Pulper Rose-尊敬-
文字数 3,154文字
天気のよい日曜日。
私は普段行かない花屋へと向かった。なに、散歩ついでだ。……とはいいつつ、今年は妻の五周忌。スーパーの安い仏花じゃなんとなくかわいそうだと思った。菊やユリも素敵な花だが、派手好きだった彼女は毎年不満だったのではないのではないのだろうか。
定年して、再就職先の仕事も終えた私は、ここ半年やることがなく過ごしていた。優雅な老後だと言われることもある。でも、君がいない。
本当だったら、今頃君と世界旅行でも楽しみたかった。でも君は私が仕事を終える前に逝ってしまった。私を待っていてはくれなかった。
ひとりきりの老後は、なんと味気ないものだろうか。
花屋に着いた。いつもの散歩道。陸橋を渡ったホテルの中に、ここの花屋はある。
「いらっしゃいませ」
若い、娘くらいの女の子が出迎えてくれる。店内には色とりどりの花。豪華で、仏花とは大違いだ。ホテルの中ということで、結婚式にも多く使われる花も扱っているようだ。
「今日はどんなお花をお探しですか?」
「むっ」
質問の答えに窮してしまった。いつもの仏花じゃかわいそうだと思ったのはいいが、こんなに様々な花がある中、どの花を選べばいいのだろうか。
おすすめ、なんて聞いていいのだろうか。私が迷っていると、花屋の娘さんが気を聞かせてくれた。
「どのような用途にお使いでしょうか?」
「用途……そうだな、大切な妻に送りたいんですが」
「でしたら、こちらはどうですか?」
娘さんが取り出したのは、赤いバラ。赤か。……赤はちょっとキザだな。私が照れていると、また助け船を出してくれた。
「こちらは派手すぎましたか? だったらこの色はどうでしょう?」
次に差し出してくれたのは、紫のバラ。紫なら少しは落ち着いているだろうか。お祝い事でもないし、紫がちょうどいいのかもしれない。
「ああ、それをいただけますか。ええと……」
一本だと味気ないか。仏壇に供えるんだから、両サイドにあったほうがいい。だったら……。
「四本ください」
「あら、それはロマンチックですね」
ロマンチック? どういう意味だろうか。最近の娘さんは何を考えているのかわからない。うちの娘もたまに遊びに来るが、仕事の話ばかりでついていけない。この花屋の娘さんも、仕事一筋なのだろうか。いや、悪いことではない。きっと花のプロなのだろう。
私も仕事一筋だった。だからこそ、妻との時間を大事にしてやれなかったという後悔ばかりが募ってしまう。妻は幸せだったのだろうか。娘と寂しい思いをしていなかったか? 入院してからも、仕事が忙しくてろくに見舞いになんて行ってやれなかった。なんて私は薄情な夫なのだろうか。
紫のバラは恥ずかしいので袋に入れてもらった。私はそれを持ってひとり、散歩道を戻る。
今、君がそばにいてくれたなら、この散歩道も寂しくなかったのだろうな。
帰宅して、仏壇に花を供える。右に二本、左に二本。棘は丁寧に取られていた。
花屋でバラなんて買ったのは何十年ぶりだろうか。棘がきれいに取られていたおかげで、私は指にけがをすることなく花を妻に見せることができた。
さて、夕飯の準備だ。
今日の献立は、炊き込みご飯と玉ねぎの味噌汁。それと総菜のポテトサラダ。生前の妻の得意料理だ。
私は情けないことに、妻が倒れるまで料理をしたことがなかった。最初は総菜でなんとかできると思っていたが……こう、年を取ってくると、やれ油ものがダメだとか、塩分が気になるとか、いい塩梅の味付けのものがないのだ。
これも妻のおかげなのかもな。今、私が健康体で生活できているのは、妻のおかげだ。
炊き込みご飯の中身は、ゴボウとにんじん。これは、『炊き込みご飯の素』を使う。米にそれを入れて、味付けをして炊飯器へ。
