4 『方丈記』を読む

文字数 4,552文字

4 『方丈記』を読む
 日本における隠者の伝統的姿は、体制を離脱して人里離れた山中の庵に隠居、僧衣に身を包んだ翁である。もっとも、実際には、市中に住んだり、自給自足ではなかったりするなど世俗との距離感に幅があり、隠者の生活にも個性がある。浄土思想の影響を受けた彼らは自己観照しつつ、都への郷愁をのぞかせながら、自然の中での無常観に根ざす倫理的生き方を批評する文章をしばしば綴る。これは「隠者文学」と呼ばれる。貴族文化華やかな平安時代の優美な女房文学に代わって登場した隠者文学は、質実剛健をよしとする武士の時代、すなわち主に鎌倉・室町の中世を代表する文学ジャンルの一つである。

 その頃にそういう呼び名はなかったが、隠者文学の作者は知識人であり、内容は知的で、概して物語性は弱い。『方丈記』はこの隠者文学の傑作である。漢字とかなの混ざった和漢混淆文で記述された最初の優れた文芸作品で、歌語や仏教用語を始めとした多彩な語彙、漢籍や和歌など多様な典拠、詠嘆・対句表現の多用といった特徴がある。『方丈記』の他にも、西行の『山家集』、や吉田兼好の『徒然草』、連歌師の諸作品、『発心集』を始めとする仏教説話集、『海道記』といった紀行文などがある。隠者文学の先駆けとして、平安中期の慶滋保胤(よししげのやすたね)による『池亭記(ちていき)』などを挙げることができる。

 『池亭記』は慶滋保胤が漢文で記した随筆で、成立は天元年間の982年頃と見られている。慶滋保胤は白居易の漢詩『池上篇』並びに兼明親王の同題の著書『池亭記』[2]から着想を得たと記している。『本朝文粋』の12巻に含まれた短篇集で、二部構成の内容である。
前半は湯治の都に関する評論である。一方、後半は胤が都の西部で送る隠遁生活をめぐる描写である。『池亭記』は『方丈記』と構成や内容に共通点が多く、源通親の『久我草堂記』に対して同様、影響を与えたと見られている。

 平安から鎌倉にかけての時期は死後の阿弥陀如来による救いを説く浄土教が伸長、無常観が貴族の間に広まっている。こういう思想潮流は隠者文学登場の背景の一つである。

 しかし、近世に入ると、隠者文学は衰えを見せる。西行に範をとった松尾芭蕉の『奥のほそ道』をこの系譜に位置付けることはできるが、他に目立った作品はない。近世は仏教が民衆の間にも浸透した反面、知識人の関心は儒教に移っている。儒教は無常観がないなど理論上の特性から、知識人が隠者になって思索を深めることは起こりえない。しかも、江戸時代は天下泰平の世である。鴨長明などにった乱世をいかに生きるかという問いは及び出ない。芭蕉は仏教や道教の影響が強く、同時代の知識人と違い、中世文学と通じる思想背景を持っている。

 『方丈記』の次の書き出しは日本文学史上の名文の一つとして知られている。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。

 この書き出しは日本文学史上最も有名な一説の一つだろう。さまざまな典拠に基づきながら、豊富な語彙を駆使、格調高いレトリックで綴られている。この一節の解釈だけでも古典に関する豊かな知識が要求される。試しに冒頭の二行を詳しく読んでみよう。

 「行く川の流れは平安時代の表現としては珍しい。『古今集』522「行く水に数かくよりもはかなきは 思はぬ人を思ふなりけり行く水の流れ」」が示すように、当時は「行く水に和かく」がはかないという意味で用いられている。なお、「思ふ」は近代後と違い、「恋する」の意である。

 冒頭の一行は『文選』の「川阅水以成川、水滔滔而日度、世阅人而为世、人冉冉而行暮」を踏まえている。「河」は「行く水」であり、ことさらに、「行く」を接頭する必要はない。けれども、「河の流れは」にすると、7音になってしまう。書き出しは5音が望ましい。「行く」を「河の」に前置すれば、5音である。しかも文頭の「か」が摩擦音である「河」に比べて、「行く」は発音上の音が軟らかい。

 「うたかた」は「泡」を指す歌語で、通常の会話では使われない。「泡は」では3音だが、「うたかたは」なら、5音になる。少し後に「水の泡に泡」と「泡」も用いられ、その際の音は5である。また、「うたかた」の前に「水」の言及があるけれども、「泡」にはないので、それが修飾語として前置されている。

 「かつ消え、かつ結びて」は「かつ」を繰り返して泡の生成消滅を強調している。「結びて」は「生まれて」の意である。「行く」と違い、「かつ」は口の前の方で発音するため、音が強い。しかも、それは、「久しくとゞまりたるためしなし」というように、長い時間に同じ状態を保つことがない。流れるような音が並ぶ無常の光比の喩が実際の光景のように目に浮かんでくる。

 『方丈記』は、末尾の記述から、1212年(建暦2年)3月末日に記されたとされる。執筆後の比較的早い時期からこの書き出しは名文としての評判を獲得している。40年後の1252年(建長4年)に成立した作者未詳の仏教説話集『十訓抄』の第九の六話に次のような記述が見受けられる。

