2 いかに況んや、常に歩き、常に働くは、これ養生なるべし

文字数 6,995文字

2 いかに況んや、常に歩き、常に働くは、これ養生なるべし
 岩手県八幡平市にある別荘で、2021年5月1日から4日まで過ごす。訪れた時は3泊するのが常である。別荘と言うより、2階建ての築30年近い山小屋だ。1階はDKと6畳の和室で、2階にも6畳の和室がある。ここは別荘地の端に位置し、辺りは雑木林で、住宅はない。10分近く歩けば、人の気配のある別荘がある。

 滞在の目的は湯治である。この別荘は温泉を引いてある。目の痛みを始め体調不良を癒すために、数日空いた時間がある時、訪れる。今はいわゆる第4波の最中で、COVID-19のさらなる感染拡大の懸念もある。この4日間は、食料など生活必需品の購入以外で誰かと会うことはない。もっともパンデミックの前からいつもそんなものだ。ここでは自宅にいるよりも人と会う機会は少ない。

 八幡平に来ると、あれこれ思いに耽る。話し相手は自分自身だけである。ただ、座っていてそうしていては、空想や妄想が膨らみ、頭が重くなるだけだ。そのため、荘の中や外を歩き回る。雑木林を眺め、自然の音に耳を傾け、記憶をたどり、知識を確かめながら、自身と思索を対話する。

 滞在中、1日4回の入浴以外の楽しみは散策である。雑木林の間のウォーキングをした後に、ゆっくりと風呂で汗を流す時、八幡平にいることを実感する。

 だいたい8時から午前のウォーキングに出る。60~90分ほどだが、天候によって変動する。雨が激しい時は屋内で行道に励む。軽い雨なら、傘を差して歩く。ウォーキングのコースは気分次第だ。雑木林に囲まれた道を歩いていると、西行や芭蕉、H・D・ソロー、レフ・トルストイ、国木田独歩になったような気がして、あれこれ思索する。彼らはこんな風景を眺めて、あの名作を書いたのだろうかと想像する。その途中でiPhoneを取り出して、風景を写真に収めたり、蝉の鳴き声を録音したり、浮かんだ考えを音声入力でメモしたりすることもある。

 煩わしいほどの人間関係はもうない。運のない無名の物書きなのに、自分からまめに働きかけないので、年齢を重ねる度に、社交は減っていく。知人はおそらくSNS上のだけの方が多い。連絡や会話にしても、パンデミック以前から、オンラインがほとんどである。ただ、集中して仕事をしている時に、時折、苛立つほど続くこともある、

 確かに、荘は電波状態が悪いので、オンラインの社交はほとんどない。しかし、現代社会において世間とから離れるために、山中にこもる必要はない。孤独な生活は都市で可能だ。八幡平滞在は湯治が主目的だが、他に風景を変えるためでもある。隠者の風景は人を思索せずにいられなくする。

 荘から外に出ると、たいていひんやりとした空気が迎えてくれる。しかし、その直後、牛馬の糞の匂いを感じる。別荘地の下の方に牧草地がある。以前は顔をしかめたものだが、パンデミックに入ってからは、この匂いをかぐと、COVID-19に感染していないなとほっとした気になる。
 
 昼食後は食料など生活必需品お買い物をする。終えたら、荘に戻り、ウォーキングに出る。午後のウォーキングは健康のためで、歩くことに集中する。あまり考えずに、決まったコースを往復するだけだ。そもそもこの時間帯は頭がよく回らない。たいてい1時間以内で済ませる。

 ウォーキング1万歩を日課にしているが、パンデミックにより、天気の事情以外にも戸外に出ることが消極的になっている。続けているけれども、戸外ですることが少なくなっている。マスクをして1万歩歩くと、息苦しく、汗が口の周りに溜まり、気持ちのいいものではない。不快さを我慢しては日課も続かなくなってしまう。

 実際、外出する機会が社会的に減っている。しかも、それは運動不足にもつながっている。『NHK』は、2021年3月23日 6時44分更新「コロナで外出自粛 高齢者の健康に深刻な影響 研究グループ調査」において、パンデミックによる運動不足の悪影響について次のように伝えている。

