FOUR

文字数 26,201文字

 十階の会議室に連れて行かれた私達は、落ち着きなくきょろきょろと部屋を見回していた。別に普通の会議室と変わりない。ホワイトボードにイス、ミーティング用の長方形のデスクがコの字型に配置されている。変な箇所がないか、違和感は無いか見ても、特に何も感じない。
 安心しても大丈夫なのだろうか。診療所のように、死体が隠れていたりしないだろうか。
不安を抱えていたら、ドアをノックする音が室内に響いた。
 今村さんがドアを開けると、宅配ピザ屋がそこにいた。お金を払うと、それを受け取り、早急に出て行った。
「一応ピザを頼んだけど、食べる? 私も徹夜でお腹減ってるのよ」
 今村さんは届いたばかりのピザとサイドメニューで頼んだらしいポテトやサラダ、から揚げをデスクに並べた。
「いえ、今はお腹減っていないので」
 私が控えめに遠慮すると、先輩が不愉快そうに指摘した。
「陸ちゃん、そんな丁寧に断らなくたっていいよ。この世界の人間と俺達が食べるものが一緒だとは限らない。もしかしたらこのサラミだって、人肉かもしれない。食えるわけないだろ」
 先輩の堂々とした皮肉を聞いた今村さんが噴出した。最初は抑えた笑いだったが、最後にはこらえきれずに腹を抱えだした。
「はは、君、面白いね。いや、不安な気持ちはわかるけどね」
 目には涙を浮かべている。笑っている彼女に何とも言いがたい気味悪さを感じた。実際、私達は「死刑執行広場」での様子をニュースで見ている。人が獣に変わるといった形容がまさに当てはまった。死刑執行人は、死刑囚の喉下を食いちぎっていた。あの放送を見た後、「サラミに人肉が使われている」と言われたら、食べたいと思う人間なんて、いるわけがない。
 それでも気にせず、今村さんはピザを口に運んだ。
「カニバリズム的なものは、この世界にないわ。食べ物もあなた達の世界と同じで、野菜や牛や鶏の肉を食べてる。安心して」
 ピザを一切れ食べ終わると、ホットコーヒーを人数分注ぎ、メンバーの前に置いた。
「これも普通のコーヒー。水だってちゃんと上水道、下水道分かれてるし、なんら変わらないわ」
 コーヒーのいい香りが鼻をくすぐる。そう言えば、さっきまで喉が渇いていたのだ。それに心なしかお腹も減ったような気がする。横に座っている稲垣さんが、落ち着きなさそうに食事とコーヒーに視線を動かしている。そして、とうとう意を決したように、ポテトに手を伸ばした。
「稲垣!」
 先輩が止める前に、稲垣さんは口にポテトを含んでいた。何回か咀嚼して、ごくんと飲み込む。
「大丈夫……か?」
 お兄ちゃんが心配そうに稲垣さんの側に寄った。当の本人はけろりとした顔でうん、と頷いた。
「特に変な味もしなかったし、おいしいよ」
「バカッ! 何で勝手に食べてるの!」
 弥生さんが真っ青な顔で責めたてても、稲垣さんは食べることを止めようとせず、自分の紙皿にどんどん食べ物をのせていく。
「僕、夕飯何も食べてなかったんだ。先輩はファミレスで食事してたけど」
 食べながら喋る。余程空腹だったのか、その勢いはとどまることを知らない。今までずっとびくびくして人の後ろに隠れていた稲垣さんが、破竹の勢いでデスクの上の食べ物を胃袋に収めていく。その姿は壮観だった。
 稲垣さんを見ていたお兄ちゃんのお腹が鳴った。つられたように私のお腹も鳴り、赤面した。
「今村……さん、本当にこの食べ物に害になるものは入っていないんだな?」
「もし何かあったら、大通りでこれを取るわ。それでいい?」
 小指に付けたピンキーリングがきらりと光った。シルバーのバラに、小さな黒っぽい宝
石がついている。何の石かは小さすぎてよくわからなかった。
 微笑み、新しいピザの切れ端を口に入れる今村さん。その様子を見たお兄ちゃんも、自
分の紙皿にから揚げをのせた。
「そこまで言うんなら、食べても大丈夫かな」
「おい、修!」
 先輩の忠告を無視して、から揚げを口に入れる。一つ食べてしまえば、もう止まらない。
次から次へと食べ物を皿に取る。
「弥生! お前も何を飲んでる!」
「もう限界。喉渇いたから」
 まだ熱いはずのコーヒーをがぶ飲みする弥生さんを見て、私も勇気が湧いた。
 サラダとポテトを皿に盛る。さすがに肉類を食べるのには躊躇したが、野菜類は私達のいた世界と全く同じ味だった。
 食べることに夢中な四人の様子を眺めていた先輩と入間くんは、何も口にしなかった。


 食事が終わるとデスクの上を片付け、弥生さんへの取材の準備が始まった。とは言え、ゴミをまとめ、今村さんがレコーダーとノートを持ち出してくるだけではあった。弥生さんと今村さんが横一列に並び、先輩は、弥生さんが変な質問を受けないようにその背後に立っていた。私達残りの面子は、邪魔にならないように離れた位置に座っていた。
 こっそり聞き耳を立てていたが、インタビューの内容はそんなに問題なさそうに感じた。掲載するのは本名じゃなくてよいとのことだったので、弥生さんは「YAYO」と名乗り、あとは簡単なプロフィール。能力を手にしたことでどう思ったか、沙門街の人々に一言、という具合に、まるでアイドルに対しての質問内容のようだった。
 また今村さん編集長だということもありやり手なのか、時折弥生さんの笑い声も聞こえた。インタビューで大切なのは、相手の本音を引き出すことだ、と前に読んだ本に載っていた。編集長という肩書きに偽りはなさそうだ。
「うーん……」
「なんだ、稲垣」
 不満げな顔で稲垣さんはお兄ちゃんの顔を見た。
「なんだかまだ食べたりない感じ……」
「まだ、ですか?」
 入間くんは呆気にとられた。それも当然だ。稲垣さんは、Lサイズのピザをほぼ一人で平らげ、他のサイドメニューも皿に大盛りにし、コーヒーを砂糖三本、ミルク四つ入れて三杯飲んだのだ。それなのにまだ空腹とは、尋常ではない。
「俺も結構食べたけど。ま、お前は元から大食いだしな」
 お兄ちゃんは普通に笑っている。稲垣さんは大柄ではあるけれど、太ってはいない。どちらかと言うと、上に栄養が行っている感じだ。それに比べて私は横に栄養が行く。稲垣さんが何とも羨ましい。
「修先輩も陸さんも変わりない、ということは、あの食事で何か体調の変化が起きたわけではなさそうですね」
 腕を組みながら分析する入間くん。そんな分析をされたところで、稲垣さんの空腹は満たされない。
「何かもうちょっと食べたいな……」
 その呟きが聞こえたのか、インタビュー中だった今村さんがこちらを向いた。
「それなら廊下にお菓子の自販機があるから、そこで何か買ってきたらどう? お金は私が出すから」
 デスクに置いてあった黒い長い財布の中から、紙幣を一枚差出して稲垣さんに渡した。
「このお金は? やっぱり沙門街独自のものですか?」
 稲垣さんの手にあった紙幣をちらっと見て、入間くんが何かに気がついたようだ。私もよく見てみる。偽造防止加工は似ているようだが、絵柄は全く違う。これは、如来だろうか。横には「沙門街銀行券 千玄と書かれていた。
「この世界は『円』じゃなくて『玄』という単位なんですか?」
 私が聞くと、今村さんは笑いながら答えた。
「基本的には千円=千玄だから、そんなに変わらないんだけどね」
「新天地って、俺達の世界と妙に重なってますね」
 入間くんが指摘すると、笑顔だった今村さんはみるみるうちに渋い顔に変化した。
「君はするどいね。なんて説明しようかな」
 口ごもったが、今村さんは簡単にこの世界のことを解説してくれた。つまり、この「新天地」と私達のいた世界は、表裏一体らしい。この世界の入り口である牛頭トンネルは、普段なら普通に通行できるトンネルだ。だけど、何かのきっかけが重なって「新天地」の扉が開いてしまうと、異世界から人が迷い込んでしまう。
「うまく伝わってるかな。要するに、あのネコ型ロボットが出てくる引き出しと同じ構造だと思うわ」
「何となく、わかったような?」
 私が曖昧な返事をしていたら、稲垣さんが突然席を立った。
「ともかく、ちょっとお菓子買ってくる」
