第11話 量子力学/過去は変えられる

文字数 9,613文字

 デルと出会ってから1ヶ月が過ぎようとした頃、それは起こった。ある週の土曜日、季節に合わず少し早めのちゃんこ鍋を4人で囲んでいた。珍しくZは午後6時ごろに帰宅していた。NとXはソファに腰掛け、脚の短いテーブルを挟んでその対面にZとΦが座布団に腰掛けている。Nの右にX、その対面にZがいる。鍋にはXとNが近くのスーパーで選んできた2人の食べたい具材でごった返している。ガスコンロを使っているが、火は強めで今にも肉団子が堕落しそうなぐらい沸騰している。各々が自ら具を自分の器に装い、無言のまま食べている中、Xがそのぐつぐつ音だけが独占している空間にチェーンソーを入れた。

「またあいつのとこにいたんでしょ」とお玉で器を具で一杯にしながらZの方を一瞥した。
「さあね」Zはそっけない。
「まあ言わなくてもわかるわ」そう言いながらXはNとΦの方を向いた。
「知ってるわ、あなたたちがあいつに会っている事も」Xは不機嫌に見えた。
「それの何が悪い」
 どことなくモヤモヤとした心の持ちようのまま、Φはあえて彼女に食ってかかった。
「Xの知った事じゃない。マジで」
「いいえ、重要よ」今やXの目はしっかりとΦを捉えていた。
「あの男は間違っている」
 その言葉を聞いて思わずZはXを直視した。
「訳わかんない。あの人を軽視しないで」
「軽視するわ」Zに食ってかかる。
「ねえ、こんなこと言いたくないけど」Xはとうとう箸をテーブルに置いた。
「君たちは間違った方向を歩もうとしている。これまでのようにあいつと仲良くするならね。いい? あいつはただの占い師よ。先生でもないし宣教師でもないし、ましてやブッダや神でもない」
「でも神のように見えるわ。あの人のおかげで私はこの超絶よどんだ人生に後光が差した気がする。あの人に呼びかけられたあの日から私は空を見上げて落ち込むことは無くなったわ」

 Zの声は段々と大きくなっていた。
「それは今まで私に誰も与えられなかったことなの」
「あの男の間違った救済よ」
 Xは一呼吸置いて続けた。
「染まってはだめ」
 なぜかXの声はゆっくりと語りかける口調になっている。
「よく聞いて。あのデルという男は最初から何か違うと感じていた。見た目もそうだけどあの人を惹きつけるような感じ。カリスマのような。ただ近づいてしまったらもうそこから抜け出せないような。嫌な感じ。あいつと会ってからあの顔が脳裏に浮かんできて、何をするにしてもあいつのあの顔を頭から消し去ることだけに集中したわ。それと同時に脳裏に浮かんできたのはみんなの顔よ。あいつに会ったとき君たちの心の動揺を見た気がした。何かが起こる気がして心配だったの。それで私はある日から君たちのことを尾け出したの。Zがあいつといる時は何を話しているのか全然聞き取れなくて辟易したけど、Nがしゃべっているのは見たし、この前Φがあいつと話しているのを聞いたわ」
 Φはぎょっとした。何か言おうと唾を飲んだが、想像以上に舌が口腔に張り付き、口を開けない。
「内容についてはここで詳しく喋る気はないけど、Φ、あいつは神でもなんでもないわ。確かに言っていることに賛同したくなる気持ちはわかるけど、あいつは人間を狭い部屋に閉じ込める監禁犯よ。正しいことを言っているようで私たちの可能性を狭めている。もちろんリアリストと言えばそれまでよ。ただし、私たちの現実はそんなところで止まっていていいわけがないの」
 はあ、とため息をついた後、Xが決心したように口を開く。
「かなり具体的な話に入っていくけど、君たち、あの有名な二重スリット実験は知っているわよね。擦られたベタな実験の話だけど、ごめん。説明させて。電子を1つずつ飛ばして2つの隙間が空いたスリットを通ってスクリーンにくっつくようにする実験ね。観察する前はスクリーン一帯に縞模様がずらっと横に広がるけど、どのように電子がくっついているのかをカメラなどで観察しようとすると、途端にスクリーン一帯に広がるはずの縞模様が2つの隙間の後ろにだけ現れるようになる。観察する前は電子が波のような振る舞いをしているけど、観察するとその振る舞いはしなくなり粒のように振る舞う。つまり観察という行為が入るかどうかによって物質の振る舞いが変化するのよ。まあここで言いたいのは、電子や光子のような量子というミクロの世界では2つの状態が重なり合っていて観察がされることでその状態の一方の状態に決定されるということね。この実験では『波』と『粒』の性質を持つ電子が観察されるまでは波のように動いていたけど観察されると途端に粒のように動いているの。それは『認識が対象に従う』という概念を覆しているように思えるわ。むしろ『対象が認識に従』っている。カント大勝利よ。
 さらにこれには応用したものがあるの。実験者に2つのスリットの隙間のうち片方を電子が通るように意識をすると意識した方の隙間を電子が通る回数が多くなったというものがあるわ。もちろん意識して全部が全部その隙間を通ったわけじゃないから絶対じゃないから確実に意識がその電子を動かしたとは言わないけどね。こうした実験を通して人間は物質世界を変化させる力を持っているかもしれないということが言えるわ」