たまねぎの味噌汁も、玉ねぎを切って鍋の中に。こちらは味噌にだしが入っているのを使う。世の中は便利になった。味噌汁がかろうじてまともに作れるようになったのは、五年間の成果だ。
本当は、味噌汁なんて作ろうと思えば簡単なものだ。それでも作る心の余裕がなかった。仕事はもうしなくていい。妻には先立たれた。最初私は、この先の残りの短い人生をどう生きればいいのかわからずにいた。
ぐつぐつと味噌汁が沸いてきたところで火を止める。沸騰させてはいけない。
味を確認する。……やはり違う。妻の作った味噌汁とは全然違う。多分、だしが違うのだろう。うちの妻は顆粒だしを使っていなかった。毎日鰹節からだしを取っていたな。
今から考えると、ずいぶん手間のかかることをしていたもんだ。それでもうまいものを私や娘に食べさせたいという思いがあったのだろう。しかし、そんな料理を私はたったの五分で食べていた。いつも仕事に追われていた。
あの味噌汁の味を思い出しても遅い。私には再現できないのだから。
「ごめんな」
二人分の食事の用意ができると、私はテーブルの前に妻の写真を置く。
対面で食事するのは一年ぶりだな。これは、私にとって毎年一回の特別な食事なのだ。
時間をかけて、ゆっくりと食事し終えると、午後六時二十分。あと五分で、妻が逝った時刻。腹がいっぱいになって、うとうとする。
イスに座ったまま眠ってしまってはダメだ。妻が逝った時間までは起きていたい。それが毎年の行事だから。
「あらあら、あなた。眠いなら寝室に行ってくださいよ」
妻の声がして、私はぱっちりと目を開ける。うとうとしていたのが嘘のようだ。今、はっきり聞こえた。妻の声が。
すると、目の前には写真ではなく、生前と変わらない妻が座っていた。
「なんでお前……」
妻は笑って、目の前に供えられた食事に手をつける。
「あなた、五年間でまともに作れるようになったのは、お味噌汁だけですね。この炊き込みご飯も、素を使っているでしょう? 簡単なんですから、覚えてくださいよ。どうせ、老後は暇でしょ?」
生前とまったく変わらず、朗らかで優しい口調。ああ、お前……本当は生きていてくれたんだな。
用意された食事をぱくぱくと食べている元気そうな妻を見た私は、今、この時間を逃してはいけないと思った。
今まで私は大事な時間を無駄にしていた。妻との大事な時間を仕事に使っていた。取り返すことはできないが、この一瞬を大事にしなくては。
私は、仏壇の花瓶から供えていたバラを急いで全部抜くと、妻に向けた。
「雅代、愛している」
「なんですか、急に。本当にあなたはいつも突然なんだから」
「これは二度目のプロポーズだ。また生まれ変わっても一緒になってくれると約束してほしい」
「最初のプロポーズは赤いバラでしたね。キザだと思ったわ。それでも嬉しかった」
「約束してくれと言っている。私もすぐそちらに向かうから」
「いやですよ。まだ来ないでください。私、待つのは得意なんですから。でも……そのプロポーズ、お受けします。その代わりと言ってはなんですけど、少しは料理を覚えてくださいね」
カツン、と音がした。箸を置く音だ。
同時に目が覚める。
……眠っていたのか? 時刻を見る。午後六時二十五分。妻が逝った時刻。たったの五分間、私は彼女と再会できたのか。
夢だったのかもしれない。料理には手をつけられていないし、箸も箸置きに置かれたまま。
夢でもいい。少しでも彼女と会話できたならば。
「うむ……これからは料理を頑張らないといけないな。待っている妻に顔向けできん」
明日の散歩は少し遠出しよう。一駅向こうの大型書店。そこで料理の本を買おう。だしの取り方。私が勉強しなくてはいけないことはそこからだ。
顆粒だしでも十分おいしいが、私にはひとりの時間がまだまだたくさんある。
料理がうまくなったら、今度は私が妻においしい炊き込みご飯と玉ねぎに味噌汁を作ってあげるのだ。
