ONE

文字数 1,971文字

 外の桜が、雨に打たれていた。
 こんな夜は、ごろごろしながらDVDを観るに限る。お気に入りの洋画だ。
ポテトチップスと温かい紅茶を用意する。食器棚から出したばかりのマグカップは、冷えたままだ。紅茶は細かい入れ方があって、そもそも冷たいカップに入れるなんて論外なのだろうけど、私には関係ない。ポットからそのまま注いで、テーブルに運んだ。
ソファに横になり、リモコンの再生ボタンを押す。暗い画面にポツポツと光が映りだす。最初は監督や脚本家の名前が流れる。テロップが終わると、控えめにタイトルが表示された。いつもここで背中がぞくっとする。
カメラはゆっくりと男の影に近づいていく。そこで最初の台詞。
「このトンネルはまだ続くのか」
 自然と字幕にあわせて声を出していた。男の影は小さな光に向っていく。
何度観てもドキドキする。画面に釘付けのまま、私もカメラの動くスピードと同じ速さでポテトチップスの袋を掴もうとした。
その隙に、リモコンを奪われた。
「俺、K‐1見たいんだよね」
 兄の(おさむ)は、勝手にチャンネルを変えた。すでに試合は始まっている。
「ちょっと、お兄ちゃん! 私が先に観てたんだよ。ずるいよ!」
「うるさい。お前はいつでも観れるだろ? 俺は今しかないの」
「携帯でも試合は見れるでしょ? DVDは携帯じゃ観れないんだから!」
「その映画、もう何十回も観てんだろうが! お前は部屋で本でも読んでろよ」
 すでにお兄ちゃんは観戦モードだ。私の足に座って、ポテトチップスまで勝手に食べている。
 ああ、もう何度このリモコン争奪戦を繰り返したのだろう……。まともに戦って勝ったたことは数少ない。
小さい頃はお母さんが仲介に入って、
「陸(りく)に譲ってあげなさいよ」
 なんて言ってくれてたけど、十五にもなるとそんな台詞どころか
「テレビ見てる暇があるなら、勉強しなさいよ!」
 である。
 リビングでごろごろする計画が台無しだ。だからといって、部屋にこもって何かしようという気にもならない。高校入学前の春休みくらい、ぼけっとして過ごしたい。お兄ちゃんとケンカしても、いつも難癖つけて、結局はこちらが折れることになる。要するに、労力の無駄だ。
私は仕方なく、お兄ちゃんと一緒にK‐1観戦をすることにした。
 しばらくソファに並んで見ていたが、どこに面白さがあるのかがわからない。「血が騒ぐ」という人もいるだろうけど、私は特に感じない。試合中、片方の選手が血を流していた。
「痛そう」
「そりゃそうだろ、殴り合いなんだから」
 お兄ちゃんは平然と画面を見つめている。興奮しているわけでも、楽しんでいるわけでもない。目はテレビを見ているが、なんだかそれも単なるポーズのように私には見えた。
 春休みの夜。宿題もない。お兄ちゃんは受験が近いけど、そこまで焦ってはいない。私達兄妹はちょっとした暇をもてあましていた。
 時計を見ると、八時半。番組はあと三十分もある。つまらないけど、やることもない。携帯に届いているメールを返信しようか。……そんな気分ではない。ネットでゲームを
すれば時間は潰せるけど、一度嫌な思いをしたから、あまり気が進まない。結局テレビを
見るのが妥当なのか。つまらない。
 マグカップが空になり、おかわりをしようと席を立ったその時、お兄ちゃんの携帯が鳴
った。ディスプレイを確認すると、お兄ちゃんは急いで通話ボタンを押した。
「なんすか?」
 投げやりな話し方から、電話相手をたやすく想像することができた。多分、佐々木先輩だ。
 佐々木先輩はお兄ちゃんの二歳上で、すでに大学に進学しているのだが、今もちょくちょく連絡が来るらしい。しかもどうでもいいような用件で。
「面倒くさい人間だ」とよくこぼしているけど、一度うちに遊びに来たときは、私にも優しくしてくれて、素直に「いい人」と感じた。ただ、それは私が「妹」という立場だからであって、当のお兄ちゃんにはワガママばかり。その上、厄介ごとが起こると、すぐに後輩に助けを求めるというどうしようもない人らしい。
「はぁ、今からっすか? 外寒いしな……」
 外出の相談だろうか。紅茶をすすりながら、電話口でごねているお兄ちゃんを横目で見た。もうテレビに興味はない。もしこのまま外出してくれるなら、私もDVDの続きが観られる。先輩、そのままお兄ちゃんを外へ連れ出してください。お母さんたちには私からうまく言っておきますから。
しばらくやり取りを続けた後、電話を切って、ジャージからジーパンに着替え始めた。どうやら出かけるようだ。
「どこ行くの?」
「よくわかんねぇ」
 納得できないような表情で、財布と携帯をサブバッグに突っ込む。その様子をじっと見ていると、おもむろに私を睨んだ。
「早く用意しろ」
「は?」
「お前も行くんだ」
 突然のことに驚いて、マグカップを落としそうになった。


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