文字数 3,297文字

 ザダは後ろを振りかえった。
 壁は、破れ目もなく村を閉ざしている。ゼラフィや他の者たちが、息を呑むようにしてこちらを眺めている。ザダは、彼らを安心させようと軽く手を振ってみせた。
 それにしても、なんて静かなんだ。
 一切の物音が聞こえない。そして、あたりは息苦しくなるほどの異様な〈力〉に満たされていた。夕暮れにも似たにじむような光は、ザダをからめとり、押し戻そうとしていた。妙にねっとりとした質量感のある光だった。ともすれば思考も身体の動きも怠慢になり、そのまま押しつぶされてしまいそうになる。
 ザダは大きく息を吸い込んで、自分の〈力〉を集中した。精霊の〈力〉を跳ね除けて、前へ進んだ。
 すぐ近くに家があった。ハンが言っていた鍛冶屋の家だろう。
 ザダは近づき、ぎくりとした。
 家の扉を空けて、今しも一人の男が外に出てこようとしていた。そう、確かに家を出るつもりだったのだ。しかし、上半身と右足は戸口の外に、左足は空に浮かしたまま、ぴくりとも動いていなかった。
 ザダは男にそっと触れてみた。身体はどうやら温かい。家の中をのぞき込むと、彼の妻らしい婦人が食卓を片付けようと皿に手を伸ばしていた。彼女もまた、石化したように動かない。
 家畜小屋の牛や鶏も同じことだった。鍛冶屋の家ばかりではなく、行く先々すべてが動きを止めていた。井戸端では、くみ上げた水が水差しに入ることなく空に留まっていた。もちろん、水桶を手にした若い女も、その足元にからみつくようにしている小さな子供も。畑に出かける途中らしく、鍬を担いで道を行く男、庭先に洗濯物を干そうとしている女、日常のなにげない一瞬が、そのまま切り取られたかのように。
 時間が止まっているのだ。
 ザダは確信した。
 精霊の仕業か?
 しかし、何のために。
 ザダは心を伸ばし、精霊の〈力〉の源を辿っていった。強い〈力〉の塊が感じられた。
 ゆっくりと、そちらの方に歩いていく。
 あんのじょう、と言ったらいいか、村のはずれにゼラフィのものとよく似た様子の家があった。庭の広い〈聴き手〉の住まいだ。
 玄関の前に、ほっそりとした少女が立っていた。驚いたように目を見開き、両手を口に持っていく、その瞬間のまま動かずに。
 金色の髪を一本のお下げに結い上げた美しい少女だ。彼女の足元には、一人の男が跪いていた。
 男は長い衣をまとい、髪の毛を肩の上で切りそろえていた。身体全体が、濃いオレンジ色の輝きを帯びている。
 まぎれもなく、バグドの精霊。
 精霊は、きっと顔を上げてザダをにらんだ。少女と同じ年のころの、若い男の顔をしていた。精霊はたいてい死んだ時の姿をしているが、一番強く思いが残っている時代の姿をとることもありえないことではない。
 では、この少女は? 
 考えている暇は無かった。精霊を包んでいる光は、まぶしいほど輝きを増した。侵入者に激怒していることは明らかだ。
 立ちあがった精霊は、ザダに向かって大きく両手をひろげた。精霊の身体は見上げるほどに伸び上がり、めくるめく投網となってザダに覆い被さった。
 光の束にぐるぐると巻きつかれているようだった。きつく締め付けられ、身動きひとつできないありさまになる。
 精霊の冷笑が感じられた。このまま押しつぶしてしまうつもりなのだろう。
 精霊が勝ち誇っている間に、ザダは自分の持てる〈力〉を集中した。ほんの僅かな油断をついて、一気に〈力〉を解き放った。
 一瞬、身体の自由がきく余裕が生まれ、ザダは懐の精霊草の灰を振りまいた。精霊はこれが苦手なのだ。
 バグドの精霊は、身をかわすように縮まった。今度はザダが〈力〉で精霊を押さえつけた。精霊には実体がない。彼らと戦う精霊祓いは、精霊草で高められた精神力で〈力〉を生み出し、それを精霊にぶつけるしかないのだ。
 精霊は、ますます縮まった。ザダは〈力〉をゆるめず、それにそろそろと近づいていった。
