第23話 The CobalT Blue day

文字数 16,531文字

【睦千の記憶:三年前】
 ラブと円満に相棒解消をした後、独りでいる事に慣れなくて体調を崩した。一度、隣に誰かいる安心を知ってしまうとダメだったなと、不本意ながらいづもに相談した。
「ならちょうど良いのがいるぞ。お前の好奇心を刺激してくれる事間違いなしだ」
 そう言われて紹介されたのが、波多野小羽留(はたのこばる)だった。
 初めて会ったのは、確か、喫茶れれれだった。
「白川さん?」
 早めに来ていたボクはぼうっと流れるレコードの音楽を聞き流していた。確かジャズだったはず。そうしていると、声をかけられた、あまりにも丁寧に話し掛けられて驚いたから、妙にカタコトになって返事をしたのも覚えている。
「ソウデスケド」
 声の方へ視線を向けると、こじんまりとした女性が立っていた。白いフリルがたっぷりのワンピース、ロリータ・ファッションってやつを着ていた。差し色のパステルブルーが甘い雰囲気の服を、不思議と少しだけ凛々しく見せていた、真っ直ぐな黒髪のせいかもしれないけども。綺麗な服に、ボクはちょっと居心地悪く思った。その時のボクはTシャツにジーンズとスニーカーというカジュアルな服装だったから。
「波多野です。お待たせして申し訳ありません」
 顔は、可愛らしく整っていたけれども、大きい瞳の周りが擦ったように赤くて、瞼が腫れていた。痛々しく見えた瞳は、うるうると薄く涙が張っていて、黒曜石のように見えた。その今にもポロポロ涙を落とすような瞳で謝罪までされるが、声は一音一音はっきりと聴こえた。
「ご足労ありがとうございます、ボクも今来たばかりなので大丈夫、です……まずは、何か頼もう」
 ボクは席をすすめて、早々に敬語を使うのを諦めた。昔から苦手なのだ、敬語。席についた彼女は気にしたふうではなかったから、まあいいかとメニューを手渡す。
「ああ、コーヒーで結構です」
 彼女はメニューも見ずに答える。
「……此処のコーヒーは八龍一不味い、から、やめておいた方が良い。コーヒーが好きだって言うんだったら、尚更」
「そうなの」
 彼女はきょとんとした顔で問い返す。
「そう」
 コーヒーが不味いと言う話をしたから、確実にれれれだ。
「店主公認で不味い。れれれは初めて?」
「有名なのは知っていたんですが、いつも混んでいて、なかなか」
 彼女はどうしようと迷いながら、メニューを見る。
「れれれはレコードレトロレモンの略称って言うのは知っている?」
 ボクも人に教わったけど、とラブのヘラヘラした顔を思い出す。あいつ、悪いやつじゃなかったのに、惚れやがって。またそのうち会えたらいいけど。不思議とラブの事は嫌いになれなかった。多分、ラブは真正面でボクに向き合ってくれたからだろう。
「初耳です」
「レモンの味がするものは美味しいよ。君が良ければ、ボクはレモンタルトも注文したい」
「お構いなく」
「君は?」
「わたしですか?」
「お腹、減ってない?」
 彼女ははい、と申し訳なさそうに首をすくめた。
「じゃあ、今度食べに来た時は、レモン味のデザートも頼んでみてよ。注文は決まった?」
「はい」
 近くを通りかかったウェイターを呼び止めて、ボクはレモンタルトとレモンティー、彼女は今日の紅茶を頼んだ。
「改めまして、調査方の白川睦千です」
「初めまして、波多野小羽留です。本日は、お時間をありがとうございます」
 丁寧に頭まで下げられ、ボクはどうしたら良いのかと空中に視線を移した。
「白川さんのお噂は聞いております」
「睦千で良いよ。ボクも小羽留って呼んでも良い?」
「はい、勿論」
 彼女はにっこりと笑う。笑うと柔らかい目尻がさらに下がって、とろりと甘やかな雰囲気になる。でもどこなく嘘っぽく作ったものみたいで、なんとなく、よくいるタイプの女の子ではなさそうと勝手に思った。
「ボクの噂って、何? 悪い噂かな」
  どうせ、魔性だマセたガキだとか、そんな不名誉な噂だろうとニヤついていると、彼女はそんなそんな、と大袈裟に首を横に振った。
「とても有能な調査員とお伺いしています」
「そんなに大したもんじゃないよ。ボクは君より年下のガキだよ」
「いえいえ、わたしより立派ですよ」
「君、慇懃無礼って言われない?」
「そんな、酷い……」
 ポロリ、と涙が溢れた。タイミングが良すぎるなぁ、とボクはぼんやりと思った。ボクが慌てなかったのは、彼女の口元が笑いを堪えるように引き攣っていたからだ。
「嘘泣き?」
「分かる?」
「今まで本気で泣かせてきた人の方が多いからさ」
「え、やばい人?」
「よく告白されるの。そんで、目の前で泣かれる。それで、それって嘘泣きだよね」
「そうですよ」
 彼女は手慣れてように手にしたレースのハンカチで目元を押さえた。
「そういう奇怪病です、嘘泣き病」
「嘘泣き病」
 ボクが復唱したタイミングで注文した品がテーブルに乗っけられた。
「嘘泣きが好きなんです。いつでもどこでも、それっぽく泣く事ができます。そして、涙が川みたいになって、怪を捕まえたり、あと時間は掛かりますが、浄化みたいな事もできます」
