その日、そうするのは二度目のことなのだが

エピソード文字数 4,782文字

 その日、そうするのは二度目のことなのだが、計太がひかりを下宿まで送り届けたとき、すでにあたりは十分に明るくなっていた。

「ありがとう。一日に二回も送ってくれて」ひかりは二度目の礼を述べると、決まり悪そうにすこし笑った。

「いえいえ、どういたしまして」計太はわざと慇懃に答えて、すこし笑った。

「ひかりは最近何しているんだ? バイトはしてる?」

「ううん、してない。サークルの友達と遊んでばっかりだな。あとは結構ヒマにしてるよ」

「じゃあ、また今度、どこか行って遊ぼうぜ。せっかくの夏休みだし」

「うん、行こう、行こう」ひかりはそう言って、そのときこそはバッチリおしゃれして、計太のことを見返してやろうと決意した。

 ふたりはお互いの携帯電話の番号を教え合って、今一度再会を誓い合ってから、「それじゃあ、また」と手を上げて、背を向け合った。

 一度、計太が振り返ったとき、ひかりは軽い足取りでアパートの階段を駆け上がるところだった。ジーンズのお尻がモコモコと動いていた。

 計太は十三歳のときに見たひかりのパンツを思い出した。

 ふたりは同じ中学校に通っていた。中学校の制服は女子はスカートだった。ひかりは履きなれないスカートを履いていた。小学生の頃のひかりと言えば、男子とともに運動場を走り回るようなタイプで、いつも短パンやジーンズを履いていた。

 スカートを履いている方も慣れていなければ、その姿を見る方も慣れていなかった。その姿に見慣れないために、計太の心は掻き乱された。それまで何とも思っていなかった幼なじみに、突如として異性を感じるようになった。計太はそんな心の動揺を知られまいと努めた。その甲斐があったのか、ひかりはそんな計太の様子に気付かなかった。

 そんなある日、テレビで見たカンフー映画に影響を受けたひかりが、「計チャン、ちょっと、わたしの蹴り、受けてみてよ」と、スカートのままで蹴ってきた。パッとスカートが広がり、パンツが丸見えになった。計太の視線はそこに釘付けになり、ひかりの蹴りは計太の側頭部にまともにヒットし、計太はノックアウトされてしまった。

 計太は保健室で意識を取り戻した。憶えているのはパンツの映像だけだった。消毒液の臭いがただようベッドのうえで、計太は甘美な気持ちに包まれていた。前後の記憶が欠落しているために、一際パンツの映像だけが意識にこびり付いていた。計太にとっての初恋の記憶は、パンツの映像と切り離されないものとなった。

 階段を上りきったひかりが、計太の熱い視線を感じたのか、それともひかりの方でも何か思うところがあったのか、振り返り、計太が見ていたことに気付くと、照れたような笑顔を見せてから手を振り、廊下の方へと姿を消した。

 計太は久しぶりに恋をしている自分に気付いた。胸のあたりが絞めつけられたようになり、苦しいようで、それでいてウキウキとした感情もあった。あのジーンズの下にどんなパンツを履いているのだろうか。計太はそれが知りたくなった。あのときのストライプ柄が思い出された。

 そのアパートは二階建てで八戸あるのだが、その八つのバルコニーが計太の視界に広がっていた。ひかりの部屋がどれであるのか、郵便受けなどで確認すればすぐ分かることだが、そこに干してある洗濯物にざっと目を通し、あれかこれかと思案するのもきっと楽しいことに違いなかった。とは言っても、部屋に戻ったひかりが窓から計太の姿を見ているかも知れないので、そうはしなかった。くるりと背を向けて、自分の下宿に向けて歩き出した。

 耳鳴りがした。空を見上げると、黒ずむほどに真っ青な空で、くっきりとした境界線を持った雲が浮んでいる。ひどくいい天気で、今日も暑い一日になりそうだった。耳鳴りは風のうなるようであり、遠くから響いてくるようだった。あまり寝てないために身体が変調をきたしているにちがいない、と計太は思った。