私は普段行かない花屋へと向かった。なに、散歩ついでだ。……とはいいつつ、今年は妻の五周忌。スーパーの安い仏花じゃなんとなくかわいそうだと思った。菊やユリも素敵な花だが、派手好きだった彼女は毎年不満だったのではないのではないのだろうか。
定年して、再就職先の仕事も終えた私は、ここ半年やることがなく過ごしていた。優雅な老後だと言われることもある。でも、君がいない。
本当だったら、今頃君と世界旅行でも楽しみたかった。でも君は私が仕事を終える前に逝ってしまった。私を待っていてはくれなかった。
ひとりきりの老後は、なんと味気ないものだろうか。
花屋に着いた。いつもの散歩道。陸橋を渡ったホテルの中に、ここの花屋はある。
「いらっしゃいませ」
若い、娘くらいの女の子が出迎えてくれる。店内には色とりどりの花。豪華で、仏花とは大違いだ。ホテルの中ということで、結婚式にも多く使われる花も扱っているようだ。
「今日はどんなお花をお探しですか?」
「むっ」
質問の答えに窮してしまった。いつもの仏花じゃかわいそうだと思ったのはいいが、こんなに様々な花がある中、どの花を選べばいいのだろうか。
おすすめ、なんて聞いていいのだろうか。私が迷っていると、花屋の娘さんが気を聞かせてくれた。
「どのような用途にお使いでしょうか?」
「用途……そうだな、大切な妻に送りたいんですが」
「でしたら、こちらはどうですか?」
娘さんが取り出したのは、赤いバラ。赤か。……赤はちょっとキザだな。私が照れていると、また助け船を出してくれた。
「こちらは派手すぎましたか? だったらこの色はどうでしょう?」
次に差し出してくれたのは、紫のバラ。紫なら少しは落ち着いているだろうか。お祝い事でもないし、紫がちょうどいいのかもしれない。
「ああ、それをいただけますか。ええと……」
一本だと味気ないか。仏壇に供えるんだから、両サイドにあったほうがいい。だったら……。
「四本ください」
「あら、それはロマンチックですね」
ロマンチック? どういう意味だろうか。最近の娘さんは何を考えているのかわからない。うちの娘もたまに遊びに来るが、仕事の話ばかりでついていけない。この花屋の娘さんも、仕事一筋なのだろうか。いや、悪いことではない。きっと花のプロなのだろう。
私も仕事一筋だった。だからこそ、妻との時間を大事にしてやれなかったという後悔ばかりが募ってしまう。妻は幸せだったのだろうか。娘と寂しい思いをしていなかったか? 入院してからも、仕事が忙しくてろくに見舞いになんて行ってやれなかった。なんて私は薄情な夫なのだろうか。
紫のバラは恥ずかしいので袋に入れてもらった。私はそれを持ってひとり、散歩道を戻る。
今、君がそばにいてくれたなら、この散歩道も寂しくなかったのだろうな。
帰宅して、仏壇に花を供える。右に二本、左に二本。棘は丁寧に取られていた。
花屋でバラなんて買ったのは何十年ぶりだろうか。棘がきれいに取られていたおかげで、私は指にけがをすることなく花を妻に見せることができた。
さて、夕飯の準備だ。
今日の献立は、炊き込みご飯と玉ねぎの味噌汁。それと総菜のポテトサラダ。生前の妻の得意料理だ。
私は情けないことに、妻が倒れるまで料理をしたことがなかった。最初は総菜でなんとかできると思っていたが……こう、年を取ってくると、やれ油ものがダメだとか、塩分が気になるとか、いい塩梅の味付けのものがないのだ。
これも妻のおかげなのかもな。今、私が健康体で生活できているのは、妻のおかげだ。
炊き込みご飯の中身は、ゴボウとにんじん。これは、『炊き込みご飯の素』を使う。米にそれを入れて、味付けをして炊飯器へ。