「成程。おすすめされた理由が何となくわかったよ」
 ボクはレモンタルトにフォークを刺した。ほろりとタルト生地が割れる。それ。口の中に入れて味わう。小羽留も紅茶をカップに注いで口に運んでいた。ほうっと緊張が解けたような顔になる。緊張していたのかと驚くのと同時に、珈琲を頼むのを阻止できて良かったななんて思った。
「……ボクと組むとなると、お願いがあるんだけど」
 レモンタルトを飲み込んで話し掛けると、彼女は途端に真面目な顔で、ティーカップと手を下ろしてボクをじっと見つめた。
「……そんな真面目になるようなお願いじゃないよ。ボクの奇怪病と、性別に関しては何も聞かないでほしい、あと、馬鹿げた話だけど、君がボクに惚れたとかそんな感じになったら相棒は解消、それだけ」
「必要な事ですか?」
「……まあ、そう」
「なら、わたしは何も聞きません」
 そう言った顔は、凛としていた。慇懃無礼なのに、根っこは良い人、それが小羽留だった。



 波多野小羽留は清々しいほどの偽善者だった。誰にでも優しく、時に嘘の涙を流しては、やれやれと溜息を吐く。
「なんで偽善活動に勤しんでいるの?」
 そう尋ねたのは組んで半年くらいの事、真冬の夜で、空にはオリオン座が八龍のネオンに負けそうになりながら光っていたと思う。尋ねられた小羽留はだって、と言う。
「良い人ぶっていた方が楽だから」
 丁寧なんだかフランクなんだか分からない話し方が心地よくて、ボクはよく小羽留に話し掛けていた。少し年上の小羽留はお姉さんぶって、ボクに色んな話をしてくれた。
「嘘泣きばかりしていると信用がなくなるでしょう? でも、普段の行いが良いと、嘘泣きって分からないじゃない。好きな時に好きなように嘘泣きができるように、事前に準備しているのです」
 ふーん、とボクはヒールを鳴らした。青色のすっきりしたデザインだけども踵に大ぶりのリボンが付いている。それに合わせて、今日のボクはピーコートとシャツにセーター、綺麗なラインのチェックのスラックスだ。この頃のボクの服装も小羽留に引っ張られてお上品路線だ。さすがにロリータは着ないけど。でも、髪を伸ばし始めたと小羽留に言うと、アレンジできるようになったら一度着せてやると宣戦布告されている。一度くらいなら着てやっても良いけど、その代わりに『薔薇バーバ』のフルーツタルトをホールでプレゼントしてくれないと割に合わない。
「偽善でも誰かの為になるなら、悪い事ではないでしょう?」
 つらつらと小羽留は話す。ヘッドドレスがふわふわと揺れて、膝丈の大きな花模様のスカートが自慢げに微笑んでいる。
「別に理由なんてどうでも良いのですよ。上っ面の気持ちでも、救われた人がいるのだから。それが許せないのなら、自分が行動すればよろし。できない阿呆が何言ったって、ねえ」
「ごめんごめん、適当に訊いたボクが悪かった」
「怒っていないわよ、睦千」
 にっこり、と完璧な笑顔を向けられる。笑うと小羽留は幼く見えた。口ではあーだこーだ捻くれる小羽留のまっすぐな部分かもしれない。なんとなく、ボクは素直に生きようと、小羽留の笑顔を見て、思っていた。


 一年くらい、小羽留とうまくやっていた。けれど、ボクのせいで相棒を解消してしまった。きっかけは単純なできごと、転びそうになった小羽留を支えた時、思いの外顔が近づいた。顔を真っ赤にしてしどろもどろになった小羽留を見て、ああ、この子もボクに惚れたのかと気づいたせいだ。ボク達は直前までくだらない話をしていたのに、道端の痴話喧嘩がどうのこうの、そんな話で日常生活だったのに、真っ赤になった小羽留を見て、ボクは口が開けなくなった。小羽留もあは、は、と力無い笑顔を見せた。
「……よし、なかった事にしよう」
 ボクはそう言って歩き出した。だって、小羽留と一緒にいるのは楽しかった。小羽留と怪に文句を言って、今日のランチ何するって言いながら修羅場を通り過ぎて、春田さんに小言を言われて笑って帰る。心地良い日々だ。だから、このままでうまくいくなら見ないふりをしたかった。
 それなのに、ボクの奇怪病は素直でちょっと小羽留をコントロールしたいだけだったのに、傷つけるように小羽留の奇怪病を完全に止めてしまうようになった。ボクはそれでも小羽留にさよならを言えなかった。こういう時、度胸があるのは小羽留だった。
「バディ、解消よ」
「……まだ、うまくやれるよ」
 通いなれて、ボクの私物も多くなった小羽留の部屋で、小羽留は凛とした佇まいでボクに告げた。テーブルの上の灰皿には吸わない煙草が火を点けて、細く煙を漂わせていた。小羽留は煙草や煙が嫌いだ、でも、目に染みるから嘘泣きがしやすいといつも持ち歩いていた。小羽留に似合わない焦げ臭くて重い香りの煙を見て、ボクは目線を下に向けた。
「わたし、睦千の事が好き、それは誤魔化しようのない事実です。でも、ダメだって事はわかっているの」
「…………大丈夫だよ」
「大丈夫じゃない。だって、あなた、眠れていない」
