THREE
文字数 29,538文字
内臓が浮く感じがした。まるで、ジェットコースターに乗っているような、そんな感じ。しかし、いつまで経っても想像していたような衝撃は来なかった。
――どのぐらい気絶していたのだろう。目が覚めると、何事もなかったかのように車の中にいた。
「起きた?」
入間くんが、中腰になって前方の座席からこちらに向っていた。
「……他の皆は?」
「大丈夫。気絶してるだけみたいだ」
彼は冷静だった。一番に目覚めて、全員の生存を確認していたのだ。
勇気を振り絞って、窓の外を見てみる。真っ赤な手の跡がガラスにべっとりとついていた。手の跡の間からのぞくと、暗いながらも雑木林にいることがわかった。
「君も皆を起こすの、手伝って」
私も腰をあげようとしたが、動けなかった。
「だ、だめ……みたい」
自分でも驚くくらいの情けない声が出た。
まだ、あの恐怖が体に残っている。車内の寒さ。バン、バン、と叩く音。車の振動。夢だったのだろうか。いや、あんなにリアルな夢があるわけない。それにメンバー全員が気絶しているという現実。人差指に思いっきり親指の爪痕をつけた。痛い。あの悪夢のような出来事は、本当にあったのだ。
入間くんは私にもう少し休むように言うと、次々とメンバーを起こした。お兄ちゃんと先輩はわりと早く気がついたが、私と同じくなかなか体を動かすことができないでいた。弥生さんが目覚める頃に、やっと立ち上がれるようになったくらいだ。稲垣さんは相変わらず気絶したまま。
「先輩、ここって、トンネルの出口かな」
お兄ちゃんが窓を覗きながら、前に座っている先輩に声をかけた。
「出ないと分からんなぁ、ちょっと見てくるか」
あっさり言うと、車のロックを解除した。だが、ドアを開ける気配はない。
「……出ないんすか」
「……修も来いよ」
二人は座席越しにお互いを見た。お兄ちゃんは、投げ出されていたカメラを手に取ると、ドアをゆっくりと開けた。
私達、車内に残されたメンバーは、二人が周囲をうかがっている姿を窓から固唾を呑んで見つめていた。急に光がガラスに反射した。先輩が懐中電灯をつけたらしい。光が車を一周すると、二人は車の中に戻ってきた。
バタン、とドアが閉まる音で、やっと稲垣さんは目覚めた。
「先輩! 修! 一体どうなったの、僕らは!」
目覚めたばかりで多少錯乱しているのだろうか。矢継ぎ早に質問を繰り出す。体が小刻みに震えているところを見ると、この人も先ほどの出来事の恐怖が染み渡っているようだ。
先輩は、ゆっくりと口を開いた。
「皆、落ち着いて聞け。今、修と車の周りを見たが……」
全員が唾を飲み込む。一拍置いて、言った。
「ここは牛頭トンネルの出口じゃない」
その意味を、私は理解できなかった。
「どういうことですか」
冷静に質問したのは、やっぱり入間くん。答えたのはお兄ちゃんだった。
「ざっと見回したところ、どっかの林の中みたいだ。トンネルらしきものはなかった」
お兄ちゃんの答えを聞いた弥生さんが、助手席のドアを開けて、外に飛び出した。稲垣さん以外の全員が、それに続いて車から降りた。
「ちょっと、どういうこと?」
車は細い木々に囲まれ、右側には川が流れている。左側には湖、というより沼のような大きな水溜りがあった。
空を見上げる。暗闇であることは変わらないが、雨は止んでいる。私は違和感を持った。空の色だ。雨があがった後は、いくら夜で暗闇だといっても空が灰色であるとわかるはずだ。だけど、今私達がいる場所の空は、灰色というより土色に見えるのだ。
「考えすぎじゃないか?」
お兄ちゃんに言うと、簡単にそう返されてしまったが、入間くんは何やら考えこんでいた。
「ねぇ、それよりあれを見て!」
弥生さんが沼の横を指差した。少し落ち着いたらしい稲垣さんも、のっそりと車から降りて私達と合流し、全員で沼に近づいた。
弥生さんの指先には、古い木でできた立て札があった。
「『ご縁がありますように』?」
お兄ちゃんが首を捻ると、先輩はスッと財布から五円玉を取り出した。
「何してるんですか」
先輩の後ろに隠れていた稲垣さんが、その行動をいぶかしんだ。
「『ご縁』と言えば、『五円玉』だろ? こういうのは大抵水の中に投げ込むんだよ。当然だろ?」
一同、溜息をついた。心霊現象にあった挙句、よく分からない場所に迷い込んでしまったというのにマイペース極まりない。呆れ顔のメンバーをよそに、五円玉を勢いよく沼に投げ込み、手を合わせた。
「さ、もういいでしょ? 帰る道を探そ」
弥生さんが先輩の手を引いて、全員が車に向おうとしたその時、沼からゴボッ、ゴボッという不気味な音がした。
「ちょ、ちょっと……先輩? もしかしてこの沼、変な動物とかいませんよね」
稲垣さんが恐る恐る後ろを振り返ると、一気にザバッーっと大きな水音を立てて何かが現れた。
「で、出たぁっ!」
その場でへたり込む稲垣さん。私達も身をすくませた。
がっしりして赤い男の肉体に、毛皮の腰巻きをつけ、大きい角を持つ頭が牛の化け物が眼前に現れたのである。
「やだぁ、『出た』なんて、失礼しちゃうわね」
化け物がしゃべった。地の果てから響くような重低音ボイスで。一同、言葉をなくした。
あまりにも現実離れした生き物の出現で、頭の中が混乱した。ただでさえパニックに陥りそうな精神状態を必死に立て直しているのに、こんな妖怪が出てきたら終わりだ。当然のように稲垣さんは泡を吹いて倒れ、弥生さんは目から大粒の涙を流し、そのまま固まった。
「あら、どうしたの? アンタ達。まさかアタシに怯えてるの?」
牛妖怪が大きな目玉をぎょろっと動かした。私は首をゆっくり左右に振った。恐くない。自分に言い聞かせるために。
すると、牛妖怪は全員をまじまじと見た後、入間くんを指さした。
「ちょっと、そこのボウヤ。アタシの近くまで来なさい」
彼は大きく深呼吸すると、ゆっくり歩きだした。額から、じわりと汗が滲んでいるのが見える。
「待て、行くな!」
牛妖怪は声の主であるお兄ちゃんを睨み、叫んだ。
「アンタは黙ってな!」
大風が巻き起こった。木が揺らぎ、葉が散るほどの声量。体が強張った。誰もこの妖怪に抗えない。先輩も、お兄ちゃんも、ただ入間くんの背中を見つめることしかできない。
「別にとって食うわけじゃないから、安心なさい」
その言葉と一緒に、気持ちの悪いウインクが飛んできた。
沼の近くで止まると、牛妖怪はぎゅっと拳を握った。入間くんが殴られる! 咄嗟に目を瞑った。
――数十秒経って、私は目をうっすらと開けた。見えたのは大きな箱を抱えた入間くんだった。牛妖怪は、その箱を持って戻るよう、彼に指示した。
「そう、イイ子は好きよ」
入間くんは無表情で目の前にいた化け物を見つめた。
「これからアンタ達に『お告げ』をしてアゲル。なんせ、『ご縁』があったからね」
視線を入間くんから先輩に移す。先輩は後退りした。
ゴホン、と大きく咳払いをすると、木の葉が舞った。
「ここは『新天地』。たまにいるのよね、アンタ達みたいに遊び半分で牛頭トンネルを通ってくる輩がサ」
牛妖怪の話はこうだった。つまり、牛頭トンネルは異世界である『新天地』と私達が生活している世界を結ぶルートだということ。もちろん普段、このルートは閉鎖されているらしいのだが、何かのはずみで開いてしまったようだ。
「そこへ運悪くアンタ達が来ちゃったってワケ。もう、こっちも困るんだから」
「どうやったら、元の世界に帰れるんだ」
入間くんが大声で尋ねると、意外とあっさり答えが返ってきた。
「簡単よ。この先の街を突っ切った場所にある『馬頭トンネル』を通って帰ればいいの」
安堵した。心霊現象だの、妖怪だの、異世界だの、まったくいかれてる。さっさとそこを通って現実に帰ろう。そして、二度とこんな夢物語、思い出さないで生きていこう。
そう思った矢先、牛妖怪が私を睨んだ。
「安心しない方がいいわ。問題はこの先にある街よ」
「ど、どういうことだ?」
先輩が乾いた声で聞いた。
「その箱を開けなさい」
入間くんは、抱えていた箱を地面に下ろしてふたを開けた。泡を吹いている稲垣さんと、固まっている弥生さんを除いた四人が中を見ると、真珠のついた様々なアクセサリーが入っていた。
「なんだ、これ……」
「この真珠が、アンタ達を守るアイテム、といったとこかしら。命が惜しければ、常に身につけておくことね」
『命が惜しければ』。たった一言に体中が軋むほどの重力を感じた。この「新天地」で、私達は命の危険に晒されるのだろうか。頭の中が不安の闇で覆いつくされていくのが分かる。
「それともうひとつ」
何かを思い出したような声に、うつむいていた全員が反応した。
「アンタ達は、異世界の人間。異世界の人間は新天地で必ず『能力』を発揮するはずなの。それは自分の身を守るのに役立つものだけど……毎回一人はいるのよね、運の悪いヤツって」
こんなわけの分からない世界に来てしまった時点で私達六人全員、運は最高に悪いと思
うが、更に運が悪い人間、ハズレくじを引く人間が出るということなのだろうか。
「それは一体……」
お兄ちゃんが問いかけようとしたが、その声は突然の砂嵐に飲まれ、牛妖怪自体も煙のように消えてしまっていた。
眼前の妖怪が消え去ってからしばらくして、弥生さんと稲垣さんが正気に戻った。
二人に今までの事柄を説明したが、あまりにも非現実的過ぎて、話しているこっちもおかしくなりそうだった。「能力」のことは、二人に告げなかった。お兄ちゃんと入間くんの判断である。「新天地で能力を得る」――これだけならよかった。でも、メンバーの中に「ハズレ」がいるかもしれない。稲垣さんが知ったら、ショックでまた失神するだろう。
説明が終わった後、二人は放心状態だったが、何とか事情を飲み込んでくれたのを確認して全員で箱の中身を見た。ネックレスにペンダント、ブレスレットにピアス、レザーバンド、リング。デザインは違えども、全部に真珠が付いている。
「あの牛は、『俺達を守るアイテム』って言ってたよな」
お兄ちゃんが呟くと、先輩が付け足した。
「『命が惜しくば常に身につけろ』とも、な」
弥生さんは真っ青になった。
「何、それ。あたし達、命狙われるの?」
「いや、それはわかりませんよ。『はずしたらどうなるか』は言わなかったんだから」
冷静に入間くんが否定した。
「ともかく、牛野郎が言ってた通りに街を抜けて『馬頭トンネル』を目指すしかないな。そうと決まれば全員アイテムを装備だ」
先輩が、半ば強引に次の行動を決めると、弥生さんが噛みついた。
「ちょっと待ってよ! 街に行って、殺されたりしたらどうするの!」
稲垣さんもそれに加わる。
「そうですよ! そもそもあんたが『心霊トンネルに行こう』って言わなければ、こんなことにならなかったんだ! 責任、取れよ!」
「……先輩、俺だけならまだ我慢できたよ。でも、今回は妹もいるんだ! どうしてくれるんだっ!」
お兄ちゃんが先輩の肩を掴み、思いっきり顔面に右ストレートを入れた。メガネがふき飛んだ。拳をもろに食らい、よろける。弥生さんも助けようとはしない。冷たい視線を送るだけだ。
先輩は、鼻から流れる血を右手でこすり、お兄ちゃんを睨んだ。
「俺だってな……こんなことになるなんて、一ミリも想像つかなかったんだよ……。心霊現象? そんなもん、面白いものが撮れればよかっただけなんだ。異世界へトリップ? 想像つくほうがおかしい!」
今度は先輩が、一瞬の隙をついて左フックをボディに食らわせた。
「ぐっ!」
「お、お兄ちゃん!」
私は駆け寄ろうとしたが、入間くんに止められた。
「陸さん、ちょっと待って」
そう小声で言うと、自分が代わりに二人の間に入った。
「なんだ、入間。お前も文句あんのか」
先輩が入間くんに近づく。お兄ちゃんも、距離を狭めてきている。
「二人とも……いや、稲垣先輩、弥生先輩も落ち着きましょうよ。ここで揉めて何になるんですか? 元の世界に戻れるわけじゃないでしょう」
「入間は黙ってなさいよ!」
弥生さんがヒステリックな声を上げたが、怯まずに続ける。
「言わせてもらいますけど、この場でキレる権利があるのは、陸さんだけです」
私はドキッとした。他の四人が一斉に罵声を浴びせる。それを大声でけん制した。
「俺達五人は同じ部活の仲間だ。お互いの呼び出しに応じたのも当然だし、嫌だったら断ればよかった。だけど、陸さんだけは、完全にイレギュラーだ。修先輩が先輩のお願いを断れない立場だと思いやり、ついてきてしまっただけじゃないですか。本当に巻き込まれたのは、陸さんだけだ!」
シン、となった。本当は私だって、興味本位でついてきたという落ち度はある。だが、この場をおさめる最良の手は、「言葉の力でねじ伏せる」。これしかない。全員の視線が私に向けられた。
「……私は……」
言い淀んだ。でも、私がはっきり言わなくてはいけない。全員の目を見つめてから、意を決して宣言した。
「私は、こんな状態になったからといって、言い争う気はありません。大体皆、仲間じゃないですか! こんな時こそ、チームワークで乗り切るしかないんです!」
入間くん以外の皆は、目を伏せ、黙り込んだ。それを一番に打ち破ったのがお兄ちゃんだった。
「くそ、情けねぇ。妹に諭されるなんてな」
「……確かに。ここで騒いでもしょうがないか。皆で協力して、元の世界に帰るしかないよね」
弥生さんの台詞に、先輩が混ざる。
「元凶は俺だ。もし命が狙われるようなことがあったら、俺が皆を守ってやる! つーか、一番年上だしな。そのぐらいしないと面子が立たないわ」
稲垣さんは最後まで黙っていたが、皆がプラス思考になってきたことで、渋々呟いた。
「帰るためには皆がいないとダメだし……。僕も腹を括るよ。本当はやだけどね」
私は入間くんを見た。無表情だった顔に、うっすらと笑みがうつったように感じた。
「よし、街に行く前にアイテムをつけるぞ!」
お兄ちゃんができるだけ明るい声で言うと、
「それは俺がさっき言っただろ!」
と、先輩が突っ込んだ。
牛妖怪の言ったことが本当かどうかは疑わしいが、ここは信じるしかない。各々アクセサリーを選び始めた。
「陸ちゃん、最初に選びなよ」
まだ鼻血の止まっていない先輩が、笑顔で箱の中身が見えやすいようにしてくれた。他の皆も、私に一番に選ぶ権利を譲ってくれた。何だか正直恥ずかしいような、後ろめたいような、複雑な気持ちだったが、せっかくの好意を無駄にはできない。私は細いチェーンに一個だけ真珠のついたネックレスを選んだ。他の皆はジャンケンで順番を決め、お兄ちゃんは蜘蛛のワンポイントがついているメンズ向けのペンダント、入間くんはクロスのついたブレスレット、稲垣さんは男の人でもつけられるような、シンプルなデザインのリングを、先輩は真珠の埋め込まれたレザーバンド、弥生さんは片耳用のピアスを選んだ。
「車も何とか動くみたいだ。これで人目につかないように移動しよう」
車の点検を終えた先輩が提案した。
私達は、内心強い恐怖を抱きながらも、覚悟を決めて車に乗り込んだ。アネモネの花が、穏やかな風に揺らいでいた。
街までは、整備されていない坂道を真っ直ぐ下っていくだけで着いた。街の入り口には中華街にあるような大きな門に「沙門街」と描かれていた。「サモンガイ」とでも読むのだろうか。どうやら車で入れるのは、ここまでのようだ。
「どうする? 歩くしかないみたいだけど」
弥生さんが窓から辺りの様子を見ながら、皆の意見を求めた。
「リスキーではあるよな。そもそもどんなヤツがいるのかもわからないし。さっきの牛みたいなのがうようよしてたら恐いし」
お兄ちゃんが牛妖怪を思い出しながら呟く。
「じゃ、全員で入り口の近くに行ってみるっていうのはどうだ? 車もその付近に止めておけば、すぐ逃げ込めるし」
先輩が出した案は具体的だったが、稲垣さんは不安げな表情を浮かべた。
「逃げ遅れたら、どうするんですか……?」
「そしたら俺が犠牲になってでも、皆を守るって。さっきから言ってるだろ」
ビクビクしている稲垣さんを見て、先輩が笑う。
「どうにも、車が通れるのはここまでみたいですし、やってみるしかありませんね」
あごに手を当てて考え込んでいた入間くんが、最後の一押しをした。
「それじゃ、決定な! では、出陣前にいつもの気合をいれるとするか!」
先輩と弥生さんが、前方座席から後方を向く。隣りの入間くんも、前に身を乗り出す。
「へ?」
状況を把握できないであたふたしていると、弥生さんが教えてくれた。
「うちらバスケ部はね、試合前に必ず円陣組んで、気合入れるのよ。部員全員でね」
「それじゃ、出陣するぞ!」
先輩が声を張り上げる。私も急いで前方を向いた。全員の顔を見回す先輩の視線が、
私で止まった。
「いつもなら『南高バスケ部サウス・キャット、GO!』でいくけど、陸ちゃんはバスケ部じゃないしなぁ」
「それなら六人だし、『シックス』でいいんじゃないですか?」
淡白な入間くんの意見に、お兄ちゃんが溜息をついた。
「そのまんますぎだろ」
「名前より、僕はこのまま生きて帰れるかどうかが心配だよ」
稲垣さんが素直な心情を述べると、弥生さんが喝を入れた。
「あんたはまたグチグチと……だからレギュラーにもなれないんだよ。マネージャーも覚悟決めたんだから、文句言わない! 修も、名前ぐらいで騒ぐな!」
前の座席からデコピンを食らった稲垣さんは、痛そうに額をさすりながら円陣に加わっ
た。お兄ちゃんもむくれつつ、入間くんの案に同意した。
中央の通路に向って、手を伸ばす。確認した先輩が叫んだ。
「『行くぜ、シックス!』」
「『GO!』」
全員勢いをつけて、車のドアを開けた。
沙門街は、香港のネイザン・ロードの下に男人街を混ぜて、アップ・ダウンをつけたような街だった。ドハデなネオンと露天のカラフルな商品で目がちかちかする。胡散臭いオモチャを売っていたり、占いの屋台があったり。ともかく雑多な印象だった。色と光が多すぎる。でも、なんだか映画の中の世界のようで、少し興奮した。
街を歩く人々も、さっきの牛妖怪みたいなのではなく、普通の人間のようだった。話している言語も日本語だ。異国情緒漂う場所ではあるが、いる人間は私達と変わらない。だけどやっぱり少し気になる点がある。道行く人全員が、何かしら宝石をつけているのだ。大きいダイヤの指輪をしている人や、ガーネットの小さなネックレスをしている人。ジルコンのブレスレットをつけている若者、大きなルビーの髪飾りをつけている子供までいる。
「この世界って、『石が身を守ってくれる』みたいな信仰があるのかな」
お兄ちゃんの後ろにべったりの稲垣さんが、不思議そうな顔で人々を見ていた。
それでも、周りの人々にうまく溶け込めていることで私達は若干気が緩んだ。「異世界からきた」と大声で言わない限り、気づかれない。道を進むにつれそう思うようになっていた。
しかし、そんな予想を屋台のおばちゃんが一気に覆した。
「そこの異世界から来た皆! よかったら食べていかない?」
全員が、ギクリとした。先輩が足を止め、稲垣さんがそれにぶつかった。
引きつった顔の私達とは対称的に、おばちゃんは愛想のいい笑顔を浮かべている。ただ、客引き口上で言っただけのようである。オレンジのライトの下で、釜飯らしきものを作っている。
「お腹へってるでしょー? サービスするよ!」
にこにこと笑うおばちゃんに、お兄ちゃんが突進していった。私もそれに続く。
「す、すいません。なんで俺達が異世界から来たって分かったんだ?」
すごい剣幕で質問するお兄ちゃんに少し驚いたおばちゃんは、一瞬黙ってから穏やかに笑った。