 Xは3人の様子をうかがう。真剣に聞いている。話を続ける。
「また、量子って堅苦しい話してごめんなんだけど、『量子のもつれ』という言葉は知っている?」
 皆が頷く。Zは仕方なくという感じだ。
「ありがとう」
 小さくXは頷いた。
「ある実験があってね。まず最初に2つの量子に『もつれ』という状態を作るの。そのもつれた2つの量子は片方が縦に回っていると観察された時、もう一方は必ず横に回っているの。逆の立場でも同じよ。人間でいえば、イヤイヤ期か半グレ厨房という感じね。必ず逆張りをする。その気まずい関係性の量子どもは、観察されるまでは縦に回っているか横に回っているというどっちに回っているかわからない状態なの。例えば量子の灰汁舐あくなめくんが右に回ってると観測された時、ペアのもう片方の肉捨にくすてくんはその逆張りで縦に回っているという状態になるの。そんな仲の悪い2つの量子を例え光であっても一瞬で到達不可能な場所に配置し、同じようにした場合どうなると思う? 驚いたことにその鍋台無しコンビの量子たちはそんな移動不可能な距離を無視して、一瞬で逆張りの回り方をしたのよ。これをアインシュタインは『奇妙な遠隔作用』と呼んでいたわ。面白いでしょ。要するに、量子の世界では情報は光以上の速さで伝達することができるの。もしくは別の次元でショートカットされて伝達されているのかもね。これは案外身近なところで応用されているかもしれないわ。例えば、テレパシーなんてどうかしら。遠く離れたところでも一瞬で相手の思考を読んだり、言葉を交わさなくてもイメージの共有ができる。これはその2人の脳の中の量子がもつれ状態にあれば可能かもしれない。ここでいう観察というのは『何をするか』を決める『選択』をしたときかもしれない。もちろんこの選択には『何をするか』を決める前の無意識によって起きる『何を頭に思い浮かばせるか』も入っているわ。人は無意識に選択をしているから。それはつまり自分の脳と他人の脳が量子もつれの状態にある場合、自分の選択によって他人の脳の状態を変化させることができるというわけ。もちろん量子もつれは小さい世界での話だから可能性の話になるけど大きな世界に適用されるのであれば、他人の思考や記憶だって操れるかもしれない。あとでこのことには触れるつもりだけど、これはいい方向に使えば平和になるかもしれないけど悪い方向に使えば地獄よ」