 小羽留は自分の目の下を指差した。きっと、ボクの目の下の隈の事を言っているのだろう、コンシーラーで消したつもりだったのに。
「……平気だよ、ボク、全部平気だからさ」
「わたし、睦千と恋人になりたいとは思っていないわ」
「なら、このままで」
「でも、それじゃダメよ。きっと、二人ともダメになる」
「わからないよ」
「いいえ、きっと限界がきてお互い傷付くわ」
「大丈夫だから、だからさ、恋人になろう」
「それはもっと嫌。わたしが好きになったのは、自分の根っこを曲げない睦千だから」
「やってみないと分からない」
「じゃあキスして」
 ここに、今すぐと小羽留が自分の唇を指差す。桃色に光る唇、無理矢理してきたカサついたやつじゃない、きっと柔らかくて温かい、湿っているのかもしれないし、しょっぱい人間の味がするんだろう、ゾッとした。唇の奥の舌が入り込んでこないと言い切れない、不意を突かれて腕も足も押さえつけられて、……馬鹿か、小羽留はそんな事しない、ならできる。手を伸ばして小羽留の頰と小さな顎を包み込む。平気だ、小羽留は特別だし、小羽留はボクが嫌がる事はしない。目を閉じて、手が震えているのを感じる。小羽留の顔は少し熱かった。人間同士の体温が混ざり合うのを感じて、認識して……。
 それから、ボクは、動けなかった。
「……できないでしょう」
 小羽留はボクの手を払って、パタパタと涙を落とした。その涙が本当のものか、煙が目にしみたのか、得意の嘘泣きか、ボクは分からなかった。自信がなかったし、あまり考えたくなかった。拭おうと再び手を伸ばしたボクを小羽留は払い退けて、笑った。
「もう、人に優しくしすぎちゃダメよ。睦千は魅力的すぎるから、すぐに好きになっちゃう」
「小羽留」
「呼ばないで。もう帰って。もう、会いません」
 帰りたくなかったけど、ボクはここにいるわけにはいかないのも嫌というほど分かっていた。ノロノロと歩いて靴を履く。踵にリボンの青色のヒール、小羽留と組んでから青色とか水色のものばかり増えた。小羽留を見ていていいなぁって思ったから。真似しちゃうくらい憧れていたのに、髪だってようやく結べるくらい伸びたのに、こんなにも大切なのに、でも、ボクの大切は小羽留の好きと違う。
「……鍵、閉めてね」
 ガッシャン、とボクの背後でガラスが割れる。ボクが小羽留の家で使っていたグラスだ。それがさっきまでボクが立っていた床に散らばっている。
「そういうところが大っ嫌い!」
 ボクは、それをじっと見つめて、何も言わないで小羽留の家を出た。


 それから一週間後、ボクは小羽留を殺した。小羽留は自分の奇怪病に取り憑かれた。正確な原因は分からないけど、十中八九ボクのせいだ。大体、この手の問題はボクのせいなのだ。
 その日、ボクはラブのところにいた。失恋したてで話し相手を欲しがったラブに夜通し付き合わされて、さて帰るか、と靴を履いていた時だった。あの日の靴は、黒いスニーカーだった。靴紐を結んでいると、着信音が鳴った。春田さんからの着信だったから、ちゃんと出た。
「はい、睦千」
『睦千さん、今、小羽留さんと一緒ですか?』
「いや」
『そうですか、すいません、確認でしたので』
「何かあった?」
『あの、なんか様子がおかしくて、電話も途中で切れたものですから。切れる直前に、睦千さんを呼んでいるように聞こえたので、もしかしてと思いまして』
「ボク、今、ラブのとこだけど」
 そう言ってラブの方を見ると、ラブは腫れぼったい目で、おー、と頷いている。
『なら勘違いですね』
「……気になるなら、ボク、様子見てこようか? 怪に遭遇して苦戦しているかも」
 ボクが考えたのは、小羽留が怪を見つけてうっかりいつもと同じようにボクの事を呼んだ可能性だ。もうバディでもないけど、心配なのは変わりがないし、ボクを呼んだと言うのなら応えたいと思うのは当然だし、バディじゃなくなっても、ボクは小羽留の友人でありたかった。
『ご自宅を出たばかり、と言う事でしたので、近くにいるかもしれません、お手数をかけますが、お願いできますか?』
「うん」
 電話を切ると、いつの間にか部屋着から着替えたラブがいた。
「……身支度早くない?」
「修羅場を掻い潜るコツだよ、サッと準備して逃げる」
「浮気相手はやめなよ」
「してねーよ、他に相手がいるって隠されるんだよ」
「日頃の行いじゃん」
「うっせー!」
 当時、だいぶ派手に関係を作っては修羅場にしていたラブもぶつぶつ言いながら靴を履いて、ほれほれ、とボクを外に追い出し、自分も一緒に外に出た。
「別にいいのに」
「日頃の行いだな」
 ボクはベーとラブに舌を出して、小羽留の家に向かった。巨匠館地区の北の端、四十五号館が小羽留の家で、当時、三十一号館に住んでいたラブのところからは道一本で五分ほどで着く。しかし、下に降りて気付く。三十一号館の前の道だけが濡れている。濡れている、と言うより水が流れている。
「小羽留」
 ボクはラブを置いて走り出した。嫌な予感がする、こんなに涙が流れるような事、今まではなかった。いや、何事もなければいいし、この先に水を撒く怪がいるとかなら、それでいい。でも、小羽留が苦戦しているなら。
