第14話 ナイフと微笑

文字数 3,464文字

 部屋の壁が光に照らされている。満月が東から部屋を覗き込んでいるようだ。その部屋の壁は今日はやけに人目を引く。決して目立ってやろうという心持ちはないのだが。Φは目を覚ましていた。随分前からだ。心なく壁を見つめている。体に重さを感じてはいたが、頭の中はむしろ心地よさを感じていた。これから起こることは分かっている。そして自分はその時のためにここから出なければならない。Φはあぐらをかいた脚の上から薄い布切れのようなタオルケットを剥ぎ取った。手際よく梯子を降り、服を着替えた。そして照明をつけず薄暗い中リビングへ向かい、テーブルの上にあったペンとメモをとり、乱暴に文字を殴り書いたあと、上の1ページ目を強引に破り取った。メモをジーパンのポケットに入れながらキッチンへと向かい、冷蔵庫を開け牛乳を手に取った。食器棚からグラスを取り出し、中に牛乳を注ぐや否やすぐに飲み干した。飲み下せなかった白が口の周りに付着していることをどうするわけでもないまま使用したグラスを洗いふきんで拭き干したあと食器棚とは違うキッチンの下にある戸棚を開けてそこにグラスを置いた。立ち上がったΦは口元を裾で擦りながら玄関へと向かい、鍵をかけることなくシェアハウスを出ていった。


 そこには満面の笑みが待っていた。デルだ。何かを言いたそうににやにやしている。近づいていくと、
「いやはや、来ると思っていた」とΦを歓迎した。
 睨むΦをよそに、
「どこへでも着いて行こう」と言い、腰を上げ、Φの後ろについた。
 Φは一度後ろを確認するとその後は一度も振り返ることなく目的地まで歩みを止めなかった。

 着いたのは建設中のビルだった。コンクリートで外壁が綺麗に固められているがガラスもなく内装も施されていない未完成のものだ。オフィスビルとしていつくか会社が入る予定だったが、計画がうまく進んでいないという。建設中ではあるがここ数ヶ月は工事が中断されている。当然ドアもないため入るのに苦労はしない。階段を登っていく。足音だけが響く。音が反響し他に何人も引き連れているような感覚にさせる。Φはずっと登っていく。今や4階に到達したが足を止めない。デルは何も言わずにただ微笑を見せながら後についていく。Φは心臓に獰猛な生き物を飼っているのかと錯覚した。Nのベッドで起きた時から高鳴っていた鼓動が休みなく階段を登っていることでその迫力を存分に引き出している。息が乱れる。Φは後ろの方の音に耳をそば立てた。足音と服が擦れる音だけで息は乱れていないらしい。

 ようやくΦは登るのをやめ、フロアの中央へと進み歩みを止め振り返った。最上階の8階だ。デルを上から見渡す。月明かりのせいか暗がりの中でも姿がしっかり見える。

「面白い場所を選んだな」デルが感心する。
「ここが誰も入らないことを知っていたからな。ここを通りかかった時工事しているおっちゃんがしばらく建設中止になるといっているのを聞いた」
「なるほど」

 Φは右のポケットのあたりを強く握りしめた。そのせいでポケットの中のメモがぐしゃぐしゃになる。最初にかける言葉が思い浮かばない。
「君は面白い男だな」デルが落ち着きのあるが好奇心を覗かせるような声を出す。
「どういう意味だ」Φが不意をつかれたように声を震わせながら返す。
「君は二重人格のようだな。人に冷たい一面を見せながら、人のことが大好きで仕方がない。特にあの3人に対してはなおさらだ。この世を呪い他人には無関心でありながら、正義感で満ち溢れている。心を許しておきながらその人間を殺める」
 Φは何かに心臓を貫かれたかのような感覚に陥った。やはりこの男は全てを知っているのか? 背筋が寒さを覚える。
 デルは動揺したΦの様子に気をかけるわけでもなく話す。
「今日はそのために来たんだろう。私を殺しに。そうであるはずだし、そうでなくてはならない」
 Φに緊張が走る。と同時に疑問が浮かんだ。だとしたらこの男はそれを分かっていてわざわざついて来たのか?

