第5話 完璧
文字数 4,728文字
この国を訪ねるのは久しぶりだった。以前は仕事の関係でよく来ていたのだが、思い返せば3年ぶりの訪問。今回は観光目的の旅ではあるものの、せっかくなので以前ご縁のあった方のもとを訪ねることにした。お洒落な花屋を営む彼女は元気にしているだろうか。
接客の邪魔にならぬよう、閉店間際の時間を狙って「セラム」のドアを潜る。彼女は花束の作成途中だったようで、真剣に切り花を選定していた。
「あらあ!どこのイケメンかと思ったらパトちゃんじゃない!お久しぶりね、元気してた?」
「ええ、このとおり。アレクシスさんもお元気そうで何よりです。しばらく見ない間にだいぶ洗練されたようで」
「フフ、あなた相変わらずね。さあさあ立ち話もなんだし、奥へどうぞ。とっておきのワインを冷やしてあるの。パトちゃんのために開けるわね」
「……あなたは店 で何をしているのですか?」
彼女はそのまま閉店時間を繰り上げ店の看板を「CLOSED」に変更し、私を店の奥へと誘った。
私はパトリック・シュロムクルツ。アレクシスさんとは大学の同窓生だ。私のことを“パトちゃん”と呼ぶのは、後にも先にも彼女だけ。
***
店の最奥にある、さながらバーカウンターのような一角に並んで座ると、彼女は早速グラスにワインを注いでくれた。
「アレクシスさん、これよかったら召し上がってください。向こうのお土産です」
「ありがとう。このお菓子大好きなのよねえ、懐かしい。さすがパトちゃん、わかってる」
「いえいえ」
「ねえ、今回もお仕事で来たの?」
「旅行ですよ」
「珍しいわね。ちょっとまさか自分探しの一人旅じゃないわよね?悩み事あるなら聞くわよ」
「フフフ、ご心配には及びませんよ。パートナーが一緒ですし、純粋に観光を楽しめていますから」
言うが早いか彼女は私の左手に視線を移し優しく引き寄せた。そこに輝く銀の指輪を愛おしそうに見つめながら、次第に喜びと祝福とで彩られていく横顔。その様子を見ているこちらまで嬉しさがこみ上げてくる。
「おめでとう。平凡な言葉しか出てこないけれど、これでも精一杯お祝いしているのよ」
「もちろん伝わっていますよ」
「じゃあ。パトちゃんの幸せに乾杯」
「ありがとうございます。では、乾杯」
グラスを合わせる心地よい音が響き渡った。可憐な花々に囲まれて華やかな風味のワインを嗜み、隣では親友が微笑んでいる。なんて贅沢な時間だろう。
「そっか、ついにパトちゃんがねえ。あなたほど魅力的な殿方を射止めたお相手は、相当素敵な方なんでしょうね」
「ええ、とても」
彼女はこちらの微笑みを羨ましそうに見つめた。
「いいわねえ、憧れちゃう」
「あなたも引く手数多でしょうに」
「それがなんともなのよ。ありがたいことにお店は順調なんだけど。人生上手くいかないときもあるわよね」
「珍しいですね、溜息なんて」
「あら、ごめんなさい。極力人前ではしないようにしてたんだけど。親友の前だと気が緩むのかしら」
「おやおや、親友の前で気を張る必要があるとお思いですか?」
「フフッそれもそうね。私たち、裸の付き合いですものね」
「またあなたはそうやって」
学生時代、寮生活をしていた私たちは共同シャワー室でよく顔を合わせたものだった。互いに混雑する時間帯を避けて夜遅くにシャワー室へ向かうようにしていたのだが、おかげであらぬ噂が流れたりもしていた。今となっては、微笑ましく瑞々しい思い出。
「あまり湿っぽいのは好きじゃないんだけど、笑いばなしだと思って聞いてちょうだいね。私、最近よく考えることがあって」
「ええ」
「こんな私でも、最近は人から相談を持ちかけられたり、アドバイスを求められることが続いていてね。もしもそれが“話しやすい”とか、“頼りになりそう”と思ってもらえている証拠だとしたら嬉しいわ。とてもありがたいことじゃない。だからこちらとしてもそれに応えたくて、最善と思える言葉を選りすぐって、誠意を込めてお相手しているの」
「その様子が目に浮かびます。昔から、“思いやり”もあなたのためにある言葉でしたよね」
「そうだったかしら。……でも、だけどよ。私は見ての通り、欠陥だらけで、天才でもなく平凡で、どこにでもいるただの人。完璧な人間じゃない。そんな私が届ける言葉に価値があるのか、本当に最善なのか、真に役に立てているのかが……わからなくなるときがあるの」