 水が湧き出ていたのは、四十五号館と四十六号館の間の路地だった。ボクはウィッピンを出して、水を払い除ける。しかし、ウィッピンの先が水に触れた途端、消えた。ボクは何もない右手を見て、それから水が湧き出る中心を見た。
「小羽留……?」
 ボクの声に反応して、溢れる水が凪ぎ、再びボクに向かってより一層の勢いで向かってくる。凪いだ一瞬、道の上に丸く広がるサーキュラースカートが見えた。背中に大きなリボン、裾にレースがあしらわれた青い薔薇の刺繍のパステルブルーのスカート、真っ直ぐな黒髪にふわふわのヘッドドレス、跳ねた水が舌の上に落ちる、想像上の海みたいな味、涙に流されて空色の日傘が流されてきた。全部、小羽留のものだ。小羽留の奇怪病が暴走している、ボクはウィッピンを再び取り出し、小羽留へと伸ばすが、流れてくる涙でウィッピンが溶かされる。二度目に出した時、確かに出力の低下を感じた、明らかに光が弱くなっている。小羽留は怪だけでなく、奇怪病さえも消し去るのかと、ボクは咄嗟に距離を取った。
「睦千!」
「ラブ来ないで! 誰も近づけないで! 今の小羽留は怪だけじゃなくて奇怪病も消し去る!」
 ラブが足を止め、札を取り出す。
「閉鎖するぞ! 開くなゴマ!」
 通せんぼの札が道の上に浮くが、溢れかえった涙がその札すら溶かした。咄嗟にボクはウィッピンを伸ばしてラブを引き上げる。四十六号館の屋上に立ったボクらは唖然として、下を見ていた。
「……便様すら、無効化する……」
「どうする?」
 ラブの声は、聞こえていたけど、返事ができなかった。このままだと八龍は崩壊する。今はまだこの路地だけで済んでいるけども、これが八龍全体に広がって、インフラを司っている便様まで溶かされると八龍は崩壊する。どうにか、小羽留を止めないといけない。
「小羽留!」
 ボクが呼んでも、小羽留はシクシクと泣くばかりだ。小羽留の奇怪病が暴走している原因、小羽留の涙が止まらない原因、小羽留の感情を大きく揺らした原因、小羽留を悲しませた、傷つけた原因。
「……ボクが、悪かった……ボクのせいだ」
 ボクが普通じゃないから。今更、普通になれないから。普通だったら、すぐに小羽留の気持ちを受け止めて、きっと小羽留が望む結末があったはずなのに。でも、ボクは怯えていた。口では恋人になんて言ったけど、小羽留の言う通り、きっとどこかでダメになるだろう。そんな事、分かっていて、でも、と言うのは悪い事だろうか。
「睦千、自分を責めるのは後だ。まずは目の前だ。これ以上悪くはしたくないだろうが」
 ラブがボクの頭を鷲掴みにして言う。ボクは二度、三度と、深呼吸をしてから気付いたことをラブに話す。
「……ウィッピンでの無効化はできなかった。札も効かない。これだと呪方の浄化もできるかどうかすら怪しい」
「なら、本体の意識を奪って拘束か」
「多分。それが一番可能性が高いけど、でも、近づけない。涙が邪魔をする」
「どう、隙を作るか、か」
「小羽留自身の意識も、奇怪病に飲み込まれているみたいだし……」 
 自滅覚悟で、飛び込むしかないかと、ボクは一歩前に進んだ。しかし、その腕をラブが掴んだ。
「飛び込んでいくなら俺が行く。お前の奇怪病を無くすのは八龍のためにならない」
「……そんな価値はないよ。ボクの奇怪病は別に完璧じゃない」
「とにかく、まだ飛び込むには早い」
「でも、早くしないと小羽留が!」
 下からはまだ泣き声が聞こえている。それを止めるのは、ボクの役割だ。
「睦千!」
 手を振り払って、ラブの声を後ろに、ボクはウィッピンを出してビルから飛び降りた。
「小羽留!」
 強く、強く、意識を集中する。これはボクが退屈だと嘆いていた日常ではない。小羽留がいなくなる非日常なんていらない。ウィッピンが手の中で震えて、一層強く光った気がした。地面に降り立つのと同時に、力一杯、涙を打ち消す。腕から痺れが伝わって、身体から力が抜ける。ふざけんな、動けよボク! 走れよ! スニーカーの中の水を踏み締めて、ボクは走り出す。
「小羽留……」
 ボクの呼び掛けに、小羽留は顔を上げる。ポロポロと涙を落とす小羽留の目は黒い影に隠されていた。ボクが手を伸ばすと、その手を小羽留が掴んだ。
「……睦……千」
「小羽留! 帰ろう」
 小羽留は掴んだ手を頬に寄せる。
「分かっているくせに」
 ボクの指先が目元の黒い影に触れた。冷たい感覚と、悲しみが、ボクの中に流れ込んできた。死にたい、消えたい、どうして、好きなのに、好きだから、泡になって……そんな言葉と涙が指先から伝わる。
「もうダメだから、わたしは、これ以上、自分の感情を抑えきれない」
「ボクが、ボクが全部受け止める! 大丈夫だよ、小羽留なら」
「嘘つき」
 小羽留は俯いた。
「怖いくせに。いつだって視線に怯えているくせに。誰かの愛の告白に身体が固まるくらいなのに。大丈夫じゃなくていいの、睦千が変わる必要なんて、ないわ」
 ボクは何も言えなくなって、小羽留の顔を包み込むように頬を撫でた。
