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文字数 3,411文字
かつての金色のおさげ髪の少女は、ハンの妻のイーリだった。
おそらくバグドは若い時代に彼女に恋をし、彼女が嫁いでもずっと思い続け、死の時ですら忘れられなかったのだろう。
たまたま彼女がマーロを訪れた時、バグドの精霊は彼女を見つけ、とっぴょうしもないことをやってのけた。自分たちの時間をひきもどしたのだ。
その力は、まわりにも影響を及ぼした。マーロの時の流れは止まってしまった。バグドがもっと長く力を及ぼしていれば、マーロの時間もまた、逆行していたかもしれない。
しかしバグドの精霊は力つき、イーリは妙な衝撃を受けた他は何も覚えておらず、マーロもオオヴも平穏に戻った。
オオヴ村の家に戻ると、ゼラフィは片手でザダの怪我と自分の傷を手当てした。村の女たちがかわるがわるやってきては、汚れた服の洗濯や、夕食作りの世話をやいた。
二三日ここで休養すればいいと村長は言ってくれ、ザダもありがたく従うことにした。
村人たちがみな帰った夜、ザダは長椅子に座って精霊草をふかしていた。ゼラフィが、ザダに黒っぽいお茶をもってきた。
「痛み止めが入っています。寝る前に貼り薬も取り替えますから」
「ただの打撲だ、放っておいても治る」
ザダは、ゼラフィのだらんと垂れたままの左手を眺めた。
「あんたこそ無理するなよ。悪かったな、深く傷つけてしまって」
「お詫びするのは私の方です」
「精霊がやったことだ。気にすることはないさ」
ゼラフィは軽く首を振った。
「意識はあったのです。ただ、どうすることもできませんでした。わたしの中のバグドさんを止めることはできなかった。あの方の妄念は凄まじいものでした」
「精霊には理性がない。バグド本人とは違うだろう」
「ですが、生み出したのはバグドさんで、そうさせたのは私です」
ゼラフィは言った。
「わたしは、バグドさんのことを、何もわかってはいませんでした。あの方に思い残すことはないなんて、考えるべきではなかった」
「バグドだって、わからなかったろうさ」
ザダはお茶を一口飲んで、苦さに顔をしかめた。
「自分のことを。よき〈聴き手〉の中にずっとおしこめてきた。死の直前になってはじめて、いろんな後悔がおしよせたんだ」
「わたしは、〈聴く〉努力すらしませんでした。バグドさんの思いを」
ゼラフィは、ザダに背を向けた。
「あんたには、話したくなかったと思うよ」
ザダは煙管に草を詰め替えた。
「バグドは〈聴き手〉の手本でありかったんだ、たぶん。あんたにとっての」
「そう、かもしれませんね」
「だが、うまくいかなかった。すべての〈聴き手〉の死に際には〈薬〉を使えというのがおれの持論だな」
こちらを向いたゼラフィの少年じみた顔からは、あいかわらずどんな表情も読み取れなかった。
〈聴き手〉というのも難儀な生きものだ、とザダは思った。
〈聴き手〉の多くは、ほんの五六歳のころから養成所に入れられる。みどころがある賢そうな子供が、国中から集められるのだ。それから十数年は、修行と試験の毎日だ。一般教養と医学はもちろんのこと、人間の心の動きの機微、これから受けるけるであろう相談や悩み事への対処方、人の臨終にあたっての心構えなどなど。何より重要なのは、どんなことにも動じない自己統制力を身につけること。
そして認可を得た〈聴き手〉は、はじめて世の中に足を踏み出す。いかに頭で学んでいても、実際に経験しながら世俗で生きていくことには何かしらの葛藤があるはずだ。バグドのようにそつ無く〈聴き手〉の仕事をこなしてきた者でさえ、死の間際の妄念から逃れられなかったではないか。
「あんたは」
ザダは、すこしばかり意地悪な気持ちで尋ねてみた。
「〈聴き手〉になって、後悔したことはないのかい」
「後悔?」
「他の生き方をしてみたいと思ったことは?」
「わたしは、〈聴き手〉になるために育てられました」
食卓の椅子に腰を下ろしたゼラフィは、静かに自分のお茶に口をつけた。
