を消した。残された私は静かにクッキーの小袋をちぎって開封する。甘くてサクサクのバタークッキーをしゃくりあげながら味わい、食べ終わりのタイミングを見計らったようにアレクシスさんがカウンター内に戻ってきた。持ってきた花束を手際よく包装紙に包んでいく様子は見ていて気持ちがいい。
「あなた、下の名前は?」
「えと、星子です」
「そう。いい名前ね」
彼は壁面の棚からゴールドのリボンを選びとり、花束の持ち手に巻いた。
「どうぞ」
小ぶりの花束を受け取ると、自分好みの香りが鼻をくすぐる。俯く白い花が可愛らしい、スズランの花束だった。持ち手に巻かれた太めのリボンはラメ入りで、星が瞬くようなきらめきをたたえている。
「星子ちゃん専用の仏花よ」
「仏花?」
「欲しいって言ってたでしょう?」
「言いましたけど……」
「星子ちゃんは、仏花を供える理由知ってる?」
「理由ですか。えーと、お墓参りの証拠といいますか」
「そんなわけないでしょう。ご先祖様の霊を供養するためよ。私達が今ここに生きているのは、ご先祖様からの、過去からの繋がりがあってこそ。だから、無駄な過去なんて一切ない。そのことを忘れずに明日に向かいなさい。あなたなら、できるでしょう?」
「はいっ」
「じゃあお代は税込3万円ね」
「えっ?!」
「やだ、冗談に決まってるじゃない。プレゼントよ。元気が出るように、特別なおまじないかけといたから」
「ありがとうございます、アレクシスさん」
彼は嬉しそうにふふふと笑い、また乱れた私の前髪を整えてくれた。ゆっくりと離れてゆく手を見送って、私はスツールを降りて帰る準備を整える。
「また来ますね」
「あらありがとう。まあここは不定休だから、期待せずにいてちょうだい」
最後にもう一度お礼を伝えてから、彼に背を向けた。薄暗い店を出た瞬間、太陽の眩しさが染みて目をつむる。そしてまた目を開けて、しっかりと前を向いた。私はきっと、大丈夫。また笑える日が、誰かを愛せる日が、必ず来るはずだから。
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スズラン
(科・属名)キジカクシ科スズラン属
(花言葉) 幸せが再び訪れる
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「あいつ、ほんと何なの。地獄に落ちろっての」
30分ほど前に遡る。その日は、彼と付き合い始めて5周年の記念日。星子はケーキを片手に彼の家へと向かっていた。
「
彼好みの、甘さ控えめなガトーショコラ。商店街にある有名なお店で予約して買っていった。
彼のアパートに到着し、ドキドキしながら呼び鈴を鳴らす。彼はいつものように、すぐにドアを開けてくれた。だけど恒例の「いらっしゃい」のハグはなく、どこかよそよそしい態度で迎え入れた。
星子は思った。
(……もしかして、隆くん緊張してる?もしかして、プロポーズとか考えてる?)