「ああ、ごめんね! さすがにびっくりしちゃうわよね! 新天地じゃ、異世界から人が来ることなんて、日常茶飯事なのよ。でも、あなた達からしてみたら、いきなりこんなところに来ちゃったんだから、内心ドキドキものよねー」
一同、屋台の前に並んで、おばちゃんから詳しい話を聞かせてもらうことになった。どこの世界にもおせっかいで人のいい女性がいるものだ。
先ほどのおばちゃんの台詞通り、異世界から新天地へトリップしてくる人間は多いらしい。ほとんどの人間が、牛頭トンネルを通ってくるようだ。そして何故、全く違いのわからない「新天地人」と「異世界人」を見分けられるかというと、やはりアクセサリーについている宝石でわかるのだと言う。異世界の人間は共通して「白い真珠」をつけている。
新天地に住むものにそれを持つものはいないとのことだ。宝石は、新天地に住むことが決まると支給されるもので、「白い真珠」は言うなれば「通行許可証」みたいなものだと説明してくれた。要するに私達は、首からパスポートをぶら下げている外国人と変わらないのだ。
「そう言えば、なんでこの世界は皆、宝石を身につけているんですか?」
弥生さんが一番根底にある謎をおばちゃんにぶつけると、少し困った顔をした後、静かに答えた。
「ここではね、宝石が命を守ってくれるのよ」
牛妖怪が言ったことと同じだった。一同が無言でその意図を知ろうと必死になっているのを見たおばちゃんは、屋台の上に設置されているテレビのチャンネルを変えた。
「ちょうど今からニュース番組が始まるわ。それを見ればわかるんじゃないかしら。本当はこんなニュース、見たくはないけど」
おばちゃんは、さっきまでのそこ抜けた明るさにうっすらと影を落とした。
テレビに目をやると、ちょうどニュースが始まったばかりだった。七三、メガネのステレオタイプな日本人のようなアナウンサーが、淡々と日にちと時刻を伝えた。私達が出かけてから日をまたぎ、深夜一時になっていた。
「まだ母さん達も捜索隊とかは出してないだろう。明日の夜くらいまでに戻れれば何とかなる」
お兄ちゃんが私を安心させるように言うと、再びテレビを見つめた。
「本日午後二時、沙門街裁判所死刑執行広場にて、三名の死刑が執行されました」
弥生さんの息を飲む音が聞こえた。死刑執行。日本にもそれはある。ひっかかったのはそこではない。『死刑執行広場』というワードである。ニュースは流れ作業のように一定のペースを保ちながら事件を伝えた。
「死刑執行人は、無作為に選ばれた市民五十名。死刑執行後は平常通り、記憶を無くし、日常生活に戻ったとみられます」
普段、キッチンで流れているだけだったら聞き流すような、平坦な口調。だが、内容は明らかに異常だった。テレビの中では、正気とは思えないような勢いで、市民が死刑囚と思われる人間を攻撃していた。ある者は、バットや木材を使って。ある者は、そのまま喉元に噛み付いていた。まるで悪魔だ。人間がすることじゃない。眩暈がした。気が遠くなりそうだった。
お兄ちゃんはあまりにも悲惨な映像に、訳がわからない、といった表情だし、先輩の眉間には深い皺がよっている。稲垣さんはすでに目の焦点が合っていない。失神していないのは奇跡だと言えよう。弥生さんは吐きそうになるのを必死に抑えていた。入間くんはテレビの中のアナウンサーを睨みつけていた。
「ど、どういう意味ですか! 死刑を市民に執行させる? その後『平常通り』記憶をなくすって……」
私は動揺を抑えられず、マシンガン攻撃かのごとく、おばちゃんに問いかけた。
「この世界で、宝石は命を守る絶対のものなんだよ。これを取られるとね、ここにいる権利がなくなるの」
自分のつけているアメジストのブレスレットを大切そうにいじりながら、質問を投げた私を見つめると、優しく微笑んだ。だが、その笑みですら、私にとっては不可解で、薄気味悪いものでしかなかった。
おばちゃんの言葉は、あまりにも間接的な表現でわからない。皆もうつむいてその意図を読もうと思案している。私も遅れをとらないように、頭の中を整理して、思い出すのもはばかられるようなさっきのニュースの映像を分析してみる。
『宝石がないと、ここにいる権利がなくなる』―さっきの死刑囚のいでたちは、三人三様だった。死ぬときはきちんとしたいと思ったのだろうか、スーツを着ていた人。すでに自暴自棄になっていたような、ボロボロのスエットの男。白い着物を着た女性。しかし、どんな格好をしていても、最期には三人とも服は破かれ、血に染まっていた。
泣きたい気持ちを抑えて、更に分析する。宝石。そういえば、あの三人の宝石は何だっただろうか。短い時間の映像を、何度も頭の中で再生する。ない。どの場面をとっても、あの三人は宝石を身につけていない。
「宝石をとられると、無条件で命を狙われるということですか?」
入間くんの簡潔な答えに、全員が顔を上げた。おばちゃんもこくりと頷いた。
「そうね、恐いところだよ。宝石の所持が、命の危機に直結するんだから。死刑は簡単。囚人の身につけている宝石をはずすだけだからね」
「個性があっても、根幹の部分は皆と同じでないと村八分、ということか」
「そんな甘いもんじゃないっすよ」
頭を抑えている先輩の肩を、お兄ちゃんが軽く叩いた。目は真剣だった。二人のやりとりを見つつ、入間くんが話しを戻す。
「さっきのニュースでは、市民に死刑を執行させてましたよね? あの後、執行した人間はそんなことをしておいても普通の状態でいられるんですか?」
おばちゃんはためらいもなく首を縦に振った。弥生さんが、ついに吐いた。精神がついていかなかったのだろう。私も酸素足りなくなって、何度も肺に無理やり空気を送り込んだ。
「これがまた不思議でね。標的の動きが止まると、魔法が解けたように全員が気絶するの。あとは裁判所の刑官が個人を別々に家や会社に届ける。周囲もいつ自分が執行人になるかわからないからね。本人には話さないんだよ」
「……恐ろしいな」
お兄ちゃんが呟くと、おばちゃんはさっきの明るさを取り戻した。
「でも、宝石をはずしさえしなければ襲われないし、ほとんどがいい人だから。心配することはないよ。さ、お腹もすいたんじゃない? 釜飯食べてく?」
「いや、遠慮しておきます。ありがとうございました」
先輩が礼を言うと、引きとめようとするおばちゃんを尻目に全員その場を一目散に離れた。足は自然と車の方へ向いていた。
「恐い、あの街に行きたくない!」
叫んだのは弥生さんだった。誰もが同じ気持ちだったことには違いない。ただ、あの街を通らない限り、私達は元の世界に戻れない。
「いっそのこと、車で乗り込んで、一気に通過してしまえばいいんじゃないか?」
先輩の案に大きく頷いたのは、稲垣さんだった。
「そうだよ! 一番安全じゃない」
手はすでに汗でべとべとで、服で何度も拭っている。二人に反論したのは入間くんだった。
「街は露天だらけですよ! 事故になることは目に見えてます。それに、裁判所があるくらいだから、自衛組織もあるでしょう。最悪、全員拘束されますよ」
「入間の言うことは正しいと思う」
お兄ちゃんも同意した。確かにその通りだ。車で街に入ったとしても、戦車じゃないのだからどこかにぶつかって動かなくなることだってある。大体、沙門街自体、道幅は狭い。無理のある作戦だ。
「じゃあ、やっぱり歩いて抜けるしかないのか」
運転席から溜息が聞こえた。何だか胃の辺りがむかむかした。
今の自分達には「進む」しか選択肢はない。わかっているのに、さっきのニュース映像がはじめの一歩を踏み出すことの邪魔をする。首にかかっている白真珠のネックレスがいくら私の身を守ってくれるといっても、不安で仕方がない。アクセサリーはよほどのことがないと外れはしないと思うけど、それでも万が一を考えずにはいられない。
胸から熱い何かがこみ上げてきた。さっき食べたポテトチップスだろうか。飲み込もうと試みるが、抑えられない。急いで前の座席にあった小さなゴミ箱を口に当てた。
「お、おい、大丈夫か!」
お兄ちゃんの声がぼやける。ゴミ箱にはどす黒いものがべっとり付いていた。
「……血?」
入間くんにもらったポケットティッシュで口元を拭うと、紙は真っ赤に染まった。思わず口に出すと、稲垣さんが自身の耳を塞いだ。段々息も上がってくる。なんだか調子が悪い。ただ座っているだけでもふらふらする。
「まずいな」
横で様子を見ていた入間くんが、私のおでこに手を当てた。
「額も熱い気がする」
「陸、とりあえず横になれ!」
お兄ちゃんと入間くんで協力して、座席を調節し、横になれるようにしてくれた。体を倒すと、咳と一緒に少量だがまた吐血した。
「これじゃ、街を抜けるのは難しいな」
先輩の、低い声が車内に響いた。何てことだ。私が皆の足を引っ張ってしまっている。足の感覚を確認して、声を上げた。
「私、行けます。こんな世界にずっといるわけにはいかない!」
「……医者を探そう」
お兄ちゃんだった。
「皆、頼む! 妹をこんな目に合わせた責任は、俺にある。命がかかってることは承知だ。だけど、俺は……俺は、こいつを死なせたくはないんだ!」
いつもケンカばかりだったお兄ちゃん。「ちょっと吐血したくらいでこんな妹思いになるなんて、意外と甘いな」なんて考えている自分がたまらなく嫌になる。皆自分の保身で精一杯のはずだ。なのに、無理を言って、皆に頭を下げてくれているのが嬉しい。嬉しいと思う自分にも腹が立つ。私は一体どうすればいいのだろう。ひねくれた感情をもてあましながら天井を見ると、偶然のぞき込んできた入間くんと目が合った。冷静な瞳に、すべてを見透かされた気がした。
「お願いだ、医者を探してくれ」
蚊の鳴くような声で、お兄ちゃんは皆に懇願した。いたたまれない気持ちで、胸が張り裂けそうになる。
「……いいですよ、俺は」
平然と、入間くんはその願いを聞き入れた。あまりにも自然すぎる流れが、かえって不自然だった。驚きの視線が彼に注がれていくのを、肌で感じた。
「へ?」
言いだしっぺのはずのお兄ちゃんが、きょとんとした表情で斜め向かいの入間くんを見た。
「俺は、いいですよ。だって、さっきのおばさんの話じゃ、わりと頻繁にこの世界へ迷い込む人間がいるみたいじゃないですか。それならビクビクしなくても大丈夫なんじゃないかって」
『俺は』と誇張したのは、自分の意見を他人へ強要しないための配慮だろう。この人はいとも簡単に正論をはじき出す。出会ったのはたった数時間前。なのに、何故だろう。「入間慎吾」という人間は、恐ろしいスピードで私の胸の中心部に入り込んでいた。この人を見ると、緊張する。自分の考えが、全て伝わっているのではないか。自分が今、どういう感情を抱いているのかわからないが、不思議な力がある人だと思った。
お兄ちゃんはそんな彼を躊躇なくどついた。
「くそ、お前はどこまで聖人君子なんだ」
「それなら『先輩に貸しを作って後で恩を売りたいから』とでも言えば納得しますか?」
「いけしゃあしゃあと」
お兄ちゃんの呆れた声に、前方から反応があった。
「お前ら、ほんっと相変わらずだな」
ミラー越しの先輩の顔には、うっすら笑みが浮かんでいた。
「俺も行く。『皆を守る』って言ったからには、責任とらないとな」
男三人が外へ出ると意思表明した。それから少し間を置いて、弥生さんが口を開いた。
「……陸ちゃんは、外へ出ないほうがいいよね」
横になっている私を見る。吐血しているし、ふらふらしているのは確かだが、歩けない
ほどではないはずだ。足の感覚はまだあるのだから。
「いえ、医者はいいです! 皆の足を引っ張るのは嫌だし、街を抜けましょう!」
咳が出そうになるのを我慢して主張したが、お兄ちゃんと入間くんに一蹴された。
「お前は休んでろ! 俺達がどうにかするから」
「心配はいらないから」
困った。なんでこんなタイミングで体調が悪くなるんだろう。これで自分一人の命が危
険に晒されるだけなら、まだ諦めがついたのに。皆まで結局巻き込んでしまって。
「陸ちゃん、本当のチームワークって、分かってる?」
弥生さんが優しい眼差しをくれた。
「『自分が犠牲になれば』って思ってるんだろうけど、むしろそういう考えの方が迷惑だよ。修は『陸ちゃんを助けたい』って言った。それを皆でサポートするのがチームじゃん?」
でも、と言いかけたとき、入間くんが先に口を出した。
「冷たい言い方をするけど、君を犠牲にすることが最善の策ならそうしてる。でも、今度の目標は『全員でこの世界から脱出すること』だ。君を犠牲にして元の世界に戻っても、最悪な気持ちが残るだけだろ。特に修先輩は、一生この荷を背負うことになるんだ」
厳しいが、真実だった。お兄ちゃんは間髪入れずに入間くんを殴った。
「お前、正論なら全部口に出していいと思ってるなら大間違いだぞ! 余計なことは言うな!」
「修の言うとおりだ。入間は少し反省しろ」
厳しい目で先輩も同調した。
「あたしと稲垣は残るよ。いいでしょ?」
先輩の袖を掴んで、弥生さんが心細げに言った。誰からも異論はなかった。
「弥生、悪いけど陸の面倒、見ててくれ。あと、稲垣! お前はちゃんと女二人守れよ!」
お兄ちゃんが名指しすると、今までうつむいていた稲垣さんはびくっと肩を震わせた。
「あ、う、うん……頑張る」
低く、小さい返事を聞くと、三人は車を降りた。
弥生さんが私の横に移動してきた。街が活動している音が聞こえてくる以外、車内は静かだった。
「あの、弥生さん」
沈黙を破った。気になることがあったのだ。聞くなら今しかない。
「入間くんって、いつもあんな調子なんですか?」
あまりにも唐突な質問にきょとんとした顔を見せた後、何となく納得した表情で笑った。
「ああ、確かに驚くよね。ああいうタイプって。まるでロボみたいだから。あたしもたまに『あいつ、感情あるの?』って思うことあるもん」
「そういう意味では……」
変なたずね方をしてしまったと後悔した。悪口を言ったつもりではなかったのだが、誤解されているようだ。
「恐い、っていうかさ。もっと情に厚くなった方がいいよね。ま、情ばっかの人も大変だけどね」
語尾を小さくして、頬を染めた。
「先輩のことですか?」
聞いた瞬間、「あははは」と照れ隠しの笑いが飛び出た。
「トモは皆から『甘い』って言われるけど、面倒見いいんだよ。だから現役の時はキャプテンやってたし。今じゃ逆に面倒見られてる方なんだけどね」
弥生さんは狭い車内で腕を伸ばした。空気が緩和した気がした。「話ずれちゃったね」と、
話題が入間くんのことに戻った。
「入間は一年でレギュラー入りできたってくらいだから、状況判断能力はピカイチなんだよね。ちょっと冷たいところを除けば、いいゲームメーカーだと思う。ただやっぱり性格だよね。女子ウケもいいのにさ。友達がいるのかも謎だし」
クールでミステリアスなタイプなのだろうと想像がついた。いくら冷たい態度をとっても、それすらかっこいいと判断されるお得な人。でも、正直友達はできにくいだろう。
入間くんの高校生活を思い浮かべると、何だか味気なく感じた。部活も勉強もできるのに、空虚だ。彼は何を感じて過ごしているのだろう。お兄ちゃんの後輩。それだけの関係なのに、気になる。
弥生さんは『ロボみたい』とか『感情あるの?』なんて言っていたけど、牛頭トンネルで車が暴走したとき、抱きしめてくれた彼の手は確かに温かかった。淡々とした口調と温かい手。二つのギャップは興味深かった。
「それと全く逆のタイプが、修!」
突然出た身内の名前で、ふと我に返った。
「修は熱いからね。試合中暴走しちゃって大変。ケンカっぱやいのは陸ちゃんの方がよく知ってるだろうけど、そのせいでレギュラー入りできないようなもんよ」
お兄ちゃんらしいな、と少し笑ってしまった。小さい頃はすぐ手が出たもんだから、私はケンカになるとすぐお母さんの後ろに隠れたっけ。もう十七にもなるのに成長が見られないのは問題だけど。
「でも、あんたは明らかに努力不足だよ、稲垣!」
いきなり話題を振られた稲垣さんが、こちら側を向いた。弥生さんはそのまま続ける。
「あんたさぁ、一年の時に入部してから、全くうまくならないってどういうこと? 自主練ちゃんとしてんの?」
稲垣さんは弥生さんの顔色をうかがいながら、おずおずとしゃべり出した。
「自主練はちゃんとしてるよ……。ただ、あんまり運動得意じゃないから」
「はぁ? じゃあ、なんで今運動部に入ってるのよ!」
弥生さんは稲垣さんに噛みついた。
「勧誘、断れなかったんだよ。身長高いせいで、毎日狙われてさ。仕方なく入ったのはいいけど、今度は退部しにくくなって……。生田ぁ、このこと皆に内緒にしてよ。特に修には絶対」
初めて会ってから今まで、一貫して稲垣さんの印象は変わらなかった。『情けない』。この一言に尽きる。
弥生さんは額に手を添えて、大きく溜息をついた。マネージャーも大変だ。
会話が止んだ。また咳が出始めた。相変わらず血も出る。それを弥生さんが丁寧に拭いてくれた。
しばらくすると、街の方から誰かが走ってくる音が聞こえた。体を起こして窓の外を見ると、お兄ちゃん達三人と、銀縁のメガネをかけた白衣の男性がいた。
白衣の男は加古田と名乗った。お兄ちゃん達は車を出た後、さっきの屋台のおばちゃんのところへ行き、助けを求めた。賭けだった。いくら異世界から来る人間がしょっちゅういたとしても、本当に医者を呼んでくれるか。それでもおばちゃんは世話を焼いてくれた。近所の診療所を教えてくれたのだ。幸運だった。
車の中ではちゃんとした診察ができないので、お兄ちゃんに負ぶさって診療所まで移動することになった。恥ずかしいから歩くと主張したが、皆に却下された。
車から離れて数十分。加古田医師が「ここだよ」と指差したところは、雑いビルの一階だった。メインストリートの裏にある診療所は、陰鬱な雰囲気が漂うところだった。
「さ、入って」
鍵を開けて、私達を中に入れた。
室内は意外にも広い造りになっていて、ベッドと診療机が置かれていた。奥の部屋にも寝台が三つ並んでいて、その全部に人が横になっていた。だが、診療所というわりに空気はよくない。何かが腐っている匂いがした。
「看護師さんはいないの?」
「ああ、私一人でやっているんだ」
弥生さんの問いに軽く答え、診察に入った。怪しい医者だ。三人も入院患者がいるのに、たった一人で切り盛りするのは難しいはずなのに。
男性陣は診察の間、ビルの外で待機するように言われた。稲垣さんは「見ないから、室内にいさせて」と喚いていたが、他の三人に引きずられていった。
「症状は、吐血と咳、あと熱も少しあるようだね。他は?」
体温計を渡して、口を開ける。ライトで喉奥を照らされると、また少し咳が出た。
「体がだるいです」
今度は下着を捲し上げて、聴診器を胸に当てる。
「まさか、結核だったりして」
「君、症状が出たのはこの世界に来てから?」
加古田医師が弥生さんの呟きを無視して、私に聞いた。咳も吐血も、つい今まではなかった。頷くと、難しそうな顔をした。
「結核だとしたら、ここの診療所じゃ手に負えないんだが……もしかすると」
呟きながら、机の引き出しから箱を取り出した。中には緑の笛が入っていた。そんなものを何に使うのだろうか。
説明無しで突然それを吹いた。ピィィィーッ、と耳をつんざくような高音が響いた。
「今、音聞こえた?」
「え」
あんな大きな音が聞こえないわけないじゃないか。まだ耳の中に残響が残っている。
「音なんて、聞こえなかったけど」
私の代わりに答えた弥生さんの顔を見る。「聞こえなかった」? どういうことだ?