「一人で平気か?」
 お兄ちゃんの声に耳も貸さず、千玄札を握り締めて会議室を飛び出していった。
 会議室の時計が六時を指した。おそらく午前六時なのだろうが、朝日が差す気配はまったくなかった。弥生さんと先輩は、インタビューが終わったらしく、こちらに近づいてきた。思ったよりあっさり終わったようで、先輩も少しが抜けた表情をしていた。
「お疲れ様。これからインタビューを原稿にするんだけど、その後チェックして欲しいの。もう少し待ってもらってもいいかしら?」
「待つのはいいけど、この情報は早く回るんだろうな? 弥生の魅力が『能力』のせいってことが伝わらないと、結局逃げ続けることになるんだから」
 先輩が不安を隠そうともせずに聞くと、今村さんはウインクした。
「大丈夫よ。紙媒体になるのは夕方になるけど、その前にネットと他のマスコミにもリークしておくから、七時のテレビニュースには話題になると思うわ」
 今村さんはそのままレコーダーとノートを持ち、会議室のドアを開けた。


「そういえば、稲垣遅すぎないか?」
 お兄ちゃんは時計を確認した。稲垣さんが会議室を出たのは五時半。お菓子の自販機はこのフロアの廊下にあると今村さんは言っていた。確かに遅すぎる。
「ちょっと俺、見てきます!」
 入間くんが勢い良くドアを開けたときだった。
 耳を劈くような女の悲鳴。嫌な予感よりも先に、自分の身を案じた。また何かに巻き込まれたのではないか。
「な、なんだろ、今の」
 弥生さんが先輩に抱きつきながら震えている。
「稲垣も帰ってきていない。もしかして、あいつ絡みだったりするのか?」
「あのバカ!」
 お兄ちゃんは入間くんを押しのけ、廊下に出た。入間くんと先輩も続く。弥生さんは震えているが、ここで女二人きりになるのは危ない。肩を貸し、一緒に廊下を走った。
 廊下の一番端のガラス扉の前で、今村さんが腰を抜かしていた。顔も青い。
「おい、あんた! どうしたんだ!」
 お兄ちゃんが今村さんに近づくと、彼女はオフィス内を震えながら指差した。
「ひ、い、稲垣……?」
 お兄ちゃんも後退さる。入間くん、先輩とともに中を見ると、信じられない光景が待ち受けていた。
 デスクに座っている稲垣さんの口には真っ赤な血。手にはまがまがしい何かの固まり。それをおいしそうにほおばる彼の足元には、血まみれの男性が三人、倒れていた。
「うっ……」
 『食人』だ。言葉が浮かぶと同時に、弥生さんを突き飛ばして廊下に嘔吐していた。誰もが人を食べる稲垣さんを見ていることしかできなかった。もし声をかければ、今度はこちらが食べられてしまうのではないか。そんな恐怖が頭を掠めた。
「沙門街新聞本社で殺人事件です! すぐ来てください!」
 今村さんだった。震えながら携帯を取り出し、どこかに連絡していた。おそらくこの世界の自衛組織だろう。
 稲垣さんは私達がいることに気づかず、そのまま「食事」を続ける。
「あんた! さっきのピザの中に何か入れてたのか?」
 先輩が今村さんに飛び掛るが、今村さんは真っ青な顔をして頭を横に振るだけだ。
「そんなことしてない! 食べ物は異世界もこの世界も一緒だって加古田が言ってたのに」
 加古田。こんな場所であの医師の名前が出るとは予想もしなかった。だが、今はそれに誰も気がついていないようだ。
「稲垣! やめろ! やめるんだ!」
 お兄ちゃんの声も届いていない。稲垣さんは手に持っているものを貪るのに夢中だ。
「稲垣先輩の体型……変わってきてませんか?」
  私の代わりに弥生さんを抱えた入間くんが小声で囁いた。見たくないけれど、薄めを開けてみる。入間くんの言うとおり、少し腹がぼてっとしたように見える。それに、一心不乱に食べているせいか、髪の毛も乱れ、血糊がついている。まるで赤鬼のようだった。
 サイレンとバイクのエンジン音がした。一台じゃない。かなりの台数いそうだ。
「おい、あんた、何を呼んだ?」
 お兄ちゃんが今村さんを問い詰める。
「自衛組織SSF……。あなた達の世界のケイサツみたいなものかしら。殺人は立派な犯罪よ」
「なんだと!」
 先輩が声を荒げる。その間にも、稲垣さんの腹は膨れ、髪は終いに真っ赤に染まって別人、いや、人の形すらしていなかった。
「悪いけど……あなた達も捕まってもらうわ。こんな危険な人間を引き入れてきたんだから」
 稲垣さんを見つめたまま、今村は言い放った。それにすぐ反応したのが入間くんだった。
「皆、逃げるぞ!」
「でも、稲垣がっ……」
 泣きそうな弥生さんを無理矢理引きずって走り出す。私も、氷のように固まった足を根性で動かす。先輩とお兄ちゃんも一緒だ。
「稲垣先輩はもう仕方ないです! ここは退却しましょう!」
 廊下で腰を抜かしたままの今村を置きっぱなしで、私達は近くの非常用階段から外へ抜け出した。


「一体どういうことなんだ!」
 お兄ちゃんが頭を抱えた。まだ全員、肩で息をしている状態だ。ビルの表には予想通り自衛組織と思われる白バイが多く止まっていた。裏にも何台か止まっていたが、塀をよじ登り三つ先のビルの隙間から抜け出した。
 全速力だった。ここで捕まったらどうなるのだろうか。稲垣さんはどうなったのだろうか。暗い考えしか浮かばなかった。
「弥生をインタビューさせたのは、思慮が浅すぎたってことか」
 先輩が弥生さんを抱っこした状態で呟いた。その胸の中で、泣き顔の弥生さんが否定する。
「で、でも、あたしはその方がいいと思って……」
 そこで大きく手を打ったのは入間くんだった。
「ストップ! 過去を振り返るより、どうするかが問題です」
「お前、稲垣が……あんな状況になって、よくも!」
 お兄ちゃんのパンチが左頬を打つ。それでも入間くんは無表情を変えない。
「確かに異常事態です。それでもこの中で稲垣先輩を助けることができた人はいますか? あの人は俺達の声も聞こえなかったようだ」
 誰もが黙った。口についた血。真っ赤な髪。人間を貪る稲垣さん。人とは、同じ仲間だとは思えなかった。自分が食べられてしまうのではないかという不安すらあった。そんな彼を助けるなんて、できっこない。
「ともかく、目立たないように移動して、馬頭トンネルの位置を確認しましょう。稲垣先輩を助けるのは……それからでもいい」
 入間くんが珍しく言いよどんだ。私は何となく察した。入間くんは稲垣さんを見捨てるつもりだ。他の皆がそれに気づいたのかはわからないが、誰からも異論は出なかった。
 それ以上話すものは出ず、五人で路地を彷徨った。いっそ心が砕けてしまえばいいと思った。
 稲垣さんが臆病で、人の影に隠れているような人だったとしても、その人を勝手に見捨てるなんてひどくおぞましいことだ。全員で元の世界に帰る――それが目的だったはずではないのか。
 先輩を、所在無く動かしていた目が捕らえた。「俺が皆を守る」と言った。生気なく、曇った瞳。口からは時折「稲垣、すまん」という言葉が漏れた。その胸の中で、弥生さんは声を抑えて泣いている。
 私は横を歩いていたお兄ちゃんの手を握った。こんなことをするのは何年ぶりだろう。手だけじゃない。心もお兄ちゃんに縋りたかった。私の手を強く握り返した大きな手は、冷たい汗で湿っていた。お兄ちゃんの視線の先には、入間くんがいる。彼だけが、背筋を正して前を睨んでいた。


 絶望と悲嘆にくれる時は、すぐに終わりを告げた。路地裏に潜んでいた男のグループが、弥生さんに惹き付けられてしまったのだ。
 林方面の道は塞がれている。先輩の能力で強行突破するにも、相手の人数が多すぎる。
「くそっ、大通りに出るしかないのか!」
 大きく舌打ちする先輩に、入間くんが叫んだ。
「大通りを突っ切って、反対側の路地に入りましょう! 行き止まりまで走って背後を守ったら、先輩が攻撃する!」
「それしかないな! 行くぞ!」
 お兄ちゃんの掛け声で、私達は一斉に走り出した。
 大通りに出た途端、道行く人間全ての足が止まった。それも一瞬。すぐに先輩が抱かかえている弥生さんに手を伸ばしてくる。初売りの福袋を奪うかのよう、と今の状態を例えられるということは、私もまだ余裕があるはずだ。
