第8話 時代のうねり、それぞれの場所で

文字数 8,615文字

 花占いというものがある。
 フォウは影で作った花でそれをやっていた。
 来る、来ないと一枚ずつ花弁を引き抜いていき、最後の一枚で頭の中で発した声は、来ない。

 さっきは来ると出た。またしてみたらこれだ。
 当てになるものではない。そんなことは知っていた。
 手持ち無沙汰に感じて、いいや、それもあるというだけで、
 心細くもあったのだ。

 はぁ、と影の中で溜息こぼしつつ、思うのは、いつからこんなに弱くなった。
 わかっている。あの時からだ。思い出したくもないが、浮かんでくる。

 一人の女から感情というものを教わった。
 そんなものは不要であると、人形のように育てられたこの身を人へと戻したものだ。 
 当時は、闇夜を照らす光であるかのように感じられた。
 心に差して、景色が色付いていったのを今でもよく覚えている。

 それまでは三色で捉えていた。
 白と黒が常にあるもので、赤は内から引っ張り出すもの。
 今思えば猟奇的な物の見方をしていたものだが、その頃からしなくなり、
 その日は訪れる。

 どうして逃げた、殺させた。
 フラッシュバックした記憶が視界を覆う。
 真っ赤に染まった手と、微笑みかけるような顔が、当時味わった絶望を呼び起こす。
 
 息が詰まった。一筋の涙が伝い落ちる。発作が起きるから嫌いだ。
 何よりこの結末が大嫌いで、未だ受け止められない。
 
 だから忘れようとしているのに、何かの拍子にこの頭は浮かび上がらせ、
 今度の原因は恐らくと、傍にいる男を見つめる。

 魔法を解いて見せた素顔は、人形みたいだ。感情が一切読み解けない。
 一度重ねて見たからか、本当にそっくりなように思う。昔の自分に。

 目を瞑り、何も考えるなと念じていればしだいに収まり、
 突然コッという小さな音が耳に飛び込みハっと我に返った。

 上からした。隠し扉を動かす音に聞こえた。
 へたっぴと呆れるのに秒と掛からない。降りてくる足音を消しきれてはいないのだ。

 ジャガーは絶対にない。NWという線も消えた。
 どちらもプロだ。そんなミスを犯すはずもない。
 敵の仲間という線も行為からしてなく、クリームの突入などあり得ないと考えれば、
 ミークで間違いないだろう。

 思いのほか早く気付き、駆けつけてくれたのは良し。
 しかし降り口に構えられた。先手を打たねば不意打ちを貰う。
 
 彼女は飛び出す準備をして、最後の数段、その上にある曲がり角の小さな踊り場に予想通りの人物が姿を見せた瞬間、影を出て黒い手を躍りかからせた。

「あら」
「むっ」

 両者、目を丸くしていたが、その一撃はいなされた。
 斬り飛ばすのではなく横に払われて、器用に躱すものだ。
 
 もう対処してきたのは流石だ。しかし、二の矢を放つ人間はもう隣にいる。
 目の色変えて飛び込んできており、その高い上背から振り上げた剣を落とした。
 ガキン、と受け止められはしたが、体勢は有利。しかも初手の一発は片手の振り。
 
