第2話 ブタはきれい好き

文字数 1,489文字


 女が群がり、読書が捗らない。今回の本は大当たりだった。ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』は俺に新たな視点を与えてくれる。昼休み、読書に集中すべく、俺は静かな場所を探していた。

 中庭に差し掛かった時だった。

「やっと見つけたぁ! アンドリュー!」

 クラスメイトのスマイルだ。突き出た腹をブヨブヨと揺らし、額に脂汗を浮かべて駆け寄ってくる。
 肥満体形で、頭は空っぽ。毎日ポテトチップスとコーラを愛人にネットフリックスとキスしているような男だ。

 俺はしぶしぶ立ち止まり、スマイルが息を整えるのを待った。

「あ、アンドリュー。や、やっと、つ、つか」

「試合なら出ないぞ」

 スマイルの顔が真っ青になる。いい気味だ。他者に寄生することしか知らないブタめ。ブタはきれい好きで賢いと聞くから、ブタ以下、比べるのもブタに失礼だ。

 スマイルは俺のシャツにしがみつき、涙ながらに訴えた。

「そ、そんなこと言うなよぉ! 今日の試合がアメフト部にとってどれだけ大事か、お前だって知ってるだろぉ! お前の俊足と剛腕が必要なんだよぉ!」

「先約がある」

「どうせステファン叔母さんのとこだろぉ? 週に二回も行けば十分だって……オレを助けると思ってよぉ、親友だろぉ!」

「先週もそういって、俺を野球部に売ったくせに。今度はなんだ? 胸に脂肪を蓄えたチアガールの抱擁か?」

「な、なんのことだよぉ……」

 目が泳ぐ。二度も誤魔化されるほど、俺は阿呆ではない。

 借りを返そうと、一度こいつに従ったのが間違いだった。味をしめてことあるごとに運動部に売ろうとしやがる。中間マージンはいくらだ。おかげで勧誘はうるさいは、頭の軽い女が寄ってくるはで、さんざんだ。

 義理は返した。むしろ返し過ぎている。

 俺はスマイルを引きはがした。

「お前が出ればいい。その膨れた腹を生かして突っ込めよ」
「じょ、冗談はよせよぉ……」

「前も言ったし、いまも言ったが、俺は忙しい。お前の快楽のためには働かない。出直してきな」

 焚火に小枝をくべるように、スマイルを放る。二メートル前方へ、スマイルの肉が芝生で弾んだ。ぼよんぼよんと、バランスボールみたいに撥ねて中庭を横断していく。

 多少強過ぎたが、あの腹だ、死なないだろう。「いてぇ」とか「死んじまうよぉ」とか何かきゃんきゃん騒いでいたが、顧みることなく俺は立ち去った。

「お、覚えてろよぉ!」

 負け犬の遠吠えが耳を汚し、俺は鼻を鳴らす。

「お前はスマイルに殺される。軍用ナイフで背中から突き刺される」

 咄嗟に振り返り、腕で心臓を護った。――スマイルは未だ「いてぇよぉ」と過剰に主張して、芝生の上で怠惰なブタになっていた。

 非現実的な未来と理解するまで、数コンマ秒費やした。心臓が高鳴り、体が強張る。無意味に噴き出た汗がうっとうしい。スマイルは遙か遠く、人を殺す度胸はない。俺の体は鋼鉄より硬く、軍用ナイフをものともしない。

 何をしている。こんなことで心乱されるなんて、俺らしくない。

 遠くスマイルを見る。無能だからといって、無害とは限らない。侮って痛い目を見るケースは、ヒトラーの側近だけで十分だ。味方は大事に、敵はもっと大事にというが……。
 仲良くする? 想像だけで吐く。いっそ叩きのめすか? 全治三年の怪我を負わせれば、あの不細工な面を眺めることは二度とない。

 無駄な思考だ。何を怯えている。俺はそのアイディアを一蹴した。

 予鈴が鳴り、愕然とする。全然休まらない昼休みだった。渋々足先を校舎に向ける。

 しかし、なんだ? もう三度目じゃないか。日頃の疲れがたまっているのか?

 次にその声が聞こえたのは――。
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