(二)-2

文字数 1,514文字

 一言そう言ったイチロウは、その後黙って発泡酒の缶を何度か口に運んでちびちびと飲んでいた。
 俺も発泡酒の缶の中で炭酸の泡がプチプチはじける音をしばらく聞く以外のことができなかった。
「好き」
 そう言われることは、高校時代にもあった。だけど、それは毎回全て女子からだった。なにせ、俺とイチロウは東高(ひがしこう)サッカー部のエースだったし。逆に、当たり前だが、男子には言われたことはない。「すげえな」と言われたことはあったけど。
 だから、俺はなんて返事したらいいか迷った。
 確かにイチロウは高校サッカーでは俺のパートナーで、気の合った相棒だった。こいつがいれば、俺は、いや俺たちは、全国大会でも優勝できたと思う。そのくらい身近な存在な存在だった上、信頼していたし、一緒にいて楽しかった。
 しかし、だからといってそれは好きか嫌いかという話ではない。いやもちろんどちらかといえば好きだった。でも、それは男女関係とか、一生一緒にいたいとかそういう、いわゆる恋愛関係ではない。気に入った仲間だが、触れたいとかキスしたいとかそういうのはなかった。まあ、ずっとサッカーばかりに夢中で、大学に入るまでは女子なんか全く興味がなかったというのもあったけれども。
 イチロウは缶を逆さまに近い角度まで上げて中身を全て口の中に流し込むと、缶を床に置いた。そして立ち上がった。すると彼は俺の方に近づいてきた。顔も近づいてきた。そして両手で俺の肩を掴み、そのまま俺をベッドに押し倒した。
 とっさのことで俺は声が出なかった。
 腹を絞り出してようやく出てきた言葉は「ちょっと待てよ」だけだった。しかも、かすれるような声で。
「俺じゃダメなのか、ライタ」
 イチロウの目はマジだった。彼の目線は俺の瞳にまっすぐ突き刺さっていた。
「ずっと一緒だっただろう」
 俺は目線をそらした。そして「実はさ……」と切り出した。
「実は……、何?」
「好きな人がいて、この前告ったんだ」
 女子には興味がなかった。大学に入るまでは。しかし、この前、好きな人ができてしまった。一目惚れだった。速攻で声を掛けて、矢も盾もたまらずに「付き合おう」と迫った。返事は「少し待ってもらえませんか」だったが。
 一応連絡先を交換して、その回答待ちという状況だった。だから、まだフリーなわけだ。しかし、とはいえ、だからといって同性の級友と付き合うなど、俺には考えられなかった。
 いや、もちろん、人から好かれることは嫌ではない。それは異性でも同性でも同じだ。だからといって付き合うとかそういう相手は、やはり女子の方がいい。
 しかし、俺は今ベッドで押し倒されている。告白したことを告げてもイチロウは気にしていないようだった。彼の顔と俺の顔との距離は少しづつ詰まってきている気がした。『好きな人がいる』という台詞には、物理的な距離を遠ざけることができるほどの効果はなかった。
 俺はとっさに返事した。「返事はちょっと待ってもらっていいか」と。告った相手と同じように、一時保留にしようとした。拒否しても、今の体勢のままでは実力行使で唇を奪われかねない。だから、相手の好意を否定せずに受け止めたまま、状況を凍結するのだ。そうすれば、相手の行為は止まるかもしれない。
 俺の言葉に、イチロウは「わかった」と答えて、起き上がった。そして小さく「後で必ず」と言い残し、俺の部屋を出て行った。
それにしてもイチロウがそんなことを考えていたなんて……。大学は同じだったが、学部が違うため、高校時代のように頻繁に会うこともなくなってしまった。それが、彼を狂わせたのだろうか……。ともかく、ピンチは何とかしのぐことができて、良かった。

(続く)
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