「その様子だと、君は聞こえたみたいだね」
加古田医師は穏やかに言うと、外にいた男性陣を呼んだ。全員が揃うと、イスに座ったまま詳しい説明を始めた。
「彼女は病気じゃない。新天地の空気に体が対応しきれていないんだ。この笛の音は、君たちの世界でないと聞こえないものなんだが、それがまだ聞こえるってことは、新天地に体が馴染んでないということになる。他の皆もこういった症状は出ていないかい?」
誰もが首を横に振った。先輩が代表で「出てません」と答えた。
「彼女は次第に治るだろう。動いても問題はないよ」
お兄ちゃんは私の頭をくしゃりと撫でた。久々のことだったので、心がこそばゆかった。
「ただ、ずっと症状が続いてもきついだろうから、頓服みたいなのがあった方がいいね」
眉間にしわをよせ、ファイルから一枚のプリントを取り出した。
「これが頓服の代わりになるんだが、今診療所に置いてなくてね。取ってきて欲しいんだ」
上には走り書きで「空気に馴染めない異世界人の頓服として使える」と書かれ、ナツグ
ミの写真が載っていた。ナツグミとは、グミ科の植物で、赤色の実をつける。うちの近所
にも植えてあるので知っていた。
「でも、ナツグミの実って、夏になるものじゃないんですか?」
お兄ちゃんが心配げにプリントの写真を凝視した。それを加古田医師はやんわりと否定
した。
「確かに君達の世界ではね。でもここでは一年中なっているんだよ。だけど、生えている場所がちょっと大変なところでね」
言葉を濁した。何でも、路地裏を抜けた先の奥にある林にナツグミの木は生えているらしいのだが、ジャングルのように草木が生い茂っているため、新天地の住民はあまり近寄らないとのことだ。
「異世界から来る人間は多いんだけど、症状が出るのは久々なんだ。だから頓服のストックを切らしてしまっていてね」
苦笑いを浮かべる加古田医師に、入間くんが挙手して質問を投げかけた。
「加古田さんは随分異世界……、俺達がいた世界のことに詳しいんですね」
笑顔が一瞬引きつった。が、メガネのブリッジを押し上げると、さっきと同じ温厚そうな表情に戻った。
「私は趣味で異世界研究もしていてね。自分で言うのもなんだけど、その筋では結構有名なんだよ。沙門街の学会では胡散臭がられているけど」
そそくさと、先ほどのプリントをファイルにしまい、全員の顔を見た。
「さて、ナツグミの実を取りに行くかどうかは君たちに任せるよ。できれば手に入れておいた方がいいとは思うけど。馬頭トンネルを目指すなら、体調を万全にしておいた方が精神的にも安心だろう」
お兄ちゃんはそれに同意した。入間くん、先輩も頷いた。私としては、リスキーすぎると思ったのだが、お兄ちゃんは頑として譲らなかった。
「陸はここで休ませてもらえよ。いいですか?」
「いいけど……」
そう言いかけた時、奥の部屋に入った稲垣さんが大きな悲鳴をあげた。
「どうした?」
一同、彼が腰をぬかしているところへ移動した。
「あ、あ、あれ……」
寝台の上を恐る恐る指差す。その先に横になっていたのは入院患者ではなく、腐敗が進んだ人間の死体だった。体には蝿が集り、ウジ虫もわいていた。
「驚くのも無理ないか」
頭を掻きながら、一言。それだけの反応だった。加古田医師は死体を寝かせている理由を話そうとはしなかった。
「陸、皆、逃げるぞ!」
この医者は胡散臭い。もしかしたら、私達もあの死体のようになってしまうのではないか。全員が急いで出口に向った。通路にいた怪しげな医者は、私達を止めようともしなかった。彼の胸に怪しく輝いていた黒真珠が、妙に印象的だった。
猛ダッシュで路地を抜け、林の入り口に着いた。だるい体で走ったのはきつかったが、しょうがない。ここで甘えるわけにはいかない。乱れた呼吸を整える。
「あの死体はなんだったんだ」
先輩の呟きを聞き逃さなかったお兄ちゃんが、頭を左右に振った。
「考えるだけ無駄っすよ。異世界なんだから、常識が通用するはずがない」
「それより、さっきのナツグミのこと、本当の話なのかな。何だか全部信じられなくなってきた」
道にしゃがみ込んでいる弥生さんが、誰にともなく言った。誰もが疑心暗鬼に陥っていた。この世界で信じられる人間は、ここにいるメンバー以外誰もいない。街に戻れば死体を平然と寝台に置いているような人間が待っている。
「車に戻るとしても、さっきの路地を通らないといけないよね……。なんでこっちに逃げてきちゃったんだろう」
稲垣さんがうなだれた。先頭を走っていたのは彼だ。きっと無意識に人通りの無いほうへと走った結果、この林についてしまったのだろう。だからといって、稲垣さんを責める者はいなかった。
「あの医者はこの林に街の人間は近づかないって言ってましたよね。うまく行けば、隠れ家にできるかもしれない」
入間くんの提案に、お兄ちゃんは反発した。
「冗談だろ? そんな危険な橋を渡れってのか? それに、隠れてる場合じゃない。さっさと街を通り抜けて、馬頭トンネルとやらに向おうぜ」
「……今、街で何が起きても冷静に行動できる人、いますか?」
入間くんは全員を見た。数分待ってみても手を挙げる人間はいなかった。宝石がなければ襲われる。呼んできた医者は腐乱死体を持っていた。発狂しそうな心を何とか落ち着かせるだけで精一杯だ。次何か起きたら、錯乱する。すでにギリギリの状態だった。
お兄ちゃんは悔しそうに入間くんの方を向いた。
「『冷静になれ』ってことか。お前の言うとおり、今街に出るのはまずいかもな」
「ともかく、林の中で休める場所を探して休憩しましょう」
足取り重く林の中へ進む覚悟を決めるしかなかった。
街がネオンサインでおかしくなりそうなほど明るかったのに対し、林の中は真っ暗だった。だが、一本道を進んでいくうちに少しずつ目が慣れてきた気がした。土色の空の手前に、黒っぽい木が枝を伸ばしている。上を向いて歩いていたら、後ろのお兄ちゃんに「ちゃんと歩かないとこけるぞ」と注意された。
数分歩くと開けた場所に出た。その周りは私の身長くらいの見たこともない植物が生い茂っていて、樹海のようだった。
私達はその場に腰を下ろした。耳を澄ますと、ジャングルから不気味な声が聞こえる。生暖かい風が首元をかすめた。気持ちが悪かった。
「咳は止まった?」
心配してくれた入間くんに、「はい」と短く返事をした。体調はさっきに比べたらマシだ。あの医者の言うことが正しいとするなら、空気に慣れたということだろう。
「さて、これからどうするかだ」
先輩が口火を切った。全員身を乗り出す。
「林を通って馬頭トンネルの方へ出れないでしょうか。さっき入り口から見たら、ちょう
ど林は街の向こう側まで続いているみたいでしたけど」
「だから、お前はなんでそういう無茶な提案ばっかり出すんだ!」
入間くんの意見に、気持ちいいほど跳ね返った反応を示すお兄ちゃんを、身内が故に恥
ずかしく感じた。そんな二人の様子を見て、緊張の糸が切れた弥生さんがふきだした。
「本当、修は入間の言うことに耳をかさないよね。後輩の意見くらい聞きなよ」
「じゃ、弥生は入間の案に賛成なのか? 入間はこの周りのジャングルみたいなところを歩くって言ってるんだぜ?」
うっ、と小さい声を上げた。路地から林の付近は獣道みたいになっていたおかげで、ここまで一本の道をのんきに歩くだけで来られたが、今度は道なき道を進まなくてはならない。
目的地まで、どのようなルートを使えば「安全に」たどりつけるのだろうか。この問題に、答えはない。沙門街を堂々と通っても、荒れたジャングルを通っても、百パーセント安全とは言えない。どちらも危険値は未知数だ。
嫌な雰囲気が漂った。お兄ちゃんはキレる寸前。弥生さんはお兄ちゃんの顔色をうかがっている。入間くんは自分の意見を通す気だ。稲垣さんは不気味な鳴き声にいちいち恐がっている。私は、皆の様子を観察することでしか冷静さを保てない。
「しっかし、皆動いたよなぁ。喉渇かねぇ?」
場の空気を一切無視して、先輩が大声を出した。
「先輩、声でかいっ!」
お兄ちゃんが慌てて先輩の口を押さえる。だけどそれすらいとわず続ける。
「いっそのこと、雨でも降らないかねぇ。喉も潤うし。そんで洪水になって、俺達をそのまま馬頭トンネルまで流してくれれば一番安全だろ!」
「それ、安全じゃないです」
「トモ、不謹慎なこと言わないでよ!」
入間くんと弥生さんがつかさず突っ込む。
「でも、喉は渇いたかも……」
稲垣さんが呟く。そういえば、ファミレスを出てから何も飲んでいない。こんなことになるなら、自販機にでも寄ってくればよかった。今更、些細なことを後悔した。皆同じことを考えたのか、溜息がいくつか聞こえた。
「なぁ、昔、『明日天気になあれ』ってやらなかったか? 靴飛ばして、表側なら晴れで裏だと雨」
先輩はおもむろに立ち上がり、スニーカーのかかとを踏んだ。
「よし、ここは俺が雨を降らしてしんぜようじゃあないか」
「無理ありすぎっすよ」
完全に呆れ口調のお兄ちゃん。
「今はそんな場合じゃないです!」
あくまで真面目な入間くん。
「また始まった、トモの悪ふざけ」
弥生さんはあきらめモードだ。
稲垣さんは、先輩の様子をじっと見ている。
脈絡のない発想。意味のない行動。でも、雰囲気が一気に変わった。先輩のペースだ。私は何故、この人がキャプテンを務められたのか分かった気がした。
「いくぞー、あーした天気になあれ!」
皆の意見も聞かず、右足のスニーカーを空に放った。黒地に土がついたそれは宙を舞い、落ちた。裏側だ。
「第一、これは明日の天気を占うものじゃないですか。今すぐ雨なんて降りませんよ。大体こんなのは一種の遊びで……」
真面目人間入間くんが講釈をたれはじめた時だった。何か冷たいものが私の頬を掠めた。それは徐々に大粒になり、まばらなテンポで体に降り注いだ。
「……マジかよ」
思わず入間くんは素の言葉に戻った。
「ほらな!」
腰に手を当ててふんぞり返る先輩だったが、雨脚はどんどん強まり、洒落にならないくらいの大雨になった。空はなおもいそがしく、今度はゴロゴロと雷の準備をしている。
「ちょっと、さすがにこれはひどいよ! どこか雨宿りできる場所を探そう!」
弥生さんは着ていたピンクのカーディガンを頭に被り、辺りを見回した。私も一緒に周囲を見渡す。右手にある不自然な岩が目に止まった。もしかして、あそこは洞窟のようになっているのではないだろうか。
「あそこの岩、動かせないですか!」
私は叫んだ。稲垣さん以外の男性陣が、俊敏に動く。
「よし、『せーの』で左に動かすぞ」
先輩の指示で、お兄ちゃんと入間くんが岩に手をかける。
「せー……」
最後に先輩が掛け声をかけようと岩に手を添えた時、岩は大きな音を立てて砕け散った。
「あれ?」
全員が呆気に取られる。一体どういうことだ? そんなことを考えるまもなく、災難は次から次へと続く。
「やっ! な、何これぇぇ!」
弥生さんの甲高い悲鳴がこだました。私が振り向くと、大量の大蛇が砕けた岩の隙間からにょろにょろと這い出してきている。
「ひっ!」
さすがに私も声を上擦らせた。
「皆、ともかく撤退だ!」
大雨をしのぐよりもこの蛇地獄から抜け出さなくては。皆散り散りの方向へ走り出す。
大蛇達は、真っ直ぐと街の方へ向って行く。私は大雨に打たれながら、草陰に身を潜め、蛇達がこちらに来ないか、冷や汗を拭いつつその大移動の様子を凝視していた。
――しばらく経っただろうか。大蛇達の群れはおおよそいなくなり、誰からともなくさっ
きの砕けた岩の前へ集まった。
皆の顔を確認する。お兄ちゃん、弥生さん、先輩、入間くん。全員が青ざめた。稲垣さんがいない。
「おい、稲垣はどっちに逃げた?」
「あたしは自分が逃げるので精一杯で…入間、見てない?」
「すいません、あまりに咄嗟の出来事だったので」
少しのことには動じないと思っていた入間くんも、いきなり岩が割れ、そこから大蛇の大群が出てきたことには焦ったようだ。質問を投げかけた先輩も、それを振った弥生さんも、口には出さずとも仕方ない、といった表情を浮かべた。
「しょうがない、二手に分かれて探すか」
ずぶ濡れになった服の裾を軽く搾りながら、お兄ちゃんが提案した。もちろん、誰も異存はなかった。新天地に来てしまった六人は、最早運命共同体なのだ。
「おーい、稲垣ー!」
お兄ちゃんが声を上げた時、上の方でがさっ、と音がした。一斉に身構える。次は何が起こるのだ。
「ここだよぅ」
聞き覚えのある声。上を見上げると、三メートルはあるだろう木の上に、稲垣さんはいた。
「ちょっと、稲垣! 何でそんなところに!」
驚きの声を上げる弥生さん。そう思うのも当然だ。何せ一瞬で登れるような木ではない。足場になるようなところもないし、咄嗟にしがみつけるような胴回りの木でもない。
「と、とりあえず降りろ! 話はそれからだ!」
「どうやって降りればいいのか分からないよぅ」
情けない声が上から降ってきた。かといって、こちらから助ける術はない。ただでさえ登れないような木だし、登れたとしてもわりと大柄な稲垣さんを抱きかかえて降りるなんて芸当は、ここにいる誰もできないことは明白だ。
「仕方ない、皆の上着でネットを作って、飛び降りてもらうしかありません」
入間くんはそう言うと、自分のパーカーを脱いだ。服でネットなんて無理がありすぎるが、この方法しかない。男性陣は半裸になって、私と弥生さんは上着を脱いでネットを作った。こんなネットともいえないようなものじゃ、確実に怪我をする。それでも稲垣さんが降りてこれなかったら元も子もない。
「稲垣! ここに飛び降りろ!」
先輩が呼びかけるが、上からの返答はなし。
「ここで多少の怪我をしてでも元の世界に帰るか、一生この世界の木の上で暮らすか。稲垣先輩、選ぶのはあなたですよ!」
ここで安易に「大丈夫」と声をかけないところが入間くんらしい。
「ばぁか、さっさと降りて来い! こんなところでくたばりたいのか?」
お兄ちゃんが怒声を上げると、稲垣さんから小さく返事が聞こえた。
「……わかった。飛び下りる」
震えた声ではあるがとうとう腹を決めたのか、稲垣さんが服でできたネットを見た。
「行くよ!」
上からの合図に、下にいる全員に緊張が走る。私は息を止めた。上から稲垣さんが飛び降りる。スローモーションに見えた。まずい、ネットと落ちてくる位置がずれている。
一同が急いでそこへ移動しようとする。―間に合わない! そう思った。が、稲垣さんは体をうまく丸め、まるで猫が塀から飛び降りるような動作で、きれいに地面へ着地した。
唖然とした。さっき、車内で「運動は得意じゃない」と言っていた稲垣さんが、あんなに高い木からきれいに二回転して地面に降り立つなんて。
「お、おい、稲垣! 大丈夫なのか?」
「は、い、何とか……」
うまく飛び下りられたとはいえ、まだ恐怖を拭いきれていない顔の稲垣さんに、先輩が心配そうに近づいた。
お兄ちゃんと入間くんもそれに寄り添う。
雨はまだ止む気配がない。砕けた岩の奥は、やはり少し雨宿りできそうな洞窟になっていた。蛇がいないことを調べてから、私達はそこへ避難することにした。
時間を知りたくて携帯を取り出した。圏外。異世界の電波はさすがに受信できないようだ。
「ちょっと寒くなってきたね」
メイクが薄っすら落ち、顔色が余計悪く見える弥生さんが膝を抱えながら呟いた。
服は脱げるところまで脱いで、木の枝を土壁に刺した簡易フックに吊るしていた。洞窟内は湿気が多く、乾く見込みはない。火の気が全くないのは痛い。
「先輩、ライターは?」
お兄ちゃんは先輩の方へ振り向いた。そういえば、トンネルに入る前、線香に火をつけていた。言われて、思い出したようにポケットをまさぐるが、ライターは出てこなかった。
「しまった。車の中だ」
「何で手ぶらで降りてきちゃったんだろ」
先輩と弥生さんがうなだれる。洞窟内は冷たい空気に包まれた。雨は依然と大きな音を立てて地面へ降り続いている。
「ひとまず、雨がやむまで待つしかないですね」
「マジかよ」
お兄ちゃんは不満げだが、今の天候じゃどうにも動けない。どうしようもない苛立ちと焦りが、頭をもたげてきた。誰もが視線を合わそうとしないところを見ると、その気持ちは私だけではなさそうだ。かといって、また仲間割れをするわけにはいかない。口を開けば間違いなく弱音や愚痴になる。嘆いても現状は変わらない。ただ黙るしかなかった。
数分なのか、何時間経ったのか分からないが、雨音だけが聞こえる時間が流れた。それを断ち切ったのが先輩だった。
「なぁ、昔、木の棒で火を起こしてたじゃん! あれやってみねぇ? どうせ止むまで外出られないし」
「でも、ここじゃ湿気が多すぎっすよ……」
もう返答することすら面倒くさそうに、お兄ちゃんは言い放ったが、意外にも入間くんが先輩の肩を持った。
「いや、修先輩。何もしていない方が精神的にまずいと思います。ここは無理なことでも、何かやって気を紛らわせていたほうがいいんじゃないですか」
真っ当な意見だが、火はつかないと断言している入間くんに若干顔を引きつらせた先輩は、足元に落ちていた枝と、わりと太い木の枝を持ってくると早速擦り合わせ始めた。
「やってみないとわからないだろ~。入間、あとでギャフンと言わせてやるよ! それ、火ぃつけ~!」
誰も期待なんてしていなかった。こんな湿った場所で、濡れた小枝を擦り合わせたって無駄なだけだ。私は目を外に逸らした。その時、視界にオレンジ色の光が差し込んだ。
「え?」
先輩を見ると、木が燃えていた。それも小さい炎ではなく、かなり大きなものだ。
「ど、どういうこと?」
弥生さんが目を白黒させている。お兄ちゃんも稲垣さんも、当の本人の先輩も驚いて腰を抜かしている。
「まさか、これが例の能力?」
入間くんの呟きにはっ、とした。
そういえばあの牛妖怪が言っていた。「異世界の人間は新天地で必ず『能力』を発揮する」