記念日だし、お互い年頃だし、5年もの月日を共にしたのだからと、星子は確信にも近い期待を抱いてリビングのソファに座った。そしてケーキの箱を両手で持ち、隣に座った彼に満面の笑顔で差し出した。
「隆くんの好きなガト・・・」
「ごめん星子、別れよう」
「え……?」
何を言っているかわからなかった。いや、理解することを心が拒んでいた。頭の回転と、心臓が止まりそうだった。彼は視線を落とした。そして正面に向き直って、顔も逸らした。彼の横顔を見ても、星子にはそれが本当に隆かどうかわからなくなっていた。
「どういうこと?え、私何か悪いことした?」
「違うんだ。星子は何も悪くない。俺が、不甲斐ないだけだ」
「え、待って、よくわかんないんだけど。え?5年も付き合ったよね?いつも一緒に笑ってたよね?何で?他に好きな人できた?」
「それはない」
「じゃあ何でよ」
「いま言うから。ちょっと落ち着けって」
「落ち着けるわけないじゃん!」
隆は反射的に星子に振り向く。彼女がこんなに声を荒げるのは初めてだった。その瞳には溢れんばかりの雫が溜まっていた。
隆は言った。この数週間、2人の将来を真剣に考え抜いたそうだ。しかし彼女を幸せにできる自信がなく、ゆえに今は結婚への踏ん切りがつかず、覚悟が決まるまで待たせるばかりで傷つけたくないから、別れを決意したのだと、そう言った。
「私は幸せにしてほしいなんて思ってない。2人で一緒に幸せになろうよ。これまでも、そうしてきたじゃない」
隆はただ「ごめん」とだけ呟いて、一方的に星子を突き放した。
「じゃあもういいよ!!」
星子は立ち上がり、隆を目がけ豪速球でケーキの箱を投げつけて、その場を後にした。
***
私は、あいつに幸せにしてもらいたかったわけじゃない。5年も付き合って、まだ覚悟が決まらないだと?そんな女々しい男と思わなかった。虫唾が走る。こっちから願い下げ。だけど、悔しい。本当は、あいつと
「あいつ、ほんと何なの。地獄に落ちろっての」
安っぽい言葉が口をつく。それは自分を奮い立たせる呪文みたいなものだった。そうでもしないと、今にも膝から崩れ落ちそうだ。ああ、早くこの商店街を抜けて電車に乗り、どこかへ行きたい。ここじゃないどこかへ行きたい。
しつこく涙を出そうとする目元を抑えて、バッグの中のスマホに手を伸ばす。電車の時間を調べようとしたところへ、甘い香りが鼻をかすめた。
「いいにおい」
あまりの芳しさに足が止まる。それは花の香りのようだった。だが周囲を見回しても、花屋らしいお店はない。近くにあるのは、肉屋と電気屋と何屋かわからない暗くて狭いお店。暗いお店のショーウィンドウには漆黒のベルベッドカーテンが引かれ、中の様子が見えない。全体的に黒に統一された外観で、ともすれば魔法使いが住んでいそうな雰囲気を醸し出している。
どうやら、このお店が香りの発信源らしい。私は好奇心に任せて、入り口のドアから店内をのぞいてみる。ドアが開いてはいるものの店内は真っ暗で、営業中かどうか不明だった。
「入るの?入らないの?」
突如お店の奥の方から響いてきたその声に、私は思わず肩を震わせる。返事に困っていると、また声が響いてきた。
「早く決めなさいな。ドアの前に突っ立っていられちゃ、営業妨害よ」
言葉は冷たいのに、艶っぽいその声音はこちらを誘うようだった。もう、どうにでもなれ。私は自暴自棄になりながら店内に足を踏み入れる。
「お、お邪魔します……」
センサーライトだろうか。照度の低いオレンジ色の明かりが灯り、店内をぼんやりと照らした。店内には所せましと花桶が並べられ、新鮮で美しい花々が咲き乱れている。中には見たことのない植物もあった。
「奥へどうぞ」
声の主は見えないが、誘われるまま奥へ進む。両側をてんこ盛りの切り花で縁取られた通路の突き当たりには木製の黒いカウンターがあった。おしゃれなシーリングライトが照らすその場所は、さながらバーカウンターを思わせる。その背後の棚にはカラフルなリボンやラッピング用の包装紙が整然と並べられていた。そして、カウンター内からこちらを見つめる店員さんが1人。中性的な顔立ちで性別は判別できない。
「ようこそ、セラムへ。私は店主のアレクシス」
「どうも」
「さあ遠慮なく座って。じっくり選びたいでしょう?」
「あの、何を?」
「ちょっとあなた。花屋で花を選ぶ以外に何があるのよ?」