彼女は静かにグラスの脚を撫でた。ワインを口に運ぶでもなく、ただ水面を見つめ、反射した自身の姿をかき消すようにグラスを揺らす。
沈黙の中で私は思う。彼女のように許容範囲が広く、温かい人ほど、自分に自信がない。それはきっと、相手の幸せを優先し続け、自身の笑顔の価値に気付く機会を逸しているからだと思う。価値を認め自身を慈しむには、自己理解が最大の課題。この難題を解く鍵は、欠陥があっても目を背けずに自分に向き合えるか否かだろう。
その点において彼女は変わらない。ひたすら実直に向き合い続け、価値を探し続けている。心からの賛辞を送っても、「何でもないことよ」と、自らを笑顔で否定しながら。
当たり前にできること。それが「何でもない」はずがない。誰かを想い寄り添って、時間を分かち合うだけで十分に意味がある。黄金をも凌駕する価値がある。そこに付随する結果はどうであれ関係ない。ただそばにいてくれるだけで豊かな安堵感をもたらしてくれる存在の尊さが、今ならよくわかる。
「アレクシスさん。あなたはどうして、完璧になりたいのですか?」
「その方が、良質なアドバイスができるだけじゃなく、もっと人のためにもなるでしょう」
「では仮に完璧なヒトがいたとして、アドバイスを求めて得た答えが道徳的にも倫理的にも正しく、世間的にも是認されるものだとします。そして同様に、一般論的で広く誰にでも適応できそうな答えだったとしたら。相談してよかったと、思えそうですか?」
「うーん、どうかしらね」
「では言い換えてみますね。正しいだけの言葉や行動が、相手の胸に届くと思いますか?」
「それは……」
「頼られるというのは、完璧な解答を求められているのと同義ではないと思いますよ。相談事にしてみたら、お相手は一方的に解決策を出してほしいのでなく、真剣に向き合うからこそ出てくるあなたらしい言葉で表現された選択肢 に触れたいのでしょうね」
「私らしい……」
「ええ。それに失敗しない完璧なヒトには、あなたの言う“欠陥”があるヒトの気持ちはわからないはずです。あなたはご自身の欠陥を多数自覚しているから、お相手の中に同じものを見た時にその気持ちが手に取るようにわかるのでしょう。であれば、欠陥は共感力が高まるヒントとなり持ち味になる。素晴らしいことじゃないですか」
「なるほど、あなたが言うならそうかもしれないわね」
「おや、誰が言うかは重要じゃありませんよ。あなたが何を信じるかです。私は信じていますよ。あなたは欠陥を長所に昇華する魔法を操り、優しさという艶やかな情熱を内に秘めた、美しい方だと」
「あら嬉しい。指輪に気づかなかったら口説いちゃうところだったわ」
「フフフ、それは残念」
「ねえ、もしまだ完璧を目指したいって言ったらどうする?」
「目が醒めるように
「そう?私の血は濃厚なの、ゆっくり堪能してちょうだいね」
冗談を交えてようやく破顔して見せた彼女は、安堵と自信を取り戻していた。それはきっと、笑顔の価値を受け入れ始めた第一歩。
「パトちゃんって本当に優しいのね。学生の頃も、いいえ、社会人になってからもこうやって励ましてもらっていたのを思い出したわ。叶うことなら、会いたい時に会えたらいいのに」
「必ずまた会いに来ますよ。それに・・・」
ちょうどそこへドアベルが鳴り響き、彼女が不思議そうに振り向く。
「あらら、閉店の文字が見えなかったのかしら」
ふと腕時計を確認すると、約束の時間を迎えたところだった。
「いえ、これはお客様ではないですよ」
「どうしてわかるの?」
「待ち合わせをしているんです」
そして花桶の間からのぞく、待ち望んだ姿。
「あの、こんばんは」
彼はアレクシスさんに挨拶し、私の依頼した品を手渡してくれた。
「エイト、わざわざありがとうございます。道に迷いませんでしたか」
「うん。パトリックの地図がわかりやすかったからね」
エイトの左手に佇む指輪に気づいたのだろう。彼女は嬉々として両手を合わせ、私たちを交互に見つめる。
「パトちゃん、もしや?」
「ええ。エイトは私のパートナーです」
「いやんもう可愛いっ!」
待ちきれなかったと言わんばかりに思い切りエイトを抱きしめる彼女。その勢いにのまれてエイトも初めは驚いていたが、アレクシスさんの「もう好き可愛い愛おしすぎる」と言う褒め言葉に頬を染めつつ抱きしめ返している。彼女の「相手を“好き”から入る姿勢」は、真似したくてもできない美点。