「こうなることしか知りません。後悔しようがないでしょう」
「オオヴ村の〈聴き手〉として一生を終えるわけか」
「わたしはこの村が好きですよ」
ゼラフィは言った。
「気候は穏やかで四季折々の景色が美しい。暮らす人たちもみな優しくていい方ばかりです。オオヴに赴任してよかったと思っています」
ゼラフィは両手で茶碗を持ったまま、ザダに向き直った。
「あなたはどうなのです?」
「おれ?」
「どうして精霊祓いに?」
ザダは眉を上げ、苦笑した。
「〈聴き手〉を頼んだ覚えはないんだが」
ゼラフィが、ほんの少し微笑んだようにザダには見えた。秋の夜長だ、自分の生い立ちを語るのも悪くはないかもしれない、とザダは思った。こんな商売では、枕辺に〈聴き手〉を迎えて一生を終えるとは限らないし。
「おれも、なるべくして精霊祓いになったようなものさ」
ザダは言った。
「ものごころついた時には孤児だった。村の精霊祓いが引き取ってくれた。ほとんど目が見えなかったので、身の回りの世話をする者が必要だったんだ。いっしょに暮らしているうちに、彼はおれにも精霊祓いに向いた力があるんじゃないかと思うようになった。おれが十五になった年、精霊祓いはおれに精霊草を差し出した。これを吸うか吸わないかは、じっくり考えておまえが決めろ。吸ってしまえば、後戻りはできないから・・。で、ここにこうしているわけだ」
ザダは手の中で煙管をもてあそんだ。使い古されて地色がわからないほど黒ずんだそれは、師である精霊祓いがくれたものだった。
ザダに煙管を渡して二年ほど後、病に伏せた精霊祓いは死期を悟って〈聴き手〉を呼んだ。〈薬〉を飲み、あっけなく逝ってしまった。
幸福な最後だったと思う。精霊祓いに失敗して非業の死をとげた連中が、反対に精霊になってしまうのはよく聞く話だから。
自分がどうなるかは、あまり想像したくなかった。ただはっきりしているのは、自分の視力が年毎に衰えてきていること。あと数年もすれば、闇と精霊だけが見える世界が待っているということ。
あの時、精霊草を返していたら、別の生き方が待っていたろうに。そう思わないではなかった。しかし、もし精霊祓いにならなかったら、今ごろは自分の平凡な生活に愛想をつかしているかもしれない。どっちが後悔したかなんて、最後の最後にならなければわからないだろう。あるいは、その時になっても答えは出せないかも。
ザダは、ひとり苦笑した。お茶を飲み干そうとして、ふと、耳をすました。
遠くの方から、風の唸りが聞こえてくる。今まで静かだったのに。
波音のような木々のどよめきは、こちらに押し寄せて来るようだった。窓や戸口ががたがた鳴った。立ち上がったゼラフィが窓辺に歩み寄る間もなく、凄まじい突風が家を襲った。
柱という柱が軋みをあげ、ゆがんだ窓枠からガラスが砕け散った。カーテンは千切れ、部屋中のものがひっくりかえった。
頭をかばってしゃがみ込んだザダは、暖炉の炎が生き物のように身を縮め、丸くなるのを見た。次の瞬間、炎は花火さながらに四方へ弾け飛んだ。
室内はたちまち火と煙に包まれた。
「ここはだめです」
ゼラフィが言った。
「逃げましょう」
ゼラフィと共に、ザダが頭陀袋ひとつ持って戸口から飛び出した時には、家中の窓から炎が吹き出していた。
庭に立って、ザダはあたりを見まわした。あの風が尋常のものだったはずはない。
熱気をはらんだ大気の中に、ザダは精霊の気配を嗅ぎ取った。
バグドが復讐に? いや、彼にはそんな力は残っていないはずだ。他の精霊が狙いすましたようになぜここに。
ゼラフィの家は、火花を撒き散らし、勢い良く燃え上がっていた。ゼラフィは、あっけにとられたように、それを見上げていた。
「ザダさん」
ゼラフィはザダに向き直った。
「何が起きたのです?」
それには答えず、ザダは目を凝らした。立ち昇る炎の上に、青白い輝きを帯びた人影があった。それは、嬉しくてたまらないといったような笑い声をたてていた。
「聞こえないか?」
ザダはささやいた。
「笑っている」