そこで初めて、ここが花屋であるとわかった。
「そうですよね。すみません」
カウンターの前に置かれた、丸みのあるスツールに腰掛ける。失礼とは分かりながらも、なんとなく謎の店主に視線が行ってしまう。全体的に細身のシルエットで、ややつり目がちな瞳と右目の涙ボクロが妖艶な印象を与えるその人は、黒いシャツに黒いエプロンをかけている。好きな色は絶対黒に違いない。髪の毛は羨ましいほどツヤツヤで前髪を右分けにし、やや長めの顔まわりの髪を左耳にかけている。艶のある唇から溢れる声は低く、というより男性のものに思えるのだが、果たして性別はどちらだろう。カウンターに置かれた右手は手入れが行き届いており、なんなら私より潤っていた。けれど女性にしては節が主張しているような……。
「あなたわかりやすいわね。“性別が謎の生命体だなあ”なんて考えてるんでしょう」
観察しているのがバレたらしい。アレクシスさんはいたずらっ子のようにニヤリと笑って私をなじった。
「あ、いえ。その、すみません」
「別に責めてなんかないわよ。それにこちらの性別は重要じゃないでしょう。ほら、聞かせて。どんなお花がお望みかしら?」
望むものなんて、今は思いつかない。あるとしたらそれは。
「仏花、ですかね」
「これからお墓参りにでも行くの?」
「いえ。気分的に、私が死んでるので。それがお似合いかなって」
「そう。ちょっと待ってて」
短い言葉を残して、彼(と呼ぶことにする)はバックヤードへと入っていった。じっくり選べ、とか言ってたくせに案外淡白なのかもしれない。いや、むしろ普通の行動か。勝手に、一方的に、優しさを期待していたのはこっちの方だ。
「お待たせ」
彼は私の目の前に白いソーサーを置き、その上にゆっくりと揃いのティーカップを置いた。持ち手をこちらに回しながら「カモミールティーよ」と添えてくれた。ホカホカの湯気から、落ち着く香りが立ち上る。
「あの、こちらはおいくらに?」
「サービスに決まってるじゃない。目元を真っ赤に腫らした女性から、お金を巻き上げるほど落ちぶれてなくてよ」
「す、すみません」
私は流れ落ちそうになる涙と鼻水を必死にこらえ、ハンカチを取り出そうとバッグの中を手探りするが、アレクシスさんがカウンター下からボックスティッシュを出して差し出してくれた。ありがたいことに鼻に優しい柔らかティッシュだった。私は遠慮なく2枚引き抜き、鼻をかむ。
「よかったら、話聞かせて?」
全くの初対面なのに、この人ならわかってくれると素直にそう思えた。その言葉を待ち望んでいたような気さえした。私はカモミールティーを1口含んでから、ゆっくり説明を始める。
「さっき、5年付き合った彼氏にフラれたんです。今日が2人の記念日で、お祝いのケーキも準備して、もしかしたらプロポーズしてくれるかもなんて期待していたんですけど。会ってすぐに別れを切り出されて。あいつほんと、地獄に落ちた方がいい」
「ええ、確実に落ちるでしょう。それにしても急な話ね。理由は聞いたの?」
その質問は興味本位ではなく、真剣に私と向き合ってくれているのが感じとれた。彼の不思議な包容力に甘えながら、私は次を続けていく。
「私を幸せにする自信がないから、今は結婚とか考えられなくて、覚悟決まるまで待たせっぱなしで傷つけたくないとかほざいてました」
「あらあら。絶望的に情けない言い訳ね」
「でも、こっちにも非があったんじゃないかなって思うんです。決め手に欠ける存在だったんですよ。5年の月日を重ねても覚悟を決めかねるほど、私には価値がないんです。だって、他に好きな人ができたわけでもなく、話あうでもなく、彼は別れを選んだ。……私、いつからお荷物になってたんだろう」
ずっと愛していたのに。その言葉は嗚咽にかき消され、紡がれることはなかった。悔しくて言いたくなかったから、ちょうどよかったけれど。
「あなた、優しすぎたのね」
箱ティッシュをこちらに寄せ、アレクシスさんは柔らかく微笑んでくれた。私にだけ注がれた眼差しが優しくて、全部受け止めてくれていて、涙が止まらなくなった。
あいつのせいで泣くのは心底悔しい。だけど同時に、120パーセントの本気であいつを否定できない自分がいる。お願い、私の心から出ていって。私をこれ以上、責めないで。
箱ティッシュに伸びる手が止まらなくなり、私は謝った。
「すみません、ティッシュ……たくさん使っちゃってごめんなさい……涙…止まらなくて……」