 そのまま押さえ込み、もう一本で仕留めに掛かるが、軽業師のように後ろへ飛ばれて空かされる。
 青い剣から小鳥が覗いており、彼女は黒い手を戻した。

 ニックのように魔法を呑み込む光の障壁でも張れたら別だが、皆が皆、様々な魔法を扱える訳ではない。一人一つという人間もいる。

 ブラックハンドは、概ねそうだ。魔力や技術云々は関係なく、そういう血筋である。
 ミークが構えを解き、肩を竦めていた。
 
「ちょっと驚き過ぎちゃって、何も考えずに仕留めに掛かっちゃったわ。ごめんなさいね、アルケッド」

 知り合いかと思ったが、反応はない。
 いや、目にだけは出ており、どこか怪訝。不思議なものでも見るようでもある。

「――ミーク? こんな所で何をしている」
「それはこっちの台詞よ。何やってるのよ。いつから日陰者の奴らの所になんか移ったの」

「待て、少し待て、思考が追いつかん」
「いいけど、私あなたの敵よ」

 見ればわかると即答して、鋭い目で敵は彼を睨みつけた。

「何故お前はこちらの奴らに尻尾を振った。どうして祖国を裏切った」
「勘違いしないでよ。これはビジネス」

「その気色の悪い話し方をやめろ。虫唾が走る」
「やぁねぇもう、相変わらず余裕がなくて」
「やめろと言っている。タマでも失ったか」
 
「失礼ね。私は私を曝け出すようにしただけよ。ずっと心の奥に仕舞いこんでいた本当の自分って言うのを。今の私は美しいでしょう。前よりもずっと」

「黙れ。気色悪くなっただけだ。あの人が見たら嘆き悲しむぞ」
「それ先生のこと? もし会うことがあったら、好きって正直に伝えようと思うわ」

 溜息にも似た息が敵の口からもれて、どちらともなく駆け出して、突然激しい斬り合いが始まった。
 乱れ飛ぶ刃は竜巻を彷彿とさせ、入り込む余地はない。

「今死ね。反吐が出そうだ。地獄へ落ちろ。ミーク・ブルート・ローズブーケ」
「うるっさいわね。あんたなんかに興味はないのよ。さっさと死んで頂戴。目障りだから」

 やっていることとは裏腹に口でしているのはまるで子供の喧嘩だ。
 そこで声が飛んでくる。

「フォウっ、大将に伝えておいて、追加報酬はなしってね」

 まだ狙っていたのかと呆れると同時に、無理もないかと彼女は思う。
 敵の正体、そしてその力を把握できたのは、今さっきだ。
 巻き添えにならぬよう壁際から抜けて行こうとしたら、小鳥が飛んできて思わず声を上げた。

「おぅわっ!? ひゃ――」
「行かせると思うか。そこにいろ、娘。あとで殺してやる」

「女子供を手に掛けようだなんて、騎士の道理も捨てたのかしら」
「お前に言われる筋合いはない。乱心起こして、部下の腕を何本も斬り飛ばしたお前にはなっ!」
「理由があったのよ!」

 刃が肉を捉え始め、鮮血が飛び交う。余裕がないのか小鳥も大して飛ばしてこず、
 突破に成功して彼女は階段を駆け上がった。

 部屋を飛び出て、外に向かう。玄関扉はブレーキ掛けるのも面倒に思い蹴破った。
 勢い乗せた回し蹴りで吹っ飛ばすと、びっくら仰天と言わんばかりのクリームとご対面。
 しかし肝心要の奴がいない。片手をあげる。

「おっす。大将は」
「無事で良かったと言ったらいいのか――豪快。煙草買いに行ったよ」

「なんで、こんな時に、アホなのあいつ」
「もしかして緊急事態?」

「そう! ミークがヤバイんだって。あんな奴一人じゃ手に負えないというか、互角みたいではあったけど」

「ああ、相討ちに」

「違う、そうじゃなくて、ミーク今ルーンソードだか言うの持ってないじゃん。相手は持ってんの。不利じゃん。追加報酬はなしって伝言も預かってっし」

 ああ、もうと堪らず彼女は頭を掻いた。迎えに行くしかないだろう。
 
「どっち行った、あのバカ」
「あっちだよ。NWの人、呼んでおいた方が良さそうだね」
「その判断はお任せ。ちょっくら行ってくる」

 駆け出すフォウの背中では、きらきらと瞬く煙が身から噴き上がり、噴火ガスのように昇る。
 異質な明滅を帯び、かつ膨大な量のそれを見たNW達は、何かの方法で知らせると
 伝えられていない者達まで不審に思って即座に発生源のもとまで向かい、
 その頃、通りの煙草屋では――