 いつになく真剣にXを見つめる3人を前にXはふっと肩の力を抜いた。
「まあバグもあるかもだけどね。この前あったけど、Zとカフェで話している時にZにしか聞こえないような声で『マーベラス』って囁いたのよね。そしたら5メートルぐらい離れて座っていた女の子2人のうち1人が『この間のテレビ見た? あの姉妹の美貌がほんとマーベラスでさあ〜』って話し出してびっくりした。『マーベラス』なんて言葉普通なら使わないし、なんなら『マーベラス』きっかけで話してる感じあるし。もしかしたらその子と私の脳がもつれてたのかもって思うと変な気分」
「覚えてるわ」Zが相槌を打つ。
「まあバグっていうのかどうなのかはわからない。『バタフライ効果』って言葉があるように蝶が飛び立てばそのせいでどこか遠くの地で竜巻が起こるという現象もあながち間違っていないのかもしれない。気象に影響を直接及ぼすのはほんとうのさいごのてきぐらいのラスボス級じゃないとできないのかもしれないけど、自分では意識していないものと量子もつれを起こすことによって一見関わりのない何かや何者かに影響を与えていることも考えられる」
「えー、面白いね」NがXににこやかな表情を見せる。
「うん」と言ってXは続ける。
「まあ普通の人になんて狙ったものを自分と量子もつれ状態にさせて動かしたり変化させたりするなんてことはできないと思うけどね。むしろそんな考えになっていないからできやしないっていう方が正しいけど。ただ宗教は違うかもね。みんな同じ信仰があり、儀式やミサとかの時に同じ言葉を唱え、同じ思考で同じように祈りを捧げる。量子もつれがどのように起きるかなんて分かったもんじゃないけど、宗教はみんなが同じ状況に立たされることで起こしているのかもしれない。また用語用語で申し訳ないけど、『シェルドレイク仮説』って聞いたことあるかな。ある種(犬でも人間でも)の一定数があることを学習すると、それを学習していない大多数もあたかも学習したかのように振る舞うっていうことがあるみたいなんだ。まあ急に言われてもわからないから、具体的な例を喋るね。イギリスのテレビ局で実際にやった実験があるってね、だまし絵の解答を視聴者200万人に公開する。でも公開前にそのテレビが放映されない地域の人1000人にテストするんだ。その正答率は3.9%だった。ではテレビが公開された後はどうなる? その地域の別の800人にテストしたところその正答率は6.8%となったんだ。どう? すごいと思わない? まあ正答率が格段に上がったわけじゃないからたまたまだって意見もあると思うけど、疑うばかりで何も信じないなら種の進化はないわ。肝心なのはこの仮説が人間にも通用するということ。ある意味これは人間の脳が量子もつれを起こして一定数がこれに反応し、考えを変えたということかもしれない。これを良い方に応用すれば人類にとっていい未来が作れる。反対にこれを悪いように使えば、人類は今より危機に瀕する。これでいえば量子もつれを起こした大多数の人間の『選択』が世界を変えることができるの」

 Φは小さく唸った。思考は追いついているはずが、感情が追いつかない。認めたいがそれを阻んでいる自分がいるような気がした。そんなことがあり得るのだろうか? これがSF映画の中で話されている内容ならなんの心のわだかまりもなく清々しい気持ちでいられただろう。自分とは遠いところで話されているからだ。だが、ここでは仲のいいXがこの狭い一室の中で声を大にして真剣に語りかけている。その声はダイレクトに自分の心臓を震わせている。その震えは昔Φが地元の花火大会で頭上の漆黒の空間で大きな花が咲くのを近距離で見上げた時に感じたものと似ていた。

 Xは止まらない。
「さらに言うとね、過去は書き換えることができるかもしれない」
 そう言ってXは間を置いて3人を見た。
「さっき話した二重スリット実験、ほんとはもっと深くてね。観察前は波の性質、観測すると粒の性質を持つと言ったわね。あれ、観測される前は波の状態で、スクリーンのどの位置にも存在する可能性があるんだけど、観察した瞬間その状態から1つの粒の状態に決定され、スクリーン上のどこかの位置にくっつくの。そのくっつく位置は毎回バラバラなの。例えば、観察してAの位置に粒がくっついたとする。だけど他の可能性もあったわけだよね? Bにくっついてたかもしれないし、Cにくっついてたかもしれない。こう解釈するとどうかしら?観察された瞬間、世界が分岐してパラレルワールドが発生した。そこではBにくっついた世界線、Cにくっついた世界線があるのよ。その世界線は量子がA〜Zのどれかに必ずくっつくという可能性があったとしたら、26個生まれるの。世界線の量は可能性の範囲に依存すると言うわけね。じゃあこれを人間に当てはめるとどうか。選択、選択の連続で私たちは過去と未来を紡いで行っているけど、思考が変化したらその可能性が広がり、自分が歩く世界線が広がるはずよ。例を挙げると、ある一点0から始まって決まった生き方でいつものような選択を重ねて生きていたとする。これをO⇨E⇨F⇨G⇨Hの流れとするわね。では、急に考え方が変わり、今までとは違った生き方をした場合、生きるはずの未来の線から逸れて別の線ができるよね。線は途中で曲がっているから、その現在の地点と最初のある一点とはかなりずれているはずよ。流れは0⇨E⇨F⇨η(イータ)⇨θ(シータ)と言うように変わっていく。ではこの0とθの二点を線で結ぶとどうなるか。生きるはずだった直線とは別の直線ができるわ。その線は今までのような考え方で生きるはずの直線では通らなかったε(イプシロン)やζ(ゼータ)地点を通るようになる。その人はε地点やζ地点で起きた出来事は経験していないんだけど、別の直線で結ぶことであたかも経験したかのように頭に残るの。もしかしたら夢の中で起きたことが現実で起こるデジャヴはこれで説明がつくのかもね。記憶は書き換えられる。それはつまり過去を書き換えることにもなる。これで人々の集合意識が広がれば広がるほど過去は大きく書き換えられ、これから進む未来の選択肢も変わってくる。想像力を常識によって狭めてはだめよ。あなたたちの世界はあなたたちで創るのよ。そしてそういう精神の人間が集まれば人間の可能性はとてつもなく広がる。重力だって無視出来るかもしれない。さっき言ったように、『対象は認識に従う』。ただその世界は1人では創れない。そしてまた、それを邪魔するものだっている」
 ずっと立っていたXだったが、ソファに腰を深く下ろした。横にはNが座っている。
 Xは前かがみになり、肘を太ももに下ろし、前で手を組んだ。

