第1話-③

文字数 2,483文字

・・・・・・朝が来た。こんな朝なら、来てほしくはない。

私はすぐに家を飛び出し、その足で新宮へ向かった。

『県の真女子の家はどちらですか?』、

『県の真女子を知りませぬか?』と尋ねて回った・・・・・・

誰も真女子を知らなかった。

茫然自失の私は夕暮れ時の四つ辻で立ち尽くし、途方に暮れた。

辺りはじつに殺風景で、もう道もわからない。

と、東の道から、真女子が連れていた、あの侍女がてくてく歩いてくるではないか。

私は救われた思いで駆け寄った。

あの方の家はどちらですか?

傘を返していただきに参りました。

あぁ、ようおいでくださいました。

お嬢様もきっと喜びましょう。

侍女の名は‘まろや’と言った。

柔肌は雪のように白く、微笑む顔は愛嬌に満ちていた。

まろやのうしろについていくと、どれほども経たないうちに・・・・・・

こちらでございます。

そこは夢で見たのと同じ屋敷だった。

何一つたがうところがない。

私は飛びつくように門構えを抜け、奥へと進んだ。

お嬢様、三輪崎(みわさき)の若旦那様がおいでになりましたよ。

傘を貸してくださった若旦那様にございます。

まろや、まろや、どこにおるのですか。

さぁ、こちらへお通しなさい。

と、奥座敷から姿を現した真女子と、鉢合わせになった。

改めてその美しさに、私はぐっと唾を呑み込んだ。

昨日の今日で、せっかちではありますが、私はこの地の安倍弓麿先生に仕えており、

その、ついでと言っては何ですが、寄らせていただきました。

私も同じです。

今朝からずっと、あなた様のことばかり思うておりました。

首を長うして待っておったところです。

私は真女子と二人、表座敷に入り、腰を下ろした。

几帳きちょう御厨子みずしの飾り、壁代かべしろの絵など、どれも見事で由来のある品に違いない。

これは並の人の住まいではないと思った。

ごめんなさい。わけあって主人のいない家となってしまい、

充分なおもてなしができません。

おいしくもないお酒で恐縮にございますが、それでもよろしければ、

さぁどうぞ、召し上がってください。

それは充分でないどころか、充分すぎるほどだった。

高坏たかつき平坏ひらつきの見事な器に、海のもの山のものが盛りだくさん。

酒は浴びるほどあるし、何より真女子がお酌をしてくれる。

夢の中へ舞い戻ったような気がした。

夢ならもう、さめてくれるなよ、と思った。

さぁさぁ、お酒はまだありますよ。

私ひとりが酔ってしまってはお恥ずかしい。

どうか、ご一緒に。

はいはい、それでは、私もともに。

私はまた酔い潰れてしまった。

気づけば隣に、寄り添うように、真女子がいた。

その頬が、桜色に染まっていた。

・・・・・・これは酔うた口から出たものと、どうか聞き流してください。

じつは、私の生まれは都にございます。

ただ、父も母も早くに亡くなってしまい、乳母めのとに預けられて育ちました。

ちょうど3年前になりますが、私は紀伊きいのくに受領ずりょう下司したづかさあがたなにがしの妻となり、

この地に、ともに下って参りました。

そんな夫も任期終わらぬこの春に、病に倒れました。

都に残った乳母も尼になったとか。行方が知れませんし。

私は誰頼る人なき、ひとり身になってしまったのです・・・・・・

そうですか・・・・・・それはさぞ心細いことでしょう。

心中しんちゅうお察しします。

もしあなた様に、こんな私を憐れむお気持ちが少しでも、

ほんの少しでもございますなら、

どうか私を、あなた様のお側に仕えさせてはくださいませんか。

え・・・・・・

あッ、ごめんなさい・・・・・・

なんとはしたないことを、私は・・・・・・

お忘れになってください・・・・・・

いいえ、忘れませぬよ。

私は今、この上なくうれしい言葉を耳にしたのです。

うれしい?

私ははじめから、あなた様は都育ちの高貴な御方だと見ておりました。

はたしてそのとおりだった。

それにし、この私は鯨も寄り来るへんな浜育ちの身です。

それでもよろしければ・・・・・・

まぁ、なんとありがたき・・・・・・

私もまた、あなた様と一緒にいられるなら、こうして寄り添っていたい。

今日よりこれからは、ずっと、こうして。

涙が、涙が止まりませんよ・・・・・・

・・・・・・とはいえ、ただ、私は親と兄の厄介になっており、

この身ひとつのほか持てるものがないのです。

あなた様を迎えようにも、それが恥ずかしく、また、不憫でもあり・・・・・・

そんなこと、そんなこと私にはどうということではございません。

お側にいられるなら、それだけでもう充分にございます。

欲しいものなどありません。

そうですか、それを聞いて憂いが消えました。

孔子のような聖人でさえ、恋すれば迷うと言います。

私も迷うてみましょう。

己が無力さなど、今は忘れていたい。

あなた様、この先どうか私をお見捨てになりませぬよう、

この一杯の盃を、向こう千年の契りにしとうございます。

それもよいでしょう。

その代わり、あなた様のことを‘真女子’と呼んでもよろしいか。

はい、うれしうございます、旦那様。

それでは、いただくとしましょう、

この上なくめでたき祝いの盃を。

私は、真女子は果報者にございます。

向後こうごは夫として、こちらへお通いくださいまし。

真女子は晴れた笑顔を見せると、まろやに頼み、奥からおごそかな木箱を運び入れた。

蓋が開かれると、その中に、金銀で飾られたまばゆ太刀たちが納めてある。

亡き夫が家宝として大切にしておったものです。

どうかこれを結納の品とし、受け取ってください。

私に? いいのですか?
はい、旦那様
今夜は此処にお泊まりください。

と、真女子は離してくれなかったが、

父の許しを先に得ねば、勝手な外泊など許されようか。

私は後ろ髪ひかれる思いで、

明日あすの夜、うまく口実をつくり、また参ります』

とだけ言い残し、屋敷を出た。

見上げれば、満月に黒い雲がかかっていた・・・・・・

<第1話・了>


※オーディオドラマ(音声)版については、

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登場人物紹介

豊雄(とよお)

真女子(まなご)

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