ミルクティー

文字数 2,432文字

「え?まだ届いてない!?」

 電話口で麻子が声を荒らげる。いつもはもっと穏やかな性格の持ち主なのだが、納期が迫っていて焦っているのだ。

 「困ります!今日までに来てないと間に合わないのに…」

 ぎゅっと唇を噛みしめる。28歳の時にOLをやめて念願のネットショップを開店し、アクセサリーやアロマグッズを中心に徐々に若い女性からの人気を集めつつ、3年経ってようやく経営が軌道に乗ってきたところだった。

「どしたの?」

 奥の和室から大介が顔をのぞかせ、パソコンの事務処理作業の手を止めて麻子を見る。

「発注したのは先週の始めだったじゃないですか!なんでもっと早い段階で連絡くれなかったんですか!本当に困ります!」

 眉根を寄せて電話の向こうに訴えるが、かんばしい返事はもらえていないようだ。

「はい。はい…わかりました。仕方ないです…でも今回限り、ですからね。」

 念を押して受話器を置く。ふーーーーーーっと長いため息をついて、ソファにバフンと横たわる。

「…どーしよ…お得意さんからの初めての大口受注なのに…」

 目とおでこの上に右手の甲を乗せてぐったりとしている。

「3年間、寝る間も惜しんでここまで信頼とリピーターの顧客、ブログやウェブのPVを積み重ねてきたのに…」

 じわっと鼻の奥が熱くなる。開業してからずっと、涙ぐましい細かな努力を積み重ねてきたのだ。それを、自分の責任ではないのに信頼と信用を失ってしまうのだろうか。取引先のたった一つのミスで?



 嫌だ。

 いやだ。



「…ねぇ大介くん、あたし、どうしたらいいのかなあ…」

 尋ねるでもなく、麻子が声を宙に向かって放り投げる。やや放心しているようだ。





 返事はなかったが、いい匂いがしてきた。あまーくて、さわやかな香りが麻子の鼻をくすぐる。

(…?)

 これ、なんの匂いだっけ?まとまらない思考がぼんやりと泳ぎゆく。

 「はい、おまたせー。」

 かちゃん、テーブルの方から音がした。

 麻子が手をずらして隣を見ると、ソファ脇のテーブルに上等なティーカップが置かれ、ミルクティーがなみなみとつがれている。

「…これ…?」

「ミルクティー。アールグレイの。」

 にこ、とフチなし眼鏡の奥の目が微笑む。

 匂いに誘われるようにぬるぬると起き上がり、カップが熱すぎないのを手で確かめてから口元に近づける。ふわりと柑橘系の香りが心地よい。少量口に含む。

「…ふわ…」

 我ながら変な声を出したと思う麻子。人間、おいしいものを口にした時は思いも寄らない声が出るものだ。

「…これ、どうしたの?こんな紅茶、ウチにあったっけ??」

 おいしいものを味わって麻子の目がきらきらと輝きを取り戻してきた。大介は満足そうにそれを見ながら

「今朝、注文してた紅茶が届いた。これ、ホントおいしいよね。」

 キッチンのカウンター席に座って大介も紅茶をすすっている。

「…うん…おいしい…」

 こく、こく、と1杯目を飲み干す麻子。

「2杯目は、クッキーと一緒にノンシュガーでいかがですか、お嬢様?」

 大介がカフェのマスターよろしく丸い盆を手の指で支え、うやうやしくおじぎしながら尋ねる。

「はい、お願いします。」

 釣られてなぜだか丁寧語になる麻子。






 「ふー、しあわせー♡」

 すっかり笑顔の戻った麻子がソファで伸びをしている。

「それは何より♪」

 大介も嬉しそうだ。

「あ、でも…」

 急に現実に引き戻され、麻子の顔が曇る。

「こないだの大口案件だろ?どんな状況なの?」

 大介が話を促す。

「うん、今日材料が揃って、明後日までに作業して出荷しようと思ってたんだけれど…」

「先方の材料はいつ届きそう?」

「早くて明日の朝だって。でも、さすがにそれじゃ間に合わないよ…」

「ふむ」と大介が腰に手を当てて考え込む。

「こうしたらどうだろう。友だちを片っ端から当たって助っ人を探そう。俺たち2人に、もう2人手伝いがいれば明日1日で作業を終わらせられるよ。大丈夫。」

「でも、雇う経費が…」

「麻子がいつも言ってるじゃないか。『積み上げた信用は1億の財産に勝る』って。信用があれば、またいい商談が舞い込むよ。だいじょうぶ。やろうよ。」

 じわっと麻子の目がうるむ。

「大介くん…ありがとおおおおおおおおおお」

 ソファの背もたれを飛び越えて、カウンター席の大介に抱きつく麻子。

「おわわわっ!た、たおれる!」

 バランスを保って必死に踏みとどまる大介。

 ぐしゅぐしゅと泣きじゃくる麻子の頭を撫でつつ、座りやすいソファに移動する二人。




「なあ、麻子。」

「なあに?」

「この件が片付いたら、久しぶりに二人で旅行でも行かないか?」

「…ん…そうだね…。」

 起業してからというもの、寝食を惜しむようにして突っ走ってきた麻子を、大介が支える形でここまで来た。得たものも多かったが、犠牲にしたものも少なくはなかった。

「でさ、これ!」

 スマートフォンの画面にカラフルなページが表示されている。

「なにこれ?…万国ティーフェスティバル…?」

「日帰りでも何とか行ける距離なんだけどさ、ずっと気になってたんだ。」

「経費…」

 ボソッと麻子がつぶやく。大介がビクッとする。

「…いいよ、行こう。この件片付いたら、3年目の一区切りとして、お互いに楽しいことしよう。どうせだから泊まりでいろいろ行っちゃおうよ。」

「ほ、ホントに!?」

「うん、ホントに!」

「ぃやったー!麻子、最高!」

「きゃ、ちょっと!」

 満面の笑みでソファの上に立って麻子をお姫様抱っこする大介。




 明日は、修羅場。

 それが終わったら、とびきり楽しい休暇が二人を待っている。
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