たまねぎの味噌汁も、玉ねぎを切って鍋の中に。こちらは味噌にだしが入っているのを使う。世の中は便利になった。味噌汁がかろうじてまともに作れるようになったのは、五年間の成果だ。
本当は、味噌汁なんて作ろうと思えば簡単なものだ。それでも作る心の余裕がなかった。仕事はもうしなくていい。妻には先立たれた。最初私は、この先の残りの短い人生をどう生きればいいのかわからずにいた。
ぐつぐつと味噌汁が沸いてきたところで火を止める。沸騰させてはいけない。
味を確認する。……やはり違う。妻の作った味噌汁とは全然違う。多分、だしが違うのだろう。うちの妻は顆粒だしを使っていなかった。毎日鰹節からだしを取っていたな。
今から考えると、ずいぶん手間のかかることをしていたもんだ。それでもうまいものを私や娘に食べさせたいという思いがあったのだろう。しかし、そんな料理を私はたったの五分で食べていた。いつも仕事に追われていた。
あの味噌汁の味を思い出しても遅い。私には再現できないのだから。
「ごめんな」
二人分の食事の用意ができると、私はテーブルの前に妻の写真を置く。
対面で食事するのは一年ぶりだな。これは、私にとって毎年一回の特別な食事なのだ。
時間をかけて、ゆっくりと食事し終えると、午後六時二十分。あと五分で、妻が逝った時刻。腹がいっぱいになって、うとうとする。
イスに座ったまま眠ってしまってはダメだ。妻が逝った時間までは起きていたい。それが毎年の行事だから。
「あらあら、あなた。眠いなら寝室に行ってくださいよ」
妻の声がして、私はぱっちりと目を開ける。うとうとしていたのが嘘のようだ。今、はっきり聞こえた。妻の声が。
すると、目の前には写真ではなく、生前と変わらない妻が座っていた。
「なんでお前……」
妻は笑って、目の前に供えられた食事に手をつける。
「あなた、五年間でまともに作れるようになったのは、お味噌汁だけですね。この炊き込みご飯も、素を使っているでしょう? 簡単なんですから、覚えてくださいよ。どうせ、老後は暇でしょ?」
生前とまったく変わらず、朗らかで優しい口調。ああ、お前……本当は生きていてくれたんだな。
用意された食事をぱくぱくと食べている元気そうな妻を見た私は、今、この時間を逃してはいけないと思った。
今まで私は大事な時間を無駄にしていた。妻との大事な時間を仕事に使っていた。取り返すことはできないが、この一瞬を大事にしなくては。
私は、仏壇の花瓶から供えていたバラを急いで全部抜くと、妻に向けた。
「雅代、愛している」
「なんですか、急に。本当にあなたはいつも突然なんだから」
「これは二度目のプロポーズだ。また生まれ変わっても一緒になってくれると約束してほしい」
「最初のプロポーズは赤いバラでしたね。キザだと思ったわ。それでも嬉しかった」
「約束してくれと言っている。私もすぐそちらに向かうから」
「いやですよ。まだ来ないでください。私、待つのは得意なんですから。でも……そのプロポーズ、お受けします。その代わりと言ってはなんですけど、少しは料理を覚えてくださいね」
カツン、と音がした。箸を置く音だ。
同時に目が覚める。
……眠っていたのか? 時刻を見る。午後六時二十五分。妻が逝った時刻。たったの五分間、私は彼女と再会できたのか。
夢だったのかもしれない。料理には手をつけられていないし、箸も箸置きに置かれたまま。
夢でもいい。少しでも彼女と会話できたならば。
「うむ……これからは料理を頑張らないといけないな。待っている妻に顔向けできん」
明日の散歩は少し遠出しよう。一駅向こうの大型書店。そこで料理の本を買おう。だしの取り方。私が勉強しなくてはいけないことはそこからだ。
顆粒だしでも十分おいしいが、私にはひとりの時間がまだまだたくさんある。
料理がうまくなったら、今度は私が妻においしい炊き込みご飯と玉ねぎに味噌汁を作ってあげるのだ。