計太は、れねいの姿を求めて

文字数 3,595文字

 計太は、れねいの姿を求めて、夜の住宅街を走り回った。高台に駆け上り、夜の住宅街を見下ろし、彼女の名を叫んだ。

 れねいというのは、計太がかれこれ三年ものあいだ飼っていた黒猫なのだが、この三日間帰ってこなかった。そのうち帰ってくるさ、と昨日のうちは高をくくっていたのだが、今日の夕方になっても帰ってこなかった。計太はいても立ってもいられなくなり、夜の住宅街を汗だくで走り回ることになった。

 何やらひらめくものがあって、計太はふたたび走り出した。坂道を駆け下り、大学へと続くバス道を東へと向けて駆けた。

 計太は息を切らせて、立入禁止の札の掛かっているロープの前で立ち止まった。そこは取り壊し中の古いアパートで、ショベルカーのすくい取る部分がペンチのような装置になっている大きな機械が、アパートの半分が瓦礫となっている上に乗り上げていた。

 計太はロープをまたぎ越えて、瓦礫のなかに足を踏み入れた。いつもれねいが縁側の下に潜り込んでいたあたりは、完全に瓦礫の山と化していた。

 一年以上も前のことだが、かつて計太はこのアパートに暮らしていたことがあった。れねいが縁側の下に潜り込んでいたというのは、その頃のことである。今のアパートに引っ越してからも、れねいがここを訪れていた可能性は高かった。彼女がここで何をしていたのかは分からないが、たとえばネズミを狩るのに熱中しているうちに、取り壊しが始められ、そのネズミともども瓦礫の下に埋もれてしまったのではないか。

 計太は手におえる範囲で木片などを取り除けたりして、れねいの姿を探した。彼女の名を呼んだ。瓦礫のなかで平伏して、瓦礫のなかを覗き込んだ。

 計太の頭のなかでは、れねいが口から血を吐き、半ば腐りかけている姿ばかりが浮かんできた。

 こんなことなら、もっと優しくしてやれば良かった。いつでも、大切なものというのは無くなってはじめてその価値に気付くものだ、計太はそう思い、後悔した。

 結局、瓦礫の下にれねいの死骸は見つからなかった。

「あれ、計チャンじゃない。そんなところで何してるの?」

 計太が瓦礫のなかで茫然と座り込んでいるところに、ひかりが通り掛ってそう言った。

「ん、ちょっとな」

「そんなところにいると危ないよ」

「ああ……お前こそ、こんな夜中に何してんだ? 夜の一人歩きは危険だぞ」

「うん、ちょっと友達ンとこに遊びに行っててね。計チャン、送ってくれる?」

「いいけど」

 計太はゆっくりと立ちあがり、ジーンズについた埃を手で払った。

 そのとき、ニャーという鳴き声を聞いたような気がしてハッとするのだが、ひかりが不思議そうな顔をしてこちらを見ているので、何もなかったかのように振る舞い、立入禁止の札の掛かったロープを飛び越えた。

 ひかりは昔から「犬好き」で、「猫好き」の計太とは、「犬猫論争」においていつも対立していた。

「犬は忠誠心にあついけれど、猫って食べるときだけ擦り寄ってきて、後は知らん顔してるじゃない。何だか恩知らずって感じがして嫌なんだな」というのがひかりの論調であり、計太はそのたびに「お前の堅い頭には、猫の自由な精神が理解できないんだな」と返すことになっていた。

 計太は、ひかりにれねいを探していることを知られるのはやはり癪だったので、鳴き声の聞こえたあたりを探し回りたい気持ちを抑えて、なるべく平然と歩き出した。

「友達のところに遊びに行ってたって、大学の友達のところ?」

「うん、サークルの友達」

「オトコ?」

 計太のその問いに、ひかりはキョトンとした顔を向けた。

「違うよお、女の子。陽子ちゃんのところだよ。……あ、何? 計チャン、やっぱり気になるんだ、わたしのそういうこと」ひかりはそう言うと嬉しそうにニヤニヤと笑い、「さては、まだ惚れてるなあ」とおどけた調子でつづけた。

