第10話 科学は神を手繰り寄せる

文字数 3,855文字

 そんなこともあってZは余計に帰ってくることが減っていた。日中は帰ってくることはなく、夜中こそこそと帰ってきては音を極力立てないようにシャワーは弱い水圧でトイレは流水弱にして流した後、寝床につくことが日課になった。

 ΦはNがデルと楽しそうに話しているところをよく見かけた。謎に肩を組んで小躍りしながらベートーヴェンの『歓喜の歌(交響曲第9番)』を歌っているところを見たこともあった。マジもんのドイツ語歌唱に面を食らったが、Φは素通りしていた。またある時は仮面舞踏会でパンで作った仮面しか被れないとしたら何パンで挑むかを議論していた。議論した結果、正解は表側ジャワカレーパン・裏側マーマレードジャムパンだった。

 当然Φもデルのことが気になっていた。帰路の途中、デルの横を通ることになった。引き返しても負けた気がする。だが今は話す準備ができていない。そう思い、気配を消して通り過ぎようとした時、Φくん、と声がかかった。
「今、気配を消そうとしていたね」
 Φは一瞬で背中から大量の汗が噴き出したような気がしたが、そんなことはなかった。
「すまない、すまない。からかったつもりはないんだ」
 デルがΦの方を見上げる。
「少し話をしないか」
 Φは従うしかないと思い、デルの方に寄った。
「君はこの世界をどう思う?」
 デルは唐突にしては重い質問を投げかけた。ファーストフード店で2秒で燕の巣が出て来たようだった。
「な・・・どうだろう。混沌としている。複雑すぎる気がする。そんなイメージ」
 質問の意図と回答が合っていたのか不安になってデルの顔を見た。デルは表情を綻ばせている。
「混沌か。まさしくそうだな。世の中は予想しにくい。この先何があるか分からないから群衆は不安になる。それが世の中の空気に滲み出ている。だがこの世界を理解しようとする努力は必要だ。そしてその努力は工夫されたものでなければならない」
 デルのサングラス越しの目はΦの目を捉えていた。正確に言うと、捉えているような気がした。
「君は世の中には必ずこれと言っていい原因と結果があることはわかっているね。私はその原因一つに着目してそれで物事を分析している。人も例外ではない。たとえば、オシャレに気を遣って化粧も派手だが、爪が汚い女がいたとする。その女はやけに時間を気にして落ち着かない。その女はどういう人なのか分かるかい」
「いや、特に。爪は仕事かなんかの関係で汚くて、時間を気にしているのは誰かと待ち合わせをしていてその誰かが遅刻をしているからじゃないかな」
「真っ当な推理だね」
 デルは余裕そうに頬杖をつきながら右手の小指で下唇を撫でている。

「まあ遠からず近いといったところだ。私が考えるに、その女は生まれた時から貧乏で片親だろう。それに田舎から出てきている」
「は?」Φは咄嗟に声を出してしまった。ピンポイントすぎる。
「まあ聞いてくれたまえ。田舎で片親で育てられたその女は小さい頃から親の苦労を見ている。小さなアパートで親が頑張っている姿を見ていた彼女は自分がわがままを言っては親に苦労をかけてしまうと何事も我慢して生きるようになった。しかし、その我慢をどこに昇華するか。人間は我慢をするとストレスを身にまとう。ストレスはどういう形であれ発散されないといけないね。つまりストレスに背中を押されて何か行動を起こすということだ。そうなれば人間はストレスの奴隷といっても過言ではない。話を戻そう。その女はストレスを発散するために、ある行動に移った。自傷行為だ。幸いにもそれは軽度のもので済んだ。爪を噛むことだ。貧乏でおもちゃもろくに家にないその女は自分で自分を痛めつけることでストレスから逃げられるサンクチュアリを開拓したのだ。一度拓いたサンクチュアリに一度しか通わなければ勿体なかろう。その爪を噛む行為というのは何度もやってしまうんだ。そしてそれが癖になる。彼女は大人になってもその癖から逃げ出せず、むしろその行為を優先して生きるようになる。つまりネイルなどやってもどうせ汚くなるから無意味だと思っていくらオシャレしても爪だけはそのままなのだ。大人になった彼女は田舎での親の窮屈な労働を見ているから都会での金のある豊かな暮らしを望んでいる。高校でバイトをやって少なからず貯金をしているから都会に出ても数ヶ月は暮らしていけるような状態だ。もちろん都会に出たからといってすぐに職につける訳でもない。就職活動をし、田舎で身につけた時間感覚をすぐに崩していく。時計が手首の寄生虫となり、より自分に時間がめり込んでいく。時間が自分を形成しているものの1つだとより認識せざるを得ないのだ。そうやって時間厳守になった女は職についても真面目だと評価され、ある程度の賃金を手にすることができる。だがしかし、ここで彼女が積み上げてきていない欠点が露呈する。男だよ。彼女は一生懸命真面目に生きてきたが、男と接点をあまり持たなかった。周りが異性との交流を深めていくが自分だけはその流れから虐げられている。金もある程度持ったが我慢性ゆえ使うことをしなかった。片親のことを思うと、せめて自分だけは子供に両親がいて苦悩を感じさせないようにしたい、そう思うはずだ。だから自分はまともな夫を見つけなければならない。そのためには男に対し、自分は魅力的で安心を施す存在でなければならないと考えるのだ。その結果、自分磨きにメイクを勉強し、ある程度名の通ったブランドの服を買う。そうやって対男のために磨いてこなかった自分を取り繕うのだ。男にアピールする土台に立ったと思えば、心配してくれている友人に招かれ、男女の交流の場に参上する。経験不足の彼女だが、アピールしてもそれが男にはバレてしまう。そのため誰も彼女を本気にはせず、都合のいいように扱われるのだ。結果、約束はいとも簡単に破られ、優先順位は低いままだ。そうやって雑に扱われてはストレスで爪をかみ、また幼少期の苦しい思い出に遡るのだ。そうやって思い出旅行することが現実での自立を妨げていると気づいた彼女は、都会で現実を過ごしていると言い聞かせようと左手の時計を食い入るように見つめるのだ。もちろん、君がいうように男と待ち合わせはしている。しかし、実際には彼女の心の中では男など頭の片隅にあるだけで本当は自分自身を保てるかが彼女にとって命題なのだ」

