窓から射す朝の光に嫌気がさして

文字数 4,866文字

 窓から射す朝の光に嫌気がさして、ひかりはカーテンの隙間をかき合わせる。自分には吸血鬼の血が流れているのではないか、などと冗談半分に思う。外に出るのが怖いわけではない。ただ日の光が嫌なのである。それが証拠に、夜になると無性に誰かに会いたくなり、逆に外へと飛び出したくなる。

 ひかりはベッドに横たわり、じっと目を閉じていたが、それでも瞼を突き抜けて瞳にとどく光が気になったので、掛け布団を顔まで引き上げた。

 じきに掛け布団の内に熱がこもって、息苦しくなってくる。しばらくは我慢してそのままの体勢でいたのだが、汗まで吹き出してきたので上半身を覆うようになっていたのを跳ね上げた。

 そのとき玄関のチャイムが、またもや鳴った。十分ほど前にも鳴ったのだが、そのときはちょうど寝ようとしていたところで、何となく面倒くさかったので、部屋の電灯を消してベッドにもぐり込み、居留守を決め込んだのだった。

 こんな時間に誰だろうぐらいに先ほどは思ったのだが、今度は少し不気味なものを感じた。

 今チャイムを鳴らしたのが、先ほど鳴らしたのと同一人物だとすると、その人物は十分間ものあいだ、玄関ドアの向こうで待っていたことになる。いや、必ずしもそうではないかもしれないが、ひかりにはそう思えた。なぜなら、チャイムを鳴らすタイミングが不気味だった。ひかりが掛け布団を跳ね上げた次の瞬間にチャイムは鳴らされた。まるで部屋の様子をうかがっていたかのようだった。「お前がいることは分かっているんだぞ、さっさと出て来い」といったメッセージが、そのタイミングには込められているように感じられた。

 ひかりは息をつめて、玄関の方に耳をすませるが、玄関ドアの前に立つ人物も息を殺しているのか、物音ひとつ聞こえてこない。

 ドアにはめ込まれた魚眼レンズから、相手の姿を確認しておくべきだろうか。そのためには、足音を忍ばせて、玄関まで移動しなくてはならないのだが、掛け布団を跳ね上げた音すらも聞きもらさない相手に気付かれないようにそうすることは、不可能のように思われたので、ひかりはそのままじっとしていた。

 聞こえてくるのは、自分の心臓の音と時計の音、そして何だかよく分からない耳鳴りだけだった。

 どれぐらいの時間がたったのだろうか、ひかりにはとてつもなく長い時間が過ぎたと思われた頃に、金属どうしがお互いに擦り合わされるような微かな音とともに、何かがパタンと閉じられる音が聞こえてきた。

 ひかりはそれが何の音であるのか、瞬時に理解した。それは、玄関ドアに郵便受けとして空けられた横に細長い長方形の穴、その前面に取りつけられた金属製のフタが閉じられたときの音だった。

 玄関ドアの向こうに立つ人物は、そこから部屋の様子をうかがっていた。そして、多分、それは十分前の一度目にチャイムを鳴らしたときから、ずっとそうしていた。ひかりはそう確信した。

 ひかりは怖くてたまらなくなってきた。怖くて大声で叫び出しそうになった。それなのに、そのとき思い浮かべたのは、奇妙な草食動物のことだった。

 その奇妙な草食動物は羊に似ていた。細かい造型はあまりはっきりとは憶えていなかったが、どこかグロテスクな印象がその動物にはあった。

 その動物の顔は頭蓋骨が剥き出しで、それでも目玉は眼窩におさまっていた。その目が左右別々にぎょろぎょろと動いてカメレオンのようだった。毛足は異様に長く、また四本の足は枯れ枝のように細かった。

 それは三つ違いのひかりの兄が、小学生の頃に考え出した幻獣だった。その昔、夜になっても眠れないとむずかるひかりに、いじわるな気持ちから、そのグロテスクな動物をノートの切れ端に描き出し、その動物が次々に通り過ぎるところを想像して、その数を数えていると、そのうちに眠ることができると兄は教えた。兄としては、そのグロテスクな動物を思い浮かべることで、ひかりがさらに眠れなくなることを期待していたのだが、その意に反して、ひかりはすぐに安らかな寝息を立て始めたのだった。