「変わらないで、睦千は、睦千のままで。嫌いなものを振り切って、嫌な事を嫌だと言って、それで問題ある? って、別の方法だってあるでしょって、自信満々に言い放って、そんな睦千でいて。変わらなくていいの、だって、睦千は、普通にならなくたっていいの。あなたらしい、あなたがわたしのバディだった事、それが誇りなの」
 小羽留が顔を上げた。
「だから、わたしの事は捨てて」
 さあ、と小羽留は笑った。
「諦められるわけないじゃんッ!」
 ボクはウィッピンを出して、小羽留の胸の辺りを打った。ボクの相棒は小羽留だけだ、そう思っていた。
 それなのに、ウィッピンは小羽留の胸を深く切り裂いていた。青いワンピースに赤い水が染み込んで、死んだ魚みたいな香りがして、小羽留のきゅう、とも、ひゅう、とも表現できない呼吸音が聞こえて、ボクの眼球が熱く燃え上がったような気がして、冷たい水と、背中を焼く太陽と、誰かのざわめきと、全部が嫌というほど感じられて、一方で、分厚い幕に閉じ込められているように、何も分からなかった。その痛いくらい鈍い五感の中で、小羽留が倒れたのを見て、聞いて、知覚した。
「なんで……!」
 倒れた小羽留を抱き抱えて、傷口を抑える。とくんとくん、と馬鹿みたいに赤い液体が指の間から溢れていく。ウィッピンでどうにかしようとした手を、小羽留が引き留めた。それを振り払ってウィッピンを出す。振り下ろそうとすると、今度はウィッピンが小羽留の首に巻きついた。
「なんでッ!」
 今度のウィッピンはボクの手に絡まって消えなくて、ボクは解こうと小羽留の首に手を伸ばし必死になったけど、小羽留は微笑んで、ボクの手を握り、止めた。微かに首を振って、ウィッピンを守るように触れる。黒い影が消えて、小羽留の目が見えた。最初に会った時の黒曜石が見えて、泣き腫らした赤い目尻がすっと細くなって、筋肉の緊張が緩んだ。
「小羽留……、こばる!」
 呼んでも、もうすでに胸が上下する事はなくて、握った手は動かない。
「……小羽留?」
 呼んでも目は開かなくて、でも、身体はまだ温かくて、
「ねぇ、小羽留……ごめん、ボクのせいだ……こばる、起きて……」
「睦千」
 後ろから呼ばれる、分かっている、ラブだ。
「……すまないが、仕事させてもらうからな」
 ラブの手には封じ込めの札があった。ここに怪はいないのにと見ていると、ラブ小羽留の胸にその札を貼ろうとした。
「やめて」
 ボクは札を奪い取ろうとするが、その手をラブが握って止めた。
「睦千、波多野小羽留は、怪だ。見えているだろ」
 ラブが目線で指し示す小羽留の脚、クラゲみたいに透明になっていた。分かっていた、小羽留の身体が変化していた事、それがどう言う事なのか、見えていた。でも、確かにその身体には血が流れていたじゃないか。
「……睦千、それは血じゃない。赤い水だ……血の匂いなんて、していないだろう」
 ラブが静かに言って、分かっていたボクの手から力が抜けたのを見て、今度こそ、封じ込めの札を小羽留に貼り付けた。小羽留の身体がボクの腕から消え、札が地面に落ちて水に滲む。ボクの手もただ水に濡れているだけ。ボクの頬を伝った雫が地面の水溜りに落ちた。その雫がどっちなのかは分からない。ただ、ボクは、その日、相棒を殺した。



「……どちらにせよ、助からなかったみたいだ」
 本部の廊下にしゃがみ込んで、床を睨んでいるボクの頭上からラブの声が降ってきた。
「狐師匠が言っていたんだけど、奇怪病が怪になる事があるらしい。八龍でも数例だけどな。本来は外に飛び出す欲望だとか奇怪病を使う事で発散される欲望が自分の内側に溜まって、自分の身体の中で怪が生まれる。それが奇怪病の暴走、怪化だ。取り憑かれるのとは違う。自分の身体と密接に繋がっているから、怪を引き剥がして浄化したとして、生きている可能性は低い」
「低いなら、可能性はあったって事でしょ。ボクは、小羽留を殺した」
「……御大が奇怪病が怪に変質した時点で、波多野小羽留は死亡、怪と判断すると言っていた」
「ボクは小羽留と話したんだ。生きていたんだよ、小羽留は。でもウィッピンは小羽留をボクの意思とは関係なく斬った。ボクの奇怪病が暴走したんだ。だから、ボクも殺してよ」
「違うだろ。お前の奇怪病は変わっちゃいない」
「だってそうだ!」
 ラブが苦しそうな顔でボクを見ていた。
「分かっていたよ! ほんとは! 小羽留が誰かを、傷つける前にボクが殺してでも止めた方がいい! 分かっていた!ウィッピンがそう動いたからボクはそう思っていた! きっとどこかでボクはそう思っていたんだ! 小羽留もボクが分かっている事を分かっていた! でもだからと言ってそうしたいわけじゃなかった! したくなかった! 助かるなら、助けられるならそうしたいじゃないか! でも心のどこかで諦めていたボクがいたのが許せないんだ! ボクが死んだっていいから、小羽留に生きていて、ほしかった……」
 ラブは低く唸って、ボクの頭に手を乗せた。
「……お前は、正しいよ……」
