§07-3 7/28 出来事に呼ばれた人たち(3)

文字数 4,461文字

 うちでよければ……なんて言われるとは思ってもいなかった。どこかに出かけるにしても表は暑いし、と続けられて、確かに十三分ばかりヒートアイランドを歩いてきた身としては、一刻も早く冷房のよく効いた空間に身を収めたかった。できれば冷たい麦茶の一杯でも添えて頂けるとありがたい。そんな気分にも大いに後押しされて、同級生男子の部屋に上がり込む由々しき事態へと、このとき私は身を投じたのである。――ここでは、涎を垂らす狼の棲み処に世間知らずな子猫ちゃんが迷い込んでいく情景を思いうかべると、理解の助けになるだろう。
 玄関ドアを開けるところからの雨野久秀の振る舞いを見る限り、今この住まいに他の人間はいないものと推察された。通された部屋には、雑多な書籍や冊子やらが、壁が見えないほどに積み上がっており、窓に向かって大きな作業台のような机が据えてある。冷たい飲み物を持ってくると言い残し、雨野はこの瞬間、私をひとり部屋に残した。部屋にひとり残された人間は家捜しをするものと決まっている。与えられた猶予は数分しかない。が、私はなにを見つければいいのだろう?
 書籍には中世ヨーロッパや中世日本に関する歴史書が多く見られる。風景や建築を集めた写真集のような大きくて重そうなやつもけっこうある。しかしそんなところにかかずらわっている時間はない。問題は大きな机だ。巨大なディスプレイと、見たことのない平べったいキーボードパッドに、見たことのないサイズのタブレットもある。が、ゲーム機のコントローラーらしき物はない。それではこの机が示唆するものはなにか? 私には皆目見当がつかなかった。
 いわゆる勉強机――中学生の頃に買ってもらったのだろうと推察される――のほかに、床の上にも木製のローテーブルがある。イメージとしてはガラス天板の丸いやつが相応しいポジションなのだが、木製の四角いのも悪くない。しかし木製の四角いやつが床の上にあれば、ひとつの可能性が浮かび上がってくる。これ、もしかて炬燵に変身する系か?と、私はローテーブルの下を覗き込んだ。
 ローテーブルのローはlowであり、直訳すれば「低い」であり、ここでは直訳していいわけだから、この木製の四角いやつが炬燵に変身するか否かを確かめるには、這いつくばるように頭を下げなければならず、すると万物を支配する物理法則に従って……じゃなくて、二足歩行への最適化途上にある人体の骨格構造に従って、ぴょんとお尻が跳ね上がることになる。
 実際、私の可愛らしいお尻は、そのとき、ぴょんと跳ね上がっていた。そこへ、飲み物を手に雨野久秀が戻ってきたことに、私はしばらくのあいだ気づかなかった。その上、私の可愛らしいお尻は、まさに部屋の入口に向かってぴょんと跳ね上がっていたのである。――ちなみに、雨野の木製の四角いやつは、炬燵に変身する能力を授かってはいなかった。
「……結城、さん?」
 漫画やアニメや映画やドラマなどであれば、ビックリした私が周囲の状況確認を怠り慌てて上体を起こそうとした結果、ローテーブルの縁にしたたか頭を打ち付ける場面である。が、幸いにも潜り込んではいなかったので、そのような不始末を起こさずに済んだ。危ういところだった。
「あ、あの、炬燵なのかな?なんて、思ったもので、つい……」
「ああ、それを確かめてたのか」
「炬燵に変身するやつじゃないんだね」
「うん。これは小学生の頃に使ってた勉強机。小学生男子って床に広げたがるからさ、いろいろ。こういう床に近い低い机がいいんだよ」
「へえ、そういうものなの」
 いま、持ち上がって強調されたぷりぷりの可愛いお尻、ガッツリ見られたな……と私は柄にもなく動揺しつつ、そこはそうは言っても女の子っぽく小さく身をすぼめるようにして、ローテーブルの前に座った。むろん正座である。思わず正座の体勢をとってしまった。そうであることを忘れないうちにどこかで崩さないと、ふたたびとんでもない不始末を犯しかねないぞ…と私は自身に戒めた。
「なんか凄いパソコンあるんだけど。パッドもむっちゃデカいし。タブレットもそんなサイズのあるんだねえ」
 私の心の声が聴こえていたらしい雨野久秀は、冷たい麦茶を持ってきてくれていた。が、そいつはまだお盆の上にあり、二つ並んだグラスの中で汗も浮かべず澄ましている。目の前に脱水症状の発症が懸念されるいたいけな少女が、涎を垂らさんばかりに見つめているというのに。
「イラストレーターになりたいんだ。アニメの背景なんかもやりたい。ちょっと漫画も描いてみてる。そうした仕事で生計を立てたいんだ。これらは腕を磨くための道具だよ」
「美大とかに行くの?」
「大学はふつうのところに行くよ。クリエイターになるためには知識や教養は欠かせないだろう? 俺の得意分野は中世なんだ。気に入って描いて調べているうちにそうなった」
「中世史を勉強しに行くわけか……。それは偉いな」
「別に偉くはないよ」
「いや偉いよ。私なんてあれだよ……まあ、私のことはさておき、やっぱり、うん、それは凄い」
「凄くなんてない。ただ好きなことを――あ、喉渇いてるよね? どうぞ」
 私は「待て!」の命令を解除された犬のように、コップに注がれた冷たい麦茶を一気に飲み干した。犬は一気に飲み干さないか……。飲むのは牛だな。牛飲馬食と言うからな。でも牛はきっと「待て!」の命令なんか聞かないだろうな。いやもう犬でも牛でも、どっちでもいいんだけど。
「まさか結城さんが遊びにきてくれるとは思ってもみなかったなあ」
「いや待て。私は遊びに来たのではない。ちょっと善からぬ噂を小耳にはさんだのだ。――だって雨野くんよ、佐藤由惟をあのように扱うのはさ、ちと非道な振る舞いではないかね?」
「どうして由惟さんが出てくるの?」
「あれ? 佐藤由惟に会ったんでしょ?」
「いや。夏休みに入ってからは一度も会ってないよ。電話ではちょっと話したけど。それも少しだけね、二回ほど」
 ――なんだって!?
