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文字数 3,986文字

 突然、自分のフルネームを呼ばれて唖然とする。何故、見知らぬ女性が私の名前を知っているのだろう。やはり、忘れてしまっているだけで、この人は私にとって大切な人なのか? 十代の頃の記憶は、不思議と鮮明に思い出せるのだから、転じてそれ以外の記憶が、不鮮明になる——なんてこともあり得る話だ。
「は……じめまして。真田叶成と申します。あの、あなたは一体?」
 彼女は、ハッと目を見開くと、ペコリと頭を下げた。
「失礼しました。私は、この天国一丁目で案内人をしております。名前は……ありません」
 声を聞いても、彼女に繋がる記憶が呼び起こされることはなかった。それに、彼女が身内や知り合いなら他人行儀過ぎる。十中八九、彼女とは初対面だ。そこまで考えたところで、思考は徐々に冷静さを取り戻していた。
 『天国一丁目』
 ——彼女は、先刻そのようなことを言っていた。
 考えてみれば、まだこの場所について何も知らない。案内人と名乗るぐらいだから、この先のことを知っているだろう。それは心強い。しかし、名前が無いとはどういうことなのか。彼女と話したことで、気になることも増えてしまった。
「実は、私はまだこの状況を飲み込めていません。ここが、天国の一丁目ということでしょうか? 見たところ、この先も階段しかなさそうですが……」
 とりあえず、分からないことは一つずつ聞いていくことにする。それに、一度に色々なことを知っても、整理できる自信がない。
「申し訳ございません。本来は、階段の下でお迎えするのですが、一つ前の予定が押してしまった関係で、このような形になってしまいました。質問にお答えしますと、もう少し階段を登れば天国の入り口が見えてきますよ。頑張って一緒に上りましょう!」
 彼女は表情豊かだが、言葉の距離感が一定ではなかった。しかし、その表情と言葉には、人を安心させる力がある気がした。きっと、この独特な距離感こそが彼女の魅力なのだ。
 彼女は私に案内のジェスチャーをしてから、下りてきた階段を再び上り始めた。私は素直にその案内に従って、彼女の後を付いていくことにした。
「あの、もう一つ失礼を承知でお聞きしたいのですが、あなたも、向こうで一生を終えて、こちらへ来られたのですか? 先ほど『名前はありません』と仰っていましたが……」
 彼女は、少し間を置いてから口を開いた。
「一応、向こうで一生は終えました。——と、言っても私は名前を付けてもらう前に、死んでしまったのですが……」
 私の前を歩く彼女の表情は分からない。それでも、彼女の寂寥感を理解するには、声色だけでも十分だった。
「そうだったんですか……。私の尺度で申し上げていいことか分かりませんが、お辛かったですね……。すみません」
「いえいえ、今はもう大丈夫ですよ! そんな私も成長して、天職だと思える仕事ができていますから」
 彼女は、こちらを振り返りながら返事をする。さっきの話が本当なら、彼女は赤ん坊の頃、こちらへ来たことになる。彼女が天国で育ったように、老化もまた進むのだろうか。だとすると私は、これからも年老いていくことになる。それはちょっと嫌かもしれない。
「もしかして、天国でも年は取るものなのかって不安になりましたか?」
 心を見透かした発言をされて戸惑う。
「よく分かりましたね。やっぱりこれ以上、年は取りたくないものです。十代や二十代の頃は、バイタリティに満ち溢れ、知識や技術も努力した分だけ身につきましたが、今ではそれらを失っていくばかりですから」
 彼女は、相槌を打ちながら、僕の話を聴いていた。
「通常ですと、天国に来た時点で老化も成長も止まるはずなので、安心してください」
「成長する人や、老化する人もいるということですか」
 彼女が言った『通常』という言葉が気になった。
「少なくとも成長する人はいますよ。例えば 、天国に来たとき幼すぎた私は、こども園に通うことになりました。その後は、小中一貫校を卒業しましたが、中学校を卒業するころには 、身体の成長は止まっていました。成長が止まったあと、太るか気になって好きな物を好きなだけ食べていた時期があったのですが、普通に太りました。成長は止まっても、体は太るので、真田様も食べすぎには注意してください」
「天国にも学校があるんですね。まさか天国で、『太る』という言葉を聞くことになるとは思いませんでした」
 彼女は相槌の代わりに微笑むと、話を続けた。
「天国と言っても、向こうの世界とほとんど同じですよ。違うことと言えば、仕事とお住まいの仕組みくらいかと思います。天国の入り口までは、まだ少し距離がありますし、ご説明しましょうか?」
「お願いします」
「お住まいについては、すでに真田様の土地をご用意しております。立地などに変更がなければ、次に外観や内装について決めていただきます。これは、ハウスメーカーにおまかせしても構いません。こだわりたい部分がありましたら、気軽にご希望をお伝えください」