と。
「な、何の話?」
どもりながらも、稲垣さんも会話に加わろうと必死だ。弥生さんも入間くんをじっと見つめる。そういえば、二人には説明していなかったのだ。何せ、この能力は一人だけ「ハズレ」が出るのだ。
お兄ちゃんがこの話を知っている人間に目配せした。先輩も、入間くんも頷いた。それを認めると、二人に能力の説明を始めた。二人に黙っていた理由――ハズレがあるということも含めて。
話が終わると、弥生さんは怒った。
「確かにあたし達、気を失ったりしてて情けなかったけど、そういう話はちゃんとしてよ! 知らないほうが恐いことだってあるんだよ」
「そ、そうだよ……いや、でも僕は知らなかった方がよかったかも。自分がハズレだったとしたら、その『能力』で自分の身を守れないんだから」
稲垣さんの小さな嘆きに、一同口を閉じた。彼の言う通りだ。もし、自分に「能力」がなかったら。この真珠があれば、人に襲われないというけれど、それ以外にもこの世界は危険がいっぱいだ。
「皆、考え込むなって。言っただろ、俺が皆を守るって」
炎の前で笑顔を作る先輩。不安げな私達とは正反対に、その表情には自信がうかがえた。
「安心しろ。俺、多分その『能力』ってヤツ、ある人間だわ」
そういうと、パチンと指を鳴らした。
「トモ、何したの?」
急に炎が消え真っ暗になった洞窟に、弥生さんの声が響いた。先輩が再び指を鳴らすと、またオレンジ色の火が点る。
「で、俺の勘が正しければ、こんなこともできるはず!」
先輩は立ち上がり、洞窟の外で両手を広げて叫んだ。
「雨よ、止め~!」
すると、さっきまでの大雨が嘘のように小雨へ変わっていく。しばらくして外に出てみると、雨は完全に止んでいた。星はないが、来た時と同じ土色の空が広がっていた。先輩は自分の予想が当たり、にやりと口の端をあげた。
先輩はそれから他にも小さい竜巻を起こしたり、うまく力を応用して、「簡易ドライヤー風」を作り出して服を乾かしてくれた。
「つまり、自然の力……火や水、風なんかを操れる力ってことなのか? すげぇ!」
手ばなしで驚くお兄ちゃんを尻目に、入間くんは何か考え込んでいた。
「どうしたの?」
私が話しかけると、入間くんは落ちていた小石を手にした。
「稲垣先輩!」
呼ぶと同時に、小石を思いっきり投げつける。稲垣さんは驚きのあまり飛び上がった。飛び上がったのだが。
「な、な、何するんだよ、入間!」
また木の上から声が聞こえる。稲垣さんだ。大蛇の群れが出てきた時と全く同じ状況である。
「おい、入間、説明しろよ!」
迫り寄るお兄ちゃんに落ち着くように言うと、入間くんは稲垣さんに飛び降りるように指示した。
今度はネットも用意していない。稲垣さんはためらったが、入間くんが強い口調で言うと目をつぶって飛び下りた。
今度は三回転して、きれいに着地。入間くん以外の全員が目をぱちくりさせた。稲垣さんも自分の動作が信じられないという顔をしている。
「佐々木先輩だけじゃない。稲垣先輩も能力を得たってことですよ」
あまりにも簡潔な説明で、逆に理解しかねた。
稲垣さんはバスケ部に所属しているが、運動神経はあまり良くない。だが、何故いきなりこんな高さの木に垂直跳びで登れたか。そして、怪我ひとつなく猫のように下りることができたのか。
「稲垣先輩は、常人離れした『運動神経』を手に入れたんじゃないでしょうか」
結論を突きつけられた張本人は、複雑そうな顔をした。
「運動神経? そんな能力、必要かな」
「全速力で逃げることができる、とかか?」
「お兄ちゃん!」
私が叱責してもお兄ちゃんはどこ吹く風で話題をすりかえ、入間くんに自分の考えを提案した。
「な、結構すごい能力を発揮した人間が二人もいるんだぜ? これなら街を通っても大丈夫じゃないか? むしろこのジャングル進む方がよっぽど危ないぞ。また大蛇が出てきたりするかもしれないし」
先輩はお兄ちゃんの意見に賛同した。
「任せろ、入間。もし襲われたら、俺が街に火を放ってやる。稲垣もいいよな」
「あ、う、はい……」
なんだか煮え切らない返事ではあるが、稲垣さんも賛成側に回るようだ。だけど、稲垣さんの能力は、基本的に運動神経が良くなるというものなので、誰かを助けたり、敵に攻撃したりといったことができるのかどうか謎である。決して口には出さないが、最悪稲垣さん一人で逃げてしまうことがあるのではないか不安だ。
とはいえ、三対一で街側を行こうという意見が多い中、入間くんは私と弥生さんにも自分の考えを述べるように促した。
「二人は能力もないし、女の子を危険な目にはあわせたくない」
「何よそれ。女は足手まといってこと?」
入間くんの揚げ足を取る弥生さんを制し、私は自分の意見を正直に言った。
「街は危ないけど、どっちにしろ危険なことに変わらないなら、せめて明るい道の方が安心できる」
入間くんに反対するのには気が引けた。今までの発言をとっても、彼は常に冷静に、正確な判断をしている。ジャングルの道なき道を歩く方が安全なのかもしれない。それでも、今の私に暗闇の道を歩く勇気はない。「勇気がない」と意思表示することが大事なような気がして、素直にその心情を伝えた。
弥生さんも私の話に同調した。やっぱり恐いものは恐い。彼女は、そんな弱音を見せまいと、強がりを言ったり人につっかかったりして自分の本心を隠そうとしていたのだ。
入間くんは私達二人の意見を聞いて、静かに立ち上がった。
「修先輩、街から行きましょう」
「やっと折れたか、この堅物!」
お兄ちゃんが入間くんにとび蹴りを食らわせた。腰を思いっきり打っても、平然としている入間くんを見た弥生さんが、こっそり「あいつやっぱりロボだよ」と耳打ちしてくる。
私達は先輩が乾かしてくれた服を着ると、街から馬頭トンネルを目指すことにした。街から行くか、ジャングルから行くか。この二択に正解はない。
さっきは真っ暗だった獣道も、今は先輩が小枝に火をつけて持ち歩いているので、幾分歩きやすかった。加古田医師の診療所付近の路地をこっそりと通る。怪しい感じの人も多く、ちらちらとこちらを見る輩もいたが、狙われたり襲われたりといったことはなく、大通りにたどり着いた。
誰か分からない溜息が聞こえた。ここがいくら危ない街であったとしても、やっぱり明かりがあるだけで安心する。
「ま、普通の繁華街くらいの危なさって思ってれば大丈夫じゃない?」
先輩が笑った。元気付けてくれたつもりだとは思うけど、こんな派手な繁華街は日本に少ない。中学を卒業したばかりで、地元からあまり離れたことのない私にとっては、どちらにしろ「何が起こるかわからない」街である。
私達は、屋台や露天の隙間を抜けるため、一列になった。先頭は先輩で次にお兄ちゃん、私、弥生さん、稲垣さんと続き、最後尾に入間くんがいる。本当は能力がある稲垣さんが一番後ろに来るべきなのだが、「どうしても恐いから」という申し出を受け、入間くんがその役を自らかってくれたのだった。
街の喧騒を聞きながら、ひたすら前進していく。私はお兄ちゃんの後ろを追いかけるので精一杯だったので、弥生さんに肩を掴まれるまで気がつかなかった。
「陸ちゃん、前に伝えて! 後ろからすごい人が追ってきてるって! 早く走って!」
後ろを振り返ると、老若男女様々な人間が集まり迫ってきている。入間くんも稲垣さんも小走りだ。
「お兄ちゃん! 人! 後ろに! いっぱい!」
「あ?」
カタコトの日本語にお兄ちゃんも振り返る。察した先輩もこちらを見た。
「やべ、逃げるぞ!」
先輩の合図で一斉に走り出すと、同時に集団も追いかけてきた。
「待って、お嬢さん!」
「そこのピンクの服の子!」
後ろから謎の黄色い声が聞こえてくる。ピンクの服……弥生さんか?
「あ、あたし、何も知らないよ!」
「ともかく逃げるぞ!」
先輩は私の後ろまで下がり、弥生さんを抱え上げた。稲垣さんだけ一人身軽に、露天の屋根を駆け上り、忍者のように逃げていた。やっぱりあの能力は逃げるためのものだ。今更ながら、お兄ちゃんの嫌味に同意した。
大通りから、診療所があったところより一本先の路地に入る。そこはさっきの路地とは違い、両サイドのきれいな高いビルが建っていた。ありがたいことに人通りもない。いくつかの窓から光が漏れていることから察するに、ここはビジネス街で、残業している人が数人いるくらいだというところだろうか。
「何とか撒いたみたいだな」
先輩がお姫様抱っこしていた弥生さんを、ゆっくり地面へ下ろした。
「トモ、ありがと」
「しかし、なんで弥生が追われてたんだ? しかも突然すぎるだろ」
お兄ちゃんと先輩が頭を捻っているとき、はっきりとした女の声が聞こえた。
「『沙門街に謎の美少女光臨! 異世界からのニュー・アイドル!』見出しはこれで決まりかしら?」
ヒールの音が響いた。私達が辺りを見回すと、大きなビルの一つから、パンツスーツの
女性が現れた。
反射的に先輩とお兄ちゃん、入間くんが弥生さんと私をかばった。
「あら、心配しないで。私はこういう者です」
そう言って、首から下げたⅠDカードを差し出した。先輩が代表でそれを見に女性の近くへ寄る。
「沙門街新聞の今村さんが、俺達に何か用か?」
今村という女性は、にこやかな笑みを浮かべこちらへ近づいてくる。けん制したのは入間くんだった。
「それ以上、こちらへ近寄らないでください。さもないと」
「あんたに火を放つ」
先輩も今村さんをじっと睨みつけている。二人の剣幕にも動じず、今村さんは歩む足を止めようとしない。
「マジで火をつけるぞ!」
先輩だけではない。全員が焦る。そんな様子さえ楽しんでいるかのように、にこにことこちらへ来る。鼓動が早くなる。
先輩が指を鳴らす寸前、今村さんは止まった。
「そんなに恐がらないで。あなた達が新天地に来てどんな目にあったのかは知らないけど、その真珠さえつけていれば安全なのよ?」
腕を組み、溜息をつく。まるでこちらが駄々をこねているような気がしてくる。かといって「はいそうですか」と安易に近寄ろうとは思わない。
硬直した空気の中、今村は黙って弥生さんを指差した。
「あ、あたし?」
「さっきうちの社に連絡があったわ。街の人全員を惑わすほどの美少女が現れたって。それを取材したくてね」
全員が弥生さんに注目する。弥生さんは確かに可愛いと思うが、街中の人を惑わすほどの美少女かと聞かれたら、少し困ってしまうというのが本音だ。お兄ちゃんと稲垣さんも微妙な顔をしている。先輩は自分の彼女という手前もあって、意見しにくい状況だ。当の本人もどう受け止めればいいのかわからないのではないだろうか。何とも返答しにくい質問をされてしまったような気がする。
「今村さん、聞いてもいいですか」
入間くんだった。今村はええ、と軽く返事をした。
「取材というのは、アイドルに対するインタビューのようなものですか。それとも」
今村の目をじっと見つめ、一呼吸入れる。何を聞く気なのだろうか。緊張が走った。
「異世界から来た人間の『能力』についての取材でしょうか」
「入間?」
先輩が入間くんに問いかける。私は話が全く飲み込めなかった。キーワードを頭の中で整理する。弥生さんが美少女で、街中の人を惑わせて……で、『能力』? そうか。
「弥生さんは人を惑わす能力があるんだ」
私が無意識に口にした答えに、本人が反応した。
「え……あたしに、能力?」
「そういうことか。入間、わかりやすく言えよ」
お兄ちゃんがぼやくのが聞こえた。稲垣さんも合点が行ったようだ。
先輩が今村さんを鬼のような形相で見た後、彼女のブラウスの襟首を掴んだ。
「ふざけんな! 弥生はパンダじゃねぇ! 俺達もだ! お前らに取材なんぞされてたまるか!」
すごい剣幕で襲いかかる先輩に怯えもせずに、今村さんは彼の目を見て真剣に言った。
「沙門街新聞は基本的にこの街で起こっていることを伝えるマスコミよ。彼女の『能力』。それは確かに興味深い。でも、私達の仕事は、街の人間に冷静な判断を下せるように情報を提供すること。つまり弥生さんの魅力は彼女の『能力である』。これを伝えないと、街の人たちは自分が何で彼女の虜になってしまうのかわからなくて社会が機能しなくなるわ」
至極的を射た意見だった。先輩はゆっくりと彼女の襟首を離した。
「だけど、俺達はまだ、この街の人間を信用していないんだからな」
吐き捨てるような台詞。だが、それには私も同感だった。言葉は通じるけれど、全く知らない異国に突然飛ばされてきたようなものだ。不安であることは変わらない。
「あなた達が信用しようがしまいが、私には仕事があるの。そのためにはどうしてもあなた達の力を貸して欲しい……いえ、話だけでも聞かせて欲しい。これだけでもダメかしら?」
先輩の顔は、歪んでいた。私達は早く馬頭トンネルに向いたい。でも、弥生さんの能力がある限り、そこへ辿り着くまで大きな試練を乗越えなければならなくなる。後ろから追いかけてくる人間を払いのけるだけならまだしも、捕まりでもしたらどうなることになるか想像できない。
「あの、あたしが取材を受ければ、少しは街の人も冷静になってくれると思いますか? その、大勢で追いかけたりとか、そういうことはなくなりますか?」
上擦りながらも必死な口調で今村さんに訊ねる弥生さん。
「ええ、ある程度は弁えると思うわ」
しばらく人差指を折り曲げて口元に当て、考え込んでいた弥生さんだが、とうとう答えを自ら出した。
「あたし、取材受けます」
「なんだって?」
再び怒りに満ちた顔に戻った先輩に、弥生さんが優しく諭す。
「もし捕まって危険な目に合うのなら、最初から予防線を張っておいたほうがいいと思う。……トモは反対だと思うだろうけど」
「当たり前だ!」
先輩の声がほとんど人のいないオフィス街に響いた。それを抑えたのが入間くんだった。
「先輩、弥生さんのいうことも確かです。大勢に追われるとなると、余計行動しにくくなる。それに異世界から来る人間が多いと知っているなら、馬頭トンネルに向うことも想定されてしまう。そしたら厄介です」
お兄ちゃんも今回は入間くんの肩を持つ。
「この女の全てを信用する気はないよ。だけど、現状打破するにはこれしかないんじゃないっすか?」
私はあえて何も言わなかった。先輩も納得してくれると信じたかった。
憤りを湛えた眼差しを今村さんに向けた後、大きく溜息をついて弥生さんの肩を引き寄せると、先輩は言い切った。
「わかった。取材は受ける。その代わり俺達も一緒だ。文句はないよな」
「もちろんよ」
笑顔の下に何が隠れているかわからない今村さんの後ろを歩き、私達は沙門街新聞本社に乗り込んだ。
――どのぐらい気絶していたのだろう。目が覚めると、何事もなかったかのように車の中にいた。
「起きた?」
入間くんが、中腰になって前方の座席からこちらに向っていた。
「……他の皆は?」
「大丈夫。気絶してるだけみたいだ」
彼は冷静だった。一番に目覚めて、全員の生存を確認していたのだ。
勇気を振り絞って、窓の外を見てみる。真っ赤な手の跡がガラスにべっとりとついていた。手の跡の間からのぞくと、暗いながらも雑木林にいることがわかった。
「君も皆を起こすの、手伝って」
私も腰をあげようとしたが、動けなかった。
「だ、だめ……みたい」
自分でも驚くくらいの情けない声が出た。
まだ、あの恐怖が体に残っている。車内の寒さ。バン、バン、と叩く音。車の振動。夢だったのだろうか。いや、あんなにリアルな夢があるわけない。それにメンバー全員が気絶しているという現実。人差指に思いっきり親指の爪痕をつけた。痛い。あの悪夢のような出来事は、本当にあったのだ。
入間くんは私にもう少し休むように言うと、次々とメンバーを起こした。お兄ちゃんと先輩はわりと早く気がついたが、私と同じくなかなか体を動かすことができないでいた。弥生さんが目覚める頃に、やっと立ち上がれるようになったくらいだ。稲垣さんは相変わらず気絶したまま。
「先輩、ここって、トンネルの出口かな」
お兄ちゃんが窓を覗きながら、前に座っている先輩に声をかけた。
「出ないと分からんなぁ、ちょっと見てくるか」
あっさり言うと、車のロックを解除した。だが、ドアを開ける気配はない。
「……出ないんすか」
「……修も来いよ」
二人は座席越しにお互いを見た。お兄ちゃんは、投げ出されていたカメラを手に取ると、ドアをゆっくりと開けた。
私達、車内に残されたメンバーは、二人が周囲をうかがっている姿を窓から固唾を呑んで見つめていた。急に光がガラスに反射した。先輩が懐中電灯をつけたらしい。光が車を一周すると、二人は車の中に戻ってきた。
バタン、とドアが閉まる音で、やっと稲垣さんは目覚めた。
「先輩! 修! 一体どうなったの、僕らは!」
目覚めたばかりで多少錯乱しているのだろうか。矢継ぎ早に質問を繰り出す。体が小刻みに震えているところを見ると、この人も先ほどの出来事の恐怖が染み渡っているようだ。
先輩は、ゆっくりと口を開いた。
「皆、落ち着いて聞け。今、修と車の周りを見たが……」
全員が唾を飲み込む。一拍置いて、言った。
「ここは牛頭トンネルの出口じゃない」
その意味を、私は理解できなかった。
「どういうことですか」
冷静に質問したのは、やっぱり入間くん。答えたのはお兄ちゃんだった。
「ざっと見回したところ、どっかの林の中みたいだ。トンネルらしきものはなかった」
お兄ちゃんの答えを聞いた弥生さんが、助手席のドアを開けて、外に飛び出した。稲垣さん以外の全員が、それに続いて車から降りた。
「ちょっと、どういうこと?」
車は細い木々に囲まれ、右側には川が流れている。左側には湖、というより沼のような大きな水溜りがあった。
空を見上げる。暗闇であることは変わらないが、雨は止んでいる。私は違和感を持った。空の色だ。雨があがった後は、いくら夜で暗闇だといっても空が灰色であるとわかるはずだ。だけど、今私達がいる場所の空は、灰色というより土色に見えるのだ。