新型コロナウイルスの感染拡大で外出の自粛が続く中、特に高齢者の健康に深刻な影響が出ていることが大規模な調査で明らかになりました。運動不足による体の機能の衰えだけでなく、人と会う機会が減ったことで「物忘れが気になるようになった」「生きがいを感じなくなった」という人が60代以上で増えていて、専門家は対策が必要だと指摘しています。
筑波大学大学院の研究グループは千葉県白子町や新潟県見附市など全国の6つの自治体と協力し40代以上を対象にアンケート方式による調査を行っておよそ8000人から有効な回答を得ました。
それによりますと、去年11月の時点で外出するのが週に1回以下だという人が70代で22%80代で28%90代で47%にのぼり、外出の機会が大幅に減っていることが分かりました。
運動不足はすべての年代に広がっていて、調査した40代以上のうち17%の人が、自分の健康状態が悪化していると感じています。
さらに60代以上では「同じ事を何度も聞いたり物忘れが気になるようになった」という人が27%、「生きがいや生活意欲がなくなった」という人が50%に上っていることも明らかになりました。
運動不足による体の不調だけではなく、特に高齢の世代では外出が少なくなったことで友人や地域の人とのコミュニケーションが減り、認知機能の低下や精神状態への影響も深刻になっています。
調査にあたった筑波大学大学院の久野譜也教授は「新型コロナの感染予防は重要だが、運動不足や外出の自粛が長く続くと2次的な健康被害が生じてしまう。特に高齢者の認知機能への影響が大きく、必要な対策を十分にとる必要がある」と指摘しています。

 運動不足にならないために、仏教の行道の修業よろしく自宅の屋内をぐるぐる回っている。かりにそう見えるとしても回し車のハツカネズミではない。屋内は方向転換する回数が多く、屋外よりも1万歩を達成するのに時間がかかる。外なら10分でおよそ1000歩なので、1時間半強で目標に到達する。他方、内では2時間を過ぎてもまだ届いていない。せっかくだから、スマホでRadikoやYouTubeを聞きながら、歩くことにしている。ただ、荘内は電波状態の都合上、ながら行道はしない。

 八幡平でも行道をすることがある。2021年5月2日は天気がよく、屋外だけで、ウォーキングは10118歩だが、翌3日は午前が雨で、午後から晴れたので、行道と合わせて10118歩である。なお、新規陽性者数は2日が都内789人、岩手県22人で、県内の高齢者施設でのクラスターが発生している。3日は都内708人、岩手県18人である。

 ところで、日本の歴史において運動の健康への効用を説いた最初の文献の一つとして鴨長明の『方丈記』を挙げることができる。長明はそれを次のように記している。

それ人の友たるものは富めるをたふとみ、ねんごろなるを先とす。かならずしも情あると、すぐなるとをば愛せず、たゞ絲竹花月を友とせむにはしかじ。人のやつこたるものは賞罰のはなはだしきを顧み、恩の厚きを重くす。更にはごくみあはれぶといへども、やすく閑なるをばねがはず、たゞ我が身を奴婢とするにはしかず。もしなすべきことあれば、すなはちおのづから身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人をしたがへ、人をかへりみるよりはやすし。もしありくべきことあれば、みづから歩む。くるしといへども、馬鞍牛車と心をなやますにはしか(二字似イ)ず。今ひと身をわかちて。二つの用をなす。手のやつこ、足ののり物、よくわが心にかなへり。心また身のくるしみを知れゝば、くるしむ時はやすめつ、まめなる時はつかふ。つかふとてもたびたび過さず、ものうしとても心をうごかすことなし。いかにいはむや、常にありき、常に働(動イ)くは、これ養生なるべし。なんぞいたづらにやすみ居らむ。人を苦しめ人を惱ますはまた罪業なり。いかゞ他の力をかるべき。

 今回の滞在中、最も読んだ作品が青空文庫の『方丈記』である。たんに読むだけではなく、その思想について考えたり、今の時代や社会と照らし合わせたり、そうした思索をGoogleドキュメントに書いたりしている。引用はその青空文庫からである。読み上げソフトで聞く際に、ひらがなが多いので読み間違いが少なくて結構だが、段落分け等が不明瞭で、正直、使い勝手が悪い。論じる時、ひらがなのままではわかりにくいこともあるので、表記を変更する場合もある。