「あるだけ全部なんて、景気が良いねぇ。羨ましい限りだよ」
「よく働いてくれる天使がうちにはいてな。良くしてくれんのは、昨日悪魔に会ったおかげかね」

 店主にきょとんとした顔を向けられ、がっはっはとジャガーは下卑た笑い声を響かせる。
 勝利を確信していた。追加報酬はいくらになるかと、金勘定の妄想まで膨らませていたものだ。
 ただ現場では、フォウの予測した事態が現実に起ころうとしていた。

 命の奪い合いは極端な体力の消耗を齎し、互いに疲弊し剣を振る手を止め、睨み合いの様相となっていたが、ミークの方には余裕がない。

 まだ高位の騎士にしてみれば様子見の段階ではあったが、それが拮抗していたならば、
 既に勝負は見えていた。

「やるじゃない。まだ互角だったとは驚きだわ」
「それはこちらの台詞だ。その剣、誰に教わった」
「ああ、昔は一本だったものね。聞いたら驚くわよ」

 応援が早く来てくれることを祈るしかない状況であり、
 ミークは勿体ぶるフリをして、時間を稼ぐ。
  
「先生のライバルって言ったら、わかる?」
「お前以外にも裏切者がいたか。――いや、誰のことを言っている。頂点に立つ男の横に並び立つ者などいようはずが、よもやあの男とは言うまいな」

「そう、黒騎士よ」

 何故か間が生まれた。小さなものではない。
 思考を巡らせるような時間であり、もれ返ってきたのは、驚きを含んだものである。

「黒騎士だと。あの幽霊城の黒騎士か」
「誰のことを思ってたのよ。どう凄いでしょ」

「信じられん話だが、他にこの国でお前に稽古をつけられそうな者も思い浮かばん」
「この私が赤子扱いよ。初めて手合わせをお願いした時は、ショックだったわぁ」

「ルーンソードを失ったとはいえ、茨の貴公子をか」
「ええ、羨ましい? 同じ三等級(ルビー)の称号を持つ者としてどう思う。それとも私が居ない間に一つ上げでもしたかしら」
「多少だ。しかしこの感情もすぐ消える」

「あら、どうしてかしら」
「しれたこと。これ以上時間稼ぎをさせるつもりはない」

 見破られていたようで、タイムリミットが来る。
 四方八方から襲い来る死の小鳥を警戒するが、アルケッドが見せたのは、妙な所作。

 手袋を嵌めた左手の甲に右手の剣を添え、すると布地に血のように赤い紋様が浮かび上がって、立てた三指の先に光が灯った。
 
 ミークは目を見開いた。プレシャスブラッドは魔法を操る騎士ではある。
 が、発現可能なのはルーンソードに刻まれた一種のみ。例外はない。
 そしてこの魔法はと思った瞬間には、命を刈り取る閃光が放たれた。

 咄嗟に身をよじり、躱そうとするが、距離が近く、反応の遅れもあった。
 一つが肩を貫いて後ろの壁に抜けていく。

「ぁぐっ」

 負傷した腕からは剣が落ち、焼けるような痛みを食いしばって、ミークは傷口を押さえ込む。

「――いったいわねぇ。驚かせないでくれるかしら」
「冥土の土産というやつだ。もう一つくれてやる」

「随分サービス精神旺盛じゃないのよ。だったらその妙な手袋についても聞かせなさいよ。誰だってウィザードになれちゃう不思議道具かしら。そもそも妙な粉をこの国に撒いていたのは何故。死にゆく馴染みにそれくらい言っても罰は当たらないんじゃない。早く答えなさいよ」