 力任せに前に立ち塞がる人垣を押しのけ、進む。お兄ちゃんと入間くんが先にいるとはいえ、圧力はすごい。私は両手が塞がっている先輩と弥生さんに人ができるだけのしかかってこないように、細い道を作る。子供だろうが、お年寄りだろうが、もう関係ない。この程度の人波を泳ぎ切らなくては、元の世界に帰ることなどできないのだから。
 急に目の前が開けた。お兄ちゃんが目前の二人を蹴倒し、路地に入り込んだ。すかさず全員がネオンの光る喧騒の道から、真っ暗な道に走る。
 先輩が弥生さんを下ろし、私達が彼女を囲む。大通りから一人、二人と路地に入ってくる。
「先輩!」
「火よ!」
 入間くんの合図で、先輩が右手を挙げる。同時に前方にいた男達の体が、まるでガソリンを浴びたように燃え始める。追ってきた人々も、さすがにこの事態を見て後退った。
「と、トモ、ちょっと、燃えすぎじゃない? この人達、死んじゃうよ!」
 後ろから弥生さんが先輩の服を引っ張る。それでも、一向に火の勢いを止めようとはしない。
「先輩、やりすぎだろ! さっきみたいに雨、降らせろ! マジで殺す気か!」
 お兄ちゃんも必死に先輩を促すが、微動だにしない先輩。集まっていた人々も、恐れをなしたのか大分距離を置いて様子をうかがっている。
「陸さん、手伝って!」
 入間くんがパーカーを脱いだ。私もジャケットを脱いで、彼を追う。火柱と化した人に、思いっきり服を叩きつける。それでもなかなか火は消えない。炎の中から人のうめき声が聞こえる。私は目を瞑って、何度も何度もジャケットを叩きつけた。入間くんは、地面に寝転がるように叫ぶ。そのうち彼のパーカーに火がつき、腕まで炎が迫ってきた。
「トモ、やめて! 入間まで燃えちゃう!」
 甲高い声が辺りに響き渡ると同時に、ザーッと大きな音を立て、強い雨が地面を濡らした。


 改めて路地を見渡すと、汚いアパートが立ち並んでいた。こんな風景を見たことがある。ある映画のワンシーンにあった、一九八〇年代のマンハッタン、イーストビレッジ。不良が書いただろう、スプレーの落書きに、謎の注射器。雨だからあまり鼻にはつかないが、少しアンモニアのにおいもする。誰かが立ち小便でもしたのだろう。ゴミはそのままドラム缶に山盛り。その中に鼠の頭が見えた。
「ここなら、人に気づかれなさそうだな」
 入間くんが何か重い物をずらしたような、コンクリートの擦れる音が聞こえた。雨が降ってから、私達は何も言葉を発していなかった。誰か話していたのかもしれないけれど、私には聞こえていなかった。目の前には焼け焦げた「人だったもの」が三つ転がっている。
 今村を思い出した。『この世界でも殺人は犯罪』――。私達は稲垣さんのことで、重要参考人になったことは確実だろう。それなのに、更に先輩が三人もの人を炭に変えたとしたら。
 考えたらダメだ。わかりきったことをわざわざ頭で確認することができるなら、この世界から脱出することを考えろ。
 「混乱しないように」なんて、頭で考えていても心は動揺している。私は入間くんの手を借りて、マンホールの中へ降りた。
 細い梯子を降りると、大きな水の流れに出くわした。さっきまでいた路地の異臭なんて可愛らしいものだ。ここの匂いは、鼻がおかしくなるどころではない。頭まで痛くなってくる。
 先輩は何も言わず空気中に火をともした。まるで蛍火のように、ふわふわと光が飛ぶ。
「きついけど、隠れるにはここしかないな……」
 お兄ちゃんが冷たい目で先輩を責める。その気持ちは分かるが、私達にはどちらにせよ隠れる場所が必要だった。馬頭トンネルまであとどのくらいなのかはわからないが、これからは弥生さんに惹きつけられて追いかけてくる人だけではない。今村が言っていた、「SSF」とかいう自衛組織も追ってくるだろう。まずは作戦を練らなくてはならない。
「どうやらこの下水道は、沙門街と同じ構造みたいです」
 暗い中、壁伝いでこの辺りを散策していた入間くんが、皆に報告する。大きな流れが真ん中に一本あり、横に細く枝分かれしているようだ。
「ってことは、もし運がよければ、馬頭トンネルの方に抜けられるってことか」
 お兄ちゃんは入間くんの方へ向くと、彼は力強く頷いた。
「運がよければ」という言葉は、正直今聞きたくはなかった。運が悪かったから、ここにいるのだし、変な街に迷い込んだ。挙句に稲垣さんは化け物となり、私達はマンホールの中。これだけ不運続きなのに、幸運が来るなんて思えない。
 弥生さんは先輩と距離を置いていた。追われた原因は弥生さんだが、先輩を止めようとしたのも彼女だ。その声も届かず、先輩は三人もの人間を炭にした。今、彼女は私の横に膝を抱えて座っている。自分の能力の恐ろしさを痛感しているのか、何度も頭を振っては、隣に腰を下ろしている私の腕にしがみつく。
「弥生さんのせいじゃないですよ……。全部この世界が悪いんです。」
 いくつか投げかけてはみたものの、どれも薄っぺらなワードに変わっていくのが口に出していく途中で感じられた。
 私が本当に言いたいことは「弥生さんの変な能力のせいで、私達まで追われているんです」。きっと、そんなひどい言葉なのだろう。
 自己嫌悪に陥っている最中、弥生さんが袖を引っ張った。
「あ、あ、あ……」
 最早言葉にすらならない語を発する彼女は、私の左後ろを指差した。無視していたが、あまりに強く引っ張るものだから、仕方なく彼女が示す左後ろの細い通路を見た。
 私はその光景を疑った。お兄ちゃんと入間くんはすかさず戦闘態勢に入る。
 ――白い、小柄な少女が、何人もの男達を華麗に投げたおしていたのだ。
 男の右から繰り出されるパンチをいなし、腕を掴んで落とす。左からの蹴りには体の中心を右にずらし、最小限の力でかわした後、相手の軸足に自分の足ひっかけて転がす。カンフーアクションでも見ている気分だった。
 少女はその場にいた男達を全員下水に放り込むと、私達に気がついた。小さな炎に選らされた、彼女の赤い瞳が私を見つめる。
 足場は狭い。人がすれ違うのがやっとだ。お兄ちゃんと入間くんは列の後ろにいる。先輩は少女に気がついているが、戦う姿勢には入っていない。ただ立っているだけだ。
 少女は水溜りを踏みながら、こちらに歩み寄ってくる。私は弥生さんを庇うように立った。見た目は同じ年齢くらいだが、能力のない私が、男を素手で何人も倒した少女と戦って勝てる訳がない。それでも戦わないと、皆を救うことなんてできない。ここは異世界だ。現実世界ではない。だけど、近づいてくる少女は「現実にいる」のだ。恐くても、現実から目をそむけるな。
 自分に暗示をかけてからゆっくりと目を開けると、少女の顔がすでに眼前にあった。
 先輩の炎のせいで赤く見えたと思った瞳は、真っ赤な血の色だった。白磁のような肌に、純白の髪。人の形をしていたが、同じ人間とは思えないほど美しかった。
 少女が黙って首のネックレスを触った時、電撃が走ったように私は身を引いた。
「さ、触らないで!」
 真珠のネックレスを取られたら、私も命を狙われる。油断した。
 少女は、私達を見渡すと、ゆっくりと口を開いた。
「心配しないで。あんた達の命なんか狙わないよ」
 無表情でそう言われても、簡単に信用できない。この世界の人間を信用して、全部裏目に出ている。私はネックレスを手で隠しながら、警戒の視線を少女に送った。
「当然、信用なんかできないよね。でも、私はあんた達の味方になる」
 上に羽織っていた布を取り、白いノースリーブのワンピース姿になる。その少女には、今まであった新天地の人間との明らかな違いがあった。
「だって私は、あんた達と同じ世界から来たんだから」
「なんだって……? だとしたら俺達と同じく真珠のアクセサリーをつけてるはずだろ? 何もつけてないじゃねぇか!」
 お兄ちゃんが怒声を上げる。
 彼女の腕、指、首、耳、どのパーツを取っても、真珠どころか身を守るための宝石はついていなかった。
「何も知らないみたいだね。無理もないか」