「精霊、ですか?」
「ああ、たぶん」
「たぶん?」
「なぜだろう。あいつの顔は、あんたそっくりなんだ」
おそらくバグドは若い時代に彼女に恋をし、彼女が嫁いでもずっと思い続け、死の時ですら忘れられなかったのだろう。
たまたま彼女がマーロを訪れた時、バグドの精霊は彼女を見つけ、とっぴょうしもないことをやってのけた。自分たちの時間をひきもどしたのだ。
その力は、まわりにも影響を及ぼした。マーロの時の流れは止まってしまった。バグドがもっと長く力を及ぼしていれば、マーロの時間もまた、逆行していたかもしれない。
しかしバグドの精霊は力つき、イーリは妙な衝撃を受けた他は何も覚えておらず、マーロもオオヴも平穏に戻った。
オオヴ村の家に戻ると、ゼラフィは片手でザダの怪我と自分の傷を手当てした。村の女たちがかわるがわるやってきては、汚れた服の洗濯や、夕食作りの世話をやいた。
二三日ここで休養すればいいと村長は言ってくれ、ザダもありがたく従うことにした。
村人たちがみな帰った夜、ザダは長椅子に座って精霊草をふかしていた。ゼラフィが、ザダに黒っぽいお茶をもってきた。
「痛み止めが入っています。寝る前に貼り薬も取り替えますから」
「ただの打撲だ、放っておいても治る」
ザダは、ゼラフィのだらんと垂れたままの左手を眺めた。
「あんたこそ無理するなよ。悪かったな、深く傷つけてしまって」
「お詫びするのは私の方です」
「精霊がやったことだ。気にすることはないさ」
ゼラフィは軽く首を振った。
「意識はあったのです。ただ、どうすることもできませんでした。わたしの中のバグドさんを止めることはできなかった。あの方の妄念は凄まじいものでした」
「精霊には理性がない。バグド本人とは違うだろう」
「ですが、生み出したのはバグドさんで、そうさせたのは私です」
ゼラフィは言った。
「わたしは、バグドさんのことを、何もわかってはいませんでした。あの方に思い残すことはないなんて、考えるべきではなかった」
「バグドだって、わからなかったろうさ」
ザダはお茶を一口飲んで、苦さに顔をしかめた。
「自分のことを。よき〈聴き手〉の中にずっとおしこめてきた。死の直前になってはじめて、いろんな後悔がおしよせたんだ」
「わたしは、〈聴く〉努力すらしませんでした。バグドさんの思いを」
ゼラフィは、ザダに背を向けた。
「あんたには、話したくなかったと思うよ」
ザダは煙管に草を詰め替えた。
「バグドは〈聴き手〉の手本でありかったんだ、たぶん。あんたにとっての」
「そう、かもしれませんね」
「だが、うまくいかなかった。すべての〈聴き手〉の死に際には〈薬〉を使えというのがおれの持論だな」
こちらを向いたゼラフィの少年じみた顔からは、あいかわらずどんな表情も読み取れなかった。
〈聴き手〉というのも難儀な生きものだ、とザダは思った。
〈聴き手〉の多くは、ほんの五六歳のころから養成所に入れられる。みどころがある賢そうな子供が、国中から集められるのだ。それから十数年は、修行と試験の毎日だ。一般教養と医学はもちろんのこと、人間の心の動きの機微、これから受けるけるであろう相談や悩み事への対処方、人の臨終にあたっての心構えなどなど。何より重要なのは、どんなことにも動じない自己統制力を身につけること。
そして認可を得た〈聴き手〉は、はじめて世の中に足を踏み出す。いかに頭で学んでいても、実際に経験しながら世俗で生きていくことには何かしらの葛藤があるはずだ。バグドのようにそつ無く〈聴き手〉の仕事をこなしてきた者でさえ、死の間際の妄念から逃れられなかったではないか。
「あんたは」
ザダは、すこしばかり意地悪な気持ちで尋ねてみた。
「〈聴き手〉になって、後悔したことはないのかい」
「後悔?」
「他の生き方をしてみたいと思ったことは?」
「わたしは、〈聴き手〉になるために育てられました」
食卓の椅子に腰を下ろしたゼラフィは、静かに自分のお茶に口をつけた。
「こうなることしか知りません。後悔しようがないでしょう」