その名を呼ぶと、エイトに腕を回したまま顔だけをこちらによこした。
「なにかしら?」
「もう一つ、お土産です」
紙袋からライラックの花束をそっと出すと、花弁が揺れて甘い香りが私たちを包み込んだ。
「え、私に?」
「はい。我が家の庭に咲いているものです。ふたりで摘んできたんですよ」
「ますます素敵。ありがとう、大事にするわ」
そう言って片腕で私を抱き寄せる彼女。頬を撫でる髪からは、あの頃と変わらず優雅な薔薇を想起させる香りがする。変わるものと、変わらぬもの。それらを抱き合わせて花は洗練されてゆく。
「ではアレクシスさん、名残惜しいですがそろそろお暇しますね」
「ええ。来てくれて本当にありがとう、とっても元気もらえたわ。今なら何でもできる気分よ」
「それはこちらも同じです」
「よかった。エイトちゃんも元気でね、パトちゃんをよろしく」
「あ、はい!」
「フフフ。ああ、そうでした。先ほど言いそびれた件ですが」
「あら、聞かせて?」
「たとえ互いが欠陥だらけだったとしても、私たちの友情は完璧。そうでしょう?」
言葉より先に浮かんだ笑顔が、何よりの返答になった。
「ええ、もちろんよ」
いくら距離が離れていても、どれほど時間が経っても、顔を合わせた瞬間に鮮やかに色を取り戻す絆。先の彼女の話は身に覚えのある点が多く、他人事に思えなかった。私たちは似た者同士、躓いては起き上がりの連続。昔からそうだった。
どんな悩みも乗り越え、その度に「もう二度と悩まない」と自信をつけるのに、悩みや不安は影のように執拗に付き纏う。息をしている限りは逃げきれない運命 のようにさえ感じる。この先にも待ち受けていることだろう。今度こそ、挫けそうになるかもしれない。けれど私には、あなたがいる。あなたにも、私がいるから。
*****************
ライラック
(科・属)モクセイ科・ハシドイ属
(花言葉)大切な友達
*****************
(ご案内)
本5話は「愛情の記憶」とのクロスオーバーとなります。本文中の「採血」の意味、そしてパトリックやエイトの素顔にご興味がおありでしたら併せてお楽しみいただけますと嬉しいです。
ここまでお読みくださりありがとうございます。
接客の邪魔にならぬよう、閉店間際の時間を狙って「セラム」のドアを潜る。彼女は花束の作成途中だったようで、真剣に切り花を選定していた。
「あらあ!どこのイケメンかと思ったらパトちゃんじゃない!お久しぶりね、元気してた?」
「ええ、このとおり。アレクシスさんもお元気そうで何よりです。しばらく見ない間にだいぶ洗練されたようで」
「フフ、あなた相変わらずね。さあさあ立ち話もなんだし、奥へどうぞ。とっておきのワインを冷やしてあるの。パトちゃんのために開けるわね」
「……あなたは
彼女はそのまま閉店時間を繰り上げ店の看板を「CLOSED」に変更し、私を店の奥へと誘った。
私はパトリック・シュロムクルツ。アレクシスさんとは大学の同窓生だ。私のことを“パトちゃん”と呼ぶのは、後にも先にも彼女だけ。
***
店の最奥にある、さながらバーカウンターのような一角に並んで座ると、彼女は早速グラスにワインを注いでくれた。
「アレクシスさん、これよかったら召し上がってください。向こうのお土産です」
「ありがとう。このお菓子大好きなのよねえ、懐かしい。さすがパトちゃん、わかってる」
「いえいえ」
「ねえ、今回もお仕事で来たの?」
「旅行ですよ」
「珍しいわね。ちょっとまさか自分探しの一人旅じゃないわよね?悩み事あるなら聞くわよ」
「フフフ、ご心配には及びませんよ。パートナーが一緒ですし、純粋に観光を楽しめていますから」
言うが早いか彼女は私の左手に視線を移し優しく引き寄せた。そこに輝く銀の指輪を愛おしそうに見つめながら、次第に喜びと祝福とで彩られていく横顔。その様子を見ているこちらまで嬉しさがこみ上げてくる。
「おめでとう。平凡な言葉しか出てこないけれど、これでも精一杯お祝いしているのよ」
「もちろん伝わっていますよ」
「じゃあ。パトちゃんの幸せに乾杯」
「ありがとうございます。では、乾杯」