 少女は軽く舌打ちすると、冷たく言い放った。
「元の世界に帰るために使ったんだよ」
「それなら何でお前はまだこの世界にいるんだ!」
 熱くなり、追い討ちをかけようとするお兄ちゃんに、入間くんがいさめた。
「修先輩、この子の話を聞いてみましょう。信用する、しないはもうこの際関係ない。罠だと分かっていても、はまらなくちゃいけないときだってある」
 少女は表情を変えずに、「ついてきな」と細い通路に私達を案内した。


 通路をしばらく歩くと、ドアがあった。少女が躊躇なくそこを開くと、中はちょっとした空間になっていた。少女曰く、普段は使われない下水掃除時の休憩所とのことだ。
「狭いけど、入れるでしょ」
 少女に促され、狭い室内に入る。汚れた布団らしきもの。それと食料が少し。部屋の隅に置かれていた。あまり清潔ではないが、先ほどまでいた場所よりは暖かく、居心地もよかった。
「……うう」
 大きく詰まれた布団の中から、うめき声が聞こえる。弥生さんは体を強張らせ、私の腕を強く掴んだ。
 少女が布団を捲ると、同じく白髪の、顔立ちは限りなく外国風の男性が埋もれていた。
「こいつはアラン。フランス人、って言っても、新天地じゃそんなこと関係ないか。でも、日本語はわからないから、一応」
「アラン……まさか、アラン・フランクか?」
 入間くんが目を見開いて、少女の肩を揺さぶった。今まで冷静に状況を理解し、行動していたはずの彼が、柄にもなく取り乱している。 
 少女から手を離すと、今度はアランと呼ばれた青年の方へ飛びかかる。
「あんた達、何でこんなところにいるんだ! だって、あんた達は……『あの事故以来』行方不明になっているはずだろ!」
 入間くんの言葉に反応したのか、少女の目が光った。
「あんた、もしかして、土倉の知り合い?」
「ああ、土倉竜也(つちくら・りゅうや)は俺の従兄弟だ」
 入間くんが言い切ると、少女は黙った。私達は話しに全くついていけず、ただ、少女と入間くんを交互に見ることしかできなかった。入間くんは少女の前では熱く、攻撃的で、饒舌だった。入間くんがそうなった理由――『土倉竜也』とは一体どういう人物なのだろうか。それと、彼が言った『あの事件』とは何か。
 思案を巡らせていると、お兄ちゃんが私の腕を取った。話があるらしい。弥生さんも一緒に行こうとしたが、どうにか言い聞かせてその場にとどまらせ、お兄ちゃんと二人で外に出た。
 外に出るのは危険ではあるが、あの空間で秘密の話はできそうもない。何かあったらすぐ室内に逃げ込めばいい。
「お兄ちゃん、何?」
「いや、この世界来て、お前だけと話すってなかったからさ」
 お兄ちゃんは照れくさそうに笑ったが、私には意味がわからなかった。そんな優しい笑みは一瞬で消え、すぐに真剣な眼差しになる。
「ともかく、入間には気をつけろ」
「え?」
 思わず耳を疑った。頼りになる人間だということは、いくら嫌っていてもお兄ちゃんだって分かっているはずだ。それを今更「気をつけろ」だなんて。
「おかしいよ! いきなり仲間に対して、なんでそんなこと言うの」
「聞けよ。多分入間は知ってたんだ。ここに来ることを」
 お兄ちゃんは低く、小さな声で私の耳に話しかけた。
 お兄ちゃん、稲垣さん、弥生さんは先輩の「いつもの気まぐれ」に付き合わされて、牛頭トンネルに行くことになった。だけど、入間くんは普段、理由がなければこういった集まりには参加しないらしい。
「だから、あいつが集合場所に来たときは少し違和感があったんだ」
 話は続く。先輩からの連絡は、個人の携帯に来たはずだ。現にお兄ちゃんはそうだった。そして「いつものことだ、付き合ってやるか」と私を連れて集合場所に行った。
「多分先輩、入間に聞かれてどこへ行くか言ったのかもな」
「入間くんが牛頭トンネルに行くって知ってたからって、なんで彼を信用しちゃいけないことになるの!」
 私はお兄ちゃんの腕を取った。大声を出した私に静かにするよう合図して、お兄ちゃんは言った。
「さっきの土倉ってやつの話。よくはわからないけど、あの白いガキと関係してるんだろ? 明らかに胡散臭い」
「……そんな」
 入間くんがこの世界の人間とどういうつながりがあるかは分からない。だからって、「信用しちゃいけない」なんてことになるとも言えないはずだ……と、普段の私なら断言するだろう。でも、今回は胸の奥がざわついた。もし、入間くんが私達に隠していることがあるなら、正直に本人の口から聞きたい。人と自分との間に、ガラスの壁を作る入間くん。その壁を乗越えてみたい。私は初めて入間くんの心の内側に入りたいと思った。
 お兄ちゃんから手を離すと、私は室内へ戻ろうと、ドアに手をかけようとした。その刹那、扉が勢い良く開き、弥生さんが飛び出してきた。
 後ろから入間くんも出てくる。
「入間! 弥生はどうしたんだ!」
「すいません、俺が話しに熱中してたせいで……」
 入間くんと少女が話しこんでいる間、話についていけなかった弥生さんは、先輩に対して人を焼き殺してしまったことを責めた。それに先輩は逆上し、弥生さんを罵ったらしい。どんな言葉を投げつけたのか、入間くんは話さなかった。それに傷ついて弥生さんは飛び出して行ってしまったのだ。
「ともかく、追うぞ! 先輩も来いよ!」
「誰が行くか! あんな尻軽女を助けになんか!」
 その一言で、私は反射的に先輩の頬を打っていた。
「陸……ちゃん?」
 私は何も言わず、先輩を睨んだ。先輩は「皆は俺が守る」と言ったじゃないか。それなのに、稲垣さんを守れなかった。その上、一番身近な彼女である弥生さんまで傷つけた。何が「守る」だ。能力があっても誰一人守れない癖に。
「……追いますよ」
 そのまま後ろを向き、お兄ちゃんと入間くんの後ろを走った。しばらくすると、背後から大きな足音が迫ってきた。それを聞いて、憎しみはほんの少しだけ軽くなった。
 四人、梯子を勢い良く登り、辺りをすぐに探したが、弥生さんどころか彼女に集まるだろう集団すらいなかった。
 私達は一時、マンホールの中へ戻ることにした。


「稲垣の次は弥生か……。どっちも生きてるかどうか、不安だな」
「それなら」
 少女――竹林更羅(たけばやし・さら)が小さいが大分古い型のテレビを取り出した。ダイヤルを回してチャンネルを合わせる。
「何か異常事態があれば、ニュースで放映されるはずだよ」
 私は画面を見ながらちょっと歯がゆさを感じた。
「ネットとかは繋げないの? そういう方が情報も早いじゃない」
「新天地にあるメディアは、新聞とテレビくらいよ。インターネットは規制されてる」
「なんでだ? テレビと新聞だけって、不便すぎるだろ? 携帯はあるみたいなのに、ネットがないなんておかしい」
 そういえば今村は携帯を持っていた。お兄ちゃんの言うとおり、少し変だ。
「沙門街の人間は、メディアの影響……いや、『悪意』に強く影響されるの。ネットだってツールとして使う分には問題ない。だけど、あまりにも罵詈雑言が多すぎて、一度大きな事件起き、上の人間が取り締まった。テレビと新聞は、いわゆる『国営メディア』と同じ扱いなんだ」
 少女はそう言いながら、砂嵐ばかり映すテレビを軽く叩いた。
「この街は狭いからね。娯楽も少ない。そのせいで人への悪口がヒートアップしてしまったんだろうな」
 私達の世界だって、それは有りうることだ。だから、自分で考えて情報を取捨しなくてはいけない。それがこの世界の人間には難しいことなのだろうか。しかし、国営メディア的なものでしか事件を知れないというのも恐い。情報を操作されたりする恐れがある。
 入間くんも私と同じ考えを持ったらしい。
「この街を仕切っている人間に都合のいい情報だけを流すことも可能ということか」
 ザザッという音が小さくなり、やっと画面は砂嵐を抜けた。ちょうどニュースが流れている途中だった。
「……くばん……がいしん……」
 電波が安定しないのは、ここが地下だから仕方ないことだ。更羅がもう一度テレビを叩くと、今度こそ安定した。
