人間をやめてみた(全文)

文字数 4,522文字

その若者は、疲れきっていた。目の下にはクマができている。ここしばらく激務が続いて、あまり寝ていないのだ。

やっと明日は、待ち望んだ休日……のはずが、会社の研修が入っている。なぜかいつも休日返上で、定期的に参加させられる。

どのような研修かというと、こんな感じだ。

まず、どこかのだれかの成功体験を聞かされる。

苦しい状況でも、笑顔を忘れずいつもポジティブに努力しよう。人々を喜ばせることが私の幸せ。

といった、どこにでも落っこちているようなストーリーを、あたかも自分だけのユニークなストーリーであるかのように、登壇者は熱く語る。

そして、ちょうど受講者が感動したところで、「なにがあってもあきらめない!やればできる!」というようなことをみんなで合唱する。

不思議な高揚感。

そうして受講者は、意気揚々といつもの理不尽な労働環境にもどっていく。

若者はうすうす気づいていた。

研修に参加した直後は、よしがんばろうという気になる。しかし、いざ日常にもどると、必死に働いたところで、給料はあがらず、サービス残業だけが増えていく。

一緒に盛りあがり、絆を深めたかに思えた同僚たちも、あっというまにギスギスした人間関係にもどる。

自分の時間やエネルギーをただ搾取されているように感じ、またやる気が底をつく。

そして、

(この過酷な状況に耐え続けた先に、何かいいことがあるのだろうか……)

と、まっとうな疑問が頭をよぎる。

このタイミングで、また研修が投入される。ずっとそれのくり返し。

そうやって若者は、目の下のクマがとれない生活を続けている。


翌日。名ばかりの休日。研修の日。

いつものように、のこのこと研修に出向くと思われた。しかし、今回は違った。若者は、はじめて研修をさぼった。

職場のみんながセミナールームで空っぽな高揚感に包まれているとき、彼はひとり、自然豊かな湖のほとりにいた。

雄大で神秘的な湖。湖を囲うように広がる森。そこを住処とする愛くるしい小動物たち。生き生きとした草木。それらを祝福するように空を飛びまわる、かわいい小鳥。

自然の中で、疲れた心が癒されていく。この選択は間違っていなかった。サボってよかった。そう若者は思った。

しかし、結局は明日からまた、いつもの生活に戻らなくてはならない。会社をやめる勇気もない。そもそも、いまの仕事をやめて他へうつったところで、結局どこも同じなのかもしれない。でも、もしかしたら。勇気を出して、新しい世界へ飛び込んだなら……

若者は、悲しそうに湖をながめながら、

「いっそのこと人間をやめて、動物や植物になれたなら、どんなにいいだろう」

と、ため息をついた。

すると突然、湖の底から、ごごごごご……と重低音が響き、水面がうねりはじめた。

「うわっ」

若者はびっくりして、腰をぬかした。

水中から美しい女性がせり上がってきたのだから、無理もない。しかも、よくみると彼女の髪や衣服は、全く濡れた様子がない。

そして、女性の手には、奇妙な形をした金色の小瓶と銀色の小瓶がにぎられている。

「こんにちは。どうやら、お疲れのようですね。ところで、あなたが落としたのはこの動物の薬ですか?それとも植物の薬ですか?」

女性は若者の顔の前で、小瓶をちらつかせながら、たずねた。

「へ?動物……?植物……?いや、これといってなにも落としてないですけど?」

「あら、なにも落としてない?おかしいわね。でも、さっき、動物になりたいとか植物になりたいとかって、そんなようなため息が落ちてきたんだけど」

「ああ、それか。それのことなら、おそらくわたしです」

「なんだ、やっぱりあなたでしたか。それはよかった」

女性はにっこり笑って、今一度若者の顔の前に小瓶をつきだした。

「ここに『動物になれる薬』と『植物になれる薬』があります。どちらかひとつ、お好きな方を選んでください。ちょうど今、お願いキャンペーン中なので、無料でさしあげますよ」

「お願いキャンペーン……ですか」

怪しい。怪しすぎる。若者は、顔を引きつらせた。

「あ。怪しいものではありません。わたしはこの世界では神様と呼ばれているような存在です。どうぞお見知りおきを」

「か、神様!?」

若者はすっとんきょうな声を上げた。どう考えても怪しさはマックスだが、確かに普通の人間なら、一滴も濡れずに水の中から登場できるわけがない。これは、ほんものかもしれない。だとしたら、ものすごいチャンスだ。

今どきの神様は、ずいぶんと軽いのりで願いを叶えるんだなと思いながらも、若者は動物と植物、どちらになりたいか、少し真剣に考えてみることにした。

動物になるとしたら、そうだ、鳥になって大空を飛ぶってのはどうだろう。とても気持ちがよさそうだ。
若者は、空を見上げた。

大きな鳥に追われて、小鳥がギャーギャー必死に逃げている。しかし、追いつかれてしまった。大きな鳥のするどい爪が小鳥をとらえた。

鳥の羽が一枚、ひらひらと若者の頭の上に落ちる。

鳥は……やっぱ、なしかな。そうだ、空は飛べなくても地上で、小さなかわいい動物になれば、平和でいいかな。

今度は、地面に目をやる。

小動物がエサにむらがって、小競り合いをしている。しばらく見ていると、その中にはちょっとしたヒエラルキーがあるようで、少し気の弱そうな個体は、はしっこの方でうずくまっている。エサを分けてもらえないようだ。