「さっき言ったように、人間は選択を紡いで自分の未来と自分だけの世界を創っている。数ある選択肢は自分の可能性の数だけあり、さらにその中で最も自分の世界にとって現実的な選択肢を選んでいるのよ。ただ、その選択という行為は無意識によるところが大きいの。例え意識的に今までとは180度異なる選択をしようとしても心が不安を煽る。無意識の作用よ。自制心というものは過去の経験や知識から生まれる。さらにその過去の経験や知識は考えを変える前に獲得したものがほとんど。優位になるのは過去の変化のない自分。そしてその自分は家族や学校・仕事場といったコミュニティとメディアによって創られているの。完璧にオリジナルな人間はいないの。とすれば自分は他人からコントロールされているに等しい。ただその自分を打ち破るのも新たな形でコントロールされた自分だけどね。要するに、人間は他者と接する限り他人に制約を受けている」

「どういうことなの? 話が見えないわ」Zがたまらず食ってかかった。
「回りくどくてごめん。つまりね、この世の中が良くなるか環境を変えない限り、人は新しい道を切り開けないのよ。今の世の中、多くを支配しているメディアや権力者がいる。彼らは私たちの可能性を阻んでいる。メディアなんて色々なところで触れるわね。幼い頃から新聞、ネット、テレビから情報を摂取して生きていた私たちはその無意識を黒に染められているかもしれない。例えば重大な事件を起こす時はその前にその予兆をちょっとずつ流すのよ。そうすることで少しずつみんなの無意識がそれらを受け入れるから何か大きなことが起こった時に心に違和感を感じない。それに反対する人もなくデモなんてものも起きないから、気づいていない人にも違和感は波及しない。それは創られたフェイクの平和よ。怖いわよね。でもそれが現実。この世は『上の存在』が支配していてそれに気づいて反乱を起こさないように趣味や娯楽を与えている。その中で得手不得手の意識を植え付けることで劣等感を感じさせ、得意な意識のある人間に支配される構図をつくっている。弱者は強者を敵にする。そうすれば自分たちに目がいかないからね。そして一番言いたいことは、人間の自由意志は操られているということ。『上の存在』が望む方向に扇動されているだけ。さっき量子もつれは他人の思考や記憶だって操れるかもしれない、と話したよね。これは仮説的な話だけどこの量子もつれを彼らがうまくコントロールして私たちに思い通りに行動してもらうように扇動しているかもしれないわ。まあ、行動まで操れなくても多くの人の感情をネガティブにするだけでも世の中に現れる効果は大きいはず。例えばさっきと重複するけど、人間は可能性の数だけ選択肢があるけどその中で一番現実的なものを選択しているという話ね。そこでいうと選択をした過程で一番現実的なものを選んだものは果たして本意なのか。分かるかな。他の選択肢を自分には値しないと感じさせている無意識にネガティブな感情を量子もつれによって刷り込んでいるかもしれないってこと。これは人間の可能性と未来を奪っていることに他ならないわ。もっというと、さっきは言わなかったけれど、世界というのはね、世界の人間の意識の集合体によって最も現実らしいと考えている世界をこの世界に投影し、今の現実が存在している。いわば現実投影の民衆主義でできている可能性があるわけ。そしてその民主主義はコントロールされている。縛られた大多数を変化させることができないと現実世界がもっと拡張された現実になることはあり得ないというわけね。だから世界を変えるには『上の存在』にコントロールされていることに気づく必要があり、人類にはまだ未知数の力があるっていうことを沢山の人が知る必要があるってこと。そして多くの人が団結し、心を寄り添わせることが大事なのよ。そうすることで人類は世界を再形成でき、心が豊かで平和な暮らしに近づけるはず。だから私たちの現実は今、間違った救済なんてものに止められるべきじゃないの。そして今話したことを『宗教』という言葉だけで切り取られて目を背けさせるべきじゃないの」