「考えすぎじゃないか?」
お兄ちゃんに言うと、簡単にそう返されてしまったが、入間くんは何やら考えこんでいた。
「ねぇ、それよりあれを見て!」
弥生さんが沼の横を指差した。少し落ち着いたらしい稲垣さんも、のっそりと車から降りて私達と合流し、全員で沼に近づいた。
弥生さんの指先には、古い木でできた立て札があった。
「『ご縁がありますように』?」
お兄ちゃんが首を捻ると、先輩はスッと財布から五円玉を取り出した。
「何してるんですか」
先輩の後ろに隠れていた稲垣さんが、その行動をいぶかしんだ。
「『ご縁』と言えば、『五円玉』だろ? こういうのは大抵水の中に投げ込むんだよ。当然だろ?」
一同、溜息をついた。心霊現象にあった挙句、よく分からない場所に迷い込んでしまったというのにマイペース極まりない。呆れ顔のメンバーをよそに、五円玉を勢いよく沼に投げ込み、手を合わせた。
「さ、もういいでしょ? 帰る道を探そ」
弥生さんが先輩の手を引いて、全員が車に向おうとしたその時、沼からゴボッ、ゴボッという不気味な音がした。
「ちょ、ちょっと……先輩? もしかしてこの沼、変な動物とかいませんよね」
稲垣さんが恐る恐る後ろを振り返ると、一気にザバッーっと大きな水音を立てて何かが現れた。
「で、出たぁっ!」
その場でへたり込む稲垣さん。私達も身をすくませた。
がっしりして赤い男の肉体に、毛皮の腰巻きをつけ、大きい角を持つ頭が牛の化け物が眼前に現れたのである。
「やだぁ、『出た』なんて、失礼しちゃうわね」
化け物がしゃべった。地の果てから響くような重低音ボイスで。一同、言葉をなくした。
あまりにも現実離れした生き物の出現で、頭の中が混乱した。ただでさえパニックに陥りそうな精神状態を必死に立て直しているのに、こんな妖怪が出てきたら終わりだ。当然のように稲垣さんは泡を吹いて倒れ、弥生さんは目から大粒の涙を流し、そのまま固まった。
「あら、どうしたの? アンタ達。まさかアタシに怯えてるの?」
牛妖怪が大きな目玉をぎょろっと動かした。私は首をゆっくり左右に振った。恐くない。自分に言い聞かせるために。
すると、牛妖怪は全員をまじまじと見た後、入間くんを指さした。
「ちょっと、そこのボウヤ。アタシの近くまで来なさい」
彼は大きく深呼吸すると、ゆっくり歩きだした。額から、じわりと汗が滲んでいるのが見える。
「待て、行くな!」
牛妖怪は声の主であるお兄ちゃんを睨み、叫んだ。
「アンタは黙ってな!」
大風が巻き起こった。木が揺らぎ、葉が散るほどの声量。体が強張った。誰もこの妖怪に抗えない。先輩も、お兄ちゃんも、ただ入間くんの背中を見つめることしかできない。
「別にとって食うわけじゃないから、安心なさい」
その言葉と一緒に、気持ちの悪いウインクが飛んできた。
沼の近くで止まると、牛妖怪はぎゅっと拳を握った。入間くんが殴られる! 咄嗟に目を瞑った。
――数十秒経って、私は目をうっすらと開けた。見えたのは大きな箱を抱えた入間くんだった。牛妖怪は、その箱を持って戻るよう、彼に指示した。
「そう、イイ子は好きよ」
入間くんは無表情で目の前にいた化け物を見つめた。
「これからアンタ達に『お告げ』をしてアゲル。なんせ、『ご縁』があったからね」
視線を入間くんから先輩に移す。先輩は後退りした。
ゴホン、と大きく咳払いをすると、木の葉が舞った。
「ここは『新天地』。たまにいるのよね、アンタ達みたいに遊び半分で牛頭トンネルを通ってくる輩がサ」
牛妖怪の話はこうだった。つまり、牛頭トンネルは異世界である『新天地』と私達が生活している世界を結ぶルートだということ。もちろん普段、このルートは閉鎖されているらしいのだが、何かのはずみで開いてしまったようだ。
「そこへ運悪くアンタ達が来ちゃったってワケ。もう、こっちも困るんだから」
「どうやったら、元の世界に帰れるんだ」
入間くんが大声で尋ねると、意外とあっさり答えが返ってきた。
「簡単よ。この先の街を突っ切った場所にある『馬頭トンネル』を通って帰ればいいの」
安堵した。心霊現象だの、妖怪だの、異世界だの、まったくいかれてる。さっさとそこを通って現実に帰ろう。そして、二度とこんな夢物語、思い出さないで生きていこう。
そう思った矢先、牛妖怪が私を睨んだ。
「安心しない方がいいわ。問題はこの先にある街よ」
「ど、どういうことだ?」
先輩が乾いた声で聞いた。
「その箱を開けなさい」
入間くんは、抱えていた箱を地面に下ろしてふたを開けた。泡を吹いている稲垣さんと、固まっている弥生さんを除いた四人が中を見ると、真珠のついた様々なアクセサリーが入っていた。
「なんだ、これ……」
「この真珠が、アンタ達を守るアイテム、といったとこかしら。命が惜しければ、常に身につけておくことね」
『命が惜しければ』。たった一言に体中が軋むほどの重力を感じた。この「新天地」で、私達は命の危険に晒されるのだろうか。頭の中が不安の闇で覆いつくされていくのが分かる。
「それともうひとつ」
何かを思い出したような声に、うつむいていた全員が反応した。
「アンタ達は、異世界の人間。異世界の人間は新天地で必ず『能力』を発揮するはずなの。それは自分の身を守るのに役立つものだけど……毎回一人はいるのよね、運の悪いヤツって」
こんなわけの分からない世界に来てしまった時点で私達六人全員、運は最高に悪いと思
うが、更に運が悪い人間、ハズレくじを引く人間が出るということなのだろうか。
「それは一体……」
お兄ちゃんが問いかけようとしたが、その声は突然の砂嵐に飲まれ、牛妖怪自体も煙のように消えてしまっていた。
眼前の妖怪が消え去ってからしばらくして、弥生さんと稲垣さんが正気に戻った。
二人に今までの事柄を説明したが、あまりにも非現実的過ぎて、話しているこっちもおかしくなりそうだった。「能力」のことは、二人に告げなかった。お兄ちゃんと入間くんの判断である。「新天地で能力を得る」――これだけならよかった。でも、メンバーの中に「ハズレ」がいるかもしれない。稲垣さんが知ったら、ショックでまた失神するだろう。
説明が終わった後、二人は放心状態だったが、何とか事情を飲み込んでくれたのを確認して全員で箱の中身を見た。ネックレスにペンダント、ブレスレットにピアス、レザーバンド、リング。デザインは違えども、全部に真珠が付いている。
「あの牛は、『俺達を守るアイテム』って言ってたよな」
お兄ちゃんが呟くと、先輩が付け足した。
「『命が惜しくば常に身につけろ』とも、な」
弥生さんは真っ青になった。
「何、それ。あたし達、命狙われるの?」
「いや、それはわかりませんよ。『はずしたらどうなるか』は言わなかったんだから」
冷静に入間くんが否定した。
「ともかく、牛野郎が言ってた通りに街を抜けて『馬頭トンネル』を目指すしかないな。そうと決まれば全員アイテムを装備だ」
先輩が、半ば強引に次の行動を決めると、弥生さんが噛みついた。
「ちょっと待ってよ! 街に行って、殺されたりしたらどうするの!」
稲垣さんもそれに加わる。
「そうですよ! そもそもあんたが『心霊トンネルに行こう』って言わなければ、こんなことにならなかったんだ! 責任、取れよ!」
「……先輩、俺だけならまだ我慢できたよ。でも、今回は妹もいるんだ! どうしてくれるんだっ!」
お兄ちゃんが先輩の肩を掴み、思いっきり顔面に右ストレートを入れた。メガネがふき飛んだ。拳をもろに食らい、よろける。弥生さんも助けようとはしない。冷たい視線を送るだけだ。
先輩は、鼻から流れる血を右手でこすり、お兄ちゃんを睨んだ。
「俺だってな……こんなことになるなんて、一ミリも想像つかなかったんだよ……。心霊現象? そんなもん、面白いものが撮れればよかっただけなんだ。異世界へトリップ? 想像つくほうがおかしい!」
今度は先輩が、一瞬の隙をついて左フックをボディに食らわせた。
「ぐっ!」
「お、お兄ちゃん!」
私は駆け寄ろうとしたが、入間くんに止められた。
「陸さん、ちょっと待って」
そう小声で言うと、自分が代わりに二人の間に入った。
「なんだ、入間。お前も文句あんのか」
先輩が入間くんに近づく。お兄ちゃんも、距離を狭めてきている。
「二人とも……いや、稲垣先輩、弥生先輩も落ち着きましょうよ。ここで揉めて何になるんですか? 元の世界に戻れるわけじゃないでしょう」
「入間は黙ってなさいよ!」
弥生さんがヒステリックな声を上げたが、怯まずに続ける。
「言わせてもらいますけど、この場でキレる権利があるのは、陸さんだけです」
私はドキッとした。他の四人が一斉に罵声を浴びせる。それを大声でけん制した。
「俺達五人は同じ部活の仲間だ。お互いの呼び出しに応じたのも当然だし、嫌だったら断ればよかった。だけど、陸さんだけは、完全にイレギュラーだ。修先輩が先輩のお願いを断れない立場だと思いやり、ついてきてしまっただけじゃないですか。本当に巻き込まれたのは、陸さんだけだ!」
シン、となった。本当は私だって、興味本位でついてきたという落ち度はある。だが、この場をおさめる最良の手は、「言葉の力でねじ伏せる」。これしかない。全員の視線が私に向けられた。
「……私は……」
言い淀んだ。でも、私がはっきり言わなくてはいけない。全員の目を見つめてから、意を決して宣言した。
「私は、こんな状態になったからといって、言い争う気はありません。大体皆、仲間じゃないですか! こんな時こそ、チームワークで乗り切るしかないんです!」
入間くん以外の皆は、目を伏せ、黙り込んだ。それを一番に打ち破ったのがお兄ちゃんだった。
「くそ、情けねぇ。妹に諭されるなんてな」
「……確かに。ここで騒いでもしょうがないか。皆で協力して、元の世界に帰るしかないよね」
弥生さんの台詞に、先輩が混ざる。
「元凶は俺だ。もし命が狙われるようなことがあったら、俺が皆を守ってやる! つーか、一番年上だしな。そのぐらいしないと面子が立たないわ」
稲垣さんは最後まで黙っていたが、皆がプラス思考になってきたことで、渋々呟いた。
「帰るためには皆がいないとダメだし……。僕も腹を括るよ。本当はやだけどね」
私は入間くんを見た。無表情だった顔に、うっすらと笑みがうつったように感じた。
「よし、街に行く前にアイテムをつけるぞ!」
お兄ちゃんができるだけ明るい声で言うと、
「それは俺がさっき言っただろ!」
と、先輩が突っ込んだ。
牛妖怪の言ったことが本当かどうかは疑わしいが、ここは信じるしかない。各々アクセサリーを選び始めた。
「陸ちゃん、最初に選びなよ」
まだ鼻血の止まっていない先輩が、笑顔で箱の中身が見えやすいようにしてくれた。他の皆も、私に一番に選ぶ権利を譲ってくれた。何だか正直恥ずかしいような、後ろめたいような、複雑な気持ちだったが、せっかくの好意を無駄にはできない。私は細いチェーンに一個だけ真珠のついたネックレスを選んだ。他の皆はジャンケンで順番を決め、お兄ちゃんは蜘蛛のワンポイントがついているメンズ向けのペンダント、入間くんはクロスのついたブレスレット、稲垣さんは男の人でもつけられるような、シンプルなデザインのリングを、先輩は真珠の埋め込まれたレザーバンド、弥生さんは片耳用のピアスを選んだ。
「車も何とか動くみたいだ。これで人目につかないように移動しよう」
車の点検を終えた先輩が提案した。
私達は、内心強い恐怖を抱きながらも、覚悟を決めて車に乗り込んだ。アネモネの花が、穏やかな風に揺らいでいた。
街までは、整備されていない坂道を真っ直ぐ下っていくだけで着いた。街の入り口には中華街にあるような大きな門に「沙門街」と描かれていた。「サモンガイ」とでも読むのだろうか。どうやら車で入れるのは、ここまでのようだ。
「どうする? 歩くしかないみたいだけど」
弥生さんが窓から辺りの様子を見ながら、皆の意見を求めた。
「リスキーではあるよな。そもそもどんなヤツがいるのかもわからないし。さっきの牛みたいなのがうようよしてたら恐いし」
お兄ちゃんが牛妖怪を思い出しながら呟く。
「じゃ、全員で入り口の近くに行ってみるっていうのはどうだ? 車もその付近に止めておけば、すぐ逃げ込めるし」
先輩が出した案は具体的だったが、稲垣さんは不安げな表情を浮かべた。
「逃げ遅れたら、どうするんですか……?」
「そしたら俺が犠牲になってでも、皆を守るって。さっきから言ってるだろ」
ビクビクしている稲垣さんを見て、先輩が笑う。
「どうにも、車が通れるのはここまでみたいですし、やってみるしかありませんね」
あごに手を当てて考え込んでいた入間くんが、最後の一押しをした。
「それじゃ、決定な! では、出陣前にいつもの気合をいれるとするか!」
先輩と弥生さんが、前方座席から後方を向く。隣りの入間くんも、前に身を乗り出す。
「へ?」
状況を把握できないであたふたしていると、弥生さんが教えてくれた。
「うちらバスケ部はね、試合前に必ず円陣組んで、気合入れるのよ。部員全員でね」
「それじゃ、出陣するぞ!」
先輩が声を張り上げる。私も急いで前方を向いた。全員の顔を見回す先輩の視線が、
私で止まった。
「いつもなら『南高バスケ部サウス・キャット、GO!』でいくけど、陸ちゃんはバスケ部じゃないしなぁ」
「それなら六人だし、『シックス』でいいんじゃないですか?」
淡白な入間くんの意見に、お兄ちゃんが溜息をついた。
「そのまんますぎだろ」
「名前より、僕はこのまま生きて帰れるかどうかが心配だよ」
稲垣さんが素直な心情を述べると、弥生さんが喝を入れた。
「あんたはまたグチグチと……だからレギュラーにもなれないんだよ。マネージャーも覚悟決めたんだから、文句言わない! 修も、名前ぐらいで騒ぐな!」
前の座席からデコピンを食らった稲垣さんは、痛そうに額をさすりながら円陣に加わっ
た。お兄ちゃんもむくれつつ、入間くんの案に同意した。
中央の通路に向って、手を伸ばす。確認した先輩が叫んだ。
「『行くぜ、シックス!』」
「『GO!』」
全員勢いをつけて、車のドアを開けた。
沙門街は、香港のネイザン・ロードの下に男人街を混ぜて、アップ・ダウンをつけたような街だった。ドハデなネオンと露天のカラフルな商品で目がちかちかする。胡散臭いオモチャを売っていたり、占いの屋台があったり。ともかく雑多な印象だった。色と光が多すぎる。でも、なんだか映画の中の世界のようで、少し興奮した。
街を歩く人々も、さっきの牛妖怪みたいなのではなく、普通の人間のようだった。話している言語も日本語だ。異国情緒漂う場所ではあるが、いる人間は私達と変わらない。だけどやっぱり少し気になる点がある。道行く人全員が、何かしら宝石をつけているのだ。大きいダイヤの指輪をしている人や、ガーネットの小さなネックレスをしている人。ジルコンのブレスレットをつけている若者、大きなルビーの髪飾りをつけている子供までいる。
「この世界って、『石が身を守ってくれる』みたいな信仰があるのかな」
お兄ちゃんの後ろにべったりの稲垣さんが、不思議そうな顔で人々を見ていた。
それでも、周りの人々にうまく溶け込めていることで私達は若干気が緩んだ。「異世界からきた」と大声で言わない限り、気づかれない。道を進むにつれそう思うようになっていた。
しかし、そんな予想を屋台のおばちゃんが一気に覆した。
「そこの異世界から来た皆! よかったら食べていかない?」
全員が、ギクリとした。先輩が足を止め、稲垣さんがそれにぶつかった。
引きつった顔の私達とは対称的に、おばちゃんは愛想のいい笑顔を浮かべている。ただ、客引き口上で言っただけのようである。オレンジのライトの下で、釜飯らしきものを作っている。
「お腹へってるでしょー? サービスするよ!」
にこにこと笑うおばちゃんに、お兄ちゃんが突進していった。私もそれに続く。
「す、すいません。なんで俺達が異世界から来たって分かったんだ?」
すごい剣幕で質問するお兄ちゃんに少し驚いたおばちゃんは、一瞬黙ってから穏やかに笑った。
「ああ、ごめんね! さすがにびっくりしちゃうわよね! 新天地じゃ、異世界から人が来ることなんて、日常茶飯事なのよ。でも、あなた達からしてみたら、いきなりこんなところに来ちゃったんだから、内心ドキドキものよねー」
一同、屋台の前に並んで、おばちゃんから詳しい話を聞かせてもらうことになった。どこの世界にもおせっかいで人のいい女性がいるものだ。
先ほどのおばちゃんの台詞通り、異世界から新天地へトリップしてくる人間は多いらしい。ほとんどの人間が、牛頭トンネルを通ってくるようだ。そして何故、全く違いのわからない「新天地人」と「異世界人」を見分けられるかというと、やはりアクセサリーについている宝石でわかるのだと言う。異世界の人間は共通して「白い真珠」をつけている。
新天地に住むものにそれを持つものはいないとのことだ。宝石は、新天地に住むことが決まると支給されるもので、「白い真珠」は言うなれば「通行許可証」みたいなものだと説明してくれた。要するに私達は、首からパスポートをぶら下げている外国人と変わらないのだ。
「そう言えば、なんでこの世界は皆、宝石を身につけているんですか?」
弥生さんが一番根底にある謎をおばちゃんにぶつけると、少し困った顔をした後、静かに答えた。
「ここではね、宝石が命を守ってくれるのよ」
牛妖怪が言ったことと同じだった。一同が無言でその意図を知ろうと必死になっているのを見たおばちゃんは、屋台の上に設置されているテレビのチャンネルを変えた。
「ちょうど今からニュース番組が始まるわ。それを見ればわかるんじゃないかしら。本当はこんなニュース、見たくはないけど」
おばちゃんは、さっきまでのそこ抜けた明るさにうっすらと影を落とした。