「分かっているよ、八龍のたくさんの人と、目の前の一人、どちらを救うべきか、分かっていた。殺してでも止めなくちゃいけないことも、ボクが引き起こした事だから、ボクが終わらせなくちゃいけない事も、」
「それは違う、お前じゃなくても良かった」
「ラブ、違うよ。ボクが小羽留を突き放した。ボクが小羽留の恋心に怯えて、小羽留が離れただけ。小羽留は優しいから。そして、ボクは、それがどんな痛みで、苦しみなのか、知らなかった」
「なあ、想いに応えられない事は」
「悪い事じゃない。でも、もっと上手くやれば良かった。ボクが小羽留に甘えていたんだ。ボクが小羽留を変えてしまった。ラブが何を言っても、ボクはそう思い続ける。だって、ボクの意志がどうだったか以前に、白川睦千が波多野小羽留を殺した、その事実からは逃げられない。正しい殺人だと誰かが言っても、ボクは善良で、頼りになる相棒で、友人を殺した。事実だよ……ただ、積み上げてきた選択を、悔やんでいるんだ」
 ボクはラブの手を振り払って、本部から出た。それから、夜の八龍を歩き回った。歩き回って、歩き回って、歩き回って、歩き回って、歩き回って、それからの記憶はひどくぼんやりとしている。





【現在? 八月二十日】
 あれから約二週間、睦千は小羽留とともに過ごしている。睦千はひたすら宇宙人を探していた。あれを見つけなければ話は進まない。小羽留もそれらしい噂話を探したが、手がかりはない。手がかりがないまま、二人は怪を追っていた、怪は待ってはくれんし。表向きは何も変わらない白川睦千と波多野小羽留のコンビだが、睦千は僅かに距離をとっていたし、小羽留もそれに気付いて、睦千との距離を詰めようとはしなかった。ただ、ふとした瞬間の会話があまりにもあの頃と変わっていなくて、睦千は少しずつ自分の言動が幼くなっていくのを感じていた。それを心地よいと認めるのは、青日に失礼と自分を罵る。罵っては、小羽留の笑顔に笑い返している自分がいる。あんなに動揺したのに、もう青日の顔を忘れそうだ、あんなに相棒は青日だけって言っていたのに、ボクの気持ちって嘘だったのだろうか、そんな事ばかりぐるぐる考えていた。
「……今日は休んでいたら?」
 朝の準備をしていた睦千の顔を見て、小羽留が溜息を吐く。
「別に、体調悪くないけど」
「顔色が悪いわ」
「そう?」
「ええ」
「……平気だよ」
「ストレスでしょ」
「え?」
「わたしと一緒にいるの、ストレスなんでしょ」
「そんなわけない」
「だって、あなたとわたしはもう組んでいないんでしょ。何があったのかくらい、分かるわ」
 小羽留は潤んだ目でこちらを見ていた。
「嘘泣きされたって困るよ」
「本気で泣くとは思わないの?」
「だって、君の睦千じゃないし」
「……あなた、意地悪になったのね」
「こっちのボクなんて知らない」
「……そうね」
 小羽留が目を伏せた。睦千はその顔を覗き込もうとして、やめた。それから逃げるように靴を履いて、小羽留の部屋を出る。
 八龍は何も変わっていない。睦千が知っているまま、そこにある。ひび割れた低層ビルも、海風に赤錆びた看板も、消えているネオンサインも、古い油の香りの中華屋も、缶が転がる道も、酒の悪臭が残る朝の空気も、坂を駆け上る小学生も、逃げ隠れる怪も、全部、八龍に来てから、小羽留を殺してからも変わっていない。でも、ここは睦千が手に入れられなかった現実だ。小羽留を受け入れられなかった自分がいていい場所じゃない。
「……リップ忘れた……」
 逃げるように歩いて靴紐が解けたタイミングで気づく。まだリップを塗っていなかったし、持ってきてもいない。途端に歩くのも億劫になって、ずるずると這うように、道の端に移動して壁にもたれかかる。ちょうど隣に大きめなシロクマの置物があった、それに頭を預けて隠れて、三角座りをした。向かいにはいつでも夏気分な駄菓子屋、ラムネの暖簾と壊れた縦型洗濯機、その中にスイカがいつも冷えているのも昔も今もここでも変わらない。思えば、ただの楽しい夏を過ごしたのなんて数えるほどしかなくて、どちらかと言えば苦しいばかりの季節だ。夏に嫌われているのかもしれない、そう思うと、ジリジリと睦千を焼く太陽にも納得する。夏は睦千を殺したいのだ。
「あなた、本当に何がしたいの?」
 その声と人影と一緒に冷たい勢いが降ってくる。ジャババ、と頭のてっぺんから額と鼻筋と頰に冷たい流れ、あ、これ水か、ペットボトルの水、睦千は水が落ちてくる方を手で遮る。冷たい水が腕を伝ってTシャツの中に入り込んだ。
「うわ」
 インナーを濡らす気持ち悪い感覚にギュッと身体を丸める。そのタイミングで水がなくなったのか、ペコ、と容器がへこむ音が聞こえて水が落ちてこなくなる。落とした視線の先、クリーム色のスニーカーと、自分に向き合う爪先が丸いコバルトブルーのヒール。声と靴で誰が来たのか、ちゃんと分かっている。でも、やっぱり、それが受け入れられなかった。受け入れてしまったら、ボクの三年間はどうなる? 死ねなかった、死なせてくれなかった、死ななかった、三年分のボクはどこに行けばいいんだろうか?
