§07-4 7/28 出来事に呼ばれた人たち(4)

文字数 5,202文字

 雨野の話は物語ふうではあったものの、中身は大したことないやつだった。そもそものきっかけは、私みたいなちょっと可愛い女の子が、ちょっといい感じの景色の中で、ちょっといい感じの気配を醸し出していた――そんな話である。その後、物語の冒頭のイメージをすっかり台無しにしてしまうほどの接触が、幸か不幸か私たちのあいだで起こらなかったがために、それに私は学校では基本的におとなしくしているよう松岡萌愛からも忠告されているものだから、物語の冒頭シーンで登場したちょっと可愛い女の子は、日に日にその可愛らしさを増していった――みたいな話である。
 なんだつまらない……と思われるかもしれないが、この手の物語が進行していく過程に於いて、他人が聞いておもしろいような障害がいくつも起こるなんてことは、そうそう在るものではない。いやむしろ、他人が聞いておもしろいような障害がいくつも起こってしまったら、この手の物語は途中でその進行を断念するだろう。
 本来なら結ばれようのない、そもそも出会うことからして奇跡みたいな男に、なんの取り柄もない女がどうしたわけか見初められてしまい、取って付けたように立ち現れるあれやこれやの障害を、乗り越えるたびにどんどん熱く燃え上がっていくみたいな設定――あれってさ、もうほとんど「信仰」とでも呼ぶべき世界だよね? そんな脚本ばっかり書いてるコンプレックスの塊りみたいなオバサンいるよね? いや名前もイニシャルも出さないけどさ。
 とは言うものの、今まさに雨野久秀は、結城夏耶の真の姿に触れつつある。終業式のときは、確かに言われる通り、私は脱兎のごとく逃げ出してしまったわけだが、本日ここまでは平生の結城夏耶として、慌てず騒がず飾らずに振る舞っている。それを前にして、中身は大したことないやつだったとしても、雨野久秀のほうもまた、ちょっと物語ふうのそれっぽいお話しを、実に落ち着いて私に聴かせたわけだ。――空前絶後の大珍事だと言えよう。絶後に関しては断言できないながら、空前であることは間違いない。当人であるこの私がそう言うのだから、間違いない。
 私は正直かなり困った。
 ご存じのように人間というやつは、もっぱら知識と経験を頼りに問題を解決する。知識も経験もない問題にぶち当たった際には、援用できそうな知識を探り、似通った経験を持つ人間を探す。それはもう冷や汗をだらだら垂れ流しつつ、必死になって探り、探すわけだ。「学校では教えてくれないこと」という慣用的言い回しがあって、ずいぶん気に入ってこれを使う人が多いようだけれど、学校というところは個別具体的な問題解決策を授ける場ではない。その探し方を教える場だ(その裏側で馴化も進行するわけだが)。しかし好んで「学校では教えてくれないこと」という慣用的言い回しを使う人間は、ほぼほぼ個別具体的な問題を持ち出してきて、その解決策が示されていないとあげつらう。
 問題が提示され解決が求められる際に、「教わっていません」と答えるのはもっとも恥ずかしいことだろう。子供たちが大人になった際に、世界がどのような問題を投げかけてくるかなんて、予見できる人間はいない。なにも国連で決議されるほどの世界問題にまで拡張する必要はなく、たとえばただいま現在この私が置かれている状況を、誰に予見できるか? 何を教えられるか?
