【拾伍】捕らわれた外山先輩
文字数 3,737文字
おれの目の前には値段の割に量が少なく、コロッケの衣が湿気でパサパサになっている粗末なB定食が置かれている。
間宮さんの前に置かれているのは色も栄養価もバランスよく考えられた自前の弁当で、彼女はそれを自分の箸でリスが団栗を齧るようにちょこちょこと口に運んでいた。
おれは、先ほどオフィスで言われた話を重ねて確認した。
「ですから、あたしが外山先輩の恋愛のアドバイザーになるってことですよぉ」まったくもって訳がわからない。「イヤなんですか?」
イヤも何も、何でそういう展開になるのかわからない。そもそもここは会社の中、しかも色んな部署の人間が集まる社員食堂。社内ゴシップを嬉々として話す女子社員もいれば、社食をコンパ会場と勘違いしているとしか思えない馬鹿や、後輩に自分が如何にすごいかを尊大な態度で教え込もうとする中年の平社員もいる。
そんな場所で間宮さんとふたりで食事ってだけでもゴシップものなのに、ここで変に言い争えば、自分の知らない場所で下卑た会話が交わされることになるのは目に見えている。
「イヤ、って言うか……、そもそも間宮さんは何でおれの恋愛に興味があるの?」
「だってぇ、最近の先輩、本当にステキって言うかぁ! これまでの先輩ってあまり目立たなかったのに、急にエネルギッシュで魅力的になったじゃないですかぁ! みんな、ウワサしてるんですよぉ? 外山先輩、彼女でもできたのかなぁって!」
暗に自分の過去をディスられ、しかも彼女なんかいる訳ないと周りから決めつけられていたことを知って複雑な気分ではあったが、褒めことばとして受け取っておくことにした。
にしても、人は本当に他人のゴシップが好きだ。だからこそ写真週刊誌が馬鹿売れするのだろうけど、そんなもの読むくらいなら夏目漱石でも読んだほうがよっぽど有意義だ。
「ありがとう。でも、残念ながら彼女ならいないよ」
「だからぁ! 先輩の恋を応援したいんですよぉ!」
だからぁ! それが迷惑なんだってぇ!
大体、何で赤の他人、しかも少し前までまったくと言っていい程関わりのなかった後輩に自分の恋愛事情を追及されなければならないのだろう。迷惑もいい所だ。
しかし、おれは仕事と彼女の相手で甚だ疲れていた。人間は疲れを感じると物事の決断をおざなりにしやすくなる。今のおれがまさにそうだった。
「わかった。じゃあ、そういうことで……」
「え、てことはOKなんですねぇ? やったッ! じゃあ、先輩! あたしのメッセージのアカウント教えますから、何かあったら連絡してくださいね!」
最初はとりあえず約束だけして話を終わらせ、後は曖昧にはぐらかすつもりだったが、どうもそうはいかないらしい。
早い話、おれは安全地帯を歩いていたようで、本当は地雷原を堂々と歩いていたことになる。そして、踏んでしまったのだ、地雷を。
昼食を食べ終わり、間宮さんと別れると、個室トイレに入って山田に電話を掛けた。
「まったく、何やってんだか」ホワイトノイズに紛れて山田は呆れ気味な声が聴こえる。「だから、後輩キャラの出現には気をつけろって言ったべ?」
もはや、すみませんとしか言いようがない。
「しかし、面倒だな。こりゃ恋愛のアドバイスを送りたいとかそんな単純な話じゃねえで」
「おれ、そんなヤバイことしちゃったのか?」
「あぁ。早い話が、サシ馬相手に親の役満を振り込んでトンだようなもんだ」
おれは麻雀に詳しくないので、それがどれだけヤバイのかはわからないが、親の役満というのが何となくヤバイのはわかった。しかし、それぐらいヤバイ話とは――
「その後輩、キミのこと、好きだぞ」
核爆弾が落ちると、瞬間的に視界が光で覆われ、次の瞬間には意識が途切れると言う。今のおれは、まさにそんな感じだった。思考は停止し、絶句。唖然。
「そ、そんなはずねぇだろ」人間は恐怖や驚きに対して笑うことで対抗しようと意識の底でできているらしい。「だって、向こうはおれの恋愛を応援する、って……」
尻すぼみにフェイドアウトする声が、自信のなさが象徴していた。山田は呆れたように言う。