 かつて、そのグロテスクな草食動物は、寝入りの不安からひかりを解放した。今、その動物のことが頭に浮かんできたのは、自分を落ち着かせようという無意識の働きだったのかもしれない。

 とにかく怒らなくては、とひかりは自分に言い聞かせた。

「何故、わたしがこんな理不尽な扱いを受けなくてはいけないのか!」ひかりは心の内で叫んだ。そうすることで、勇気を奮い起こした。

「そりゃあ、わたしだって、居留守を決め込んだことに関しては、後ろめたさを感じるよ。だからと言って、何故、部屋のなかまで覗かれなくちゃいけないの!? それに、そもそもこんな時間に(時計の針は六時十八分を指している)訪ねてくること自体がおかしいじゃないか!」

 ひかりはしだいに恐怖心から解放され、まわりの状況を確認できる余裕も出てきた。

 フローリングの床のうえには、先ほど跳ね上げた掛け布団が見とめられたが、それはベッドからそれ程遠くない位置にあった。ベッドの位置は部屋の奥にあたり、玄関から真っ直ぐにつづく廊下からは死角になっていた。そして、掛け布団もまた玄関からは見えない位置にあった。玄関ドアの向こうの人物が、郵便受けから覗いていたとしても、ひかりの動きは見えなかったはずであり、また跳ね上げられた布団自体も同様に見えなかったはずだった。

 ならば、その人物はどうやってひかりが掛け布団を跳ね上げた直後のタイミングに、チャイムを鳴らすことができたのか。答えは自ずとはじき出された。その人物は郵便受けから部屋のなかを覗いていたのではなく、その音を聞いていたのだ。実際、掛け布団が跳ね上げられ、床に落ちたときのばさっという音は、結構大きいものであった。

 こちらの姿が見えていないのであれば、物音を立てさえしなければ、こちらの動きを察知される心配はない。それに、今は郵便受けのフタは閉じられている。先ほどのパタンという音は、間違いなく閉じるときの音だった。よほど大きな音を立てない限り、玄関ドアの向こうにまで聞こえることはないはずだ。

 ひかりは部屋の中央にあるテーブルのうえの携帯電話を見た。そのテーブルは玄関から真っ直ぐにつづく廊下の延長線上に位置し、玄関から丸見えの状態だったが、そのかたわらまで移動するあいだは、死角のなかに身を置くことができそうであった。

 死角の限界ぎりぎりのところまで移動し、すばやい動きでテーブルのうえの携帯電話を取る。ひかりはその動きを二回イメージしてから、行動を開始した。はじめにベッドのスプリングが割りに大きな音を立てて、ぎくりとしたが、それ以降はイメージ通りに動くことができた。

 死角の淵の限界ぎりぎりのところまで移動して、手を伸ばせばとどくところに自分の携帯電話がある。ひかりはそれを見ながら、考えを巡らせる。携帯電話で助けを呼ぼう。相手は決まっている。計太はすぐに駆けつけてくれるにちがいない。演技が必要だ。過剰にならないように、微妙におびえた声、微妙に甘えた声を出さなくてはならない。

 ひかりはすばやく手を伸ばして、携帯電話を取った。会心の動きだった。音も全く立てなかった。修練を積んだ忍者みたいだ、とひかりは自分で思った。そのときひかりを支配していたのは、すでに恐怖心ではなく、平常心を突きぬけた高揚感であった。

 先ほどまでびくびくしていた自分が滑稽に思えてくるほどに、ひかりの精神には余裕が出てきたが、それでも、とりあえず携帯電話を操作して、計太の電話番号をディスプレイに表示させる。もう一度ボタンを押せば、自動的にダイヤルが始められる。しかし、そうするのはもう少し状況をはっきりさせてからにしようとひかりは思った。