やっとみんなが食べおわったのをみはからって、おこぼれに駆けよる。が、他の個体が颯爽とあらわれ、残りものをも、うばっていった。気の弱い個体はそれをみて、呆然としている。

動物社会も、思いのほか動物関係でもめている。そもそも人間だって動物なのだから当然のことなのかもしれない。動物界はどの社会でも、なかなか辛そうだ。

結論、動物として生きるのは、なしだ。

じゃあ、植物はどうだろう。辺りを見わたす。

大木が、天に向かって枝をのばし、雄大にそびえている。

なかなか、よさそう。

根元には草花がおいしげり、風に揺れている。

なんとも、平和だ。

うむ。植物はよさげだ。

このまま、人間として不本意な生活をつづけていても、いつかきっと後悔する。勇気をもって、新しい環境に飛び込んでみよう。人生はチャレンジだ。いつかの研修でも、そんなことを言っている人がいたような。

「植物になる薬をください」

「植物ですね。では、こちらの小瓶をどうぞ」

神様らしき女性は、そういって若者に銀色の小瓶をわたした。

若者は、意を決して、渡された瓶の中の液体をぐいと飲みほした。

まずい!

途端に、めまいがした。世界がゆがむ。ぐるぐる回る。ぐるぐるぐるぐる……助けてくれ!


しばらくして、若者は我にかえった。どうやら、ずいぶんと寝てしまったようだ。あの神様や薬は、夢だったのかもしれない。ああ、明日もつまらない仕事へ行かなければならないのか。うんざりだな。そう思って起き上がろうとしたとき、若者は気づいた。

(あれ、体が動かない)

足が固定されているようだ。そもそも若者は、横になっていなかった。太陽に向かって立っていた。

(一体、どういうことだ?)

状況を把握しようともがく。しかし、どうにも動くことができない。そして、うっすらと全身の感覚が今までと違うことに気づく。

(足というものがそもそもないんだ。根になっている!)

植物になっていた。

若者は、その事実にうろたえ、恐怖をおぼえた。しかし一方で、人間社会の面倒なことから、完全におさらばできたと思うと、少し喜ばしい気もした。

それにしても、なんだか苦しい。人間だった頃よりも、とても苦しい。なんだろう、この感覚は。

渇き。

そうだ、これは渇きだ。もはや、のどという器官はないのだが、のどがカラカラに渇いているような、そんな気分。

体が乾く。もっと、水をくれ。

若者は自らの根っこで水分を吸収しようとした。しかし、どうにもうまくいかない。最初は、まだこの体に慣れていないから、吸い上げるのが下手なのかと思っていた。しかし、どうやらそうではないらしい。もとより、ここの土の水分がとても少ないようだ。

(なんと大変な場所に生えてしまったのか。我ながら、ついてない。苦しい)

若者は、こんなに苦労するのなら、植物にならなきゃよかったと思った。人間のままでいた方が、よかったかもしれない。とはいえ、今更どうやって人間に戻ればいいのか、まるで検討がつかない。

彼は植物となってなお、自分の置かれた状況にもがき苦しみ、悩みに悩んだ。それでも、生きていかねばならない。もはや、このまま植物としてがんばるという選択肢しか、残されていなかった。

若者は、覚悟を決めた。


それから数ヶ月、少ない水分の中、若者はどうにか生き延びた。その努力はみごとにみのり、若者は立派に成長した。自分の身体が、青々とみずみずしく育ったのを感じる。

若者は、自分を誇らしく思った。過酷な環境でもサバイバルできたのだ。それと同時に、ほんのり後悔にも似た感情もわいた。人間だった頃に、ここまで耐えて、がんばることができたなら、違った人生を歩めたのかもしれない。

そんなことを思いながら、感慨にふけっていると、むこうから誰かがやってくる気配がした。

「これが話題のお野菜ですか」

近くで人間たちがしゃべっている。どうやらテレビかなにかの取材らしい。

「ええ、そうです。ここで作られている野菜たちは、枯れるか枯れないかギリギリの少ない水分で栽培されています。極限まで負荷をかけて育った野菜は、栄養や甘みが凝縮されて、とってもおいしく育つんですよ」

農家のおばちゃんがニコニコとうれしそうに説明する。

「おひとつどうですか。このままかじってみてください」

おばちゃんは、立派に育った若者を地面から引っこ抜き、レポーターの女性に渡した。

「では、いただきます。バリバリ。むしゃむしゃ」

レポーターの歯が、身体に食い込む。リズミカルに、しゃくしゃくと、取れたての若者を噛みちぎっていく。

そして、三分の一ほど食べたところで、

「あら、ほんとう。そのまま食べたのに、全然苦くない。あまくて、おいしい」

と、その味を絶賛し、大げさによろこんでみせた。

「今日は話題のお野菜をご紹介しました。ぜひ、みなさんも食べてみてくださいね~」

農家のおばちゃんとレポーターがカメラにむかって、笑顔で手をふる。

「はい、カット。おつかれさまでした~」

撮影が終わり、バタバタとみんながはけていく。スタッフの一人が、食べ残された若者の残骸をテキパキと回収し、無造作にゴミ箱へと放り込む。

意識がだんだんとおのいていく。噛みちぎられバラバラになった若者は、最期に思った。

(人間にも、動物にも、植物にも、もう、何にもなりたくない……)


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