テレビに目をやると、ちょうどニュースが始まったばかりだった。七三、メガネのステレオタイプな日本人のようなアナウンサーが、淡々と日にちと時刻を伝えた。私達が出かけてから日をまたぎ、深夜一時になっていた。
「まだ母さん達も捜索隊とかは出してないだろう。明日の夜くらいまでに戻れれば何とかなる」
お兄ちゃんが私を安心させるように言うと、再びテレビを見つめた。
「本日午後二時、沙門街裁判所死刑執行広場にて、三名の死刑が執行されました」
弥生さんの息を飲む音が聞こえた。死刑執行。日本にもそれはある。ひっかかったのはそこではない。『死刑執行広場』というワードである。ニュースは流れ作業のように一定のペースを保ちながら事件を伝えた。
「死刑執行人は、無作為に選ばれた市民五十名。死刑執行後は平常通り、記憶を無くし、日常生活に戻ったとみられます」
普段、キッチンで流れているだけだったら聞き流すような、平坦な口調。だが、内容は明らかに異常だった。テレビの中では、正気とは思えないような勢いで、市民が死刑囚と思われる人間を攻撃していた。ある者は、バットや木材を使って。ある者は、そのまま喉元に噛み付いていた。まるで悪魔だ。人間がすることじゃない。眩暈がした。気が遠くなりそうだった。
お兄ちゃんはあまりにも悲惨な映像に、訳がわからない、といった表情だし、先輩の眉間には深い皺がよっている。稲垣さんはすでに目の焦点が合っていない。失神していないのは奇跡だと言えよう。弥生さんは吐きそうになるのを必死に抑えていた。入間くんはテレビの中のアナウンサーを睨みつけていた。
「ど、どういう意味ですか! 死刑を市民に執行させる? その後『平常通り』記憶をなくすって……」
私は動揺を抑えられず、マシンガン攻撃かのごとく、おばちゃんに問いかけた。
「この世界で、宝石は命を守る絶対のものなんだよ。これを取られるとね、ここにいる権利がなくなるの」
自分のつけているアメジストのブレスレットを大切そうにいじりながら、質問を投げた私を見つめると、優しく微笑んだ。だが、その笑みですら、私にとっては不可解で、薄気味悪いものでしかなかった。
おばちゃんの言葉は、あまりにも間接的な表現でわからない。皆もうつむいてその意図を読もうと思案している。私も遅れをとらないように、頭の中を整理して、思い出すのもはばかられるようなさっきのニュースの映像を分析してみる。
『宝石がないと、ここにいる権利がなくなる』―さっきの死刑囚のいでたちは、三人三様だった。死ぬときはきちんとしたいと思ったのだろうか、スーツを着ていた人。すでに自暴自棄になっていたような、ボロボロのスエットの男。白い着物を着た女性。しかし、どんな格好をしていても、最期には三人とも服は破かれ、血に染まっていた。
泣きたい気持ちを抑えて、更に分析する。宝石。そういえば、あの三人の宝石は何だっただろうか。短い時間の映像を、何度も頭の中で再生する。ない。どの場面をとっても、あの三人は宝石を身につけていない。
「宝石をとられると、無条件で命を狙われるということですか?」
入間くんの簡潔な答えに、全員が顔を上げた。おばちゃんもこくりと頷いた。
「そうね、恐いところだよ。宝石の所持が、命の危機に直結するんだから。死刑は簡単。囚人の身につけている宝石をはずすだけだからね」
「個性があっても、根幹の部分は皆と同じでないと村八分、ということか」
「そんな甘いもんじゃないっすよ」
頭を抑えている先輩の肩を、お兄ちゃんが軽く叩いた。目は真剣だった。二人のやりとりを見つつ、入間くんが話しを戻す。
「さっきのニュースでは、市民に死刑を執行させてましたよね? あの後、執行した人間はそんなことをしておいても普通の状態でいられるんですか?」
おばちゃんはためらいもなく首を縦に振った。弥生さんが、ついに吐いた。精神がついていかなかったのだろう。私も酸素足りなくなって、何度も肺に無理やり空気を送り込んだ。
「これがまた不思議でね。標的の動きが止まると、魔法が解けたように全員が気絶するの。あとは裁判所の刑官が個人を別々に家や会社に届ける。周囲もいつ自分が執行人になるかわからないからね。本人には話さないんだよ」
「……恐ろしいな」
お兄ちゃんが呟くと、おばちゃんはさっきの明るさを取り戻した。
「でも、宝石をはずしさえしなければ襲われないし、ほとんどがいい人だから。心配することはないよ。さ、お腹もすいたんじゃない? 釜飯食べてく?」
「いや、遠慮しておきます。ありがとうございました」
先輩が礼を言うと、引きとめようとするおばちゃんを尻目に全員その場を一目散に離れた。足は自然と車の方へ向いていた。
「恐い、あの街に行きたくない!」
叫んだのは弥生さんだった。誰もが同じ気持ちだったことには違いない。ただ、あの街を通らない限り、私達は元の世界に戻れない。
「いっそのこと、車で乗り込んで、一気に通過してしまえばいいんじゃないか?」
先輩の案に大きく頷いたのは、稲垣さんだった。
「そうだよ! 一番安全じゃない」
手はすでに汗でべとべとで、服で何度も拭っている。二人に反論したのは入間くんだった。
「街は露天だらけですよ! 事故になることは目に見えてます。それに、裁判所があるくらいだから、自衛組織もあるでしょう。最悪、全員拘束されますよ」
「入間の言うことは正しいと思う」
お兄ちゃんも同意した。確かにその通りだ。車で街に入ったとしても、戦車じゃないのだからどこかにぶつかって動かなくなることだってある。大体、沙門街自体、道幅は狭い。無理のある作戦だ。
「じゃあ、やっぱり歩いて抜けるしかないのか」
運転席から溜息が聞こえた。何だか胃の辺りがむかむかした。
今の自分達には「進む」しか選択肢はない。わかっているのに、さっきのニュース映像がはじめの一歩を踏み出すことの邪魔をする。首にかかっている白真珠のネックレスがいくら私の身を守ってくれるといっても、不安で仕方がない。アクセサリーはよほどのことがないと外れはしないと思うけど、それでも万が一を考えずにはいられない。
胸から熱い何かがこみ上げてきた。さっき食べたポテトチップスだろうか。飲み込もうと試みるが、抑えられない。急いで前の座席にあった小さなゴミ箱を口に当てた。
「お、おい、大丈夫か!」
お兄ちゃんの声がぼやける。ゴミ箱にはどす黒いものがべっとり付いていた。
「……血?」
入間くんにもらったポケットティッシュで口元を拭うと、紙は真っ赤に染まった。思わず口に出すと、稲垣さんが自身の耳を塞いだ。段々息も上がってくる。なんだか調子が悪い。ただ座っているだけでもふらふらする。
「まずいな」
横で様子を見ていた入間くんが、私のおでこに手を当てた。
「額も熱い気がする」
「陸、とりあえず横になれ!」
お兄ちゃんと入間くんで協力して、座席を調節し、横になれるようにしてくれた。体を倒すと、咳と一緒に少量だがまた吐血した。
「これじゃ、街を抜けるのは難しいな」
先輩の、低い声が車内に響いた。何てことだ。私が皆の足を引っ張ってしまっている。足の感覚を確認して、声を上げた。
「私、行けます。こんな世界にずっといるわけにはいかない!」
「……医者を探そう」
お兄ちゃんだった。
「皆、頼む! 妹をこんな目に合わせた責任は、俺にある。命がかかってることは承知だ。だけど、俺は……俺は、こいつを死なせたくはないんだ!」
いつもケンカばかりだったお兄ちゃん。「ちょっと吐血したくらいでこんな妹思いになるなんて、意外と甘いな」なんて考えている自分がたまらなく嫌になる。皆自分の保身で精一杯のはずだ。なのに、無理を言って、皆に頭を下げてくれているのが嬉しい。嬉しいと思う自分にも腹が立つ。私は一体どうすればいいのだろう。ひねくれた感情をもてあましながら天井を見ると、偶然のぞき込んできた入間くんと目が合った。冷静な瞳に、すべてを見透かされた気がした。
「お願いだ、医者を探してくれ」
蚊の鳴くような声で、お兄ちゃんは皆に懇願した。いたたまれない気持ちで、胸が張り裂けそうになる。
「……いいですよ、俺は」
平然と、入間くんはその願いを聞き入れた。あまりにも自然すぎる流れが、かえって不自然だった。驚きの視線が彼に注がれていくのを、肌で感じた。
「へ?」
言いだしっぺのはずのお兄ちゃんが、きょとんとした表情で斜め向かいの入間くんを見た。
「俺は、いいですよ。だって、さっきのおばさんの話じゃ、わりと頻繁にこの世界へ迷い込む人間がいるみたいじゃないですか。それならビクビクしなくても大丈夫なんじゃないかって」
『俺は』と誇張したのは、自分の意見を他人へ強要しないための配慮だろう。この人はいとも簡単に正論をはじき出す。出会ったのはたった数時間前。なのに、何故だろう。「入間慎吾」という人間は、恐ろしいスピードで私の胸の中心部に入り込んでいた。この人を見ると、緊張する。自分の考えが、全て伝わっているのではないか。自分が今、どういう感情を抱いているのかわからないが、不思議な力がある人だと思った。
お兄ちゃんはそんな彼を躊躇なくどついた。
「くそ、お前はどこまで聖人君子なんだ」
「それなら『先輩に貸しを作って後で恩を売りたいから』とでも言えば納得しますか?」
「いけしゃあしゃあと」
お兄ちゃんの呆れた声に、前方から反応があった。
「お前ら、ほんっと相変わらずだな」
ミラー越しの先輩の顔には、うっすら笑みが浮かんでいた。
「俺も行く。『皆を守る』って言ったからには、責任とらないとな」
男三人が外へ出ると意思表明した。それから少し間を置いて、弥生さんが口を開いた。
「……陸ちゃんは、外へ出ないほうがいいよね」
横になっている私を見る。吐血しているし、ふらふらしているのは確かだが、歩けない
ほどではないはずだ。足の感覚はまだあるのだから。
「いえ、医者はいいです! 皆の足を引っ張るのは嫌だし、街を抜けましょう!」
咳が出そうになるのを我慢して主張したが、お兄ちゃんと入間くんに一蹴された。
「お前は休んでろ! 俺達がどうにかするから」
「心配はいらないから」
困った。なんでこんなタイミングで体調が悪くなるんだろう。これで自分一人の命が危
険に晒されるだけなら、まだ諦めがついたのに。皆まで結局巻き込んでしまって。
「陸ちゃん、本当のチームワークって、分かってる?」
弥生さんが優しい眼差しをくれた。
「『自分が犠牲になれば』って思ってるんだろうけど、むしろそういう考えの方が迷惑だよ。修は『陸ちゃんを助けたい』って言った。それを皆でサポートするのがチームじゃん?」
でも、と言いかけたとき、入間くんが先に口を出した。
「冷たい言い方をするけど、君を犠牲にすることが最善の策ならそうしてる。でも、今度の目標は『全員でこの世界から脱出すること』だ。君を犠牲にして元の世界に戻っても、最悪な気持ちが残るだけだろ。特に修先輩は、一生この荷を背負うことになるんだ」
厳しいが、真実だった。お兄ちゃんは間髪入れずに入間くんを殴った。
「お前、正論なら全部口に出していいと思ってるなら大間違いだぞ! 余計なことは言うな!」
「修の言うとおりだ。入間は少し反省しろ」
厳しい目で先輩も同調した。
「あたしと稲垣は残るよ。いいでしょ?」
先輩の袖を掴んで、弥生さんが心細げに言った。誰からも異論はなかった。
「弥生、悪いけど陸の面倒、見ててくれ。あと、稲垣! お前はちゃんと女二人守れよ!」
お兄ちゃんが名指しすると、今までうつむいていた稲垣さんはびくっと肩を震わせた。
「あ、う、うん……頑張る」
低く、小さい返事を聞くと、三人は車を降りた。
弥生さんが私の横に移動してきた。街が活動している音が聞こえてくる以外、車内は静かだった。
「あの、弥生さん」
沈黙を破った。気になることがあったのだ。聞くなら今しかない。
「入間くんって、いつもあんな調子なんですか?」
あまりにも唐突な質問にきょとんとした顔を見せた後、何となく納得した表情で笑った。
「ああ、確かに驚くよね。ああいうタイプって。まるでロボみたいだから。あたしもたまに『あいつ、感情あるの?』って思うことあるもん」
「そういう意味では……」
変なたずね方をしてしまったと後悔した。悪口を言ったつもりではなかったのだが、誤解されているようだ。
「恐い、っていうかさ。もっと情に厚くなった方がいいよね。ま、情ばっかの人も大変だけどね」
語尾を小さくして、頬を染めた。
「先輩のことですか?」
聞いた瞬間、「あははは」と照れ隠しの笑いが飛び出た。
「トモは皆から『甘い』って言われるけど、面倒見いいんだよ。だから現役の時はキャプテンやってたし。今じゃ逆に面倒見られてる方なんだけどね」
弥生さんは狭い車内で腕を伸ばした。空気が緩和した気がした。「話ずれちゃったね」と、
話題が入間くんのことに戻った。
「入間は一年でレギュラー入りできたってくらいだから、状況判断能力はピカイチなんだよね。ちょっと冷たいところを除けば、いいゲームメーカーだと思う。ただやっぱり性格だよね。女子ウケもいいのにさ。友達がいるのかも謎だし」
クールでミステリアスなタイプなのだろうと想像がついた。いくら冷たい態度をとっても、それすらかっこいいと判断されるお得な人。でも、正直友達はできにくいだろう。
入間くんの高校生活を思い浮かべると、何だか味気なく感じた。部活も勉強もできるのに、空虚だ。彼は何を感じて過ごしているのだろう。お兄ちゃんの後輩。それだけの関係なのに、気になる。
弥生さんは『ロボみたい』とか『感情あるの?』なんて言っていたけど、牛頭トンネルで車が暴走したとき、抱きしめてくれた彼の手は確かに温かかった。淡々とした口調と温かい手。二つのギャップは興味深かった。
「それと全く逆のタイプが、修!」
突然出た身内の名前で、ふと我に返った。
「修は熱いからね。試合中暴走しちゃって大変。ケンカっぱやいのは陸ちゃんの方がよく知ってるだろうけど、そのせいでレギュラー入りできないようなもんよ」
お兄ちゃんらしいな、と少し笑ってしまった。小さい頃はすぐ手が出たもんだから、私はケンカになるとすぐお母さんの後ろに隠れたっけ。もう十七にもなるのに成長が見られないのは問題だけど。
「でも、あんたは明らかに努力不足だよ、稲垣!」
いきなり話題を振られた稲垣さんが、こちら側を向いた。弥生さんはそのまま続ける。
「あんたさぁ、一年の時に入部してから、全くうまくならないってどういうこと? 自主練ちゃんとしてんの?」
稲垣さんは弥生さんの顔色をうかがいながら、おずおずとしゃべり出した。
「自主練はちゃんとしてるよ……。ただ、あんまり運動得意じゃないから」
「はぁ? じゃあ、なんで今運動部に入ってるのよ!」
弥生さんは稲垣さんに噛みついた。
「勧誘、断れなかったんだよ。身長高いせいで、毎日狙われてさ。仕方なく入ったのはいいけど、今度は退部しにくくなって……。生田ぁ、このこと皆に内緒にしてよ。特に修には絶対」
初めて会ってから今まで、一貫して稲垣さんの印象は変わらなかった。『情けない』。この一言に尽きる。
弥生さんは額に手を添えて、大きく溜息をついた。マネージャーも大変だ。
会話が止んだ。また咳が出始めた。相変わらず血も出る。それを弥生さんが丁寧に拭いてくれた。
しばらくすると、街の方から誰かが走ってくる音が聞こえた。体を起こして窓の外を見ると、お兄ちゃん達三人と、銀縁のメガネをかけた白衣の男性がいた。
白衣の男は加古田と名乗った。お兄ちゃん達は車を出た後、さっきの屋台のおばちゃんのところへ行き、助けを求めた。賭けだった。いくら異世界から来る人間がしょっちゅういたとしても、本当に医者を呼んでくれるか。それでもおばちゃんは世話を焼いてくれた。近所の診療所を教えてくれたのだ。幸運だった。
車の中ではちゃんとした診察ができないので、お兄ちゃんに負ぶさって診療所まで移動することになった。恥ずかしいから歩くと主張したが、皆に却下された。
車から離れて数十分。加古田医師が「ここだよ」と指差したところは、雑いビルの一階だった。メインストリートの裏にある診療所は、陰鬱な雰囲気が漂うところだった。
「さ、入って」
鍵を開けて、私達を中に入れた。
室内は意外にも広い造りになっていて、ベッドと診療机が置かれていた。奥の部屋にも寝台が三つ並んでいて、その全部に人が横になっていた。だが、診療所というわりに空気はよくない。何かが腐っている匂いがした。
「看護師さんはいないの?」
「ああ、私一人でやっているんだ」
弥生さんの問いに軽く答え、診察に入った。怪しい医者だ。三人も入院患者がいるのに、たった一人で切り盛りするのは難しいはずなのに。
男性陣は診察の間、ビルの外で待機するように言われた。稲垣さんは「見ないから、室内にいさせて」と喚いていたが、他の三人に引きずられていった。
「症状は、吐血と咳、あと熱も少しあるようだね。他は?」
体温計を渡して、口を開ける。ライトで喉奥を照らされると、また少し咳が出た。
「体がだるいです」
今度は下着を捲し上げて、聴診器を胸に当てる。
「まさか、結核だったりして」
「君、症状が出たのはこの世界に来てから?」
加古田医師が弥生さんの呟きを無視して、私に聞いた。咳も吐血も、つい今まではなかった。頷くと、難しそうな顔をした。
「結核だとしたら、ここの診療所じゃ手に負えないんだが……もしかすると」
呟きながら、机の引き出しから箱を取り出した。中には緑の笛が入っていた。そんなものを何に使うのだろうか。
説明無しで突然それを吹いた。ピィィィーッ、と耳をつんざくような高音が響いた。
「今、音聞こえた?」
「え」
あんな大きな音が聞こえないわけないじゃないか。まだ耳の中に残響が残っている。
「音なんて、聞こえなかったけど」
私の代わりに答えた弥生さんの顔を見る。「聞こえなかった」? どういうことだ?