 もし仮に、そのような際にはこうするのが正しい対処です、なんて教科書に書いてあったとしてもだ、そんなものを鵜呑みにするバカがどこにいる? そいつは間違いなく「前代」において「正しい」とされてきた対処であって、「次代」においても通用する保証はまったくないはずではないか。教えられることは、先人は似通った事態に直面した際に、どのような知識を探り、どのような人々を訪ね、どのように問題解決を図ろうとしたか――その歴史的事実のみである。
 むろん、そこから方法論なるものが帰納的に抽出され、整理されたりはするだろう。しかし方法論は――こんなことを言うのも今さらめいて小っ恥ずかしい限りだが――個別具体的な問題の解決策そのものではない。解答と方法は違う。学校が教えるのは方法、あるいは考える姿勢や態度みたいなやつであり、解答そのものから遠いのは当たり前だ。好んで「学校では教えてくれないこと」という慣用的言い回しを使う人間は、まさしく解答がない!と叫んだり嘲ったりする。それではまるで、自分には物事を考える意欲も能力もありませんと、衆目の前で宣言するようなものである。まことに恥ずかしい。
 立ち戻って、ただいま現在のこの私・結城夏耶が直面している問題のことだ。
 ちょっと図書館に行ってきたり、友人知人を訪ねたりしている猶予はない。いまここで求められている問題には、いまここでお答えしなければならない。雨野久秀は最終的に、連絡先(例の我が国でいちばん利用者が多いやつのそれ)の交換と、夏休み中どこかで少しおしゃべりをする約束とを、私に求めてきたに過ぎなかった。これに対する回答を用意するために、図書館に通って凡百の小説やハウツー本を漁ったり、まずもって頼りになりそうもない友人知人を訪ねているあいだに、いくら長いとは言え夏休みは終わってしまうだろう。
 私は正直ほんとうに困った。
 なにしろ雨野久秀は私に恋愛感情を抱いている。他方で私のほうは今日の会談を機に雨野を少しばかり見直してしまった。見直すもなにも、これまで雨野のことなんて「スケコマシ野郎」くらいにしか考えていなかったわけだから、これはむしろ発見と言い直すべきかもしれない。
 なるほど雨野久秀という男はなかなか落ち着いており、おかしな具合に上ずってしまうこともない好青年である。いや高校生だから青年ではなく少年か。いやでもそれは犯罪者になったときだけの話か。しかし好青年とは言っても好少年とは言わないのだから、やはり好青年でいいか。
「……雨野は、その、いまだに私のこと、好きなのか?」
 私はとにもかくにもなんらかおしゃべりを進めるよりほかに、解決への道が開けることはないだろうと考えた。そして解決しなければどうにもならない問題が今ここにある以上は、そいつを取り上げずに避けて通ることも難しいだろうと考えた。至極まっとうな思考経路であろう。
「うん、好きだよ」
 少しは照れろよ、こっちが照れるじゃないか。
「……それは、その、私たちもう高校生だったりするわけだから、近所の駄菓子屋と近所の公園とで、まるっと事が収まるような話でもないわけだよね?」
「この辺にもまだ駄菓子屋なんてあるの?」
「いや今のはほら、子供のオママゴト的情景を描く際のメタファーとして、ちょっとご登場願っただけだよ。駄菓子はコンビニの駄菓子コーナーで買うものだよ。古き良き時代の駄菓子屋なんて生き残ってないよ。ほんとうに良き時代だったのかも今となっては疑わしい話だし。概ね遠く過ぎ去った時代は良き事ばかりだったと思い出されるものだとも聞くし」
「まあ、そうだよね。記憶は常にあらゆる角度から上書きされ続けるものだ。――じゃあ、そうだなあ、いま暑いからさ、図書館とかでもいいと思うよ」
「図書館? あ、ああ、あれか。おしゃべりしてはいけないところでこそこそおしゃべりするスリルがたまらない!ていうプレイか」
「プレイじゃないよ。いやプレイって……アハハハ!」
 今度は盛大に笑われてしまった。文字通り大口を開け仰け反って笑う哄笑である。
「……雨野、そんなに笑うなよ」
「ごめん、ちょっと笑い過ぎたね」
「私このところ男の子にあんまり笑われてないから傷つくと深くなると思うぞ」
「結城さん学校では本性隠して過ごしてるよね」
「そうしろと友人から忠告されているからな」
「それは昔あまりよくないことがあって忠告された感じ?」
「だから昔はよく男の子に笑われていたからだよ。今そういう話の流れじゃないか」
「赦し難いな、結城さんを笑うなんて」
「もういいんだよ。赦すも赦さないもない。そこはもうほじくらないでくれ。目の前で女の子に泣かれたら、雨野だって気分が悪いだろう?」
「わかった。――だけどひとつだけ。俺は結城さんを傷つけようとして笑うんじゃない。結城さんが俺を楽しい気分にさせてくれるから笑うんだ。それは今後も変わらない。憶えておいて欲しい」
 うまいセリフを思いつくものだ。これでは泣きたくなったら泣くよりほかに手が見つからなくなってしまう。……チクショウ、いつの間にそこまで理解を深めていたのだ?