グラスを合わせる心地よい音が響き渡った。可憐な花々に囲まれて華やかな風味のワインを嗜み、隣では親友が微笑んでいる。なんて贅沢な時間だろう。
「そっか、ついにパトちゃんがねえ。あなたほど魅力的な殿方を射止めたお相手は、相当素敵な方なんでしょうね」
「ええ、とても」
彼女はこちらの微笑みを羨ましそうに見つめた。
「いいわねえ、憧れちゃう」
「あなたも引く手数多でしょうに」
「それがなんともなのよ。ありがたいことにお店は順調なんだけど。人生上手くいかないときもあるわよね」
「珍しいですね、溜息なんて」
「あら、ごめんなさい。極力人前ではしないようにしてたんだけど。親友の前だと気が緩むのかしら」
「おやおや、親友の前で気を張る必要があるとお思いですか?」
「フフッそれもそうね。私たち、裸の付き合いですものね」
「またあなたはそうやって」
学生時代、寮生活をしていた私たちは共同シャワー室でよく顔を合わせたものだった。互いに混雑する時間帯を避けて夜遅くにシャワー室へ向かうようにしていたのだが、おかげであらぬ噂が流れたりもしていた。今となっては、微笑ましく瑞々しい思い出。
「あまり湿っぽいのは好きじゃないんだけど、笑いばなしだと思って聞いてちょうだいね。私、最近よく考えることがあって」
「ええ」
「こんな私でも、最近は人から相談を持ちかけられたり、アドバイスを求められることが続いていてね。もしもそれが“話しやすい”とか、“頼りになりそう”と思ってもらえている証拠だとしたら嬉しいわ。とてもありがたいことじゃない。だからこちらとしてもそれに応えたくて、最善と思える言葉を選りすぐって、誠意を込めてお相手しているの」
「その様子が目に浮かびます。昔から、“思いやり”もあなたのためにある言葉でしたよね」
「そうだったかしら。……でも、だけどよ。私は見ての通り、欠陥だらけで、天才でもなく平凡で、どこにでもいるただの人。完璧な人間じゃない。そんな私が届ける言葉に価値があるのか、本当に最善なのか、真に役に立てているのかが……わからなくなるときがあるの」
彼女は静かにグラスの脚を撫でた。ワインを口に運ぶでもなく、ただ水面を見つめ、反射した自身の姿をかき消すようにグラスを揺らす。
沈黙の中で私は思う。彼女のように許容範囲が広く、温かい人ほど、自分に自信がない。それはきっと、相手の幸せを優先し続け、自身の笑顔の価値に気付く機会を逸しているからだと思う。価値を認め自身を慈しむには、自己理解が最大の課題。この難題を解く鍵は、欠陥があっても目を背けずに自分に向き合えるか否かだろう。
その点において彼女は変わらない。ひたすら実直に向き合い続け、価値を探し続けている。心からの賛辞を送っても、「何でもないことよ」と、自らを笑顔で否定しながら。
当たり前にできること。それが「何でもない」はずがない。誰かを想い寄り添って、時間を分かち合うだけで十分に意味がある。黄金をも凌駕する価値がある。そこに付随する結果はどうであれ関係ない。ただそばにいてくれるだけで豊かな安堵感をもたらしてくれる存在の尊さが、今ならよくわかる。
「アレクシスさん。あなたはどうして、完璧になりたいのですか?」
「その方が、良質なアドバイスができるだけじゃなく、もっと人のためにもなるでしょう」
「では仮に完璧なヒトがいたとして、アドバイスを求めて得た答えが道徳的にも倫理的にも正しく、世間的にも是認されるものだとします。そして同様に、一般論的で広く誰にでも適応できそうな答えだったとしたら。相談してよかったと、思えそうですか?」
「うーん、どうかしらね」
「では言い換えてみますね。正しいだけの言葉や行動が、相手の胸に届くと思いますか?」
「それは……」
「頼られるというのは、完璧な解答を求められているのと同義ではないと思いますよ。相談事にしてみたら、お相手は一方的に解決策を出してほしいのでなく、真剣に向き合うからこそ出てくるあなたらしい言葉で表現された
「私らしい……」
「ええ。それに失敗しない完璧なヒトには、あなたの言う“欠陥”があるヒトの気持ちはわからないはずです。あなたはご自身の欠陥を多数自覚しているから、お相手の中に同じものを見た時にその気持ちが手に取るようにわかるのでしょう。であれば、欠陥は共感力が高まるヒントとなり持ち味になる。素晴らしいことじゃないですか」