「その様子だと、君は聞こえたみたいだね」
加古田医師は穏やかに言うと、外にいた男性陣を呼んだ。全員が揃うと、イスに座ったまま詳しい説明を始めた。
「彼女は病気じゃない。新天地の空気に体が対応しきれていないんだ。この笛の音は、君たちの世界でないと聞こえないものなんだが、それがまだ聞こえるってことは、新天地に体が馴染んでないということになる。他の皆もこういった症状は出ていないかい?」
誰もが首を横に振った。先輩が代表で「出てません」と答えた。
「彼女は次第に治るだろう。動いても問題はないよ」
お兄ちゃんは私の頭をくしゃりと撫でた。久々のことだったので、心がこそばゆかった。
「ただ、ずっと症状が続いてもきついだろうから、頓服みたいなのがあった方がいいね」
眉間にしわをよせ、ファイルから一枚のプリントを取り出した。
「これが頓服の代わりになるんだが、今診療所に置いてなくてね。取ってきて欲しいんだ」
上には走り書きで「空気に馴染めない異世界人の頓服として使える」と書かれ、ナツグ
ミの写真が載っていた。ナツグミとは、グミ科の植物で、赤色の実をつける。うちの近所
にも植えてあるので知っていた。
「でも、ナツグミの実って、夏になるものじゃないんですか?」
お兄ちゃんが心配げにプリントの写真を凝視した。それを加古田医師はやんわりと否定
した。
「確かに君達の世界ではね。でもここでは一年中なっているんだよ。だけど、生えている場所がちょっと大変なところでね」
言葉を濁した。何でも、路地裏を抜けた先の奥にある林にナツグミの木は生えているらしいのだが、ジャングルのように草木が生い茂っているため、新天地の住民はあまり近寄らないとのことだ。
「異世界から来る人間は多いんだけど、症状が出るのは久々なんだ。だから頓服のストックを切らしてしまっていてね」
苦笑いを浮かべる加古田医師に、入間くんが挙手して質問を投げかけた。
「加古田さんは随分異世界……、俺達がいた世界のことに詳しいんですね」
笑顔が一瞬引きつった。が、メガネのブリッジを押し上げると、さっきと同じ温厚そうな表情に戻った。
「私は趣味で異世界研究もしていてね。自分で言うのもなんだけど、その筋では結構有名なんだよ。沙門街の学会では胡散臭がられているけど」
そそくさと、先ほどのプリントをファイルにしまい、全員の顔を見た。
「さて、ナツグミの実を取りに行くかどうかは君たちに任せるよ。できれば手に入れておいた方がいいとは思うけど。馬頭トンネルを目指すなら、体調を万全にしておいた方が精神的にも安心だろう」
お兄ちゃんはそれに同意した。入間くん、先輩も頷いた。私としては、リスキーすぎると思ったのだが、お兄ちゃんは頑として譲らなかった。
「陸はここで休ませてもらえよ。いいですか?」
「いいけど……」
そう言いかけた時、奥の部屋に入った稲垣さんが大きな悲鳴をあげた。
「どうした?」
一同、彼が腰をぬかしているところへ移動した。
「あ、あ、あれ……」
寝台の上を恐る恐る指差す。その先に横になっていたのは入院患者ではなく、腐敗が進んだ人間の死体だった。体には蝿が集り、ウジ虫もわいていた。
「驚くのも無理ないか」
頭を掻きながら、一言。それだけの反応だった。加古田医師は死体を寝かせている理由を話そうとはしなかった。
「陸、皆、逃げるぞ!」
この医者は胡散臭い。もしかしたら、私達もあの死体のようになってしまうのではないか。全員が急いで出口に向った。通路にいた怪しげな医者は、私達を止めようともしなかった。彼の胸に怪しく輝いていた黒真珠が、妙に印象的だった。
猛ダッシュで路地を抜け、林の入り口に着いた。だるい体で走ったのはきつかったが、しょうがない。ここで甘えるわけにはいかない。乱れた呼吸を整える。
「あの死体はなんだったんだ」
先輩の呟きを聞き逃さなかったお兄ちゃんが、頭を左右に振った。
「考えるだけ無駄っすよ。異世界なんだから、常識が通用するはずがない」
「それより、さっきのナツグミのこと、本当の話なのかな。何だか全部信じられなくなってきた」
道にしゃがみ込んでいる弥生さんが、誰にともなく言った。誰もが疑心暗鬼に陥っていた。この世界で信じられる人間は、ここにいるメンバー以外誰もいない。街に戻れば死体を平然と寝台に置いているような人間が待っている。
「車に戻るとしても、さっきの路地を通らないといけないよね……。なんでこっちに逃げてきちゃったんだろう」
稲垣さんがうなだれた。先頭を走っていたのは彼だ。きっと無意識に人通りの無いほうへと走った結果、この林についてしまったのだろう。だからといって、稲垣さんを責める者はいなかった。
「あの医者はこの林に街の人間は近づかないって言ってましたよね。うまく行けば、隠れ家にできるかもしれない」
入間くんの提案に、お兄ちゃんは反発した。
「冗談だろ? そんな危険な橋を渡れってのか? それに、隠れてる場合じゃない。さっさと街を通り抜けて、馬頭トンネルとやらに向おうぜ」
「……今、街で何が起きても冷静に行動できる人、いますか?」
入間くんは全員を見た。数分待ってみても手を挙げる人間はいなかった。宝石がなければ襲われる。呼んできた医者は腐乱死体を持っていた。発狂しそうな心を何とか落ち着かせるだけで精一杯だ。次何か起きたら、錯乱する。すでにギリギリの状態だった。
お兄ちゃんは悔しそうに入間くんの方を向いた。
「『冷静になれ』ってことか。お前の言うとおり、今街に出るのはまずいかもな」
「ともかく、林の中で休める場所を探して休憩しましょう」
足取り重く林の中へ進む覚悟を決めるしかなかった。
街がネオンサインでおかしくなりそうなほど明るかったのに対し、林の中は真っ暗だった。だが、一本道を進んでいくうちに少しずつ目が慣れてきた気がした。土色の空の手前に、黒っぽい木が枝を伸ばしている。上を向いて歩いていたら、後ろのお兄ちゃんに「ちゃんと歩かないとこけるぞ」と注意された。
数分歩くと開けた場所に出た。その周りは私の身長くらいの見たこともない植物が生い茂っていて、樹海のようだった。
私達はその場に腰を下ろした。耳を澄ますと、ジャングルから不気味な声が聞こえる。生暖かい風が首元をかすめた。気持ちが悪かった。
「咳は止まった?」
心配してくれた入間くんに、「はい」と短く返事をした。体調はさっきに比べたらマシだ。あの医者の言うことが正しいとするなら、空気に慣れたということだろう。
「さて、これからどうするかだ」
先輩が口火を切った。全員身を乗り出す。
「林を通って馬頭トンネルの方へ出れないでしょうか。さっき入り口から見たら、ちょう
ど林は街の向こう側まで続いているみたいでしたけど」
「だから、お前はなんでそういう無茶な提案ばっかり出すんだ!」
入間くんの意見に、気持ちいいほど跳ね返った反応を示すお兄ちゃんを、身内が故に恥
ずかしく感じた。そんな二人の様子を見て、緊張の糸が切れた弥生さんがふきだした。
「本当、修は入間の言うことに耳をかさないよね。後輩の意見くらい聞きなよ」
「じゃ、弥生は入間の案に賛成なのか? 入間はこの周りのジャングルみたいなところを歩くって言ってるんだぜ?」
うっ、と小さい声を上げた。路地から林の付近は獣道みたいになっていたおかげで、ここまで一本の道をのんきに歩くだけで来られたが、今度は道なき道を進まなくてはならない。
目的地まで、どのようなルートを使えば「安全に」たどりつけるのだろうか。この問題に、答えはない。沙門街を堂々と通っても、荒れたジャングルを通っても、百パーセント安全とは言えない。どちらも危険値は未知数だ。
嫌な雰囲気が漂った。お兄ちゃんはキレる寸前。弥生さんはお兄ちゃんの顔色をうかがっている。入間くんは自分の意見を通す気だ。稲垣さんは不気味な鳴き声にいちいち恐がっている。私は、皆の様子を観察することでしか冷静さを保てない。
「しっかし、皆動いたよなぁ。喉渇かねぇ?」
場の空気を一切無視して、先輩が大声を出した。
「先輩、声でかいっ!」
お兄ちゃんが慌てて先輩の口を押さえる。だけどそれすらいとわず続ける。
「いっそのこと、雨でも降らないかねぇ。喉も潤うし。そんで洪水になって、俺達をそのまま馬頭トンネルまで流してくれれば一番安全だろ!」
「それ、安全じゃないです」
「トモ、不謹慎なこと言わないでよ!」
入間くんと弥生さんがつかさず突っ込む。
「でも、喉は渇いたかも……」
稲垣さんが呟く。そういえば、ファミレスを出てから何も飲んでいない。こんなことになるなら、自販機にでも寄ってくればよかった。今更、些細なことを後悔した。皆同じことを考えたのか、溜息がいくつか聞こえた。
「なぁ、昔、『明日天気になあれ』ってやらなかったか? 靴飛ばして、表側なら晴れで裏だと雨」
先輩はおもむろに立ち上がり、スニーカーのかかとを踏んだ。
「よし、ここは俺が雨を降らしてしんぜようじゃあないか」
「無理ありすぎっすよ」
完全に呆れ口調のお兄ちゃん。
「今はそんな場合じゃないです!」
あくまで真面目な入間くん。
「また始まった、トモの悪ふざけ」
弥生さんはあきらめモードだ。
稲垣さんは、先輩の様子をじっと見ている。
脈絡のない発想。意味のない行動。でも、雰囲気が一気に変わった。先輩のペースだ。私は何故、この人がキャプテンを務められたのか分かった気がした。
「いくぞー、あーした天気になあれ!」
皆の意見も聞かず、右足のスニーカーを空に放った。黒地に土がついたそれは宙を舞い、落ちた。裏側だ。
「第一、これは明日の天気を占うものじゃないですか。今すぐ雨なんて降りませんよ。大体こんなのは一種の遊びで……」
真面目人間入間くんが講釈をたれはじめた時だった。何か冷たいものが私の頬を掠めた。それは徐々に大粒になり、まばらなテンポで体に降り注いだ。
「……マジかよ」
思わず入間くんは素の言葉に戻った。
「ほらな!」
腰に手を当ててふんぞり返る先輩だったが、雨脚はどんどん強まり、洒落にならないくらいの大雨になった。空はなおもいそがしく、今度はゴロゴロと雷の準備をしている。
「ちょっと、さすがにこれはひどいよ! どこか雨宿りできる場所を探そう!」
弥生さんは着ていたピンクのカーディガンを頭に被り、辺りを見回した。私も一緒に周囲を見渡す。右手にある不自然な岩が目に止まった。もしかして、あそこは洞窟のようになっているのではないだろうか。
「あそこの岩、動かせないですか!」
私は叫んだ。稲垣さん以外の男性陣が、俊敏に動く。
「よし、『せーの』で左に動かすぞ」
先輩の指示で、お兄ちゃんと入間くんが岩に手をかける。
「せー……」
最後に先輩が掛け声をかけようと岩に手を添えた時、岩は大きな音を立てて砕け散った。
「あれ?」
全員が呆気に取られる。一体どういうことだ? そんなことを考えるまもなく、災難は次から次へと続く。
「やっ! な、何これぇぇ!」
弥生さんの甲高い悲鳴がこだました。私が振り向くと、大量の大蛇が砕けた岩の隙間からにょろにょろと這い出してきている。
「ひっ!」
さすがに私も声を上擦らせた。
「皆、ともかく撤退だ!」
大雨をしのぐよりもこの蛇地獄から抜け出さなくては。皆散り散りの方向へ走り出す。
大蛇達は、真っ直ぐと街の方へ向って行く。私は大雨に打たれながら、草陰に身を潜め、蛇達がこちらに来ないか、冷や汗を拭いつつその大移動の様子を凝視していた。
――しばらく経っただろうか。大蛇達の群れはおおよそいなくなり、誰からともなくさっ
きの砕けた岩の前へ集まった。
皆の顔を確認する。お兄ちゃん、弥生さん、先輩、入間くん。全員が青ざめた。稲垣さんがいない。
「おい、稲垣はどっちに逃げた?」
「あたしは自分が逃げるので精一杯で…入間、見てない?」
「すいません、あまりに咄嗟の出来事だったので」
少しのことには動じないと思っていた入間くんも、いきなり岩が割れ、そこから大蛇の大群が出てきたことには焦ったようだ。質問を投げかけた先輩も、それを振った弥生さんも、口には出さずとも仕方ない、といった表情を浮かべた。
「しょうがない、二手に分かれて探すか」
ずぶ濡れになった服の裾を軽く搾りながら、お兄ちゃんが提案した。もちろん、誰も異存はなかった。新天地に来てしまった六人は、最早運命共同体なのだ。
「おーい、稲垣ー!」
お兄ちゃんが声を上げた時、上の方でがさっ、と音がした。一斉に身構える。次は何が起こるのだ。
「ここだよぅ」
聞き覚えのある声。上を見上げると、三メートルはあるだろう木の上に、稲垣さんはいた。
「ちょっと、稲垣! 何でそんなところに!」
驚きの声を上げる弥生さん。そう思うのも当然だ。何せ一瞬で登れるような木ではない。足場になるようなところもないし、咄嗟にしがみつけるような胴回りの木でもない。
「と、とりあえず降りろ! 話はそれからだ!」
「どうやって降りればいいのか分からないよぅ」
情けない声が上から降ってきた。かといって、こちらから助ける術はない。ただでさえ登れないような木だし、登れたとしてもわりと大柄な稲垣さんを抱きかかえて降りるなんて芸当は、ここにいる誰もできないことは明白だ。
「仕方ない、皆の上着でネットを作って、飛び降りてもらうしかありません」
入間くんはそう言うと、自分のパーカーを脱いだ。服でネットなんて無理がありすぎるが、この方法しかない。男性陣は半裸になって、私と弥生さんは上着を脱いでネットを作った。こんなネットともいえないようなものじゃ、確実に怪我をする。それでも稲垣さんが降りてこれなかったら元も子もない。
「稲垣! ここに飛び降りろ!」
先輩が呼びかけるが、上からの返答はなし。
「ここで多少の怪我をしてでも元の世界に帰るか、一生この世界の木の上で暮らすか。稲垣先輩、選ぶのはあなたですよ!」
ここで安易に「大丈夫」と声をかけないところが入間くんらしい。
「ばぁか、さっさと降りて来い! こんなところでくたばりたいのか?」
お兄ちゃんが怒声を上げると、稲垣さんから小さく返事が聞こえた。
「……わかった。飛び下りる」
震えた声ではあるがとうとう腹を決めたのか、稲垣さんが服でできたネットを見た。
「行くよ!」
上からの合図に、下にいる全員に緊張が走る。私は息を止めた。上から稲垣さんが飛び降りる。スローモーションに見えた。まずい、ネットと落ちてくる位置がずれている。
一同が急いでそこへ移動しようとする。―間に合わない! そう思った。が、稲垣さんは体をうまく丸め、まるで猫が塀から飛び降りるような動作で、きれいに地面へ着地した。
唖然とした。さっき、車内で「運動は得意じゃない」と言っていた稲垣さんが、あんなに高い木からきれいに二回転して地面に降り立つなんて。
「お、おい、稲垣! 大丈夫なのか?」
「は、い、何とか……」
うまく飛び下りられたとはいえ、まだ恐怖を拭いきれていない顔の稲垣さんに、先輩が心配そうに近づいた。
お兄ちゃんと入間くんもそれに寄り添う。
雨はまだ止む気配がない。砕けた岩の奥は、やはり少し雨宿りできそうな洞窟になっていた。蛇がいないことを調べてから、私達はそこへ避難することにした。
時間を知りたくて携帯を取り出した。圏外。異世界の電波はさすがに受信できないようだ。
「ちょっと寒くなってきたね」
メイクが薄っすら落ち、顔色が余計悪く見える弥生さんが膝を抱えながら呟いた。
服は脱げるところまで脱いで、木の枝を土壁に刺した簡易フックに吊るしていた。洞窟内は湿気が多く、乾く見込みはない。火の気が全くないのは痛い。
「先輩、ライターは?」
お兄ちゃんは先輩の方へ振り向いた。そういえば、トンネルに入る前、線香に火をつけていた。言われて、思い出したようにポケットをまさぐるが、ライターは出てこなかった。
「しまった。車の中だ」
「何で手ぶらで降りてきちゃったんだろ」
先輩と弥生さんがうなだれる。洞窟内は冷たい空気に包まれた。雨は依然と大きな音を立てて地面へ降り続いている。
「ひとまず、雨がやむまで待つしかないですね」
「マジかよ」
お兄ちゃんは不満げだが、今の天候じゃどうにも動けない。どうしようもない苛立ちと焦りが、頭をもたげてきた。誰もが視線を合わそうとしないところを見ると、その気持ちは私だけではなさそうだ。かといって、また仲間割れをするわけにはいかない。口を開けば間違いなく弱音や愚痴になる。嘆いても現状は変わらない。ただ黙るしかなかった。