「『沙門街新聞社に入り込んだ鬼は、口から火を吐き、一時SSFも撤退を余儀なくされましたが、数分後再度突入。鬼はSSFにより射殺されました。また、この鬼は今ままでにない種類のものだったため、死体は解剖に回されるとのことです』」
 全員が画面に集中した。アナウンサーは「鬼」と言っていたが、これは明らかに稲垣さんだ。
「射殺された……」
 お兄ちゃんがうなだれた。私達は稲垣さんを見捨てた。それでも、もしかしたらまたどうにかして合流できるのではないか、なんて、本当に甘い望みを持っていた。それもものの見事に打ち壊されてしまった。こうなることは予想がついたことだった。分かりきったことだった。それでも、重く苦しい感情が私の胸を締め付ける。稲垣さんに対する負い目を、私達は一生背負っていかなくてはいかないのだ。
 だが、今のニュースは少し違和感があった。何故稲垣さんが沙門街新聞社に『入りこんだ』と報道された? それに弥生さんのことに全く触れていないこともおかしい。私がぶつぶつと呟いていると、更羅が口を挟んだ。
「『(たい)』の能力を持った人間、か?」
「『体』……? 稲垣さんは運動神経がすごく良くなる能力を持って……」
「それが『体』の能力だよ」
 更羅はテレビを見つめたまま即答した。画面は、射殺された稲垣さんが、まるでモノの
ように乱暴に袋へ詰められている場面が流れていて、私は思わず目を逸らした。
「なぁ、お前は皆にどんな能力が宿るか、分かるのか?」
「私達が来たときと同じ状況だとしたら、同じ能力が宿っているはず」
 まず、『(てん)』の能力。これは先輩が持つ自然物を操る能力だ。次に稲垣さんの能力である
『体』の能力。それに弥生さんの持つ、『()』の能力。これは説明するまでもなく、人を惑わすものだ。
 更羅は一呼吸おいて、ピースサインを作った。
「三人、能力が宿ったってことは、あと二人、能力が宿る。一つは『()』の能力。もうひとつは」
 中指を折り、人差指だけが残る。更羅の目が鋭くなった。私は思わず唾を飲む。
「『(ふう)』の力」
「『気』とか『封』とか言われてもわかんねぇから、どんなものか説明してくんねぇか?」
 お兄ちゃんが頭を掻き毟りながら更羅に頼むと、彼女は身を乗り出した。
「『気』の能力は、戦いに強くなる。一気に何十人でも相手にできる。さっき見たでしょ?」
 赤い瞳が私を捉えた。静かに頷くと、満足したように話を元に戻す。
「最後の『封』の能力。この力が発揮されない限り、元の世界には戻れない」
「どういう意味だ。詳しく話せ!」
 お兄ちゃんが更羅に噛み付く。更羅はそのままの固い口調で、衝撃的な事実を突きつけた。
「能力が宿る人間は六人中五人。でも、生きて元の世界に戻れるのは……その、『能力が宿らなかった一人だけ』なんだ」
 私は目を見開いた。さっきまで黙って座っていた先輩も、腰をあげてこちらを見つめている。茫然自失だ。『生きて帰れるのは能力の宿らなかったものだけ』。これが本当だとしたら、先輩と弥生さんはもう元の世界に戻ることができない。
「おかしいだろ! 今までこの世界にきた人間って結構いるって聞いたぞ。それなのに、ほとんど元の世界に戻れていないってことは、その人間たちは今、どこにいるんだよ!」
 更羅は怒気を抑えられずに暴走しているお兄ちゃんを一瞥した後、部屋の扉を開けた。
「詳しい人間に会わせてあげる」
 そういうと、何か赤い小さな実を口に含んだ。


 大きな流れの横を通り、細い道に入る。行き止まりにきたら、そこにあった梯子で上まで登り、マンホールの蓋を開けた。
 更羅、お兄ちゃん、私、入間くん、先輩の順で地上に出る。アランさんは体調がよくないらしく、留守番だ。
 新天地に来て、最初は変な咳をしたり血を吐いたりしてはいたが、もうそんな症状はなく、体調も普通に戻りつつあった。だが、やっぱり精神面での安定には欠ける。それは私だけに言えることではないはずだ。お兄ちゃんも、かなり疲弊したように見える。
 マンホールから外に出ると、見覚えのある路地に出た。陰鬱で、いたるところの看板のライトが点滅している。ゴーストタウンとでもいえるような場所。そうだ、ここは加古田医師の診療所のある路地だ。
 私は身を硬くした。他の皆にも緊張が走る。更羅は、加古田医師の診療所の前で足を止めた。
「待てよ、ここの医師は怪しいんだぞ! 正気か?」
「……あんた達は知らなかっただろうけど、ここの加古田は私達と同じ世界から来た人間だよ」
「そんな! じゃ、なんで死体なんか隠してるの!」
 私は大声で更羅を問いただすと、人差指を唇にあてて静かにするように注意された。
「本人に聞けばいいよ。ほら」
 彼女が指差す方を見ると、白衣の加古田医師が立っていた。
「更羅くんと、さっきの皆だね。ともかく入りなさい」
 更羅が診療所へ入っていくのを見て、仕方なく私達もそれに続いた。
 中で加古田医師にコーヒーを振舞われたが、口をつける気にはならなかった。「何も変なものは入っていない」と笑う彼だったが、どうも信用ならなかった。
「それで? 何から聞きたいのかな? 元の世界に戻る方法? 私がここに死体を隠している理由? それとも能力についてかい?」
 入間くんはかぶりを振った。
「全部です。この世界のこと、能力のこと、あなたのこと。全て聞かせてください」
「参ったな」
 笑顔で頭を掻く、加古田医師。その表情も、一つ咳払いをして手を膝の上で組むと、真剣な眼差しに変わった。
「そうだな、では、元の世界に戻る方法から教えよう」
 コーヒーに口をつけると、ゆっくりと溜息混じりに話し始めた。
 元の世界に帰るためには、馬頭トンネルを通らなくてはならない。それはあの、牛妖怪に聞いた。でも、更羅やアランさんは元の世界に戻れていないし、彼女は「戻れるのは能力の宿らない一人だけ」と言っている。また、戻るためには「封」の能力がないといけないとも語った。
「戻るためには、君達のつけている真珠六つと、『封』の能力を持つものの呪文が必要になるんだ。ただ問題なのは、六人全員が元の世界に戻れるわけじゃない。一人だけだ」
「それはさっき聞いた! 何で一人しか戻れないんだ!」
 お兄ちゃんがイライラした口調で医師に尋ねる。一瞬、困ったような顔をした後、静かに彼は言った。
「『天』と『魅』、『体』、『気』の能力―これは『鬼の力』と言ってね。ここの世界は君達も感じたと思うだろうが異常だ。狂気の世界だ。その中で特殊に身につく鬼の力は、うまく行けばその狂気を抑制することができる。だから、たまに異世界の人間がこの世界に送られてくるんだろうね。まさに神の思し召し、というやつだ」
 再びコーヒーで喉を潤し、続ける。できるだけ冷静に話そうとしているように私には見えた。
「だけど鬼の力は強いものだ。この力を持った人間を元の世界に帰すわけにはいかない。そこで『封』の能力ができた。この力を使うことで、鬼の能力とこの世界を封じ、残った人間を元の世界に戻すことが可能になった」
「ちょっと待ってください」
 入間くんが横槍を入れた。加古田医師は、静かに彼の目を見つめて微笑む。
「何かな?」
「だとしたら……その『能力の宿らない一人』は、巻き込まれただけ、ってことですか」
 微笑は崩さないが、眉毛がぴくりと動いた。入間くんの言うとおりだ。それなら最初から五人だけが新天地に送られればいい話だ。
「これは私の推測だが、能力の宿らない人間に、新天地の取り残された仲間を助けて欲しいという力が働いているのではないかと思う」
 私が目の中にクエスチョンマークを映していると、軽く笑われた。
「要するに、『最後の希望』ってことだよ」
 医師はコーヒーを飲み干した。能力がなかったら、仲間を助けるなんてできないじゃないか。私には加古田医師の言う『最後の希望』の意味がよくわからなかった。
「先生……こいつら、早くどこかに埋めてやってくれないかな。かわいそうだから」
 隣りの部屋にいた更羅が声を上げた。隣の部屋。そうだ。ここには三体の腐乱死体があったのだ。私がそっちの方へ振り向くと、更羅が悲しそうな表情を浮かべていた。