「ぴーぴー煩い奴だ。それに腐れ縁の間違いだろう。――そうだな、何かの発展に犠牲は付き物、そんなところか」

 それが別れの言葉であるかのように手袋から強烈な光が放たれ、火花のように電流まで散らし始めた。
 横に翳されると、その二つは渦を巻きながら細く、細く伸びていき、棒の形を形成していく。

 アルケッドの顔がいびつに歪んでいく。
 ミークにはそれが、狂気を宿した笑みに見えた。

「この魔法が何かわかるか。一人の男をどん底に突き落とし、こんな道を歩ませた最低な魔法だ」

 一体その身に何が、何を見た。どんな思いを味わわされて。 
 その時、ミークの頭に浮かんでいたのは、昔の彼だ。

 祖国は言わずもがなの剣の国であり、騎士の国。
 時代は変わろうとそれを輩出する学校は名門として残り、その初等部からの付き合いだ。
 
 どんな男かはよく知っている。無愛想で意地っ張り、それでいて真っすぐなところもあり、こんな顔をする男では決してなかった。

 丁度その時、天井からどたどたと踏み入るような足音が降る。
 指鳴らしが入って、今にもその威を示さんとしていた光と雷の魔法が姿を消す。

「冗談だ。一度は見逃してやる。二度と俺の前に立つな」

 横を通っていく彼を見送るしかなかった。そんな冗談を言う男でもなかったが、今は問い掛けることもできない。
 階段を上っていく音の後に「いたぞ」と聞こえ、軽い戦闘音と断末魔のような声が少し響いて、静かになる。
 直後だ。微かにではあるが聞き覚えのある声を耳にした。

「――て、待て待て。俺らは無関係だ。見ろ、ただの通行人だ。ガキ連れてんだろ」

 苦しい言い訳に聞こえた。傍にはフォウがいるはずだ。
 まずいわね、と心の中でこぼした瞬間にはミークは駆け出しており、一気に外にまで飛び出て、腰を抜かしたように尻餅をつくジャガーと目が合う。

 横を見れば道を曲がるアルケッドの背が映り、傍にいる二人も無事だ。
 黒い手を覗かせ、フォウは臨戦態勢を取っていたようだが、手は出されなかったようだ。

「無事で良かったわ。心配したじゃない」
「そらこっちの台詞だ。なんだあのあぶねぇ野郎は」

「生きた心地がせんかったな」
「なんか凄い綺麗な人だったというか、彫刻みたいな顔の人だったね。見惚れちゃった」

「余裕があんのな。俺は目が合った瞬間、柄にもなく死を悟ったってか」

 剣を置き、心底安堵したと言わんばかりの溜息こぼす彼に手を貸した。
 散乱した煙草のカートン拾い上げつつ、握り返してくる。

「それにてめぇも死んじまったのかと、負けちまったのかと思ってたが」
「実際負けてるわよ。肩に風穴空けられてね」
「取り逃しただけだろ。生きてんじゃねぇか」

 見逃されたのよと、ミークは笑う。
 どうしてそうしたか、理由は一つだろう。馴染みだから。

「あいつね、知ってる奴なのよ。どこから話せばいいのかしら」
「まあ時間はたっぷりある。それにそれを言う相手は、俺じゃなくなりそうだぜ」

 道の向こう、走ってくる男がいる。
 私服姿であれど、何者であるかはすぐにわかった。
 傍に来ると声も掛けられ、ここで何があったのか、事の顛末を話す。

 そうしたら剣を回収して、病院だ。幸い近くに大きな所があると聞き、その道すがら相手のことをミークは話した。
 名をアルケッド・ジュニパリー・ロジャー。
 青い小鳥を生み出すことからそのまま、青い小鳥のアルケッドと呼ばれ、
 騎士としての価値は同じ上から三番目。
 ただその等級を数字で呼ぶことは滅多にない。
 国の財宝という位置付けであり、宝石の価値になぞらえ、同価の宝石の名で呼ばれる。