 活字本であれば、浅見和彦成蹊大学名誉教授校訂『方丈記』がよい。これはちくま学芸文庫から2011年に刊行されている。浅見名誉教授は『NHK古典講読』において「方丈記と鴨長明の人生」を担当、同番組は2019年からYouTubeで視聴できる。全52回と長いが、これを聞けば、『方丈記』や鴨長明の人生に関する総合的・体系的理解を得られる。加えて、名誉教授が小坂明子の『あなた』をお気に入りだということもわかる。

 長明は「いかに況んや、常に歩き、常に働くは、これ養生なるべし」と運動を勧めている。語句の解説をしておこう。当時の日本語において「歩」を用いる動詞には「(あり)く」と「(あゆ)む」の二つがある。それをよく示すのが少し前にある「もし歩くべきことあれば、自ら歩む」である。前者は必ずしも方向を定めず、歩行することである。その際、徒歩とは限らず、乗り物を利用する場合にも用いられる。他方、後者はある方向に向かって一歩一歩進む歩行である。「もし歩かなければならなかったら、自分で進む」となる。「歩く」は現代日本語では「(ある)く」と変わったが、「歩む」とのニュアンスの違いはほぼ同じである。なお、現代中国語では「歩」は日本語の「走る」で、「走」が「歩く」の意味で用いられている。

 また 、「(はたら)く」は労働ではなく、身体を動かすことである。「働」は国字で、元々は「動」の意味で使われている。さらに、「養生」は「健康のことである。「いかに況んや、常に歩き、常に働くは、これ養生なるべし」を現代語に訳すと、「言うまでもなく、いつも歩き回り、いつも身体を動かすことは健康によい」。となる。

 平安時代、食糧事情が悪かった庶民と違い、貴族は美食に興じ、運動不足で肥満が多かったとされる。しかも、太っていることは豊かさの現われで、美の基準でもある。「尊い」の語源が「たふとい」、接頭語「た」+「太い」である。肥満になれば、顔は下ぶくれ、目も細くなるものだ。しかし、それは健康にはよくない。そのような知識を知ると、『源氏物語』を始め平安王朝文学の恋愛についても別のイメージがわいてしまう。貴族には、そのため、「飲水瓶」と呼ばれていた糖尿病患者も少なからずいたと推測されている。その代表が「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の虧たることもなしと思へば」の藤原道長である。

 生活習慣病の標語として「1に運動、2に食事、しっかり禁煙、最後にクスリ」が今ではよく知られている。近年、それに加えて、「NEAT」の重要性が医学界で注目されている。長明の意見にも、運動のみならず、この「NEAT」のすすめが認められる。

 『医療法人鉄蕉会 医療ポータル サイト』は、2018年3月1日更新「NEAT(ニート)を高めよう!」において、「NEAT」について次のように説明している。

実は運動以外にもエネルギー消費に大きく貢献する「ニート?」が近年、注目されてきました。日本でニートといえば、仕事をしていない「若者無業者」を連想しがちですが、今回紹介するニート(NEAT)は全く別物です。正式には、Non-Exercise Activities Thermogenesisの頭文字で、日本語訳では「非運動性熱産生」、つまり「運動ではない日常生活活動による消費エネルギー」を意味します。これは通勤や通学、階段昇降、掃除洗濯など日常生活場面そのもので消費するエネルギーのことを指しています。消費エネルギーは、大きく基礎代謝(約60~70%)、NEAT(25%)、食事(10%)、運動(5%)に分けられますが、基礎代謝に次いでNEATはエネルギー消費が高いのです。2005年アメリカのサイエンス誌に「太っている人はやせている人に比べて、1日に164分間座っている時間が長い」といった研究が発表されました。これは日々お茶碗2杯分(350キロカロリー)のカロリー消費が滞り、その分のカロリーが体内に蓄積されている計算になります。歩行に換算すると2時間程度の普通歩行(約30分で100キロカロリー)、早歩きで70分程度の運動量となり、1週間まとめると2,450キロカロリーでフルマラソンに匹敵する消費エネルギーとなるのです。
また、NEATを高めることが健康づくりに効果的であることを示す研究があります。例えば、通勤に自動車から電車に切り替え12~18ヵ月後に体重が平均約3.4Kg減少したという報告があります。米国の研究では14年間の調査において、座っている時間が1日3時間未満の方では、1日6時間以上の方と比べて、女性で約27%、男性で約15%死亡率が低かったと報告しています。日本の研究でもNEATによる歩行時間が1時間以上の方は30分未満の方に比べて、38%も脳卒中や心筋梗塞で亡くなる危険性が少ないという報告が示されています。
これらの報告からもわかるようにNEATの高い生活習慣の獲得がいかに減量や健康寿命延伸において重要かということがよくわかります。