 そう話し終えたXは改めて4人を目に映した。沈黙がリビングに大きく腰掛ける。N以外はまともにXの目を見ようとしない。聞こえる音は喜んでいるのか悲しんでいるのかわからない鍋の沸騰する叫びだけだった。
「でも・・・」Zが鍋の叫びに負けないように声を絞り出す。
「でも・・・。間違った救済と例えわかっていてもすがりたい人だっている。例え間違っていたとしてもあの時『救われた』と感じた想いに嘘はない」
 Zは下を向いたままだ。
「私がそう思っているんだから間違いはないはずなの・・・」
 Zは動揺しているように見えた。
 3秒ほどの間が空き、同情を知らない唇が言葉を発する。
「使命を持つあなたはその救済に本当に救済されているのかしら」
 Zは思わず見上げてXを睨んだ。
「どういうこと?」
 Xは睨まれていることなど気にもかけていないかのように答えた。
「あなたは一時的に現実から目を背けるために薬を投与してもらっているに過ぎないの。いわばその救済は痛み止めってことね。あなたを本当の解決には導いてはくれない」
 すかさずZが立ち上がる。
「ふざけないでよ。私の苦しみも知らないくせに」
 今やZはXのシャツの襟を掴んでいた。止めようと立ち上がるΦをよそにXは平気そうな顔をしている。
「あら、知らないとでも思った?随分前から気づいてたよ」
 ZはしばらくXを睨んでいたが、途端にZの拳が緩む。何か捲し立てたいかのように口を開いたが何の言葉も出なかった。
 またZは下を向く。
「私は・・・どうしたらいいの」
「私はどうしろなんてあなたにこれ以上言うつもりはない。あなたはあなたなんだから」

 Zは全身の力が抜けたかのようにリビングの椅子に腰掛けた。途端に両手で頭を抱える。
「も、もう・・・。もう、何も考えたくないの。そんなこと急に言われたって。あなたが言っていることがもっともらしいことは分かる。でも頭が追いついてないのよ。そしてまだ、デルのことを信じている自分もいる。もう、何が何だかわからない。自分の使命だって、分かってはいるけど受け止めきれないのよ。もう無理。1人にして。しばらく誰とも話したくない」
 そういうとZは椅子から立ち上がると、下の部屋に響くほどの足音を立て、早足で自分の部屋へと突進し、ショルダーバックに財布とスマホを入れるとすぐに玄関へと直行した。止めに行こうと腰を上げたΦだったが、Xの手とその目力によって静止された。Φは仕方なく座り直す。ドアの閉まる音がリビングにこだまする。まるでリビングで獰猛な生き物が危険を察知して吠えたかのように。

 Xはソファに座った。鍋をうるさくしているカセットコンロの火を「強火」から「中火」に変えた。

 今まで黙っていたΦがようやく口を開く。
「なあ」
 Φの鼓動はとてつもなく速い。
「Xが言ったことが仮に正しいとする。だとしてもその全ては運命によって既に決まっていると思わないか。例えどんなに環境が変わって考えが変わって行動が変わったとしても、宇宙が始まった時もしくはこの世界が始まった時にその全ては決定されているものだからどんなにあがいてもその運命からは逃れられない」
 ΦはXに食ってかかってはみたが、このセリフがΦが言葉にできる全てであった。呼吸が整わない。
「そうね」Xが考えるそぶりを見せる。
「こう考えるとどうかしら。この世界は人間の意識の集合体によって混沌から秩序を形成した。そして意識の集合体が大きく、そして密になればなるほどそれは更新され続けている。要するに、混沌の中でよりコントロールできる部分を増やしているという感じね。そしてさっき言ったように意識の集合体によって記憶それすなわち過去を書き換えられる。もしくは新しい過去をもやもやとした何物でもないところから生み出すことができる、と考えるのが正しいかな。混沌に『新しい過去』という秩序を与えることで私たちがこの世界でコントロールできる情報を増やしていくということ。これって要するに、未来から過去を形成しているということじゃない?とすれば運命というものがもしあるのであれば未来から過去に向かって常に創られているものでその道筋は常に更新され続ける。過去から未来に向けての運命は枝分かれしない一本の線だけでできているものだけど、未来から過去に向けての運命は枝分かれはしないけど長さの異なる線が何本も交差せず平行に引かれている感じね。運命から逃れられないというよりは私たちが主体になって運命を創っていっていると言えるんじゃないかしら。もっとも、それを運命と呼ぶのかは分からないけどね」


 この言葉を聞いたのは3時間も前になる。Φは自分のベッドに横たわっている。カーテンを閉めていない。月の光がΦの体を右半身から照らしている。月はあと少しで満月になろうとしているようだ。眩しい。この眩しさが一層Φのむかむかとして吐きそうな気分を囃し立てるのであった。
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