「言い訳をするようだけど、あのとき教員室には見知った男子生徒の顔が無いと確認できたから、あんなふうに板橋先生とぶっちゃけた感じでしゃべってたんだよ。板橋先生は数少ない私の理解者で支援者でもある人だから、私は板橋先生の前では周囲への警戒がちょっと薄れちゃうんだよ。まさかすぐそこの衝立の向こう側に転校生の男がいるなんて、ふつうそんなの想像しないからさ。想像できないからさ。――あ、そもそも雨野はどうして転校してきたの? そう言えばまだそれ聞いてない。それ聞いてから考えをまとめようと思ってたところだった」
 むろん、出まかせである。結論を先延ばししようとする際に持ち出す、常套手段のひとつだ。
「両親が正式に離婚したから」
 ……え、今度はそんな重たいやつが始まっちゃうの!?
「ああ、でもどっちが悪いというのでもない、被害者も加害者もいない離婚だよ。ずっと別居してて、奈良は母の実家なんだ。それでどっちが悪いわけでもない離婚だったから、俺と妹は、妹は中学生なんだけど、親権をどちらに委ねるか自分たちで決めていいと言われてね。それで俺は父のほうを選び、妹は母のほうを選んだ。――どっちかを独りにしたら可哀そうだと考えたからじゃないよ。俺はそろそろ父のそばにいたいと思っていたし、妹はずっと母のそばがいいと思っていた。それで俺は父のいる東京にくることになったわけ。ほんとうはこの四月からのはずで、編入試験も三月中に終わってたんだけど、そもそも父が東京勤務になるのが六月からだったんだ。父は商社の人間でね、海外から、シンガポールから戻ってくるから、かなりイレギュラーなんだけど、あんなタイミングになってしまった。学校もそれを受け入れてくれた。――そういう経緯。理解してくれた?」
「うん、理解はした。――ところでいま商社と言ったね? うちのお父さんも商社なんだけど、えっと、会社名の交換しない?」
「ああ、いいよ。うちの父はね――」
 一瞬、嫌な予感がしたのだけれど、同じ会社ではなかった。雨野の父親の会社ほうが、おそらく名前を聞いたことのある人間が多いだろう。私の父のところは取り扱っている商品に偏りがあるので、あまり世間様には知られていない。我が国の慣習的呼称を使えば、雨野のほうは総合商社で、私のほうは専門商社ということになる。
 しかし、離婚か……。
「えっと、その離婚の話には、妹さんのこともだけど、今後その、触れてもいいの?」
「別に構わないよ。ただ単に相性が合わなかったというだけのことで、目立った争い事も起きてないし、母の実家はそこそこ裕福な人たちだから、妹も俺も将来たぶん困ることはない。――だけどいま結城さん、今後って言ったね? 今後も会ってくれるってこと?」
「会うかどうかは正直わからない。ただ連絡先を交換するくらいならいいかな…とちょっと思ってる。雨野の話はなかなかおもしろい。おもしろい話を聞かせてくれる人間は希少だ。大切にしたい。――ただね、そうやって連絡先を交換したりすれば、雨野はきっと連絡してくるよね? それもけっこうな頻度でしてくるよね? こないわけないよね? そうなると私も人の子だからさ、毎度毎度そいつを無下に扱うことはできなくなる。そのような事態をちょっとばかり危惧している。今はだいたいそんな気分。――わかる?」
「俺は少しばかり結城さんに受け入れてもらえた、て理解でいい?」
「まあ、少しばかりではあるけど」
「上々の成果だと思うよ、俺にしてみれば」
「――あれ? じゃあ掃除とか洗濯とか、それにご飯とかどうしてるわけ?」
「ぜんぶ自分でやる」
「……マジですか?」
「週に一度だけはハウスキーパーさんが来てくれるけどね」
「いろいろと至らないところを補ってくれるのか」
「ま、そんな感じ」
「そうか……。なんか雨野が思いのほか立派な人間だったもので、私ちょっと面食らってるよ。さっき言い忘れたけど、そういう気分もちょっとばかりある。……それで、なんて言うか、ちょっと眩しくなった。ちょっとだけどね。何度も『ちょっと』って留保する感じでごめんね。それより今は、己が恥ずかしくてたまらない……」
 不思議そうな顔をしている雨野を残し、私はやや悄然としつつマンションを辞去した。
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