「ああ、でも結城さんの話はしたな。あっさりフラれて、あんまりあっさりし過ぎてたから、ちょっと処置に困ってる……みたいなこと。――え、あ、もしかして由惟さんと結城さんて、けっこう親しかったの?」
「いいや、ぜんぜん」
「なんだ。じゃあ由惟さんと話したってわけじゃ――」
「話したよ。ネカフェのフラットシートルームでしっぽりとね。そのあと有楽町でお買い物まで一緒にしてしまったよ。なんでもこの夏に着るワンピースが欲しいとか言うからさ」
「それってかなり親しいってことじゃない?」
「それがそうも言えないから困ってるんだよ」
「なんだかわからないけど、じゃあ結城さんはどうして今日ここに?」
「だから、雨野くんの話をちゃんと聞けと、佐藤由惟に言われてしまったからだ」
「由惟さん、そんなこと言ってくれたのか……」
 雨野久秀がなにか感慨にふけるような顔をしたところで、ふと、そういえばお約束の「男の子の部屋に入るのは初めてだ!」を言い忘れていることに気がついた。が、すでにタイミングを逸している。あれは本題に入る前に終えておかなければならない。雨野が私を部屋に案内したあと、すぐに飲み物を取りに踵を返してしまったものだから、お約束のセリフを口にするタイミングを逸したばかりか、あろうことか、ぷりぷりなお尻をガッツリ見られるような失態にまで追い込まれてしまった。うっかりした…では済まされない、結城夏耶・一生の不覚だ。
「それで、今日は俺の話を聞いてくれる、と」
「まあ、来ちゃったからなあ……」
 ここでふたたび逃げるように立ち去るというのも、麦茶を一杯ごちそうになったところでもあるし、一宿一飯とまでは言わないけれど、いささかみっともない話ではある。
「成り行き上そうするしかないかなあ……」
「今日はいきなり跳ねるように逃げたりはしない?」
「まあ、靴を脱いでしまったしなあ……」
「靴?」
「いやだから靴を脱いでしまったからさ、靴を履こうとするところで追いつかれるよね?」
「ほんとうに切羽詰まって逃げ出すなら、靴は両手に持って走るんじゃない?」
「いやいやそれは漫画やアニメや映画やドラマの中だけで見られる景色だと思うよ」
「そうか。確かにきっと玄関で靴を履こうとするだろうね、無意識のうちに」
「そうだよ。慌ててるもんだから上手く履けなくて、そこで私は雨野に追いつかれる」
「なるほど」
「部屋に引きずり戻されて凌辱されかかるところまでがテンプレ」
「そんなテンプレ聞いたことないよ。それこそ創作の世界だけの話だ」
「雨野は私を凌辱しようとしない?」
「しないよ」
「いまガッツリ私のぷりぷりなお尻見て欲情したところなのに?」
「お尻? ああ、お尻か。さっきね。お尻持ち上げてたね。入口に向かってね」
 くすくすと笑い出した。くすくすと私が笑われた。余計なことを言ったようである。雨野はすでにもうすっかり忘れていたのだ。わざわざ思い出させてどうする? しかし口に出してしまったものは取り消しようがない。私は政治家ではないので発言の取り消しができない。あれはどうして可能なのか不思議だ。いやそんなことは今はいい。仕方がない。ここは女の子っぽく逆切れしておくか。
「ほら、やっぱりガッツリ見たんじゃない!」
「だって部屋に戻ったらお尻しか見えなかったんだから、どうしようもないだろう?」
「とか言いながら、唖然と立ち尽くしつつも見るものは見たわけでしょ? ガッツリと」
「唖然と立ち尽くしはしたけど、ガッツリとは見ていない」
「確かに?」
「誓って」
「……そう。……わかった。……ここはじゃあ、疑わしきは罰せずの精神で信じてやろう」
「ありがたい。――念のため玄関ドアの鍵、外しとく?」
「いや、そこまではいい」
 ん? 雨野こいつ、なんか私の奔放とも称されるパロールに、ちゃんと付いてきているな。ふつうここに至るまでのどこかで躓いて困惑し、微妙に表情を歪め始めるはずなのだけれど。さっきからそうした様子が微塵も窺えないのは……あれ? ……どういうことなんだ?
「じゃあ、結城さん。改めて俺から始めていい?」
 床にいろいろと拡げていたと言う小学生の頃に使っていた小さな勉強机を挟み、我々は毛足の短いカーペットの上に向かい合っている。が、雨野のほうは正座ではない。どうしよう……困ったな……こういうとき女の子ってどんな体勢で座るのが正解なのか全然わからないぞ……。
「あの学校に転校してきて最初の日にさ、結城さん憶えてるかわからないけど、学校が僕の下駄箱にラベルを貼り忘れてて、どの下駄箱使えばいいのかわからなかったから、仕方なく来賓が使う棚に靴を入れて教員室に向かったんだよ。当日は岡崎先生を訪ねるようにって言われてたから――」
「ちょ、ちょっと待て!」
 なんだよ、そんな物語ふうなやつが始まるのか。単にまた「可愛い」とか「好き」とか言うだけじゃないのか。これちょっと私、雨野を侮ってた感あるぞ。このまま続けさせて大丈夫か?
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