「……白川さん」
 他人行儀に呼ばれる。
「あなたを睦千って呼ぶの、違っていたわね。あなたはわたしの知っている睦千じゃない、ちゃんと線引きしないといけなかった。ごめんなさい」
 毛先から体温と日光でぬるくなった水が落ちる。びしょ濡れのボクの前に黒いリップケースが差し出された。
「忘れ物」
「……ありがとう……」
「唇が苦手なのは、一緒なのね」
 キャップを開けるとピーチピンクが現れた。確かに、今日のボクが持って行こうとしたリップだった。それを塗りながら、まぁそうね、と答える。
「そっちのボクも苦手なままなの?」
 ボクが尋ねると、小羽留はボクの隣にしゃがんだ。ふわりとレースのスカートが広がって落ちて、可愛らしいピンク色の花の香りがした。それから二人の間に空のペットボトルが置かれて、小羽留が太陽を隠すように日傘を傾けた。
「本当は、別れたのよ、わたしたち」
「……」
「欲張っちゃ、ダメね。一緒にいれるだけで良かったのに」
「……どうして」
「わたし、睦千に無理させていたのよ。何度も、キス、してしまったの。それが許されているわたしって特別って思いたくて……そうしたら、あの子、調子崩しちゃった。詳細は省くけど、昔あった嫌な事思い出して、トラウマぶり返して、もうわたしは一緒にいちゃいけないのよ」
「……でも、ボクは我慢したかったんだと思うよ」
「それが嫌だったの。最初にキスした時から、わたしだけは平気なんだって勘違いしちゃった」
「勘違いじゃないよ。きっと、そっちのボクは小羽留と一緒にいるために乗り越えようと思ったんだ」
 どっちから言ったの? とボクは尋ねる。
「わたしから」
「やっぱり」
「なんで?」
「ボクが知っている小羽留もそうだったから」
 ボクがそう言って笑うと、小羽留もそうなのね、と笑った。いつだって思い切りが良いのは小羽留だったから。
「……あなたは、こっちの睦千と結構違う」
 小羽留がゆっくりと話す。
「わたしの知っている睦千は、結構かわいいのよ。仕草とか、表情とか、選ぶ服も。髪も暫く長かったけど、なんでか先月、ばっさり切ってきた」
「気分転換だよ」
「そうかしら?」
「カッコつけたかっただろうね、君の隣に立つのに。昔の自分とお別れしたかったんだ。あの日、支配される弱者側の自分を乗り越えるために、見た目だけ強くなってみたいと思ったんだ」
「本当にそう思う?」
「きっと、こっちのボクも君の事が大好きだよ。君とずっといるために強くなりたくて、カッコつける事にしたんだ。なにも怖いものなんてないって言えるように」
「……そうかしら……」
 小羽留がボクの肩に頭を預けた。
「……ボク、まだ良い事しているよ、偽善者みたいにさ。小羽留がそうだったから、ボクもそうなったんだ。小羽留みたいになりたかったし、小羽留の隣にいるのに恥ずかしくない自分、みたいなのになりたかったから」
「違う。あなたは最初から優しかった」
「違うよ、小羽留がそうだったから、ボクが真似した。優しくするとそれが隙になってつけ込まれてるって思っていたんだ。だから、良い事をちゃんとするって怖かった。でも、小羽留が堂々と偽善だって言うから、それがカッコよくて、ボクは誰にも変えられないって思っていたけど、簡単に小羽留に変えられたんだ」
「バカね、あなた、最初から優しかったわ。優しくない人は、れれれのコーヒーが不味いなんて教えてくれないのよ」
「こっちのボクも、それ言ったんだ」
 ボクはサイダーのビンを開けるように、ふへ、と笑った。
「……あなたも言ったの?」
「言ったよ」
「やっぱり、ならあなたも最初から優しいのよ」
「……きっと、こっちのボクも、小羽留のそういうところが好きだったんだよ」
「でも、わたしの好きとは違う」
「そうだね」
「まだ辛いのよ、わたし」
「うん」
「しばらく、顔見たくなかったのに、あなた転がり込んでくるんだから」
「うん」
「……どっか、違う所行こうかしら」
「それは嫌」
 ボクが答えると、小羽留は軽くボクの鼻を摘んだ。温かい指先は一瞬触れると、すぐ離れていく。
「わがまま」
「すぐに会えるところにはいてよ」
「嫌よ、わたし、あなたよりも好きな人見つけないと、もう耐えられないわ。今度は一緒のお墓に入りたいって思える人と出会って、睦千なんか二番目とか三番目とか、十番目に好きね、って言えるくらいになってから、また会うのよ。そして、あらわたし、なんでこんなワガママで自分勝手なカッコつけが好きだったのかしら? 顔だけねって言って、またお友達になるのよ」
「本当にボクの事、好きなの?」
「……ほんと、恋しているだけで良かったの。最初はたったそれだけ。好きって言えなくても、いつかバディじゃなくなっても、わたしの一番好きが睦千であることが重要で、理由なんてないの。そうね、好きな花に理由を探す必要なんてないでしょ、ただ心惹かれるだけ、たったそれだけよ」
「……熱烈、ってやつ」
「そう、涙も干上がるくらい、熱いのよ」
「……でも、ボクも、こっちのボクも、小羽留と離れるのは寂しいと思うよ」
「でも、誰でも、ずっと一緒にはいられないのよ。人生ってそういうもの」