「なるほど、あなたが言うならそうかもしれないわね」
「おや、誰が言うかは重要じゃありませんよ。あなたが何を信じるかです。私は信じていますよ。あなたは欠陥を長所に昇華する魔法を操り、優しさという艶やかな情熱を内に秘めた、美しい方だと」
「あら嬉しい。指輪に気づかなかったら口説いちゃうところだったわ」
「フフフ、それは残念」
「ねえ、もしまだ完璧を目指したいって言ったらどうする?」
「目が醒めるように
採血
して差し上げますね」「そう?私の血は濃厚なの、ゆっくり堪能してちょうだいね」
冗談を交えてようやく破顔して見せた彼女は、安堵と自信を取り戻していた。それはきっと、笑顔の価値を受け入れ始めた第一歩。
「パトちゃんって本当に優しいのね。学生の頃も、いいえ、社会人になってからもこうやって励ましてもらっていたのを思い出したわ。叶うことなら、会いたい時に会えたらいいのに」
「必ずまた会いに来ますよ。それに・・・」
ちょうどそこへドアベルが鳴り響き、彼女が不思議そうに振り向く。
「あらら、閉店の文字が見えなかったのかしら」
ふと腕時計を確認すると、約束の時間を迎えたところだった。
「いえ、これはお客様ではないですよ」
「どうしてわかるの?」
「待ち合わせをしているんです」
そして花桶の間からのぞく、待ち望んだ姿。
「あの、こんばんは」
彼はアレクシスさんに挨拶し、私の依頼した品を手渡してくれた。
「エイト、わざわざありがとうございます。道に迷いませんでしたか」
「うん。パトリックの地図がわかりやすかったからね」
エイトの左手に佇む指輪に気づいたのだろう。彼女は嬉々として両手を合わせ、私たちを交互に見つめる。
「パトちゃん、もしや?」
「ええ。エイトは私のパートナーです」
「いやんもう可愛いっ!」
待ちきれなかったと言わんばかりに思い切りエイトを抱きしめる彼女。その勢いにのまれてエイトも初めは驚いていたが、アレクシスさんの「もう好き可愛い愛おしすぎる」と言う褒め言葉に頬を染めつつ抱きしめ返している。彼女の「相手を“好き”から入る姿勢」は、真似したくてもできない美点。
その名を呼ぶと、エイトに腕を回したまま顔だけをこちらによこした。
「なにかしら?」
「もう一つ、お土産です」
紙袋からライラックの花束をそっと出すと、花弁が揺れて甘い香りが私たちを包み込んだ。
「え、私に?」
「はい。我が家の庭に咲いているものです。ふたりで摘んできたんですよ」
「ますます素敵。ありがとう、大事にするわ」
そう言って片腕で私を抱き寄せる彼女。頬を撫でる髪からは、あの頃と変わらず優雅な薔薇を想起させる香りがする。変わるものと、変わらぬもの。それらを抱き合わせて花は洗練されてゆく。
「ではアレクシスさん、名残惜しいですがそろそろお暇しますね」
「ええ。来てくれて本当にありがとう、とっても元気もらえたわ。今なら何でもできる気分よ」
「それはこちらも同じです」
「よかった。エイトちゃんも元気でね、パトちゃんをよろしく」
「あ、はい!」
「フフフ。ああ、そうでした。先ほど言いそびれた件ですが」
「あら、聞かせて?」
「たとえ互いが欠陥だらけだったとしても、私たちの友情は完璧。そうでしょう?」
言葉より先に浮かんだ笑顔が、何よりの返答になった。
「ええ、もちろんよ」
いくら距離が離れていても、どれほど時間が経っても、顔を合わせた瞬間に鮮やかに色を取り戻す絆。先の彼女の話は身に覚えのある点が多く、他人事に思えなかった。私たちは似た者同士、躓いては起き上がりの連続。昔からそうだった。
どんな悩みも乗り越え、その度に「もう二度と悩まない」と自信をつけるのに、悩みや不安は影のように執拗に付き纏う。息をしている限りは逃げきれない
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ライラック
(科・属)モクセイ科・ハシドイ属
(花言葉)大切な友達
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本5話は「愛情の記憶」とのクロスオーバーとなります。本文中の「採血」の意味、そしてパトリックやエイトの素顔にご興味がおありでしたら併せてお楽しみいただけますと嬉しいです。
ここまでお読みくださりありがとうございます。