「あ、ああ、その通りだ」
 ジャケットの内ポケットにある裸のナイフが自分のあばらに食い込んでいる気がする。構わず続ける。
「お前はここで死ななければならない」
 そうだな、とデルは笑みを浮かべながら呟いた。
「まあそうなることに私は憤りなど微塵も感じない。君だからそう思うのかもしれない。君は面白いからな。さてそれはそうとしてだ、なぜ私は今日殺められるのかぜひ君の話を聞いてみたい」

 この後殺されると分かっている男がこれほどまでに冷静なことがあるだろうか? この場にリアリティを感じ得ない。自分は本当に現実世界にいるのだろうか? 何もかもが疑がわしい。しかし、唯一自分がここにいる目的と、そうする理由だけは明確だった。

 自分を取り戻そうと深く息を吸い、長めに息を吐く。
「そうだな。お前には聞く権利がある。お前とあったあの日、俺らにはお前が神に見えた。占い師なんて肩書きがふさわしくないぐらい俺らのことをわかっているようだった。お前を神と崇めてもおかしくはなかった。だが、お前は偽物の神だ。お前がこの世に居続ければこの世界は破滅する」

 Φはデルの反応をうかがった。デルは微笑んでいるように見える。何も言う気はなさそうだ。
「お前と話した時、お前は『この世界は完全な存在が定義する、ひとつの形で決定されるべき』といったな」
 ああ、言ったぞ、とデルがうなずく。
「一語一句違わない」
「俺はその言葉を聞いて衝撃を受けた。全くその通りだと思った。それこそが人間の追い求めているものであり、理想だ」
「だがな」Φはデルの目をしっかりと捉えた。
「それは理想でしかないお粗末な空論だ。そんなことは起きない。お前の話を聞いた後、お前に心を動かされたがそれはただの寄り道だった。Xが話してくれたよ。この世界の仕組み。それが正しいかどうかは分からないが、俺はそっちを信じるよ。この世界はひとつの形では決定されない。世界それ自体はいくつもの状態が重なり合ってできている。一つの状態に決定しようとすると他の状態を度外視することになり、それは世界それ自体を完全に認識しようとする行為とはかけ離れてしまう。もちろん全ての状態をあらゆる方法を使って別々のタイミングで観察することはできるかもしれないが、それでは複数の状態が重なり合っているという状態を認識することはできない。人間は世界それ自体を完全には理解できない。対象は認識に従う。その言葉はこの世界は人間の認識が創り出していると言い換えられるだろう。しかしこの世界にはまだ人間が認識できていない世界もある。というより、認識しようとした時に認識できていない世界は創造されているという可能性もある。世界それ自体は重なり合った状態で存在しているが、現状それを一つの状態に決定しているのは人間なんだ。つまり人間は自ら矛盾を生じさせている。この矛盾は取り払わなければならないんだ。それが意味することは、まだ人間には潜在能力を引き出せていないということだ。だが、人間が力を結集すれば世界それ自体の本来の形に近いものを認識することができるかもしれない。一つの状態に決定するということは人間の力の結集とそれによる進歩を止めることになる。そしてお前みたいなやつがこの世で人々に影響を及ぼしているから人間は本来の力を発揮できていない」

 デルが吹き出して笑う。品は保ちながらもどこか見下しているようだ。
「人間は神にでもなるというのか?」
「人間は神になる素質はあるが結局のところなれはしない。そして人間は神になる必要もない」
 デルの笑いがやや薄れたように見える。
「どういうことだ」
「お前には教えてやれない」
 Φにはデルの顔が一瞬曇ったように見えた。
「お前には知らないものがあってもいいじゃないか」

 勢いよくΦはデルに突進した。
 南中した満月がデルの影にΦの影を重ねる。
 それは一瞬だった。満月が2人の影を引き離す。

 その最中、Φのジーンズのポケットからぐしゃぐしゃのメモが地面に落下した。だがその落下音は、より大きい音でかき消された。

 デルはその場で崩れ落ちた。口から血を吐いている。膝から地面と触れた後、前方に上半身を投げ出す。その時Φはデルの表情を捉えていた。Φの目を見ている。

 微笑を残したまま。

 
 デルが地面に倒れているのをΦはじっと見つめていた。横たわる黒の存在にすでに息はなかった。その存在の顔が満月の明かりに照らされている。まるで月に支配されているかのように。
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