第２話　忘れられぬ日

【父は悲しそうに】

　僕を見て勇気を振り絞るようにぼそぼそと話し始めた。

「お前が三月に日本で中学を卒業してすぐに韓国に帰って来た、その年の十月に愛理から連絡があった。『喜生さんのお母さんが相談したい事があるので会いたい』と言っていると、連絡をもらった時は、お前が日本に行きたいと言っていた時期だったからその話かと思っていた」

「十一月一日に、愛理と一緒に喜生のお母さんと金浦空港で待ち合わせをしたのだ。横須賀の家に招待された事もあるから、ぜひ家に来てくださいとお願いしたが、お母さんは話が終わったらすぐに帰るからと、何度も言うし、私も日本語は出来る方なのに、それでも愛理が通訳として同席すると言った時には不安に思った」


【その時の話の内容は】

「医師から『喜生さんが出産で命の危険がある。ふたりとも未成年だから親同士が話し合って本人に伝えるタイミングを考えるように』と言われたという事だった。

　最初は話の内容がわからなかったが、愛理が言うには、七月に妊娠がわかった時点で愛理だけに、父親はお前だと知らされていたという。あの子は愛理以外には妊娠や父親の事も、誰にも言わずにいてお母さんが妊娠とお前の事を知った時点ではおろすことは出来ない状態だった。

　愛理はごめんなさいと泣いているばかり。お母さんは正直に、出産は反対だと言っていたが、喜生さんがお父さんに階段から突き落とされて怪我をしても、産むと言ってきかなくて、命がけで出産することになったと言う事だった。

　知っていると思うが、日本にいても、お前の叔父さんは日本人と結婚どころか、付き合うことさえも反対だ。横須賀の家に行った時にお母さんから大人が犯した罪で、心も体も閉ざし不自由な喜生さんの話に、喜生さんが不憫だったし、親としてそんな子を抱えて生きている親御さんの気持ちも痛くて苦しかった。

　お前達も楽しそうだったし、その子が美宇とお前に心を開いて毎日がとても豊かになったと言われたら、どんなに叔父さんが嫌な顔をしたとしても、反対する事が出来なかった。

　正直、後で金浦空港でお母さんと話をした時に反対しなかった事が、とても悔やまれたよ。たぶん、お母さんも同じだったのではないだろうか？」
　

【風に落ちる椿の花のように】

　言葉の一つ一つが、ぼと、ぼと、と音を立てて転がっていくのを他人事のように聞いていた。

　父は話を続けた。

「喜生さんは、自分から、お前には二度と手紙を書かないと、約束するから知らせないで欲しいと懇願しているという。たぶん喜生さんは最初から自分が妊娠に耐えられない体である事に、薄々気が付いていて、それでもお前の子供を産みたかったらしいとお母さんは泣いていた。

　十一月前半の出産予定日で十一月一日の時点では、どうにも対応方法がないので出産させるしかないという。子供も喜生さんも助からない確率が高い中で、どうしてよいものか？お前にこの事実を告げていいものか？私に相談をしに来たという事だった。今も危篤状態で話が終わったらこのまますぐに日本に帰りたいというお母さんに言葉もかけられない自分がとても情けなかった」


【そこまで話すと父は深い沈黙の闇へ潜った】

　手紙が届かなくなった七月はそういう事だったのか？十月にあんなにもネコに会いたかったのは、ネコがきっと僕に保護を求めていたからだ。そう思った瞬間にさっきまで他人事のように感じていた言葉が息を吹き返し僕を巻き込んで感情の渦を巻いた。

　ただでさえ受け止められない事実を感情が刺激し、どうやっても冷静ではいられない。涙は自分の意志とは関係なく流れる。

　僕は車から飛び出すと深呼吸をした。