 黒猫は見つからなかったが、計太は満足していた。今日は久しぶりにゆっくりと眠ることができそうだった。ストライプ柄のパンツと消毒液の臭い、それにゴワゴワとしたシーツの感触を思い浮かべて、あの頃の甘美な記憶を思い起こそうと思った。

 もしかすると、そのことに関連して、あの頃のいやなことも思い出してしまうかもしれない。そのことで叫び声を思わず上げてしまうかもしれない。胸のあたりはザワザワとして、手当たり次第にあたりの物を滅茶苦茶に投げてしまうかもしれない。それでも、きっとすぐに落ち着くことができる。ストライプ柄のパンツと消毒液の臭いとゴワゴワとしたシーツの感触を思い起こせば。

 中学校のときの制服は、セーラー服ではなくてブレザーであった。多くの女子生徒がそうしていたように、ひかりもまた、シャツの襟元のボタンをかけずに、わざとルーズに着ていた。季節の変わり目にはシャツの上にカーディガンを羽織った。心持ちはだけられたシャツの襟の固さとカーディガンの柔らかい布地の対比が、計太にとっては懐かしく思い起こされた。久しぶりに出会ったひかりの印象が子供っぽく見えたのは、きっと制服を着ていなかったからだった。ティーシャツにジーンズという恰好では小学生時代に逆戻りしてしまう。計太が恋したのは、だらしなく開かれた襟元であり、フレアースカートであり、ストライプ柄のパンツなのであった。

 もし、またひかりと付き合うことになったなら、そのときは是非とも実家から制服を取り寄せてもらい、着てもらおう。それも、できるなら高校生のときのものでなく、中学生のときの制服であってもらいたい。いや、是非ともそうあるべきだ。

 中学生のとき、計太はひかりに恋をした。嫌な思い出もあったが、基本的には楽しい三年間だった。その記憶は、ブレザーの制服とともに楽しく思い出された。ふたりは高校も同じだった。高校の制服はセーラー服だった。それとともに思い出される高校生のときの記憶は、碌なものではなかった。だからこそ、今、着てもらうべきなのは、中学生のときのブレザーなのだった。

 計太は思いなおして、ひかりのアパートを目指し、来た道を戻った。記憶の中のひかりのブレザーの制服姿に励まされてのことだった。中学生のひかりが振り返り、こちらに向かって微笑みかける。計太にはその姿がはっきりと見えた。

 あの頃はふたりともまだ子供で、付き合うなどと言っても、一緒に公園に行って話したり、夜中に電話でこっそり話したり、日曜日の街をぶらついたりしたぐらいで、手をつなぐだけでもドキドキだった。結局、軽く触れあわせるぐらいのキスを何度かしただけで、ふたりは別れてしまった。

 ストライプ柄のパンツを見せて欲しかった。それが全てだった。だけど、言い出すことが出来なかった。変に思われるのが嫌だった。何度も言おうと意を決した。しかし、土壇場になると言葉に詰まった。成るべく平静を装ったが、その態度が逆に雰囲気をまずくしていた。ふたりのあいだに強張った空気が流れるようになり、ふたりは別れた。付き合い始めて一ヵ月のことだった。

 今の俺なら、と計太は思う。「今の俺なら、もっとうまくやれる。実際、さっきはうまくやれたじゃないか。ふたりのあいだは自然で、ぎくしゃくしたものなんか一つもなかった。変に構えてしまうから、うまくいかないんだ。パンツを見せて欲しいのなら、はっきりとそう言えばいい。中学校の制服を着て欲しければ、そう言えばいいんだ。今度こそは、きっとうまく行く。あの頃の俺とは違うんだ」