 ボクはそれになにも言えなかった。ずっと一緒にはいられない、ボクの人生、実際そうだったのに、それでもボクは願ってしまうのだ。ボクの足で行ける距離にみんないればいいのに、ボクはいつまでもお子様だからさよならなんてできない。
「綺麗事」
「ええ、そうよ。わたし、偽善者だもの」
 うふふ、と小羽留が笑う。
「でも、あなたがどう思うかなんて勝手よ。わたし、自分が好きで好きな自分に変わるあなたが好きだったのだもの」
「……なにそれ」
「どんなあなたでも好きなのよ。それは、きっと誰もが同じ。あなたが好きな人たちは、あなたの外見なんてどうでもいいの。ボクはボクが好きで、ボクが変わりたい時に変わりたいように変わるから、みたいな白川睦千が好きなのよ。わがままでガキンチョのままで、ちっぽけな正義感しかなくて、他人にそっけない、薄っぺらい人間性なのに、無駄に堂々としている白川睦千がいいのよ」
「……待って、それって貶しているよね?」
「貶していない」
「……まあ、でも否定しないよ。ボクはどうせわがままだしガキだし、薄っぺらいよ。でも、今の相棒もそんなだから。ボクだけじゃない」
「そうなの」
「うん」
「なら平気ね」
「うん?」
 小羽留が立ち上がって、スカートの皺を払って伸ばしながら話す。
「あなたの小羽留は、もういないんでしょう。でも、青日って子がいるから平気なんだわ」
「……いないんじゃないよ」
「でも、会えないのよね?」
 小羽留の顔を見上げる、眩しくてよく見えなかった。
「なんでわかったの?」
「なんとなく? あなたの目、なんか壊れたコップ見るようにわたしを見るもの」
「……気のせいだよ」
 どっちでもいいわ、と小羽留は笑い飛ばす。ボクはそれがなんか嫌で、小羽留から視線を外して、目の前の道路、その向かいの建物を見ることにする。そして、あれ、と呟いた。
「ねえ、あそこって、駄菓子屋だったよね」
「ええ」
「……映画館になっている」
 『しねま』とひらがなで書かれた傾いた看板と、色褪せて写真も字も見えないポスター、上映中の張り紙が風に揺れている。そして、キィ、キィと半分くらい開いているドアに、これだと閃いた。この開き方、あの祠と一緒だ。
「多分、あれ」
「なら帰らなくちゃ」
「……うん……」
「帰らないの?」
 立ち上がらないボクに上から小羽留が問い掛ける。
「帰るよ……でも、君に何か、もっと言わなくちゃいけない気がして」
「そんなもの、キリがないの。言葉には限界があるんだから」
 再び小羽留はボクの目の前にしゃがんで、ボクの頰を両手で柔らかく挟んだ。
「あなたが見ているもの、感じているもの、それら全てを説明したって、わたしが見える見方も感じ方も、あなたとは違う。言葉で理解し合おうと思っても、たくさんの言葉が並んでも、視点や感覚、人生が違うから、言葉の意味も違う。キリがないわ」
「キリがなくたって、伝えたいと思う。ボクは、隠し事ばかりだから、伝えられる事は、キリがなくたって、言葉を重なるよ」
「そうね、それも正しい」
 小羽留の手から落ちた日傘がカラカラと風に吹かれ地面を流れていく。
「でも、言葉を限界まで積み上げたい相手が違う。わたしは、あなたに伝える事なんてないし、わたしが欲しい言葉はあなたじゃない」
 いつだって思い切りがいいのは、小羽留だった。
「帰りなさい。無くしたものじゃなくて、得たものに目を向けなさい。そうしたら、無くしたものなんてなかったって分かるから」
「綺麗事だ」
 ボクは小羽留の手の上に自分の手を重ねた。少し小さい手、その手は強くて意地っ張りなのだ。
「わたし、綺麗事が好きなのよ」
 小羽留は一つだけ涙を落とした。それが本物か偽物か、分からなかったけど、小羽留の強がりのようにボクは思った。悲しくなんてないけど、あなたの背中を押すために泣いてあげるのよ、ええ、そうよ、なんて言いそうな涙だ。
「……知っているよ。所詮、綺麗事は理想で実現は難しい。でも、綺麗事はやっぱり美しくて良いものだから、ボクの中にそういうものが増えても……うん、だから、帰るよ。ううん、帰らなくちゃ。大丈夫、本当はちゃんと分かっていたよ。ボクは、ここに居るのは、ダメだ」
「そう、そうしなさい」
 ボクは小羽留の手を包んで、頰から引き剥がした。必死に自分に言い聞かせて、小羽留が好きな綺麗事の結果になるように、手を離すと、小羽留がスッと立ち上がって、ボクの視界から外れる。ボクは立ち上がって、もう一度小羽留の顔を見た。もう泣いてはいなかったけど、笑ってもいなかった。
「ありがとう。あと、ごめんね」
「ありがとうだけでいいわ、やり直して」
「……うん、ありがとう。バイバイ」
 今度こそ、ちゃんとお別れを言った。本当は嫌だって思う。だけど、小羽留が望む事を一つでも叶えてあげたい。ただそれだけで、ボクは歩いて、映画館のドアを開けて、中に入った。入る、その瞬間、後ろを振り返った。小羽留は日傘を拾って歩き出していた。やっぱり、思い切りがいいのは、いつだって小羽留の方だった。
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