 今一度、玄関からの死角の限界ぎりぎりのところまで身体を寄せて、神経を研ぎ澄まして、気を探ったが、玄関は静まり返り、何の気配も感じない。

 火星の荒野で遠くに広がる山脈を見つめ、そこにするはずのない生命の気配を感じ取り、おどろきの声を上げる一人の少女のことをひかりは思い浮かべ、それもまた兄が語った物語の一場面であることを思い出す。そうだ、さっきの自分の動きが忍者みたいだと思ったのも、その少女がいわゆる「くのいち」だという兄の物語の設定のためだったのだ。

 兄が語った荒唐無稽な物語を、ひかりは主人公である少女に自分を重ね合わせて、聞いていた。そして、今も同様にそうしようとしていた。

 一瞬の機をとらえて、すばやく首を横に突き出し、玄関の映像を記憶に焼きつけてから、首を引っ込める。すべてイメージ通りに実行した。

 記憶に焼き付けられた玄関の映像を思い起こして、そこに何やら見なれぬものがあったことにひかりは気付く。それは靴脱ぎに落ちている一枚の紙だった。

 ひかりは「ん?」と声に出して、その意味を考えた。ひょっとして、自分は何か思い違いをしていたのではないか。

 郵便受けのフタがパタンと音を立てたのは、もしかすると、それまで押し上げられていたものが閉じられたのではなくて、ただ普通に一枚の紙を投函するときの音だったのかもしれない。

 そうだとすれば、掛け布団をひかりが跳ね上げた直後にチャイムが鳴らされたのは、郵便受けから部屋の様子をうかがっていた人物が、「お前がいることは分かっているんだぞ、さっさと出て来い」というメッセージを伝えるためではなく、たんなる偶然だったということになる。それをこちらが勝手に勘違いして、びくびくしていた? ひかりは頬が上気してくるのを感じた。誰かに見られたわけでもないが、自分の行動を思い起こすと、恥ずかしい気持ちで一杯になった。

 ひかりは、一応用心のために足音を忍ばせて、玄関へとつづく廊下を移動した。

 靴脱ぎに落ちている一枚の紙は、はじめ葉書のように見えたが、どうも違うようだった。ひかりはそれを拾い上げる前に、玄関ドアにはめ込まれた魚眼レンズを覗き込み、玄関前の状況を確認した。そこには誰もいなかった。念のためにドアを開けて、確認したが、やはり誰もいない。

 ひかりの関心は投函された一枚の紙に向かった。一体、こんな時間に誰が何をとどけに来たというのか。

 ひかりはそれを拾い上げた。それを手にした瞬間、それが写真であることが分かった。同時に恐怖感が復活してくる。

 それがセールスマンのチラシだったり、配達のお知らせだったり、管理人の書き置きだったりしたなら、それにしたって非常識だと憤ったにちがいないが、どれだけ安心できたことだろう。何故、よりによって一枚の写真がこんな時間に投函されなくてはならなかったのか。

 ひかりは、薄暗い玄関で、その縁がシワになってすこし丸まっている、古い写真の白い裏面を見ていた。自分の心臓の音と時計の音と何だかよく分からない耳鳴りがふたたび意識の前面に浮かび上がってきた。できれば、そんなものは見ずに済ませたかったが、見ずにはいられなかった。恐怖を引き起こすものは、いつも人の視線を引き付ける力がある。ひかりはその力に抵抗できなかった。ひかりはゆっくりと写真をひっくり返した。

 そこに写っていたのは、空へと伸びる何本かの植物の茎であった。その茎にはまばらに葉がついており、よく見ると花もついている。目立つのはピンクの花で八つほど、紫のものも混じっているようだ。背景の空は薄曇りで、建物や山やほかの木々などは一切写り込んでいない。花弁の裏側が見えているぐらいだから、よほど低い位置から見上げるかたちで撮られた写真であるらしい。

 ただそれだけの写真だった。全く訳が分からなかった。その植物には刺があった。その植物はばらに違いなかった。しかし、ひかりにはそれが単なるばらとは思えなかった。
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