 近頃鴨社の氏人にて、菊大夫長明といふ者ありけり。和歌管絃の道にて、人に知られたりけり。社司をのぞみけるが叶はざりければ、世を怨みて出家して後、同じく、先立ちて、世を背ける人の許へいひやりける、
 いづくより人は入りけんまくず原、秋かぜ吹きし道よりぞこし。
 長明は出家した後大原山に住みけり。其後日野の外山と云ふ所にありて、方丈記とて假名にて書きたる物あり。初めの詞を見れば、「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とあるこそ、

川阅水以成川、水滔滔而日度、世阅人而为世、人冉冉而行暮

という文をかけるよと覚えて、いと哀れなれ。然して、彼の庵にも、をり琴・つぎ琵琶などをならべりけり。
 出家の後本の如く和歌所の寄人にて候ふべきよしを、後鳥羽院より仰せられければ、
しづみにし今さら和歌の浦浪によせばやよらん海士あまの捨舟
 と申して、つひにこもり居てやみにけり。

 このように文学便覧よろしく解説されている。ただ、『方丈記』だけではわからない情報も記されている。鴨長明に関する個人情報が広く伝わっていたのか、筆者が事情を知る立場の人なのかは不明である。

 また、世阿弥が『養老』に引用したことも良く知られている。これは、孝行息子が発見した養老の泉伝説に基づく作品で、楊柳観音の化身の養老の山神が現われ、天下泰平を祝福する内容である。神が出現して祝福を与えるこの舞台は能の中では脇能という分類に属する。前場において山神の化身である老人がさまざまな霊水の謂われを語る際に、『方丈記』の冒頭の一節が引用されている。ただし、それは「それ行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にはあらず,流れに浮かむ泡沫は、かつ消えかつ結んで、久しく澄める色とかや」となっている。清らかな水の尽きせぬ様子の描写で、原文とは意味が異なっている。

 世阿弥はこの一節が非常に気に入っていたようである。『曲付次第』においてそれについて次のように述べている。

 長明云はく、(それ)、行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずといへり。たとえば、声は水、曲は流れなるべし。しからば、絶えぬ声にて、曲を色々に流連して、音感重聞(ぢゅうもん)ならぬは、絶えずして、しかも、もとの声にはあらぬなるべし。(略)返す返す、絶えずして、しかももとの水にあらぬ所を、声文の曲道に案合して、重聞ならぬ所を心得べし。

 世阿弥の理解は『方丈記』の文脈や典拠を無視している。彼はこの一節を音楽の比喩と捉える。水は声、流れは曲というアナロジーは少々難解である。水のない流れはない。しかし、水は流れではない。水の特定の組織化が流れになる。同様に、声の内局はない。しかし声は曲ではない。声の特定の組織化が曲である。それは持続し、不可逆的である。こうした主張は20世紀初頭のエドムント・フッサールやアンリ・ベルクソンの議論を思い起こさせる。世阿弥はこの一節を『方丈記』の思想に基づいて理解するのではなく、自身が受けたインスピレーションから意味を展開しているというわけだ。

 ところで、書き出しこそ有名であるが、『方丈記』の分量は原稿用紙換算25枚程度である。原稿用紙換算45枚程度の松尾芭蕉の『おくのほそ道』よりさらに短い。内容から前半と後半の二部構成とされている。前半は五大災疫に浮いての記録、後半は人生を振り返り、今の生活についての思索で、分量はほぼ同程度である。この五大災厄は大火・辻風・遷都・飢饉・大地震であり、『方丈記』は災害の史料としてしばしば引用される。なお、『方丈記』にはその言及はないが、五大災厄は源平の合戦の時期に当たる。当時は天変地異が政治的激動につながる戦乱と重なっている。

 前半は経験や伝聞に基づいたかなり詳細な災害の記録である。平成は災害が多かったこともあり、この作品は何度となく顧みられている。長明は、安元3年(1177)の都の火災、治承4年(1180)に同じく都で発生した辻風およびその直後の福原京遷都、養和年間(1181~1182)の飢饉、さらに元暦2年(1185)に都を襲った大地震(文治地震)など自らが経験した天変地異や政治変動に関する記述を連ねており、歴史史料としても利用されている。特に、3・11もあったため、2010年代、地震の部分がメディアなどでも紹介されている。そこには液状化現象を思わせる記述がみられる。また、琵琶湖で起きた津波も記されている。津波は海の現象と思いがちだが、実際には湖でも発生することが世界的に確認されている。

 しかし、パンデミックにより巣ごもり生活が長引くと、隠者の暮らしを記した後半に関心が向かう。基金の部分に疫病の言及もあるが、それはその自然災害の被害の一つとしての描写で、どのように終息したかなどには触れていない。長明は60歳から方丈の庵で仏教倫理に基づく理想の実践として隠者の性格を送っている。確かに、現代の巣ごもりとは時代的背景も個人的理由も異なる。けれども、隠れて暮らす中で幸福について反省的に思考した姿勢には、及ばずながらも、参考にできるところがある。
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