第3話:ストレスの怖さと投資の成功とバブル崩壊

文字数 1,743文字

 まずいと思いながら、気を紛らわせるしかなかった。1997年夏も伯父の木下紀夫さんの住む、天津小湊に行って海で水遊びした。しかし、子供達は、泳ぎが上手になり、頼もしく思えたが、自分の気分は、あまり良くならなかった。長男の栄一が、釣りを開始し、初めて、アジを釣った時のうれしそうな顔は、実に満足げだった。

 鴨川シーワールドと館山で、魚の旨い店で、夕飯を食べて、自宅に帰った。1998年も新人が5人になり同行訪問が、多くなり、神経を使う様になると、胃がむかむかしてくる様になった。念のため、近くの病院で、診察を受けると、神経性胃炎ですと言われた。しかし、心身症もありストレスを甘く見てはいけないと先生から言われた。

 悪くすると潰瘍性大腸炎など難病になるから仕事を変える事も考えては、いかがですかと、言われた。この頃は、バブル絶頂期で、銀行員の間でも株投資が盛んだった。そんな矢先、ヤフーという日本初のインターネットが注目されて、木下信夫も注目していた。和美さんと2株ずつ買おうと話し1997年11月に160万円で指値をして4株を640万円で購入。

 しかし、その後も体調は思わしくなく、子供達の中学、高校、大学への進学、将来の事を考えると、安閑たる思いになった。1998年10月、遂に、仕事中にめまいに襲われて、仕事を早退するはめになった。3日間自宅で、休養して、翌週から、仕事に復帰。1999年も世の中はバブルに酔いしれて、仕事は順調にいってるのに、身体が持たない、

 そんな、じれったい感じを残したまま過ぎ去っていった。1999年10月に2年前に買ったヤフー株が16分割して急上昇したので800万円で売り指値を指示。翌月11月に全株が売れて26000万円で売れ、和美さんと合計52000万円となった。ヤフーの利益と合計すると2人合計で57700万円となった。2000年になるとバブル崩壊の兆しが見え始めた。

 そして、金融商品の売れ行きに、急ブレーキが、かかった。上得意先に無理を承知で、新商品の購入をお願いしても、それどころじゃないと言われた。その後、融資先の焦げ付きに、気をつけるようにという指令が出るようになった。金融商品の販売よりも融資先の事業のチェックや、場合によっては、融資の早期返済をお願いして回るようになった。

 以前、お得意さんは、金融商品、で儲けさせてやったので、恩義に感じているようであるが、この不景気を乗り切るのに精一杯という感じが、ひしひしと伝わってくる。また、お客の減った商店に行き、融資の早期返済を頼む時には、どうしても良心の呵責を感じてしまい、強く出られずに、業績を上げられなくなってしまった。

 これを見た支店長が、みんなの前で木下課長どうしたんですか、この所、顔色も悪いが業績も悪い。このままでは、千葉支店の業績不信で東京支店会議でつるし上げを食うと、いらついて、当たり様になった。2000年6月、営業会議で再び、強いめまいで倒れてしまった。この時、付き添いに来た、女房の和美さんに、もうこの仕事やめようかと思ってると打ち明けた。

 彼女も、最近のあなたの様子を見て、私もその方が、良いと思っていたと言い、お金は十分に出来たので、そうしましょうと言う事になり、実家の両親に相談すると、自分たちで決める事にどうこう言うつもりはない。身体が、第一だから、その方が良いかも知れないねと、言ってくれた。1978年に父に借りた300万円を600万円にして、返却した。

 そして資産が、56500万円となった。その他、銀行時代に貯めたお金を合わせると2千万円ずつ、合計6億円を越えたので和美さんと相談して2000年の12月に木下信夫と和美41歳で銀行を退職する事にした。その後、半年くらい自宅療養して病院の先生に教わった。座禅をして心を落ち着ける。訓練をした。仕事を辞めると不思議に活力が戻り始めた。

 長男の栄一は、父と同じ稲毛高校を目指して勉強した。2001年4月に稲毛高校に合格し、市原駅まで自転車で行き、そこから電車通学。長女は、2001年から近所の国分寺台中学から、稲毛高校を目指して勉強しているようで彼女は将来、英語を勉強したいと津田塾大学か上智大学を目指していた。
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