「言ってろ、バーカ」計太の耳が真っ赤になった。

 そのあたりは瓦礫の山があちらこちらに残っていて、震災のときのままであった。

 昨年の一月、とある地方都市とその一帯を直下型の大地震がおそった。多くの家屋がつぶれ、多くの人が死んだ。

 治安の乱れはほとんどなかった。少年漫画にあるような暴行や略奪などもなかった。計太はそういう事態を期待していたわけではないが、何となく拍子抜けしていた。

「結局、何かものすごいことが起こるような気がしていても、それは初めだけで、何も変わらないんだな」と計太。

「いや、計チャン、そう言うけどね。十分ものすごいことだったし、十分いろんなことが変わったと思うよ」

「うん、まあね」

「もっとすごいことになった方が良かった?」

「いや、そういうわけではないけど、今回の地震で、もっと世界が違ったふうに見えてくるんじゃないかって、当初は思っていたからさ」

「違ったふうにって、どういうふうに?」

「うーん、それは自分でも良く分かってないんだけど……もっと生きていくことがせっぱ詰まったような感じになればさ、今まで見えなかったことも見えてくるんじゃないかって、そう思ったのかな」

「ふーん……」それきりひかりは黙り込んだ。

 ひかりの下宿へとたどり着き、計太は「それじゃ」と手を上げてから去ろうとするが、ひかりが両腕で抱きついてきた。

「お、おい、ひかり……どうしたんだ?」計太はドギマギしながらも、かろうじてそう言った。

 ひかりは思い切り力を入れて計太に抱きついていた。計太は息もできないほどに締めつけられた。

「わたしのお兄ちゃん……」ひかりはつぶやくように言った。その声は泣いているようだった。

「お兄ちゃん?」計太は締めつけられながらも声を絞り出した。

 ふいに計太を締める力が弱まった。ひかりが顔を上げる。涙は見えず、平然とした様子だった。

「わたしのお兄ちゃん、地震で死んじゃったの」そう言うひかりの声は明るかった。

「え?」計太は言葉を失った。

「彼女のアパートに行ってたときにね……彼女はそのとき大学に行ってて、無事だったらしいんだけど、彼女がアパートに駆けつけたときには、もう完全に瓦礫の下でね。手だけは見えていたらしいんだ。でも、火のまわりが速くって、どうしようも無かったんだって」

 計太はかろうじて、「そうだったのか」とだけ言うことができた。

「でも、計チャンの言う通りかも知れないな。お兄ちゃんが死んで、何か決定的に世界が変わったような気がしていたけど、日が経つにつれて、結局何も変わらないんだって、そう思うようになってきたもん」

 計太は黙って下を向いていた。何も知らずにあんなことを言ってしまったことを後悔していた。あやまらなくてはならないと思った。

「ひかり……ごめん。俺……」

「ううん、謝ることないよ。気にしないで」ひかりはそう言うと、身体を目一杯そらして伸びをうち、星空をすこし見上げてから、計太に微笑みを向けた。

「今日は嬉しかったな、久しぶりに計チャンに会えて」

「ああ、そうだな。俺も会えて良かったよ」

「本当に? へへっ、やったね。計チャン、彼女はいるの?」

「ああ、一匹いるよ。れねいって言うんだけどな。これがまた、すごく可愛いんだな」

「へええ、そうなんだ。それって猫?」

「うん。だけど、今は家出中なんだよ」

「え? ひょっとして、あのアパートの跡地に座ってたのって……猫を探してたの?」

「そう。見つからなくて途方に暮れていたところに、ひかりが通り掛ったってわけ」

 ひかりはしばらくは計太の顔を真面目な表情で見ていたが、とつぜん堪え切れずに吹き出して、その後は笑いが止まらず、涙まで流して笑い転げた。

「ごめんね。ごめんね。笑っちゃいけないんだけど、あのときの計チャンの顔、思い出すと、つい……プーッ!」

「なんだよ、ひでえなあ。そんなに笑うことないじゃないかよお」計太は口ではそう言うのだが、先程の気まずい雰囲気をこれで吹き飛ばせたことには満足だった。

 ひかりの笑いが収まるのにもうしばらく時間がかかった。

「はー、笑ったあ。失礼しました。そうだったねえ、計チャン、昔っから猫が好きだったもんねえ。それで、これからどうするの? まだ探すつもり?」

「うん、そうだな。実は、さっきのところで鳴き声を聞いたような気がしてたんだよ。ちょっと見に行ってみるよ」

「うん、そうか。じゃあ、気を付けてね。あまり無茶なことしちゃ駄目だからね」

「ああ、分かってる。じゃあな」

「うん、バイバイ。あ、送ってくれて有難うね」

「おう」計太は最後に一度大きく手を振り上げてから、来た道を小走りに戻っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み