 と、空気の感じが変わった。風が頬に触れ、空に浮いていた落ち葉が地面に舞い落ちた。まわりが、たちまちまぶしいほどの明るさになる。太陽が高々と空にかかっていた。
 時が戻ったのだ。精霊はザダに抵抗することに必死になり、マーロの時間を止めていることができなくなったのだろう。
 少女が悲鳴を上げた。
 ザダは思わず彼女を見やった。彼女は、みるみる変化していった。金色の髪は色あせ、体形は崩れて肉を増した。両手の指は節くれ立ち、甲にくっきりと筋が現れた。顔にはいくつかの染みが浮かび、目じりや口元に刻まれつつある皺・・。老いの入り口にさしかかった、ひとりの婦人がそこにいた。
 彼女は、その場にどさりと倒れ込んだ。
 ザダが彼女に気を取られた瞬間、精霊はかき消えた。
 ザダは舌打ちした。とり逃がしてしまったか。
 婦人を抱え起こし、気を失っているだけだとわかり安心する。しかし、精霊はどこに逃げたのか。
 ザダは立ちあがってあたりを見まわした。村を覆っていた精霊の気配はなくなっている。村人たちは、何が起こっていたのか気づくこともなく、いつもの日常をはじめているはずだ。
 こちらに駈けて来る人影が見えた。ゼラフィだ。村を閉ざしていたものがなくなり、追いかけてきたのだろう。
 ザダは眉を上げた。ゼラフィの姿がやけにはっきりと見える。ザダの視力は年々衰えていて、遠目はあまりきかないはずなのだが。
 ゼラフィが近づき、ザダは顔をしかめた。彼の姿は、見慣れたオレンジの輝きを帯びていた。精霊憑きの証拠だ。バグドの精霊は、ザダのもとを逃れてゼラフィに入り込んだらしい。
 ゼラフィは表情も変えず、無言でザダに殴りかかった。ザダは身をかわしたが、不覚にも足がもつれて転んでしまった。
 肉体的な戦いは、もともと得意な方ではない。ゼラフィの鋭い足蹴りを背中に受けて、思わずうめいた。ゼラフィは執拗に蹴りを加えた。そのつど息ができなくなるような激痛が襲った。それもそのはず、ザダはちらりと考えた。〈聴き手〉は医学を学んでいる。どこが人間の急所かは、先刻ご存知だろう。しかも精霊憑きになると、普段の数倍もの力を出すことができるのだ。
 ゼラフィに憑いた精霊は、もはやザダに対する憎しみしかないようだった。ぐったりしたザダの横腹を蹴り上げて仰向かせると、馬乗りになって両手を首にかけてきた。
 ぐいぐい首を締め上げるゼラフィの手は、まるで鋼のようだった。ザダは必死でその手を振り払おうとした。遠ざかりそうな意識を奮い立たせ、思いきりゼラフィの手に噛みついた。
 ゼラフィは一声叫び、左手首を押さえて退いた。人間に取りついた精霊の、一番の弱点は痛みだった。精霊の〈素〉は、痛みという感覚を知らない。精霊となって人間に取りついて初めて味わうそれは、連中にとって凄まじい衝撃になる。
 精霊を人間から引き離し、力を失わせるには出血を伴うもっと鋭い痛みが有効だ。ゼラフィが気の毒ではあったが、この際しかたがない。ザダはぜいぜい咳き込みながら、腰帯に吊るした小刀に手を伸ばした。怒りにまかせて飛び掛ってくるゼラフィの左の二の腕あたりに突き刺した。
 泣き声とも罵り声ともつかない声がゼラフィからもれ、彼は倒れるようにうずくまった。
 ゼラフィの身体から、精霊の痕跡がかき消えた。
 かわりに、横たわる婦人の前に立ち尽くすバグドの精霊が見えた。
 精霊の輝きは、明らかに鈍くなっていた。その姿も、しだいに薄くなっていく。もう悪さをする力は残っていないだろう。他の無害な精霊と同じように、風に漂い、やがて静かに消え去るだけだ。
 ゼラフィが小さくうめいて顔を上げた。自分の腕の傷を、まじまじと眺めている。
「すまないな」
 ザダはその場に座り込み、身体中の痛みに顔をしかめながら懐をまさぐった。
「あんたの手当てをしてやる余裕はないんだ」
 煙管と火打ちを取り出し、やっとのことで火をつける。
 深々と煙を吐き出すと、ようやくこちらにやって来るロムたちの姿が見えた。
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