「あの三人はね、更羅くんの仲間だったんだよ。能力の話と一緒に説明しよう」
 ベッドの上に横にされている遺体は、鬼の力を持った人間達だった。鬼の力は、使う人間の精神が弱ければ弱いほど、肉体を蝕んでいく。私達が見た、稲垣さんのように。彼は最早人ではなかった。体も変形し、髪の色も赤く変わった。
 だが、死んだ人間をそのままにしておくわけにはいかない。稲垣さんは射殺され、解剖に回されてしまったけれど、異世界から来た人間の体を路上に置いておくわけには行かない。だから更羅は、加古田医師を頼ったらしい。
「ここに来てすぐに、新天地の空気に馴染めなくて先生を訪ねたんだ。私は今もこの世界の空気に馴染めなくてね」
 下水を出る前に口にしていた赤い実を再び口に含む。ナツグミの話は本当だったのか。
「俺も……こう、なるのか?」
 先輩が青ざめた表情で三体の遺体を見た。その肩に更羅が手を伸ばす。
「あんただけじゃない。私もこうなる。能力が使えるのは、『封』の能力が発動されてから約一年。力がなくなったら、殺されるのを待つだけだ。宝石もないしな」
 暗く、重い沈黙が私の体にのしかかってきた。「鬼の力」を持つ人間は、私、お兄ちゃん、入間くんの中にあと一人いる。もし私だったら……。そう考えると身震いした。だけど、お兄ちゃんや入間くんがこの力の持ち主だったら? それも嫌だ。自分の大事な人間が危険に晒されるくらいなら、いっそ自分が危ない目にあった方がいい。
「あの、能力って、自分から目覚めさせることはできないんですか!」
 私は立ち上がった。もう誰かが死ぬのを見たくない。仲間割れするのも見たくない。誰も危険な目に合わせたくない。これも一種のエゴかもしれない。それでもいい。自分に鬼の力が宿れば、お兄ちゃんか入間くんは助かるんだから。
「バカ野郎!」
 お兄ちゃんの張り手が降ってきた。
「お前が犠牲になる必要なんてないし、お前に助けられたって、俺は全然嬉しくねぇよ! それなら俺が鬼の力を目覚めさせる!」
 打たれた左頬が痛い。それよりも、あの、いつも強気なお兄ちゃんが涙目になっていることの方が胸を刺すように痛かった。
「残念だけど、誰がどの能力を持つかはわからないんだ。自ら能力を目覚めさせることもできない」
 メガネのブリッジを押し当て、加古田医師が宣告した。
「だが、鬼の力を消すことはできる」
「ほ、本当か!」
 先輩が前のめりになる。医師は彼に落ち着くようにいうと、神妙な顔つきで話出した。
「鬼の力を消すには、仲間の真珠を食べることだ」
 言ったあと、再びメガネに手をかける。光が反射して、どんな表情かうかがえない。
「仲間の真珠を食べる」――つまり、その仲間は宝石がなくなるわけで。
「そしたら、命が危険に晒されるじゃないか!」
 私よりも早く、お兄ちゃんが反応した。もし今、先輩が、能力の宿っていない私達の真珠を奪おうとしたら。先輩はそんなことをしない人だと今までなら信じられた。残念だが、今、それを信じられるかといったら難しい。三人もの人を焼き、弥生さんまで逃がした。そんな人をたやすく信用することはできない、
 加古田医師は長いネックレスに、先がクリップのようになっていて胸ポケットにつけて
いた黒真珠のアクセサリーを見せた。胸に光っていた、あの黒真珠だ。
「仲間の真珠を食べると、このように白い真珠も黒く変色する。一生、犠牲にした人間を背負って生きていく証だ」
「加古田さんも?」
「私も稲垣くんと同じ、『体』の能力の持ち主だったんだが、ある時力が暴走してしまってね。仲間を食べてしまったんだ。偶然に、真珠も一緒に口にしたらしくて、元の自分に戻ったのだが……遅かった」
 私の目の前で、医師は肩を落とした。私は頭の中で医師の言葉を反芻した。『自分の仲間を食べた』――目の前にも鬼がいる。でも、その鬼は、泣きそうな顔で当時を振り返っている。彼のしたことは、理性をなくしてのことだったとはいえ許されるものではない。だけど、そうしなかったら自分が死んでいた。稲垣さんと同じように。
 加古田医師は大事そうに、黒真珠の縁飾りを触った。
「加古田さん、今俺達には真珠が四つしかないんです。それでも元の世界に戻れますか?」
 入間くんが単刀直入に尋ねた。そうだ。稲垣さんの死体は解剖に回されてしまった。弥
生さんもどこにいるかわからない。そうすると、真珠は四つだ。
「方法はある……」
 加古田医師は言い淀んだ。空気が乾燥しているのか、目がしばしばする。それでも彼の表情を読み取ろうと、必死に医師の顔を見つめる。
 しばらく思案した後、重い口を開いた。
「私の持っている黒真珠と同じものを三つ、六つの真珠の代わりに集めることだ。一つはここにあるから、あと二つ探すといい」
 右胸のアクセサリーを電気の光で反射させる。
「だけど、そしたら加古田さんが危険になるんじゃないですか?」
 私はすぐに加古田医師に反論した。すると彼は寂しそうに頭を振った。
「言っただろう? 私は仲間を食い殺した罪人だ。それなのにここで生きていたのは、『死にたくない』という勝手な欲望と、更羅くんたちのように迷い込んだ人間を助けたいと思ったからかな」
 眉毛を八の字にして、寂しげに笑う。
「加古田……さんは、何故この世界に来たんですか? 遊び半分で心霊スポットにくるようなタイプには見えないんですけど」
 お兄ちゃんが鋭い目つきで加古田医師に視線を注ぐ。医師は大きな溜息を一つした後、この新天地まで来た経緯をぽつりぽつりと話し出した。
 二年程前、加古田さんは五度目の司法試験に落ち、途方に暮れていた。さすがに親にはもう迷惑は掛けられない。就職活動をしても、就職氷河期で職が見つからない。思いつめた加古田さんは、パソコンであるサイトを見つけた。いわゆる「自殺サイト」だ。その中では、近々牛頭トンネルを抜けた林道で、大人数による自殺を敢行すると書かれていた。
 自暴自棄になっていた加古田さんは、それに申し込んだ。決行日当日。集まったのは男女六人。年齢も理由も様々だった。そのメンバーの一人に、恋人に酷い振られ方をして、自分が死んだ後は彼も呪い殺してやると言っていた人間が、強烈に印象に残った。
 しかし、自殺はある意味失敗した。異世界に飛ばされてしまったからである。この新天地に来て、逆に自殺を取りやめたいという人間も出てきた。加古田もその一人だった。
 自殺なんて、浅はかな考えだった。そう思った頃には能力が発揮された後だった。身軽に動けるようになって、束の間は楽しかった。だがそれも一瞬だった。稲垣さんと同じ症状に陥ったのである。加古田医師はその場にいた、能力が目覚めていない人間を発作的に食べてしまったのだ。
「その仲間は言っていたよ。『生きたい』と。それなのに、私は彼を食べて生き延びてしまったんだね」
 必死に涙を堪えているのか、鼻声で天井を見上げる。その横顔は苦痛に満ちた表情だっ
た。


 診療所を出て、大通りの方向を見やると、何か大きなパレードのようなものが行なわれていた。
 だが、そんなものを見ている場合ではない。更羅がマンホールを空けると、私も梯子を降りようとした。
「……弥生!」
 先輩の声が聞こえたと思ったら、大通りへ走る姿が見えた。
「おい、なんだよ、先輩!」
 お兄ちゃんがそれを追う。入間くんと私もそれに続く。
 大通りにはまるで皇室の結婚式のように、白い馬が引く馬車がゆっくりと移動していた。道の両サイドには人の群れがいて、皆拍手を送っている。
「弥生……?」
 お兄ちゃんが足を止めて、馬車を見やる。そこには純白のドレスを着た、弥生さんが笑顔で手を振っていた。
「なんで弥生さんが?」
 驚きのあまり呆けていると入間くんに肩を叩かれた。
「それより先輩を止めるよ!」
 先輩はすでに馬車の前で両手を広げ仁王立ちになっていた。近くにいた警備員と思われる人間が近寄ってくると、一気に空から炎を噴射した。