「涙は止めたらダメよ。ティッシュなんか好きなだけ使ってちょうだい」
「あり、ありがっ……うううぅー」
今はティッシュの柔らかささえも涙を助長する。
「いいこと?涙は浄化よ。悲しい思い出を、いい思い出に変えるための儀式なの。だから無理して止める必要も、心を誤魔化して耐える必要もない。思うままに垂れ流しといたらいいのよ。それを乗り越えたなら、また笑える日が必ず来るのだから」
「ううぅ……そうですかねえぇ…うわぁぁ」
アレクシスさんは、子どものように泣きじゃくる私を見て笑った。そして、やれやれといった表情で、乱れっぱなしの私の前髪を手櫛でそっと整えてくれるのだった。
「まあ、止めるなとは言ったけど、人前で泣くときは気をつけなさいよ。本気で泣くときは、色気なんて気にしてられないだろうから」
「色気なんて、ないですぅ。私なんか、色気とは…縁遠い人間なんですよぉ。だからこんな……うぅぅ」
「あなたねえ」
「痛っ!」
結構な強さで額にデコピンをくらい、副作用で涙が止まった。
「“私なんか”って言うの、やめなさい」
「えぇ、でも」
「“でも”も禁止。いい?彼1人にフラれたからって、全人類に見放されたわけじゃないでしょ。そこを履き違えないことね。それに、気づいてないなら言ってあげる。あなたには“優しさ”という素晴らしい価値がある。相手は一方的に突き放してきたのに、むしろあなたが反省するなんて、誰もができることじゃない。共有した5年間に執着せず、腹くくって別れたんでしょ。理不尽なことした彼を、手放してあげたんでしょ。その懐の深さ、誇りに思いなさいよ」
ありがとうございます。途中で嗚咽に邪魔されながらも、私は何度も伝えた。
「ほら、お礼はいいからちゃんと鼻拭きなさい。焦らず落ち着いて、ね。私はゆっくりお花を選んでくるから、これでもつまんで待ってて」
彼はカウンター下から個包装のクッキーを取り出し手渡してくれた。そしてあの柔らかい微笑みを残して花桶の海の中へと姿を消した。残された私は静かにクッキーの小袋をちぎって開封する。甘くてサクサクのバタークッキーをしゃくりあげながら味わい、食べ終わりのタイミングを見計らったようにアレクシスさんがカウンター内に戻ってきた。持ってきた花束を手際よく包装紙に包んでいく様子は見ていて気持ちがいい。
「あなた、下の名前は?」
「えと、星子です」
「そう。いい名前ね」
彼は壁面の棚からゴールドのリボンを選びとり、花束の持ち手に巻いた。
「どうぞ」
小ぶりの花束を受け取ると、自分好みの香りが鼻をくすぐる。俯く白い花が可愛らしい、スズランの花束だった。持ち手に巻かれた太めのリボンはラメ入りで、星が瞬くようなきらめきをたたえている。
「星子ちゃん専用の仏花よ」
「仏花?」
「欲しいって言ってたでしょう?」
「言いましたけど……」
「星子ちゃんは、仏花を供える理由知ってる?」
「理由ですか。えーと、お墓参りの証拠といいますか」
「そんなわけないでしょう。ご先祖様の霊を供養するためよ。私達が今ここに生きているのは、ご先祖様からの、過去からの繋がりがあってこそ。だから、無駄な過去なんて一切ない。そのことを忘れずに明日に向かいなさい。あなたなら、できるでしょう?」
「はいっ」
「じゃあお代は税込3万円ね」
「えっ?!」
「やだ、冗談に決まってるじゃない。プレゼントよ。元気が出るように、特別なおまじないかけといたから」
「ありがとうございます、アレクシスさん」
彼は嬉しそうにふふふと笑い、また乱れた私の前髪を整えてくれた。ゆっくりと離れてゆく手を見送って、私はスツールを降りて帰る準備を整える。
「また来ますね」
「あらありがとう。まあここは不定休だから、期待せずにいてちょうだい」
最後にもう一度お礼を伝えてから、彼に背を向けた。薄暗い店を出た瞬間、太陽の眩しさが染みて目をつむる。そしてまた目を開けて、しっかりと前を向いた。私はきっと、大丈夫。また笑える日が、誰かを愛せる日が、必ず来るはずだから。
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スズラン
(科・属名)キジカクシ科スズラン属
(花言葉) 幸せが再び訪れる
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