数分なのか、何時間経ったのか分からないが、雨音だけが聞こえる時間が流れた。それを断ち切ったのが先輩だった。
「なぁ、昔、木の棒で火を起こしてたじゃん! あれやってみねぇ? どうせ止むまで外出られないし」
「でも、ここじゃ湿気が多すぎっすよ……」
もう返答することすら面倒くさそうに、お兄ちゃんは言い放ったが、意外にも入間くんが先輩の肩を持った。
「いや、修先輩。何もしていない方が精神的にまずいと思います。ここは無理なことでも、何かやって気を紛らわせていたほうがいいんじゃないですか」
真っ当な意見だが、火はつかないと断言している入間くんに若干顔を引きつらせた先輩は、足元に落ちていた枝と、わりと太い木の枝を持ってくると早速擦り合わせ始めた。
「やってみないとわからないだろ~。入間、あとでギャフンと言わせてやるよ! それ、火ぃつけ~!」
誰も期待なんてしていなかった。こんな湿った場所で、濡れた小枝を擦り合わせたって無駄なだけだ。私は目を外に逸らした。その時、視界にオレンジ色の光が差し込んだ。
「え?」
先輩を見ると、木が燃えていた。それも小さい炎ではなく、かなり大きなものだ。
「ど、どういうこと?」
弥生さんが目を白黒させている。お兄ちゃんも稲垣さんも、当の本人の先輩も驚いて腰を抜かしている。
「まさか、これが例の能力?」
入間くんの呟きにはっ、とした。
そういえばあの牛妖怪が言っていた。「異世界の人間は新天地で必ず『能力』を発揮する」
と。
「な、何の話?」
どもりながらも、稲垣さんも会話に加わろうと必死だ。弥生さんも入間くんをじっと見つめる。そういえば、二人には説明していなかったのだ。何せ、この能力は一人だけ「ハズレ」が出るのだ。
お兄ちゃんがこの話を知っている人間に目配せした。先輩も、入間くんも頷いた。それを認めると、二人に能力の説明を始めた。二人に黙っていた理由――ハズレがあるということも含めて。
話が終わると、弥生さんは怒った。
「確かにあたし達、気を失ったりしてて情けなかったけど、そういう話はちゃんとしてよ! 知らないほうが恐いことだってあるんだよ」
「そ、そうだよ……いや、でも僕は知らなかった方がよかったかも。自分がハズレだったとしたら、その『能力』で自分の身を守れないんだから」
稲垣さんの小さな嘆きに、一同口を閉じた。彼の言う通りだ。もし、自分に「能力」がなかったら。この真珠があれば、人に襲われないというけれど、それ以外にもこの世界は危険がいっぱいだ。
「皆、考え込むなって。言っただろ、俺が皆を守るって」
炎の前で笑顔を作る先輩。不安げな私達とは正反対に、その表情には自信がうかがえた。
「安心しろ。俺、多分その『能力』ってヤツ、ある人間だわ」
そういうと、パチンと指を鳴らした。
「トモ、何したの?」
急に炎が消え真っ暗になった洞窟に、弥生さんの声が響いた。先輩が再び指を鳴らすと、またオレンジ色の火が点る。
「で、俺の勘が正しければ、こんなこともできるはず!」
先輩は立ち上がり、洞窟の外で両手を広げて叫んだ。
「雨よ、止め~!」
すると、さっきまでの大雨が嘘のように小雨へ変わっていく。しばらくして外に出てみると、雨は完全に止んでいた。星はないが、来た時と同じ土色の空が広がっていた。先輩は自分の予想が当たり、にやりと口の端をあげた。
先輩はそれから他にも小さい竜巻を起こしたり、うまく力を応用して、「簡易ドライヤー風」を作り出して服を乾かしてくれた。
「つまり、自然の力……火や水、風なんかを操れる力ってことなのか? すげぇ!」
手ばなしで驚くお兄ちゃんを尻目に、入間くんは何か考え込んでいた。
「どうしたの?」
私が話しかけると、入間くんは落ちていた小石を手にした。
「稲垣先輩!」
呼ぶと同時に、小石を思いっきり投げつける。稲垣さんは驚きのあまり飛び上がった。飛び上がったのだが。
「な、な、何するんだよ、入間!」
また木の上から声が聞こえる。稲垣さんだ。大蛇の群れが出てきた時と全く同じ状況である。
「おい、入間、説明しろよ!」
迫り寄るお兄ちゃんに落ち着くように言うと、入間くんは稲垣さんに飛び降りるように指示した。
今度はネットも用意していない。稲垣さんはためらったが、入間くんが強い口調で言うと目をつぶって飛び下りた。
今度は三回転して、きれいに着地。入間くん以外の全員が目をぱちくりさせた。稲垣さんも自分の動作が信じられないという顔をしている。
「佐々木先輩だけじゃない。稲垣先輩も能力を得たってことですよ」
あまりにも簡潔な説明で、逆に理解しかねた。
稲垣さんはバスケ部に所属しているが、運動神経はあまり良くない。だが、何故いきなりこんな高さの木に垂直跳びで登れたか。そして、怪我ひとつなく猫のように下りることができたのか。
「稲垣先輩は、常人離れした『運動神経』を手に入れたんじゃないでしょうか」
結論を突きつけられた張本人は、複雑そうな顔をした。
「運動神経? そんな能力、必要かな」
「全速力で逃げることができる、とかか?」
「お兄ちゃん!」
私が叱責してもお兄ちゃんはどこ吹く風で話題をすりかえ、入間くんに自分の考えを提案した。
「な、結構すごい能力を発揮した人間が二人もいるんだぜ? これなら街を通っても大丈夫じゃないか? むしろこのジャングル進む方がよっぽど危ないぞ。また大蛇が出てきたりするかもしれないし」
先輩はお兄ちゃんの意見に賛同した。
「任せろ、入間。もし襲われたら、俺が街に火を放ってやる。稲垣もいいよな」
「あ、う、はい……」
なんだか煮え切らない返事ではあるが、稲垣さんも賛成側に回るようだ。だけど、稲垣さんの能力は、基本的に運動神経が良くなるというものなので、誰かを助けたり、敵に攻撃したりといったことができるのかどうか謎である。決して口には出さないが、最悪稲垣さん一人で逃げてしまうことがあるのではないか不安だ。
とはいえ、三対一で街側を行こうという意見が多い中、入間くんは私と弥生さんにも自分の考えを述べるように促した。
「二人は能力もないし、女の子を危険な目にはあわせたくない」
「何よそれ。女は足手まといってこと?」
入間くんの揚げ足を取る弥生さんを制し、私は自分の意見を正直に言った。
「街は危ないけど、どっちにしろ危険なことに変わらないなら、せめて明るい道の方が安心できる」
入間くんに反対するのには気が引けた。今までの発言をとっても、彼は常に冷静に、正確な判断をしている。ジャングルの道なき道を歩く方が安全なのかもしれない。それでも、今の私に暗闇の道を歩く勇気はない。「勇気がない」と意思表示することが大事なような気がして、素直にその心情を伝えた。
弥生さんも私の話に同調した。やっぱり恐いものは恐い。彼女は、そんな弱音を見せまいと、強がりを言ったり人につっかかったりして自分の本心を隠そうとしていたのだ。
入間くんは私達二人の意見を聞いて、静かに立ち上がった。
「修先輩、街から行きましょう」
「やっと折れたか、この堅物!」
お兄ちゃんが入間くんにとび蹴りを食らわせた。腰を思いっきり打っても、平然としている入間くんを見た弥生さんが、こっそり「あいつやっぱりロボだよ」と耳打ちしてくる。
私達は先輩が乾かしてくれた服を着ると、街から馬頭トンネルを目指すことにした。街から行くか、ジャングルから行くか。この二択に正解はない。
さっきは真っ暗だった獣道も、今は先輩が小枝に火をつけて持ち歩いているので、幾分歩きやすかった。加古田医師の診療所付近の路地をこっそりと通る。怪しい感じの人も多く、ちらちらとこちらを見る輩もいたが、狙われたり襲われたりといったことはなく、大通りにたどり着いた。
誰か分からない溜息が聞こえた。ここがいくら危ない街であったとしても、やっぱり明かりがあるだけで安心する。
「ま、普通の繁華街くらいの危なさって思ってれば大丈夫じゃない?」
先輩が笑った。元気付けてくれたつもりだとは思うけど、こんな派手な繁華街は日本に少ない。中学を卒業したばかりで、地元からあまり離れたことのない私にとっては、どちらにしろ「何が起こるかわからない」街である。
私達は、屋台や露天の隙間を抜けるため、一列になった。先頭は先輩で次にお兄ちゃん、私、弥生さん、稲垣さんと続き、最後尾に入間くんがいる。本当は能力がある稲垣さんが一番後ろに来るべきなのだが、「どうしても恐いから」という申し出を受け、入間くんがその役を自らかってくれたのだった。
街の喧騒を聞きながら、ひたすら前進していく。私はお兄ちゃんの後ろを追いかけるので精一杯だったので、弥生さんに肩を掴まれるまで気がつかなかった。
「陸ちゃん、前に伝えて! 後ろからすごい人が追ってきてるって! 早く走って!」
後ろを振り返ると、老若男女様々な人間が集まり迫ってきている。入間くんも稲垣さんも小走りだ。
「お兄ちゃん! 人! 後ろに! いっぱい!」
「あ?」
カタコトの日本語にお兄ちゃんも振り返る。察した先輩もこちらを見た。
「やべ、逃げるぞ!」
先輩の合図で一斉に走り出すと、同時に集団も追いかけてきた。
「待って、お嬢さん!」
「そこのピンクの服の子!」
後ろから謎の黄色い声が聞こえてくる。ピンクの服……弥生さんか?
「あ、あたし、何も知らないよ!」
「ともかく逃げるぞ!」
先輩は私の後ろまで下がり、弥生さんを抱え上げた。稲垣さんだけ一人身軽に、露天の屋根を駆け上り、忍者のように逃げていた。やっぱりあの能力は逃げるためのものだ。今更ながら、お兄ちゃんの嫌味に同意した。
大通りから、診療所があったところより一本先の路地に入る。そこはさっきの路地とは違い、両サイドのきれいな高いビルが建っていた。ありがたいことに人通りもない。いくつかの窓から光が漏れていることから察するに、ここはビジネス街で、残業している人が数人いるくらいだというところだろうか。
「何とか撒いたみたいだな」
先輩がお姫様抱っこしていた弥生さんを、ゆっくり地面へ下ろした。
「トモ、ありがと」
「しかし、なんで弥生が追われてたんだ? しかも突然すぎるだろ」
お兄ちゃんと先輩が頭を捻っているとき、はっきりとした女の声が聞こえた。
「『沙門街に謎の美少女光臨! 異世界からのニュー・アイドル!』見出しはこれで決まりかしら?」
ヒールの音が響いた。私達が辺りを見回すと、大きなビルの一つから、パンツスーツの
女性が現れた。
反射的に先輩とお兄ちゃん、入間くんが弥生さんと私をかばった。
「あら、心配しないで。私はこういう者です」
そう言って、首から下げたⅠDカードを差し出した。先輩が代表でそれを見に女性の近くへ寄る。
「沙門街新聞の今村さんが、俺達に何か用か?」
今村という女性は、にこやかな笑みを浮かべこちらへ近づいてくる。けん制したのは入間くんだった。
「それ以上、こちらへ近寄らないでください。さもないと」
「あんたに火を放つ」
先輩も今村さんをじっと睨みつけている。二人の剣幕にも動じず、今村さんは歩む足を止めようとしない。
「マジで火をつけるぞ!」
先輩だけではない。全員が焦る。そんな様子さえ楽しんでいるかのように、にこにことこちらへ来る。鼓動が早くなる。
先輩が指を鳴らす寸前、今村さんは止まった。
「そんなに恐がらないで。あなた達が新天地に来てどんな目にあったのかは知らないけど、その真珠さえつけていれば安全なのよ?」
腕を組み、溜息をつく。まるでこちらが駄々をこねているような気がしてくる。かといって「はいそうですか」と安易に近寄ろうとは思わない。
硬直した空気の中、今村は黙って弥生さんを指差した。
「あ、あたし?」
「さっきうちの社に連絡があったわ。街の人全員を惑わすほどの美少女が現れたって。それを取材したくてね」
全員が弥生さんに注目する。弥生さんは確かに可愛いと思うが、街中の人を惑わすほどの美少女かと聞かれたら、少し困ってしまうというのが本音だ。お兄ちゃんと稲垣さんも微妙な顔をしている。先輩は自分の彼女という手前もあって、意見しにくい状況だ。当の本人もどう受け止めればいいのかわからないのではないだろうか。何とも返答しにくい質問をされてしまったような気がする。
「今村さん、聞いてもいいですか」
入間くんだった。今村はええ、と軽く返事をした。
「取材というのは、アイドルに対するインタビューのようなものですか。それとも」
今村の目をじっと見つめ、一呼吸入れる。何を聞く気なのだろうか。緊張が走った。
「異世界から来た人間の『能力』についての取材でしょうか」
「入間?」
先輩が入間くんに問いかける。私は話が全く飲み込めなかった。キーワードを頭の中で整理する。弥生さんが美少女で、街中の人を惑わせて……で、『能力』? そうか。
「弥生さんは人を惑わす能力があるんだ」
私が無意識に口にした答えに、本人が反応した。
「え……あたしに、能力?」
「そういうことか。入間、わかりやすく言えよ」
お兄ちゃんがぼやくのが聞こえた。稲垣さんも合点が行ったようだ。
先輩が今村さんを鬼のような形相で見た後、彼女のブラウスの襟首を掴んだ。
「ふざけんな! 弥生はパンダじゃねぇ! 俺達もだ! お前らに取材なんぞされてたまるか!」
すごい剣幕で襲いかかる先輩に怯えもせずに、今村さんは彼の目を見て真剣に言った。
「沙門街新聞は基本的にこの街で起こっていることを伝えるマスコミよ。彼女の『能力』。それは確かに興味深い。でも、私達の仕事は、街の人間に冷静な判断を下せるように情報を提供すること。つまり弥生さんの魅力は彼女の『能力である』。これを伝えないと、街の人たちは自分が何で彼女の虜になってしまうのかわからなくて社会が機能しなくなるわ」
至極的を射た意見だった。先輩はゆっくりと彼女の襟首を離した。
「だけど、俺達はまだ、この街の人間を信用していないんだからな」
吐き捨てるような台詞。だが、それには私も同感だった。言葉は通じるけれど、全く知らない異国に突然飛ばされてきたようなものだ。不安であることは変わらない。
「あなた達が信用しようがしまいが、私には仕事があるの。そのためにはどうしてもあなた達の力を貸して欲しい……いえ、話だけでも聞かせて欲しい。これだけでもダメかしら?」
先輩の顔は、歪んでいた。私達は早く馬頭トンネルに向いたい。でも、弥生さんの能力がある限り、そこへ辿り着くまで大きな試練を乗越えなければならなくなる。後ろから追いかけてくる人間を払いのけるだけならまだしも、捕まりでもしたらどうなることになるか想像できない。
「あの、あたしが取材を受ければ、少しは街の人も冷静になってくれると思いますか? その、大勢で追いかけたりとか、そういうことはなくなりますか?」
上擦りながらも必死な口調で今村さんに訊ねる弥生さん。
「ええ、ある程度は弁えると思うわ」
しばらく人差指を折り曲げて口元に当て、考え込んでいた弥生さんだが、とうとう答えを自ら出した。
「あたし、取材受けます」
「なんだって?」
再び怒りに満ちた顔に戻った先輩に、弥生さんが優しく諭す。
「もし捕まって危険な目に合うのなら、最初から予防線を張っておいたほうがいいと思う。……トモは反対だと思うだろうけど」
「当たり前だ!」
先輩の声がほとんど人のいないオフィス街に響いた。それを抑えたのが入間くんだった。
「先輩、弥生さんのいうことも確かです。大勢に追われるとなると、余計行動しにくくなる。それに異世界から来る人間が多いと知っているなら、馬頭トンネルに向うことも想定されてしまう。そしたら厄介です」
お兄ちゃんも今回は入間くんの肩を持つ。
「この女の全てを信用する気はないよ。だけど、現状打破するにはこれしかないんじゃないっすか?」
私はあえて何も言わなかった。先輩も納得してくれると信じたかった。
憤りを湛えた眼差しを今村さんに向けた後、大きく溜息をついて弥生さんの肩を引き寄せると、先輩は言い切った。
「わかった。取材は受ける。その代わり俺達も一緒だ。文句はないよな」
「もちろんよ」
笑顔の下に何が隠れているかわからない今村さんの後ろを歩き、私達は沙門街新聞本社に乗り込んだ。