 その様子に馬は足をバタつかせ、バランスを崩して馬車が転倒した。SSFのジャンパーを着た、盾を持った人間が集まってくる。野次馬は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
 倒れた馬車からドレス姿の弥生さんが出てくる。先輩はその姿を睨み、手を貸そうとしない。
「トモじゃん。何? 折角の成婚パレードだったのに、邪魔してくれちゃって。ほんっと迷惑」
 弥生さんも睨み返す。私は彼女が話した意味がよく分からず、その場に立ち尽くしていた。お兄ちゃんと入間くんは先輩の背後に静かに回る。いつでも羽交い絞めにできるようにだ。
「成婚パレードって、どういうことだ」
 ドスの効いた声で弥生さんを責める。当の本人はそれに怯える様子もなく、先輩を鼻で笑った。
「マンホールを出た後、また大勢に囲まれたのよ。それを助けてくれたのが彼」
 馬車の下敷きになって伸びている優男を指差した。
「彼、私に一目ぼれしたらしいの。トモと違って大人だし、お金持ちだし、かっこいいしね」
「だ、ま、れ……」
 先輩の怒りが段々大きくなっていくのを感じた。声が明らかに違う。まだ抑えてはいるが、周りに小さな火がポツポツと点っていく。
「彼が守ってくれるから、あたしはこうやってパレードもできる。彼のおかげで襲われたりしない」
 弥生さんは先輩の怒りを逆なでするように、冷たいとげを刺していく。そうこうしているうちに、彼女をSSFが取り囲んでいた。
「彼は自衛組織すら意のままにできるの。この人達は私を守るわよ? こいつらは沙門街新聞社の鬼の仲間よ! 捕まえなさい!」
 弥生さんが右手を挙げると、一斉にSSFが拳銃を抜く。前方は盾で防御している。
「弥生……裏切ったな……!」
 先輩の怒りがピークに達し、小さな炎が一箇所に集まって大きな炎と化した。同時に砂嵐が起こり、SSFを翻弄する。砂嵐は炎をSSFの方向へ轟音を上げて運んでいく。更に先輩は右手を正面に突き出し、炎をそこからも噴射する。弥生さんを守っていたSSFも、さすがにこの灼熱地獄に耐えられず、彼女と先輩の前に道を作る。
「と、止めるぞ!」
 お兄ちゃんは先輩に走りよろうとしたが、その背後にも熱風が吹き荒れ、近寄れない。
「くそ……」
 入間くんが唇を噛む。私は大声で先輩に呼びかける。その声は届かない。
 先輩はゆっくりと弥生さんに近づいていく。弥生さんはその場で固まって、顔を強張らせている。
 彼女の耳元で先輩が何かを呟いているのが見えた。次の瞬間、横に転がっていたSSFの構成員が、まるで何かにとり憑かれたよに起き上がり、弥生さんに向っていった。
 私の頭に、彼女の断末魔が響いた。
 先輩は人差指と中指の間に、弥生さんのつけていたピアスを挟んでいた。
「せん……ぱい……」
 お兄ちゃんの声が上擦る。入間くんも拳を硬く握り締めている。そんな姿を見せても、先輩には余裕がうかがえた。
「弥生は俺を裏切った。死んで当然だろう。一人だけこの世界でいい暮らしをしようなんてな」
「昔のあなたはそんなことを言う人じゃなかった」
 入間くんも強い口調で訴えかける。それでもへらへらと弥生さんのピアスを弄ぶ。
「昔は昔、今は今だ。お前らはいいよ。まだ生きて帰れるかもしれないんだからな。俺は違う。この真珠を食べないと、稲垣みたいに死んじまうんだ。俺は、絶対嫌だ!」
 言い切ると、ピアス台についていた真珠を取り、飲み込んだ。止める間もなかった。い
や、止めたところで何もできなかった。私達にまだ能力が宿っていないのは確かだし、自
分が稲垣さんのようになるなんて、まだ信じられなかったのだ。だけど、先輩は違う。さ
っきSSFを倒したような、大きな力を持っている。それがいずれ身を滅ぼすかもしれな
い。恐くないわけがないではないか。
 先輩の腕に付けられていたレザーバンドの真珠の色が変わっていく。多種多様な色に変
化した後、最終的に黒く染まった。
「これで俺も生き延びることができるな」
 まるで弥生さんを殺めたことを全く気にしていないかのように、元気良く腕を振り回す。
私達三人は、その場に座り込んだ。稲垣さんに続いて、弥生さんも。先輩も、私達の知っ
ている先輩ではもう、ない。
「でも、一つだけじゃ足りないかもしれない。ここにあるだけ真珠をもらっておくことにするかな」
 爬虫類のような体温のない目が、レンズ越しに私を見つめた。蛇に睨まれた蛙のごとく、体が動かなくなる。その冷たい視線を、大きな背中が遮った。
「先輩、力、無くなったんなら、俺だって負けねぇっすよ……? 俺の妹に手ぇ出すんじゃねぇ!」
 立ち上がると、左足を踏ん張り、思い切り右ストレートを打ち込んだ。だが、それは簡単に避けられてしまった。すぐに左アッパーを繰り出す。それも寸でのところで避けられる。
 お兄ちゃんと先輩の攻防を見つめていたら、背後からも獣のような声と、ドタドタと人が倒れる音が聞こえてきた。
 振り向くと、今度は入間くんが私を庇う。その背中からのぞくと、更羅が襲ってくる人間を一撃でのしていた。彼女は宝石を持っていない。故に理性がなくなった人間に襲われているのだ。
「更羅、こっちにこない方がいいよ! 食べられちゃうよ!」
 私の声を無視し、こちらに近づく。到着する頃には大勢の人が私達を取り囲んでいた。
「あんた、そこのメガネは置いて逃げるよ!」
「ふ、ざけんな! 先輩は俺が……」
「更羅さんの言うとおりです。ここは退却しましょう!」
 入間くんがお兄ちゃんに言っている間も、人の波が押し寄せてくる。更羅がそれをなぎ倒してくれるけれど、前に進むのは難しい。入間くんがお兄ちゃんを引っ張ると、何かに弾かれるように吹っ飛ばされた。
「お前ら……全員、邪魔するな!」
 人が変わったようにお兄ちゃんは更羅に襲い掛かる人間を倒していく。まるで初めて更羅に会った時の様に、無駄な動きなど一つない。確実に攻撃を避け、急所に強烈な一撃を食らわす。
 私は内心驚きつつも、自分に喝を入れるために両頬を叩いた。戦っているお兄ちゃんの背後に回ると、首にしがみついた。
「お兄ちゃん、止めて! ともかく一度マンホールに戻ろう!」
 さすがに首にしがみつかれ身動きが取りにくくなったお兄ちゃんは、大きく舌打ちをすると、私を抱えてマンホールへ走った。


 マンホールの蓋を閉めると、休憩室にあったガムテープで応急処置的に蓋を塞ぎ、小さな鈴を付けた。あの場にいた人間は正気を失っていたので平気かもしれないが、先輩にはここの場所が知れている。気休め程度だが、少しでも罠を張っておくことに越したことはない。
 作業が終わると、私達はアランさんの待つ休憩室へ戻った。
 アランさんは相変わらず布団に横になったままだ。更羅に聞くと、彼は「封」の力の持ち主で、この能力が一番力の消耗が激しいらしい。食べ物は加古田医師経由で補給されているが、それ以外立っていることすらできないようだ。
 お兄ちゃんを見ると、さっきの戦いで大分体力を消耗しているようだ。ほんの少しの間だったのに頬が大分こけ、顔色も悪い。
「少し能力を暴走させすぎたな」
 更羅がそう言って水筒の水を差し出すと、注意深かったはずだったのに、一気にごくりと飲み干した。
「これで俺が『気』の能力も持つ人間だと言うことだよな」
 お兄ちゃんは水筒の蓋を持ったまま、前を見据えた。
「ねえ更羅、聞きたいんだけど」
「何」
 私は休憩室に戻る途中、あることを考えていた。お兄ちゃんが「気」の能力を持っているということは、元の世界に戻ることができない。でも、真珠をもう一つ食べれば、能力は封印できる。能力が封印できれば、元の世界へ戻ることができるのではないか。
けれどもそんな甘い考えは、更羅の一言で打ち消された。
「黒真珠になっても、能力が完全に消えるわけじゃない」
「どういうこと?」
「鬼の力は消える。その代わり、『神の力』が宿る」
「『神』……」
 私は唾を飲み込んだ。
 更羅の話は難しくて私にはよく理解できなかったが、つまり『神の力』とは、世界の過去、現在、未来を見抜く能力であるらしい。