 一瞬、胸が軋んだ。全身の神経に電流が流れたようになった。計太は、もうすこしで叫び声を上げそうになった。はじめてキスしたときのことを思い出したのだった。何が引っかかるのか、それは分からなかった。ただ、そのときの自分の身振り、表情の強ばりを思い出すと、どうしようもなく震えが走った。そのときの自分は、とてつもなくみっともなかった。自分の存在を消し去ってしまいたかった。誰かが自分のことを見ている気がした。そして蔑まれているような気になった。その誰かの存在も消し去りたかった。しかし、それが誰なのか分からなかった。ただ一人、ひかりだけが、助けてくれるように思えた。自分にはひかりのことが必要なのだと思った。ひかりなら何があっても許してくれるような気がした。

 八つのバルコニーが見えてきた。計太は、ひどく興奮している自分に気付いた。胸の動悸が激しかった。計太は、眼前に広がった八つのバルコニーに向かって、何度か深呼吸してみた。すこし落ち着いた気がした。どれがひかりの部屋か分からなかったので、計太の視線は八つのバルコニーのあいだを迷走した。顔を出せばいい、と思った。そうすれば全てを言える、大声を出してもいい、と思った。

 八つの部屋はすべてカーテンで閉ざされていた。そのうち電気が点いているのは三つだけだった。さきほど帰ったばかりのひかりはまだ起きているはずだから、その三つのうちのどれかに違いなかった。三つの部屋の窓は閉じられていた。呼びかけるにはかなりの大声を出す必要があった。よく観察すると、電気の消えている窓のいくつかは開け放たれているようだった。計太は逡巡した。クーラーの室外機の運転音が響いていた。しだいに大声を上げる勇気が失せてきた。

 一体、俺は何をやっているんだろう、と計太は思い、冷静になり始めた。ここで大声でひかりを呼び出して、確実に他の住人に聞こえるような大声で、パンツを見せてくれ、中学校のときの制服を着てくれ、と頼むというのか。何を考えているんだ? それじゃあ、変態じゃないか!

 計太は慌てた。誰かに見られているような気がした。全てを見透かされているような気がした。はやくこの場を立ち去らなくてはならないと思った。それでも、とりあえず、どの部屋がひかりの部屋なのか特定しておきたいという気持ちがあった。早足で玄関ロビーへと向かった。

 郵便受けで確かめようとしたが、そこに「水野ひかり」の名は見つからなかった。名札を掲げていない部屋が五つあって、そのうちのどれかであるはずだが、それは知りようもなかった。いや、なかの郵便物を見れば分かるかもしれなかったが、すべての郵便受けには番号合わせ式の錠が掛かっているのだった。投函口からかろうじて覗けるのだが、その宛名を確認するには照明が暗すぎた。

 全くの無駄足だった。自分が何をしているのか、計太は分からなくなってきた。ここまでだ、別に何らかの手柄がいるっていうわけではないんだ、と自分に言い聞かせた。「今なら誰にもばれちゃいない。誰かに見られている気がするなんて、気のせいさ」

 しかし、計太の足は階段へと向いた。「そうだ、ひかりは階段を上っていた。ひかりの部屋は二階だということじゃないか。二階の部屋で電気が点いていた部屋は二つあって、両端の部屋がそうだった。そのどちらかがひかりの部屋で、どちらかに表札が出ていたなら、ひかりの部屋を特定することができるはずだ」計太は足音を忍ばせて、階段を一段ずつ上がっていく。「それを確認するだけだ。自分の推理が合っているのかどうか、それを確認して、そして帰ろう」

 階段に近い側の部屋には表札は掛かっていて、それは別の名前だった。だとすれば、一番奥の部屋が……。計太は意を決した。不思議と緊張感はなかった。一歩目はすんなりと出た。二歩目も問題なかった。あとはその繰り返しだった。部屋の前まで来た。表札には紛れもなく「水野ひかり」の名が記されていた。計太は妙に落ち着いている自分を感じながら、チャイムを鳴らした。
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