 ジャガーには言うまでもないことだが、知っていなさそうな二人の為に話したことで、
 前であまり興味がなさそうに煙草を吹かしている誰かと違い、聞き入るような顔を見せ、
 病院に着くとフォウはあとから来たNWに容体を尋ねていた人物のもとへと向かう。

 この病院に担ぎ込まれたそうで、部屋番号を受付で尋ねていた。

「緊急外来の202、あんがと。そんじゃちょっくら見てくっから」

 去り行く背中を見つめつつ、「おーおー、入れ込んでんなぁ」と、
 呆れ顔と共に隣からはもれた。 
 
「私もあれくらい心配して貰いたいものねぇ」
「私はしてるけど」
「俺はしてねぇ」
「最低よ」

 このあとには祝勝会が待っている。勝負には負けたが、試合にまで負けた覚えはない。
 依頼自体は達成した。あとは、送り込むと言っていた殺しの部隊(フェンリル)が片を付けるだろ。
 あいつ大丈夫かしらと、治療を受けつつ馴染みのことを思い、騒げる店の開く夜を待つ。

 彼の齎した情報は、その頃軍部に衝撃を走らせ、お歴々集う緊急の会議が開かれる運びとなった。
 お題目は、カルウェナンの人間が魔法使いとなった。
 これは唯一のアドバンテージを失わせる由々しき事態であり、集った者等の眉間に刻まれた深い皺は、生きた年月を表す顔に浮き出たものよりも、ずっと濃い。

 皇帝はこの場にはいない。御心を想ってという事情もない。
 名ばかりの存在であり、この国を事実上支配しているのは奥の席に座る男だ。
 代々の皇帝にのみ与えられてきた最高神の名を、その権力と共に簒奪した男でもある。
 前では早速、意見が飛び交った。

「今打って出なくてどうする。ここで黙して見ておれば、奴らはより強大な力をつけ、これまで以上に我が国の脅威となろう。それは是が非にも避けたいことだ」
 
「何を馬鹿な。勝てぬと判断したからこその講和の選択だったではないか。五年前の大戦以降、我らは力を蓄えることに専念した。奴らのどこよりも進んだ科学力を取りこむという形でだ。なのに、奴らも同じ考えであったとは」
 
「ずっと戦い続けてきた仲だ。考えることも似通るか。ただな」
「一個人、いえ一組織の暴走であった可能性は高く、糾弾すれば和議にて解決する問題やも知れません。無論、脅威を取り除くことには繋がらんでしょうが」
 
「手の内を晒すような真似だからな。しかし当分の憂いは晴れよう。ここが国の行く末を決める大きな分岐点、選択を誤れば、待っているのは破滅か」

 紛糾する様子を静かに見守り、始まる前に片腕としている男が配った一つの打開策が記された紙の束に彼は目を落とした。
 適正量を割り出す為の人体実験のことやそれを増産する為の工場の設置等、色々書かれてあるが、まだ実用段階にない。肝心要のモノが手元にはない。

「静まれ。して、ロキよ。原材料は何か掴めたか」
「いえ、ただ時間の問題であるかと。向こうのことに我らより詳しく、私の暗躍するのが得意なエインヘリヤル達よりもその手のことが得意な者共を飼っております。発見が困難となったこの会議を開かせた向こうの犬を、昨日の今日で見つけ出してしまった。使い物になるとは思っておりましたが、予想以上。驚嘆と言わざるおえない成果ですな」
 
「――幽霊城の彼奴らか。どこまで飼いならしておけるものか。二重スパイとなる可能性もある」
「捕まれば間違いなく。しかしそれができなかったから彼らを率いる男はここにいる。何より、仲間に軍の内情に精通するルビーの称号を与えられていた元プレシャスブラッドと、皇帝子飼いだった一族の娘がいる。これほどの人材を取り揃えている者は他におりますまい」