「ということは、加古田医師も?」
 入間くんの問いかけに更羅は大きく頷いた。
「先生は『過去を見る』力がある。でも使ってない。人間知られたくない過去はあるでしょ?」
 更羅の赤い瞳は入間くんを見つめると、彼はそれから目を逸らし、話題をすり替えた。
「ともかく、あと二つ、黒真珠を探そう」
「一つはあるじゃねぇか」
 お兄ちゃんが低い声で呟く。私と入間くんがお兄ちゃんを見ると、今度は怒鳴った。
「佐々木だよ! あいつから黒真珠を奪う。あいつは……弥生を自ら手にかけた」
「落ち着け。気持ちは分かる。だが、あいつにはもう新しく『神の力』が……」
 更羅が喋るのを阻み、自らの話を続ける。
「ああ、お前が言いたいことは分かってる。佐々木が手に入れた神の力は多分、『未来を見る力』だ」
 気持ちがざわめいた。お兄ちゃんはさっき先輩と戦ったとき、全ての攻撃が読まれていた。次にどう動くか知っているかのように。
「違和感あったんだ。先ぱ……佐々木は部活の試合でも、あんなに正確に動けてなかったってのに……」
「キャプテンだったのは、ほとんど人柄で選ばれたようなものでしたからね」
 入間くんが残念そうに溜息をつく。優しく、ほんわかとした雰囲気を持っていた先輩。それが今は仲間や恋人を犠牲にして、自分の保身のために必死になっている。空気が重く感じた。
「鬼の力は人の思考すら捻じ曲げる。『体』の能力は考えが全て食べることだけになる。『魅』の能力は自惚れが強くなる。『天』の能力は自分が万能であると勘違いさせる。『気』の能力は、戦いが全てになる」
「更羅もそうなの?」
 私が訊ねると更羅の表情は険しく変化した。
「最初出会ったとき、私は追われていた。自ら餌になって、獲物をおびき寄せてたんだよ。そうやって私は生きていることを実感してるんだ」
 無表情な彼女が、少し悲しい顔をしているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
更羅はアランさんの布団を直しに行ってしまった。
「ともかくあと一人だな。どうやって探す?」
「狭いとは言え、大勢が住む街の中からたった一人、黒真珠を持つ人間を探すなんて……」
 私が悲観的になっていると、入間くんがいつもの調子で冷静な意見を述べた。
「もし『神の力』を手に入れているなら、それを利用してるんじゃないでしょうか。未来を見る能力なら、占い師や投資家。過去を見る力なら、カウンセラーみたいなのが怪しい。今を見る能力なら……」
「新聞記者、とか」
 私は思わず口に出していた。今村の付けていたピンキーリング。バラの先についた、黒い石。あの時は光の加減で石に見えたが、あれは黒真珠だったのではないだろうか。
 私の意見にお兄ちゃんが賛同してくれた。
「ありえない話じゃないな。動いてみないとわからない。今村を当たってみよう」
 まだ完全に安心したわけではないが、真っ暗な道に一筋の光明が見えた気がした。今まで張り詰めていた気持ちが一気に緩まって、自然と大粒の涙がこぼれてきた。
「陸さん? どうしたの?」
「ああ、こいつ、昔っから緊張がほぐれるとこうなるんだよな。ピアノの発表会が終わると、ピーピー泣きやがってさ」
 口調は荒いが、お兄ちゃんは優しく体を抱きかかえてくれた。お兄ちゃんの肩は温かい。いつもはケンカばっかりして、この世界に来る前もテレビのことで揉めたばかりだ。なのに、今はこんなにも癒される。
 だけど、お兄ちゃんは鬼の力を持っている。もう元の世界に帰れることはないのだ。ただ気持ちが緩んで涙が出ていただけだったのに、悲しい気持ちが溢れ出してくる。
「いい加減、泣きやめ。俺はお前を守りきるなんて断言できないけど、お前を傷つけることは絶対しない」
 お兄ちゃんの声と体温で、いつの間にか私は眠りについていた。


 目が覚めると、一枚の毛布が掛けられていた。お兄ちゃんも更羅も眠っている。壁際に放り投げられている小さな時計を見ると、針は四時を指していた。今が午前なのか午後なのか分からない。もうこの世界に来て何日過ぎたのかも分からない。
 時計の横に座っていた入間くんと目が合った。眠っていなかったのか。入間くんは「よく寝てたね」と私に優しく言った。私は慌てて目を擦った。泣き顔を見られていたのを思い出したのだ。
「大丈夫だよ。跡、ついてないから」
 そう言ってくすりと笑う入間くん。いつも冷静なのに、たまにこうした温かい表情を見せる。
 お兄ちゃんは入間くんを信用するなと言った。それが私には謎だった。弥生さんは彼をロボだと言った。でも、彼はこんなにも優しい笑顔になる。
「入間くん、聞いてもいい?」
 私は決心した。今なら本当のことを聞ける気がする。そんな期待を込めて。
「更羅と話してた『あの事件』って何? 土倉竜也って?」
 急な質問に入間くんは驚いていたが、神妙な面持ちで語り出した。
「土倉竜也っていうのは俺の従兄弟。それは知ってるよね?」
 頷くと、一つ一つ言葉を選びながら、入間くんは話し始めた。
 土倉竜也は大学のゼミ仲間と共に、留学してきたアラン・フランクの歓迎会を地元のレストランで開いた。まだ地元の道がわからないということから、帰り道に迷わないようにホームステイ先の娘、竹林更羅も一緒に連れてきた。その帰り道に通ったのが牛頭トンネルだった。
「想像つくよね。俺らと同じく、異世界にトリップしたんだ。ただ驚かないで欲しい。竜也兄さんは……」
 一度文章を区切ると、覚悟したように言葉を発した。
「元の世界に戻ってきてるんだ」
「え?」
 少し大きめな声を出してしまい、慌てて口を押さえる。お兄ちゃんがごろんと寝返りを打ったが、目覚めてはいないようだ。
「更羅さんの言うとおり、『能力の宿らないものが元の世界に戻れる』。竜也兄さんはそれだったんだ」
 入間くんは目を伏せた。竜也さん達の乗った車は事故に合い、瓦礫の中から彼が見つかった。だが、それ以外の五人の生存はおろか、遺体すら出てこないということで、一時ニュースで話題になったらしい。
 助かった竜也さんも記憶をなくしており、今も自宅で療養しているらしい。
「事故以来、ほとんど話さなくってね。ほとんど寝たきりなんだ。でも、たまにうわ言のように繰り返すんだよ。『新天地』、『沙門街』って」
 最初は入間くんも気にしていなかったらしい。だが、今回先輩が牛頭トンネルに行こうと電話がかかってきた時、その場に行けば何かが分かるかと思った。
「そしたら異世界にトリップだから、さすがに驚いたよ」
 頭を掻く入間くんを見て、私は自然に口を動かしていた。
「竜也さんは、更羅達を助けたかったんじゃないかなぁ……」
 加古田医師は能力の宿らない人間を『最後の希望』と話していた。屋台のおばちゃんが言っていたように、異世界から新天地にくる人間はきっと多いのだろう。何組もの人間が出口を目指して彷徨う。馬頭トンネルまで辿り着いても、能力が宿ってしまえば元の世界にはもう戻れない。そこで最後の一人に希望を託す。『誰か助けを呼んできてくれ』と。
「ばーか、そんな話なら、黙ってなくたっていいだろ?」
 横になったままのお兄ちゃんが口を挟んだ。
「お兄ちゃん、起きてたの?」
「途中からな。入間がキザったらしく『大丈夫、跡ついてないから』とか言ってた辺りからかなぁ」
「それ、最初っからじゃない!」
 恥ずかしくて頬が熱くなるのを感じた。当の入間くんは楽しそうに笑っている。
 そんな入間くんを、お兄ちゃんは真剣な眼差しで見つめると、ゆっくり起き上がった。
「なぁ、入間。俺、お前に今まで結構きつく当たってた。今更こんなこと言える義理じゃねぇってこともわかってる。けど、頼む」
 そう言って、頭を勢い良く下げる。
「陸を頼むよ。俺、もう元の世界に戻れないからさ」
 鼻声で呟くお兄ちゃんを見て、私はこんな世界にいるのかすらわからない神様にお願いをした。
 ――『どうか、皆が助かりますように』と。


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