 引用からわかるように、ニートの健康への効用が認められたのは最近のことである。日常生活でちょこまかと体を動かすことは運動よりもエネルギーを消費する。いくら運動に熱心でも、座るなど同じ姿勢を続けていると、ニートの消費がないので、肥満に向かう可能性がある。

 これは従来個体差と思われていたことの解明にもつながる。アスリートは管理された練習や食事を同じようにしている。にもかかわらず、アスリートの間に体型の差が認められる。それは体質ではなく、日常生活におけるニートの違いの可能性もある。練習を離れると、あまり体を動かさないアスリートに比べて、日常生活の細々としたことでせっせと身体を動かす者は太りにくいように思われる。そうなると、アスリートは運動バカでは不十分で、日常生活もできるだけ自分のことは自分でするように自立する必要がある。

 パンデミックにより屋内にとどまることが増えている。よりNEATが健康に与える効用は大きい。在宅時間が長いから、暇がないと言い訳できないので、掃除や洗濯、料理などする機会が増える。

 平安時代にスポーツという発想はない。今日以上に運動よりニートのエネルギー消費量が多かっただろう。しかし、できるだけニートをしないことがまさに貴族の証である。糖尿病患者が多かったのも当然である。一方、鴨長明は1155年に生まれ、1216年に亡くなっている。当時としては長寿で、糖尿病を患った記録もない。それにはこうした運動やニートのおかげもあったように思われる。

 鴨長明は、『方丈記』を読むと、かなりの健脚だったことが推察できる。彼は50歳の時に出家し、60歳からこの随筆を執筆した庵に住んでいる。現代日本の60歳は平均寿命より下であるが、当時はおそらく上である。庵の長明は一人住まいの後期高齢者といった具合だろう。『方丈記』の次のような記述を耳にすると、三浦雄一郎ばりの体力の持ち主だったのではないかと思うほどだ。

もし日うらゝかなれば、嶺によぢのぼりて、はるかにふるさとの空を望み。木幡山、伏見の里、鳥羽、羽束師を見る。勝地はぬしなければ、心を慰むるにさはりなし。あゆみわづらひなく、志遠くいたる時は、これより峯つゞき炭山を越え、笠取を過ぎて、岩間にまうで、或は石山ををがむ。もしは粟津の原を分けて、蝉丸翁が迹をとぶらひ、田上川をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。歸るさには、をりにつけつゝ櫻をかり、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の實を拾ひて、かつは佛に奉りかつは家づとにす。

 長明は「嶺によぢのぼりて」と記しているので、彼の山登りはワンダーフォーゲルではなく、ボルダリングだろう。還暦を過ぎていることを思えば、驚くべき体力である。また、日野山から琵琶湖の辺りまで徒歩で訪れているのだから、スタミナも相当なものだ。その姿は「平安の三浦雄一郎」の呼び名がふさわしい。長明を始め隠者は、笠智衆のように、枯れた老人というイメージがある。しかし、絵画から受ける印象と違い、彼らは、記録を調べると、人知れず孤独に庵にいるだけでなく、かなりの距離を歩いている。むしろ、体力がなければ、隠者になれないと思える。肥満体の多い平安貴族から長明はどう見られていたのか興味がわくところだ。

 八幡平に来たら、春先は雪の回廊、エゾハルゼミの鳴き始める頃はドラゴンアイ、夏は奥中山、秋はアスピーテラインの紅葉を見に行く。しかし、徒歩ではなく、クルマで出かける。実際、こうした風景も自動車を前提に整備されている。そのため、積雪のある冬季に通行禁止になる地域もある。冬の八幡平に来たことは長らくない。

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