「……あのな? 好きな人の恋愛を応援するって言うのは基本建前よ。応援しますって言うことで親身な存在と印象付けつつ、自分の存在をアピールしてるんよ。その後輩がどんな奴かは知らんけど、気を付けるに越したことはないで。強かな女の場合、応援するとか言いながら、平気で人の恋路を邪魔してくるからな。死肉を漁られないよう、気をつけ」
怖い。女、怖い。しかし、そんなこと本当にあるのだろうか。
「残念ながらよくある話だで。中には純粋にその人の幸せを願って見守るって奇特な存在もいるけど、そんなのは天然記念物だ。タンチョウはタンチョウだからこそ価値があるんよ。タンチョウだと思ったら、ただのカラスでしたなんてマヌケなミスはするなよ?」
おれはただ、はい、はいと頷くことしかできなかった。
「それと、高梨にはメッセージを返したんか?」
残念ながら、まだだ。正直、彼女にメッセージを送っているのを人に見られるのが怖いのだ。何を言われるかわからないし、こんなことになったのも――。
「何やってんだか。その間宮とかいう女はともかく、会社の人間がキミの恋愛事情に興味ある訳ないべ? ちょっとは肩の力を抜けよ」
「そうは言っても、どうすればいいのかわかんねえんだよ」
「じゃあ、どうすればいいか教えるわ。高梨に連絡する。これだけだ」
電話が切られた。
やっぱ連絡するしかないよな。このままでは何もしないまま死肉を漁られることになりかねない。死ぬなら死ぬで、戦って死ぬべきだ。
高梨さんとのメッセージ画面を呼び出し、文字を打ち込もうとするも、中々進まない。頭を掻き乱す。何も思い浮かばない。
と、突然の電話。間宮さんからだった。
おれは手を震わせながら、通話ボタンをスライドさせた。
「やっと繋がったぁ。どうしたんですかぁ? 全然戻らないから心配してたんですよぉ?」
咄嗟にウソを考えたが、アドリブ力のないおれには、碌なウソはつけなかった。
「いやぁ……、ちょっと腹壊しちゃって……」
「大丈夫ですかぁ? 無理はしないで下さいね。それより、相手の人にはメッセージ送ったンですかぁ?」
エスパーか、コイツ? もしかして、おれと山田の会話を盗聴していたのだろうか。身体中をまさぐり、個室内を見回した。が、特にこれといって気になる点はない。まぁ、当然か。
「もしよければ、あたしが文面考えてあげましょうかぁ?」
余計なお世話だ。
「い、いいよ!」そう言うと、間宮さんは膨れるような声を出した。「いや、でも、これはおれの問題だしさ」
「……まぁ、いいですけどぉ、それより、誰と電話していたんですかぁ?」
今日だけで何度目かわからない激しい動悸を感じた。そうか、おれが山田と電話していた時に電話を掛けていたのか。これではウソがバレバレではないか。
「友達、ですけど?」何故、疑問形になるのだ。
「友達。ふうん。女の子ですか?」
そんなことを聞いてどうするというのだろう。
これはやはり、山田の言う通りかもしれない。相手が女性かどうかを確認することで、自分のライバルの有無を確認しているのだろう。おれは正直に答えた。
「男、ですけど……」
「へぇ! そうなんですね!」彼女の声が急に高くなる。「何話してたんですか?」
「遊ぶ約束してたん、だよ」
苦し紛れなのはわかっていた。そもそも男同士が電話で、しかも便所の中で遊ぶ約束なんかする訳がない。ハッテン場じゃあるまいし。
「そうなんですね。でも先輩、トイレで友達とそんな電話してたんですか?」
彼女は何でこうもおれの心臓を抉るような質問ばかりしてくるのだろう。これじゃまるで、ヘビに睨まれたカエルだ。
「う、ウソなんかついてどうするの?」
ひとつウソをつけば、必ずウソを重ねることになる。そうすれば最終的におれを待っているのは、暗くひんやりした視線と空気だけだ。
張り詰めた空気。身体が震える。
「……そうですよねぇ! そんなことでウソついても仕方ないですよねぇ!」
再び間宮さんの声のトーンが高く跳ね上がる。彼女はもしかしておれに私怨でもあるのだろうか。おれは調子を合わせて肯定するしかなかった。
と言うより、肯定しなければ、自分の立場を悪くするだけだ。
「う、うん。そんな訳でおれは大丈夫だから。もう少ししたら戻るよ。じゃ……」
「あ、先輩! ひとつ、お願いがあるんですけど、いいですか?」
そのお願いが、おれの頭を更に悩ませることになるとは思ってもいなかった。