§09-3 8/03 夏期講習:六日目(3)

文字数 2,664文字

 小学校の途中からなぜか萌愛だけが残った。中学校の途中でなぜか璃優だけが増えた。佐藤由惟に関しては判断を保留しよう。彼女は明らかに利害関係者だ。利得があると考えたから私にアプローチしてきた。これまでの経験から予想するに、彼女は「かつて利害関係者であった一人」というポジションに後退する。もう私の目の前には現れない。言葉を交わすこともない。たぶん、そうなる。
 萌愛と璃優がどうして私の友達でいてくれるのか、私に目を向け、私に声をかけ、私の隣りに座ってくれるのか、これはもうほんとうに謎だ。萌愛のほうは残り、璃優のほうは増えたので、考えるべき経緯が二系統になってしまい、事態は錯綜して、なおさら難しくなっている。ひとしきり考えてみたのだが、どうしてもわからないので、もう考えないことにした。
 だけど、このふたりが突然どこかに消えてしまう感じはない。そういう予感を抱いたことがない。不思議なことである。これまで左手に萌愛がいて、右手に璃優がいてくれたから、左右はどちらでもいいのだけど、私はこの世界に踏みとどまっている。ふたりが左右から私の脇の下に腕を突っ込んで、躓いたり落ちたりしてしまう事態を回避させてくれている。
 そういう話を聞かされて、果たして雨野久秀は喜ぶだろうか? なにがどうしてそうなのか私にはわからないので、ただこの身の上に起きてきた事実の継起をそのまま話すしかないのだけれど……。
 私は自分が、どうして「一緒に遊んではいけない子」になってしまったのか、その認定の経緯を把握できていない。だから、「一緒に遊んではいけない子」である私と遊んでくれる萌愛と璃優の思惑も、やはり理解できない道理なのだ。しかし、いったんそのようなレッテルが貼られてしまうと、貼られた人間自身ではどうすることもできないのだということは、よく理解できている。だから、「一緒に遊んではいけない子」というレッテルを貼られる前に、一緒に遊ばない子になってしまえ!というのが、萌愛の提案だった。私は高校でそれを実行に移し、今なお実践し続けている。
 雨野久秀はイレギュラーな転校生だから、まだわかっていないのだ。小学生や、一部の幼い中学生とは違い、高校生はそのような忠告を、敢えて口にはしない。私が積極的に校内の空気を撹乱するような愚行を犯さない限り、高校では生徒も教師も私を排除しようとはしない。
 誰ともコミュニケーションをとろうとしないちょっと変わった子という評価が確立してしまえば、この世界はとても生き易くなる。それに高校生ともなると、二人一組を作りましょうとか、四人のグループをつくりましょうとか、いたずらに他者と交わることを強要する、あの迷惑な要請もほとんど発せられない。確かに、現生人類は社会性を獲得したことで、ネアンデルタールなど旧人類との生存競争に打ち克ってきたというのは、まあ事実なのだろう。しかし、ヒトも遺伝子を設計図とする生物のひとつなのだから、遺伝子の特性に従って、一定範囲内での分散は放置されるわけだ。絶対に分散を許さない方向に努めるのは、コストとリスクが伴うからである。
 実際、他者と交わることを強要する類いの要請によって、生徒も教師も多大なコストとリスクを負わされているではないか。放っておけばいいのである。なにも直接的な危害を加えやしないのだから。ちょっとばかり落ち着かない気分になるといった程度の話には、目をつぶって欲しいのである。気になるのはわかるよ。なんかあいつ違うな…てやつでしょ。気持ちはわかるけどさ、なにもわざわざいじりにこなくてもいいじゃん。つつきにこなくてもいいじゃん。なんでそんなことするかな? それもこれも遺伝子に衝き動かされて已む無くするんだなんて話、私ぜったい信じないよ。
 とは言え、そんな小学校・中学校の黒歴史は――黒く塗ったのはおまえらだからな!――、不登校や引きこもりに陥ることもなく、リストカットなんて物騒な騒動を起こすこともなく終わった。不登校はちょっと脳裡を過ったけれど、リストカットは考えもしなかった。考えなくてよかったと思う。さらに「一緒に遊んではいけない子」感を強めるだけに終わったろうし。
 繰り返しになるが、高校は現状たいへんに過ごし易い。萌愛の提案が奏功し、皆さん私を放っておいてくれるので、たいへんにありがたい。しかしすでにお気づきのことかと思うが、萌愛の提案は、私が他者と交わりたくないと思っているところから出発しているのではなく、私が他者との交わりに失敗して酷い扱いを受ける可能性が高いところから発想されているのだ。
 そう、私は決して人間嫌いではない。社会なるものに強い不安や恐怖や脅威を感じてもいない。ただ、他者と交わろうとすると、なぜか上手く事が運ばないのである。萌愛も璃優もそこを承知した上で、何故?を一緒に考えてみようなんてことはせず、他の大半の生徒たちとは異なって、特段の苦労も無理もなく、自然な感じで私と一緒に過ごしている。――不思議な人たちである。
「じゃあ、明日十時に後楽園の改札の中で――」
「待って、待って!」
「なに?」
「雨野って南北線でくるよね? ど~んッと上がらなくちゃいけないからね? そこわかってる?」
「うん、ホームページで見たよ。B6から1Fまで上がる――でいいんだろう?」
「そう、そう。とにかく丸ノ内線て書いてある案内板だけを信じるんだよ?」
「こないだちょうどそんな話をしたところだねえ」
「後楽園の南北線と丸ノ内線って、都内でも最悪の乗り換えのひとつだから、わからなくなったら遠慮なく電話してね?」
「結城さんは誰にでもそんなにやさしい人なの? それとも俺だからこんなにやさしいの?」
「……そういうこと言うな!てずっと言ってるはず。そろそろ学習できていい頃じゃない?」
「学習できているからこそ言うんじゃないか」
 なにを宣っておるのかさっぱりわからないので、お互いスマホがあればなんとかなるはずだから、後楽園駅の話は適当に打ち切った。――のだが、この日も表がすっかり暗くなるまでおしゃべりをしてしまった。またも一時間半である。議論が白熱したというわけでもない。オリンピックやワクチンや、とにかく政治の話はタブーだと前回も釘を刺しておいたのを、雨野も忘れずにいたのは確かだ。ではなにを話しておったのか?と問われても、答えに窮してしまう。通話を終えると同時に、それらは泡沫(うたかた)のように消えてしまった。プチプチと泡のはじける音ばかりが、微かに耳に残っている。
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