 正直、内装はともかく、家自体のことはよく分からない。そもそも、一人暮らしで一軒家に住むというのは、どういう気持ちなのか。集合住宅と違って、生活音を気にする必要がないのは魅力的だが、長い間、家族と暮らしていたこともあって、落ち着けそうもなかった。
「とりあえず、住まいについては分かりました。ありがとうございます。仕事の仕組みについても、お伺いしていいですか」
「分かりました。仕事については、神様と面談をして——」
「神様がいるんですか?」
 驚いて、思わず話を遮ってしまった。人の話を最後まで聞かなかったのは、いつぶりだろう。
「はい、いらっしゃいますよ」
 彼女は、私の反応を楽しそうに見ている。
「面談と言っても、和やかな雰囲気ですよ。神様は、その人の適性を鑑みて仕事を提案してくれますが、強制はしません。私はこの案内人の仕事を提案されて、こうして続けていますが、天職だと感じています」
 なるほど、天国ならば至極当然に神様もいる。そうなると、最初に彼女が言っていたことがいやに気になる。
 ……もしかすると、彼女にとっては、今このときが人生なのではないだろうか。彼女は、向こうの世界よりも天国で過ごした時間の方が遥かに長いはずだ。
「神様は、向こうの世界で語られるようなお優しい方のようですね」
「そうですよ! 私が仕事に就くときも、丁寧に考えてくださいました。だから、安心して——」
「でも」
 今度は、彼女の言葉を意図的に遮る。
「あなたは、新しい人がここへ来てその案内をするたびに、『名前はありません』と悲しい顔で答えているのではないですか?」
「え?」
 彼女は、脈絡のない問いかけに困惑しているようだった。私は彼女に届く言葉を、慎重に選ぶ。
「神様は、あなたが悲しいと感じる事や、苦しいと感じる事を知っていますか。その気持ちはあなただけのものです。あなたと同じ境遇で育った周囲の人たちが、そういった気持ちを感じていなかったとしても、あなたがその気持ちを我慢しなきゃいけない理由にはならないと思います」
 彼女は返事をしない。私は、彼女の話から得た事実を手掛かりに言葉を続ける。
「これは、あくまで私の推測ですが、あなたが通っていたこども園や小中学校には、あなたの他にも名前が無い子が在籍していませんでしたか? それにもしかすると、名前がある子も……」
 彼女が口をゆっくりと動かし始めたので、彼女の言葉を待った。
「確かに、こども園や学校には、私の他にも名前を付けてもらえないまま天国に来ている子がいました。そして、名前がある子も。でも、それが一体なんだというんですか? それに、私は傷ついていませんよ。——それは、名前が無いことで全く傷つかないなんてことはありませんが……。今は、私が天職だと思える仕事ができていて、誰かの役に立てているって思います。悲しむ理由なんてありません」
 彼女が他人に心配をかけないように、言葉の端々に気丈さを含ませているのは明白だった。何よりも、その言葉と態度は、私を見ているようで辛かった。
「……その気持ち分かります」
 彼女はキョトンとしていた。一度、呼吸を整えてから言葉を紡ぐ。
「今回は、分かります。生まれて間もないあなたが天国に来たときの気持ちは、想像するに余りありました。ですが、今のあなたが抱えている痛みは、私が抱えていたものと同じです」 
「だから……。それは、どういう……?」
 彼女は、まだ話が見えないようだ。
「つまり、あなたが痛みや、悲しみに慣れてしまっていると感じたんです。例えばあなたの周りにいた同級生たちは、どんな人たちでしたか。あなた以外の名前が無い子は、各々の境遇を面白がって会話のネタにする人がいたりしませんでしたか?」
 私は、そういう人たちがいることを知っている。自身の容姿や短所を笑いに変えられる人たちを何人も見てきた。また、誰かにとっては笑いに変えられる要素も、笑ったりネタにしたりできない人がいる。人によって考え方も境遇も違うのだから、当たり前のことだ。
  「記憶に残るのは幼少期なら特に、外向的な働きかけができる同級生が多いはずです。名前がある子で言えば……。ここは天国ですし、いじめなんて考えたくないものですが、子供ですし、名前があるか無いかの些細な違いを理由に、ちょっかいをかけられることも想像に難くない。もちろん、あなたが何を理由にして、自分をそこまで縛り付けているのかまでは、私には分かりません」
 彼女は、怖がっている気がした。もしもここで、『本当は、傷ついていた』と彼女に言わせてしまったら、彼女がここまで必死に繋いできた信念を、否定することになる。そんなことは望んでいない。だから、間髪を入れずに提案したい。
「あなたの名前を一緒に考えさせてください」 
 
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