「その娘、宮廷から姿を晦ませていたあやつの令嬢という話であったな。死神と恐れられたタナトスの子か、腕は見たか」
 
「戦闘面は未知数、ですが忍び込むことに関しては私の部下が見抜けぬほどには」

 フッ、と彼の口からは笑みがこぼれ落ちた。
 
「貴様に細切れにされた奴らよりは使えそうだな」
「ええ、最高神の槍で床のしみと変わった奴らよりも恐らくは、勝てない相手に挑むような無謀な真似はせんようですな」

「よかろう。エインヘリヤル共の戦闘力向上、及び、それに伴う様々な事柄を貴様に一任する。今は様子見とする」

 最後に付け加えられたその短い言葉で、国の方針は決まった。
 異議など出ない。皆、神妙な顔で頷いて、すぐに会議もお開きとなる。

 ただ差し当たっての問題をロキは抱えており、会議部屋を出るなり
 しばしの間、考え込んでいた。

 動かしたい相手の機嫌を損ねているだろうからだ。
 まだ帰ってはいないはずだ。祝杯もあげずにトンボ返りするような奴らでもない。
 なら代わりに綺麗どころでも向かわせるかと思い付き、小鳥を飛ばす。

 直後に別の小鳥が飛んできて、肩にとまった。
 男の声で喋る。吹き込まれたものだ。

「逃した。悪いな」

 思わず溜息が出た。
 構想段階だった案を早急に纏め上げ、形にする仮定で相手の狙いに気付き、こちらで掻き集めたものが渡る前に阻止する手筈だったが、失敗するとは思っておらず、時間を稼げなくなったのは頭の痛い話だ。

 そもそもが意図したものではなく、タイミング良く始末屋を送れたことを幸運に思っていたが、物事はそう旨くはいかないようだ。

「どうした、ロキよ。会議で時間の問題だなどと言ったのは、やはりお前お得意のハッタリであったか」

 そう声を掛けてきたのは、岩が歩いているような体躯をした男だ。
 竜殺しの英雄の名を持ち長い付き合いになる。
 右も左もなく二人で最高神の両腕として働き、この男の役目はその命を守ること。
 言えば影武者が主な仕事となる。

「ハッタリを使う必要のある相手かよく考えろ。五年前お前にぼろきれにされた小僧は、まだ生きていたようで随分腕を上げたようだぞ」

「誰のことを言っている。覚えておらんな」
「私も忘れていた。思い出したのはお前の顔を間近で見た今だ」
「俺の相手になりそうか」
「嬉しそうな顔をするな」

 良いことではない。退けた相手が相手だ。
 君臨するトップを除けば、一、二を争う実力者にまで育て上げており、どういった逃し方をしたのかも気になる。
 戦闘継続不能なほどの手傷を負わされていようものなら、隣の男でも危ういだろう。

 ――殺し損ねたの方が良かったか。
 甘い独特な香りのする葉巻を吹かしつつ、現場でそんなことを考えていたのは、彼の息子だ。

 身は綺麗なものだが、握る分厚いナイフの刃はこぼれ、見つめていたそれを腰のホルダーに放り込むと、眼下に目を落とす。

 下を流れる大河の濁流に飛び込まれ、しかも追っている間に日も落ち、暗い時間帯だ。完全に見失った。

 深手は負わせてある。常人ならば致命傷となりかねない程の。
 しかし、それで死ぬような奴でないということは、最後に放ってきた執念の一撃から感じ取れた。
 下がらされた。そんな経験は久しぶりであり、頭に浮かんでくるだけで、忘れたはずの笑みも一緒に思い出させてくれる。

 あれは狩られるだけの羊ではなかった。牙持つ立派な狼であった。
 昼の暑さが嘘のように冷たい風が吹いてきて、沸き立つ血で火照った身体を冷ます。身を翻した。

「ニック、お前が敗れる訳だ。また会えることを祈ろう」
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