第15話 7月28日 晴れ

文字数 2,255文字

◇ PM2:30

 そうして家に籠ることが多くなったレイを、何とか外に連れ出したい―ミナは一計を案じて、小さな包みを手に独り本を読む子どもに声を掛けた。

「ね、外で遊ばない?」
「んー、いい」
 乗り気でないレイに、
「やりたい遊びがあるのよ。ちょっとだけ、お願い!」
 そう言いながら手にした包みを目の前で振ってみせる。ちょっと興味を惹かれたらしい子どもは、じゃあ、ちょっとね、と言いながら絵本を閉じた。

 玄関から一歩足を踏み出した途端、レイは目をしばたたかせた。最近浴びていなかった太陽が眩しい。先に立って歩くミナをぱたんぱたんと追いかけながら、その背に向けて、声をかける。
「何して遊ぶの?」
「これよ」
 振り向いて、包みの中身を取り出して見せる。レイはきょとんとした顔で、ミナの手の中の小さなボトルとストローを見つめた。
「それなに?」
「シャボン玉よ。見たことない? こうしてね…」
 そう言いながらストローの先をシャボン液に浸し、それから中空に向けゆっくりとシャボン玉を飛ばし始めた。
「わあ!」
 目を丸くして、レイが叫ぶ。
「すごいね! 泡みたいだけど、ふわふわ、ふわふわしてる!」
 触れようとして手を伸ばし、そうして自分が起こしたわずかな風圧でふわり、ふわりと逃げていくシャボンを目を丸くして見つめるレイの反応が可愛くて、ミナは思わず笑顔になった。

「ね、こうやって、息をふーってやるだけ。やってみて?」
 飛んでいくシャボンを見上げてばかりのレイの手にシャボン玉のキットを持たせて、やり方をしぐさで示して見せる。その様子を注意深く見ていた子どもは、恐る恐る真似をしはじめた。
 シャボンをストローの先端に着け、ふーー! っと思い切り息を吹きつける。
 息が強すぎた。最初の試みで、シャボンは円くかたちを作って浮かぶ代りに、あっという間に破裂させてしまった。飛び散るシャボン玉の液が目に入ったらしく、ぱちぱちと瞬きをし、涙目になっている。
「もっとゆっくり、ふーっ、てやってみて。ゆっくりよ」
 そう言いながら、再度ストローの先を浸してやる。
 今度は慎重すぎるほど慎重に息を吹き入れていく。シャボン玉はストローの先でゆらゆら揺れながらどんどん大きくなっていった。そしてまた突然、ぱちんと割れてしまう。

「壊れた」
「大きすぎたかな。どれ、貸してみて」
 もう一度、軽く息を吹き入れる様子を見せてやる。
「きれい」
「ねえ、ほんとね。虹が入っているみたい」
「虹って何?」
「見たことない?」
「…わかんない」
 ちょっと首を(かし)げてから、レイが答える。
「うーん、虹はねえ、雨上がりなんかに空に架かる、七つの色のアーチで…」
「アーチ? 空に? 七つの色?」
 目を丸くして、レイが問う。
「そう、でも、ほんとのアーチじゃなくて、水の粒子に光が当たって分解されて…」
「りゅうしって何?」
「…ああ、口で説明してもわからないわね」
 困り顔になったミナが、次の瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「そうだ! 小さいのなら見せてあげられるわ。待ってて!」
 そう言い置いて、家の中へ走って行った。

 すぐにミナは駆け戻ってきた、クラシカルな小ぶりのアイロン用の霧吹きを手に。複雑にカットされた色ガラスでできたそれは、光を受けてキラキラと輝いている。
「きれい。これが虹? 色がたくさん」
 太陽の光を受けて輝く瓶と、そこから生み出されてミナの白いシャツに映る多色のスペクトルに目を奪わミナがら、レイが尋ねた。
「違うわ。見てて」
 そう言いながら太陽の位置と自分たちの位置とを確認し、ミナは霧を吹いた。立て続けにそうしているうちに、その中にうっすらと、小さな虹が現れる。
「ほら、見える? この、真ん中のところ。いろんな色の、小さいアーチ」
「…あ!」
 しばらく無言で見ていたレイが、不意に声を上げた。心を奪われたように、霧の中央に現れたカラフルなアーチを見つめ続け、無心に手を伸ばして掴もうとする。
「わ!」
 水の感触に驚き、慌てて手を引っ込める。
「あら、だめよ。虹は光の反射でそう見えるだけだから、触ったりできないわ」
 その様子をおかしそうに見ながら、ミナが言う。
「触れないの? でも…」
 確かにそこにあったのに。そんな思いを表情に浮かべている。
「目に見えるものすべてが触れるわけじゃないわ。そう見えるだけってこともある」
 そう見えるだけ―。その言葉を反芻しているらしい。考え込んでしまったレイに、ミナは語りかけた。
「とにかく、これが虹の小さいやつね。ほんとの虹はね、空いっぱいに架かるのよ。雨上がりに日が差してきたら、自分の影が伸びる方向の空を見てごらん。この季節は雨が多いから、きっとそのうち見れるからね」

「ほんとの虹も、チアフル?」
「え? どういうこと?」
「いろんな色があるのって、チアフルじゃないの?」
「…ああ、チアフルじゃなくて、カラフルでしょ?」
「カラフル?」
「そう、カラフル」
「カラフルが、たくさん色があること?」
 どうも噛み合わない会話が続く。目を丸くし質問を重ねるレイに、ミナが問いかけた。
「じゃ、レイちゃんはどんなときカラフルって言うの?」
「カイ。カイはいつもカラフルだと思う」
「ええと、ねえ。そこで言うのよ、チアフルって」

 その日の夜。レイのスケッチブックに、虹色のシャボン玉の絵が加えられた。
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