「オオヴ村の〈聴き手〉として一生を終えるわけか」
「わたしはこの村が好きですよ」
ゼラフィは言った。
「気候は穏やかで四季折々の景色が美しい。暮らす人たちもみな優しくていい方ばかりです。オオヴに赴任してよかったと思っています」
ゼラフィは両手で茶碗を持ったまま、ザダに向き直った。
「あなたはどうなのです?」
「おれ?」
「どうして精霊祓いに?」
ザダは眉を上げ、苦笑した。
「〈聴き手〉を頼んだ覚えはないんだが」
ゼラフィが、ほんの少し微笑んだようにザダには見えた。秋の夜長だ、自分の生い立ちを語るのも悪くはないかもしれない、とザダは思った。こんな商売では、枕辺に〈聴き手〉を迎えて一生を終えるとは限らないし。
「おれも、なるべくして精霊祓いになったようなものさ」
ザダは言った。
「ものごころついた時には孤児だった。村の精霊祓いが引き取ってくれた。ほとんど目が見えなかったので、身の回りの世話をする者が必要だったんだ。いっしょに暮らしているうちに、彼はおれにも精霊祓いに向いた力があるんじゃないかと思うようになった。おれが十五になった年、精霊祓いはおれに精霊草を差し出した。これを吸うか吸わないかは、じっくり考えておまえが決めろ。吸ってしまえば、後戻りはできないから・・。で、ここにこうしているわけだ」
ザダは手の中で煙管をもてあそんだ。使い古されて地色がわからないほど黒ずんだそれは、師である精霊祓いがくれたものだった。
ザダに煙管を渡して二年ほど後、病に伏せた精霊祓いは死期を悟って〈聴き手〉を呼んだ。〈薬〉を飲み、あっけなく逝ってしまった。
幸福な最後だったと思う。精霊祓いに失敗して非業の死をとげた連中が、反対に精霊になってしまうのはよく聞く話だから。
自分がどうなるかは、あまり想像したくなかった。ただはっきりしているのは、自分の視力が年毎に衰えてきていること。あと数年もすれば、闇と精霊だけが見える世界が待っているということ。
あの時、精霊草を返していたら、別の生き方が待っていたろうに。そう思わないではなかった。しかし、もし精霊祓いにならなかったら、今ごろは自分の平凡な生活に愛想をつかしているかもしれない。どっちが後悔したかなんて、最後の最後にならなければわからないだろう。あるいは、その時になっても答えは出せないかも。
ザダは、ひとり苦笑した。お茶を飲み干そうとして、ふと、耳をすました。
遠くの方から、風の唸りが聞こえてくる。今まで静かだったのに。
波音のような木々のどよめきは、こちらに押し寄せて来るようだった。窓や戸口ががたがた鳴った。立ち上がったゼラフィが窓辺に歩み寄る間もなく、凄まじい突風が家を襲った。
柱という柱が軋みをあげ、ゆがんだ窓枠からガラスが砕け散った。カーテンは千切れ、部屋中のものがひっくりかえった。
頭をかばってしゃがみ込んだザダは、暖炉の炎が生き物のように身を縮め、丸くなるのを見た。次の瞬間、炎は花火さながらに四方へ弾け飛んだ。
室内はたちまち火と煙に包まれた。
「ここはだめです」
ゼラフィが言った。
「逃げましょう」
ゼラフィと共に、ザダが頭陀袋ひとつ持って戸口から飛び出した時には、家中の窓から炎が吹き出していた。
庭に立って、ザダはあたりを見まわした。あの風が尋常のものだったはずはない。
熱気をはらんだ大気の中に、ザダは精霊の気配を嗅ぎ取った。
バグドが復讐に? いや、彼にはそんな力は残っていないはずだ。他の精霊が狙いすましたようになぜここに。
ゼラフィの家は、火花を撒き散らし、勢い良く燃え上がっていた。ゼラフィは、あっけにとられたように、それを見上げていた。
「ザダさん」
ゼラフィはザダに向き直った。
「何が起きたのです?」
それには答えず、ザダは目を凝らした。立ち昇る炎の上に、青白い輝きを帯びた人影があった。それは、嬉しくてたまらないといったような笑い声をたてていた。
「聞こえないか?」
ザダはささやいた。
「笑っている」
「精霊、ですか?」
「ああ、たぶん」
「たぶん?」
「なぜだろう。あいつの顔は、あんたそっくりなんだ」