 一呼吸置いてデルは付け加えた。
「つまり、数少ない原因で今の彼女が構成されている。よって、その数少ない原因を辿れば今の彼女を作り上げることができるのだ」
 Φの目を見る。
「要は科学なんだよ。結果は原因に帰する。いかに世の中の現象そのものに我々が追いつけるか。科学という物差しで現象を測って少しでも世の中のライブ感に近づくか。それが大事だ。こうやって全てを科学という絶対的な力を使って見ていき、分析できるようになれば、対象物そのものをそのままの形・色で見ることができる。そしてそれができればその存在は神なんだよ。全てが自由だ。科学は嘘をつかない。科学を利用して物事を全て把握できるようになればその存在は全て思い通りにできる。私はそう思って生きてきた。今の女の例は推測の域を出ないが、全ての情報を網羅できれば、他の人がいつどんなことをどのように行動に起こすかが分かる。そうなればその行動に合わせて私も動けばいい。それが全てだ。人の世界はそんなことで簡単に支配できる」
 デルが一呼吸置く。そしてため息をついた後、両手のひらを天にむけて肩をすくめてみせた。
「ただ、人の世界なぞどうでもいい。もし私が望めるのであれば、この世界は完全な存在が定義する、ひとつの形で決定されるべきだ。完全な存在はあらゆるものの本質を見ることができ、それらを自由に操れることができる。そしてそれを実現するには科学を操るのが一番なんだよ。全ての情報と科学を操ればその存在は神になれる。そして人間は昔とは比べ物にならないぐらい科学を応用し、加速度的に文明を発展させている。要は人間は科学という光輪を身につけ、神に着実に近づいているのだ」

 帰り道、Φはもやもやとした感情に襲われていた。それは言語化できない。だが、デルに負けた気がしていたのは事実だった。戦いなど最初から挑んではいなかったが、負けてしまった。圧倒されていた。世の中を解ったような気でいたが、それはただの「気」だった。


 Φは帰宅していた。ぼーっとテレビを眺めている。時刻は4時45分か46分かそれぐらい。ワイドショーでコメンテータが政治家の不祥事に得意げに口を突っ込んでいる。
「いいよな、そうやって」
 Φはこぼし、目を閉じた。暗闇にはデルの顔が浮かぶ。今やデルに脳は支配されている。デルと話せばその内容や自分の仕草などから多くの情報をデルに与えることになる。そうやってデルに多くの情報を渡せばデルは自分の過去やこれから起こすことを当てるだろう。そうなってはデルに全てを観察され操られているようだ。こう考えることも今やデルの思う壺かも知れない。だが、それはそうとなぜかそのままの状態でいいと思っている自分がいる。

 そんな思考の海の中で潮騒とは違う、バタン、という音が聞こえてきた。
 Zが帰ってきた。今は夜中ではなく夕方だ。雨に降られたようでZの髪は艶めいている。浴室に行きタオルをとってリビングに現れた彼女はタオルに髪を当てながら、
「まじデル神」と呟いた。
 Φもそんな気がなんとなくした。
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