第39話 「胎動」から(2)、「私の学校拒否体験」

文字数 2,647文字

「胎動」を書いていた時、わたしは40歳だった。もしかしたら、40というのは、人体的に一つの大きな曲がり角だったのかもしれない。何か身体の細胞が、その新陳代謝が、

ものが多く、新しく生まれ出るものが、まにあっていない… 肉体のミクロの部分で、需要と供給がまにあっておらず、しかしそれまでのパターンと違うことに身体自身も「どうしよう」と戸惑っていたように思う。
 だが、「私」という頭、あるいはこれも身体の記憶かもしれないが、そのどこぞにある記憶からすれば、それまでのスタイル、生活パターン、習慣から、

たくない。今まで通り、やっていきたい。だが、そう思う、その肉体からして、すでにまにあっていない。そこでバイクかクルマが、もう燃料も少なく、最大出力も以前より出ないにも関わらず、

を求めて、よりいっそうの馬鹿力を出す… そんなコーナーを曲がる、乗り物のように、わたしはわたしに乗っていたように思う。

 その曲がり角から10年前、わたしは「学校拒否体験」を書き始めた。これは、現実の需要があった。わたしは不登校の会のような活動をしていたし、その月報に自分の不登校体験を書くようになったのは必然と言える。
 この題名は、当時ある雑誌から取材を受けて、「あなたは不登校というより、

ですね」と言われたことに由来している。話の分かる、見つめる方向が同じような、一つの物事を二人で見つめることのできる、いいライターさんだった。もちろん、今も名前を憶えている。その後、どうしていらっしゃるだろうか。
 ところで、この「学校拒否体験」が、いわばわたしのカン違いの始まりであった。その月報を見たプロの人から、「とても面白い。本にするといいですね」と手紙をもらったのだ。それは信頼できるスジの人だった。
 で、わたしの単細胞が嬉々としてうごめき始めた。それはもちろん、「未来へ向かって」。自分には文才がある(実際、そう言われたのだ)!、これは望みの言葉であった。ついでに言えば、10年後のブログ「胎動」にも、やはり信頼できるスジから「あなたは文を書くために生まれたのかもしれませんね」といった言葉を受け取り、わたしは自分の才の再確認をしたのだった。つまり、10年間、わたしはずっと未来を夢見、特に「作品」を、すなわち勝負を賭けるような作品を書いていなかった。書けなかったのだ。

 それは夢であり、一種の現実逃避の役を果たした。つまり、どんな仕事も、自分のホントウの仕事ではない。わたしのホントウの仕事は、

なんだと思うことができたのだ。
 妻も子どももあったので(これを、書けなかった言い訳にしようなど毛頭思わない)わたしはとりあえず働いていた。どの仕事も、これで食っていくんだ、という手ごたえは皆無だった。おそらく、私に文才があろうがなかろうが、このことについては同じだったと思う。いや、確言できる。どんな仕事も、これを一生なんか続けたくない。こう感じるサガは、もはやそれこそ、生まれもっての才能であったと思う。
 そして、たとえ作家みたいな職に、万が一、運命の誤解によって一時期就いたとしても、わたしはそれをいずれ拒否していただろう── わたしの頭ではなく細胞が、そうわたしに命じていたと思う。そしてわたしは従順に、服従していたと思う。頭では、その従順を拒否しようとしていたとしても。
 遅かれ早かれ、… 遅くも早くも、いまやそんなものは「無い」状態であるが、いずれにしても、わたしというものは、わたしの「環」、わたしが持つ、わたしが持たれる、「回る輪」に戻ってきたことだろう。そうして、イイもワルイもないのだ、というところに、おさまっているような、いないような、そんな状態を続けることになっただろう。つまり、── 今のような。そしてその今、わたしは、困ったことに幸せであるらしいのだ。

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 この「学校拒否…」は、読者対象が明確であった。おそらく、不登校体験者の、詳細な「声」であったら、何もわたしが書かなくても、読まれたと思う。
 この中でわたしが一番伝えたかったのは、何だったろう? 書いていた自分としては、ただ書いていただけだった、実際に自分が体験したことを、なるべくこまかく。起こった、起こした事実に忠実に。
「作品」などとは呼べないことは明瞭である、何しろ、大学時代に至っては、何も書くことなどなかったのだ。天皇制大賛成、という語学クラスの仲の良かった友達のこと、一緒に通学した友達のこと、よく家に泊りに来た友達のこと… 実に、なんということもない日々だった。
 あの「学校拒否体験」は、定時制までで終わってもよかった。だが、終わらせることができなかった。大検のこと、大学のことを書く必要性、必然性、流れを、わたしはわたしに感じていたから。
 あの中で、一番わたしに強く残っていて、言語化したかったのは、わたしが親にしてきた不幸だった。それこそ「神への告白」のように、紙に告白していた。自分の罪深さ、親にかけた迷惑── 書いていて、何度も泣きそうになった。
 実際、子どもだったわたしもつらかった。だが、わたし以上に、父、母はつらかったと思う。それは間違いないと思う。きっと小児精神科医は、「本人が一番つらいんですよ!」というようなアドバイスを親に送ったと想えるが、わたしは、親のほうが、ほんとうに、つらかったろうと思う。もっとも、つらさに一番も二番もないのだけれど…。

 この「学校拒否体験」は月報を読む親御さんに

書いていた。少なくとも、最初は。不登校という接点、これのみを頼りに、書いていた。
 だから、不特定多数、「一般」の人にご覧頂けるような、ほんとに立派な作品ではない。その結末を見れば一目瞭然で、大学を辞めた理由を誰かのおかげのように書いているし、自分自身が、自分自身にケリをつける、ほんとうの自分の言葉、それを現出させるまでに至っていない。肝心なところが、完全に欠落している。だが、それももちろん「物語」、作品として見た場合であって、自分としては、学校に所属していた期間として、題名通り学校拒否を貫徹いたしました、という甘いところで詰んでいる。だが、ほかにどうにも書きようがない…
 これを、「小説にする

いいです」と出版社に言われ、おそらく小説を書けないわたしの技量を見抜いてのことだったと思うが、もう、何度書き直したことか。
 あれ以上、もう、ムリだった。
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