1 マスクを外して

文字数 1,997文字

笑蝉記
Saven Satow
Sep. 15, 2021

“λάθε βιώσας”
Επίκουρος

1 マスクを外して
 口元に冷たい外気の流れを感じる。この感覚を最後に経験したのがいつであるか正確には思い出せない。マスクのある風景が現われる前であることは確かである。ただ、かつてはそれが当たり前だったので、気にすることさえない。冷たい外気に口元が触れることを新鮮に感じることなどここ数年はなかったように思える。

 マスク着用は、パンデミック下において、新たな公共性である。新型コロナウイルス感染症は不顕性感染をする。マスクは他者に感染させて、健康に害を与えないために着用する。これは危害原理に抵触するので、マスクの義務化が可能である。こうした行政による措置は個人の自由の権利の侵害に当たらない。義務化されていない日本では、公共空間に入る際、マスクを着けることが道徳的行為とされている。

 「公共事業」の対義語は「営利事業」である。しかし、「公共」のそれは「営利」ではない。「私自」だろう。私自空間から公共空間に出る際にマスクを着けなければならない。

 もっとも、ここはアスファルト舗装された道路だ。建物もまばらな八幡平の雑木林の間を通っている。道路は非排除性と非競合性を特徴鶴公共財の典型である。複数の人間や動物、乗り物が同時に利用できる。

 ここは公共空間である。けれども、誰もいない。咳をしても一人だ。念のためマスクを黒いジャージのアッパーのポケットに持参しているが、出会う可能性も少ない。道路の管理者は行政であるから、この空間が「公」に属していることは確かだろう。けれども、誰もいないので、「共」の空間ではない。

 いかに「公」の空間であっても、「共」ではない以上、マスク着用は不要である。マスクのある風景は新たな「共」の道徳の現われである。空間には「私(Private)」と「公(Public)」の他に、「共(Common)」がある。

 「私」の空間が閉鎖的、「公」のそれが開放的とすれば、「共」は半開きである。『わたくし』や「公」の空間とも重なる場合がある。出入りの制約の有無よりも、ただ流れていくのではなく、そこに停留することがその本意である。複数の人がそこにとどまっているから、「共」が成立する。

  部屋が「私」、道路が「公」の空間の代表例とすれば、「共」は待合室である。そこでは見知らぬ人でも話しかけやすい。同じ空間にいるだけでなく、会話が交わされ、交流が生まれる。

 人間が複数集まると社会ができる。けれども、それは「共」である。「公」ではない。「私」が複数いると、「共」の空間が形成される。雑木林のようなものだ。雑木林は原生林ではない。摩擦が生じたり、対立したりすることがあっても、「共」の場で解決しようとするだろう。うまくいかず、しこりが残ったり、いがみ合ったり、疎遠になったりすることもあるに違いない。長年の慣習や話し合いによる決まり事がその「共」の規範として形成される。

 「共」が「公」になるには第三者が必要だ。「共」の間で暴力的対立が勃発しないために、それを強制的に解決・抑止する機関として政府が社会から求められる。政府は、社会の信託を元に、暴力を独占、その行使は社会の利益に依拠している。こうして形成された「公」はそれを維持・運営するための専門の人員、すなわち公務員が要る。舗装道は雑木林を強制的に分け、その管理・補修には技術者が欠かせない。

 これが社会契約説に基づく近代の基本的姿である。マスクを外して、一人雑木林の間の舗装道を歩く時、そんな思いが浮かんでくる。

It's getting very crowded
And I need a breath of air
The door is open, it's time to go
But my legs feel like lead

My shoes are glued down
On a one way street
It seemed like fun, now I want to run
Is there no way out of here?

Jokes for conversation
How much is there to lose
Before this party drives me mad
I'd like to disappear

If we wait long enough
We must come round again
To where we came in
That's where I get off

Pas de sortie, ç'est un cul de sac
No way out, this is a cul de sac
出口なし、袋小路なんです
(The Beatniks “No Way Out”)
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