秋の日の夕暮れどき(完)

文字数 4,606文字

 秋の日の夕暮れどき、計太とひかりは近所の公園に、下校途中の道草をしていた。

 ベンチにふたりで並んで座り、暮れていく陽を見ていると、それだけで恋人気分を味わうことができたのだった。ファーストキスをしたのも、この公園だった。中学生のふたりにとって、そこは特別な場所だった。

 しかし、その日はいつもと違った。ひかりが別れ話を切り出したのである。

「計チャンのことが好きなのは、今も変わらないけど、やっぱり今は受験勉強に集中した方が、お互いのためにいいと思うの」ひかりはさらりと言ってのけた。

 昔から、ひかりには妙にさばさばとしたところがあって、いざというときには、非常にクールに対応することができた。

 計太はそのことをひかりの「犬好き」と結びつけて考えていた。「犬好き」の人間は、相手を下に見ることによって自分の優位な立場を意識して、いつも冷静でいられるようにする傾向がある。

 計太はひかりのそういった性質にすこし苛立ちながらも、ひかりが別れ話を持ち出したことに、内心ほっとしていた。

 この一ヵ月、どうにも思うように事が運ばないことが、計太を疲れさせていた。キスをしているときの自分は、どうしてあんなにみっともないのだろう。ひかりの前に立つと、どうしてあんなに態度がぎこちなくなってしまうのだろう。付き合い始めてから、何をしようにもすべてがうまくいかなかった。妙な強張りがふたりのあいだに入り込んでしまった。ストライプ柄のパンツも見られそうにない。こんなことなら、付き合う前の方が余程良かった。

「そうだな。付き合ってからの方が、何だかよそよそしくなっちゃったもんな。一度、別れた方がいいのかもしれないな」

 ほっとしたためか、計太の声は自然で優しい声になった。ひかりは計太をじっと見つめていた。計太は何かまずいことでも言ったかとドキマギした。ひかりははらはらと涙を流していた。

「ごめんね、泣いたりして……。やっと計チャンらしいことを言ってくれたから、何だかうれしくって……。別れるって言ったら、もっと計チャン、怒り出すんじゃないかって思って、すこし怖かったんだ」

「いや、俺こそ悪かった。付き合い始めてから、どうも自分が自分じゃないみたいで、普通にしようって思うほど、変な態度を取ってしまって……ひかりがどう思っているのか気にはしていたんだ。もっとうまく自分の思っていることを伝えられれば良かったんだけど」

 自分の思っていること? ストライプのパンツを見せてくれと言うべきだったと? そんな馬鹿な!

「ううん、計チャンは悪くないよ。わたしだって、付き合うっていうことがどういうことなのか、よく分からないのに、安請け合いしちゃって……」

 安請け合い? 付き合おうって言い出したのは、俺の方だったっけ? 何となく曖昧に始まったんじゃなかったか?

 計太は、順調な事態の進行を、きな臭く感じたが、ひかりに対する、そして自分自身に対する違和感を心の奥におさえ込んだ。結局のところ、計太はひかりのことが依然好きであって、下手に話をこじらせて、ふたりの関係を決定的に壊してしまうことだけは避けたいと考えていたのだった。

「俺たち、前みたいに仲良くやっていきたいな」

「うん、そうだね。今回はうまくいかなかったけど、そのときが来たら、また付き合おうよ。それまでは友達として仲良くね」

 計太はめまいを覚えた。ウソみたいに順調すぎる。こんなことでいいのだろうか。これでは、あまりにも「犬好き」的すぎやしないか。すべてがひかりのペースに、はまり込んでいる。それでも、ひかりが好きなんだから、仕方がない。ご主人様に尻尾がちぎれそうなほどに振る犬みたいでも、ひかりが好きなんだから、どうしようもない。喜んで、犬である自分を受け入れよう。前向きに。

 それから半年後、計太とひかりは、同じ高校に進学した。ふたりの学力はもともと同程度だったので、同じ高校に入ったことは自然なことだったが、もし計太の学力が足りなかったとしたら、死に物狂いで勉強しただろうし、逆に計太の方が高かったとしたら、本来受けるべきレベルの高校を受けずに、ひかりと同じ高校に入ったであろう。別れてもなお、計太はひかりとの恋に生きつづけたのだった。

 最初、計太はバスケ部に入った。ひかりは卓球部だった。ふたりとも中学生のときに入っていたクラブを選んだのだった。

 計太は卓球部に入ることも考えたが、それはあからさまにひかりのあとを追ってきたと思われそうだったので、控えた。

 それに、計太には卓球部に対する偏見があって、卓球部に入るようなやつは、根暗な性格の持ち主ばかりだと思っていた。そして、バスケ部に入るのは、その逆に明るい性格の者ばかりであって、そのことでバスケ部員であることの優越感まで抱いていた。

 あんな根暗なやつらと同じ部になど入れるか、という気持ちも手伝って、計太は部活動の範囲においては、ひかりと距離をおくことになった。

「卓球部員は全員根暗だ」という考えを、計太はひかりにも明言していて、ひかりに「じゃあ、わたしも根暗なの?」と聞かれると、「いや、ひかりは例外だけどな」と答えていたのだが、ひかりもその考えを認めないわけではなく、「たしかにバスケ部の人たちに比べると、卓球部の皆はおとなしいかも知れないね」と苦笑まじりにつぶやいたりもした。

 そんなとき、計太はうれしくてたまらないといった笑顔をつくり、「やっぱり、そうか」と答えるのだが、それは自分の考えをひかりが認めてくれたことがうれしいというよりも、ひかりが他の卓球部員に対して、すこしでも否定的な意見を述べたことがうれしかったのだった。計太は、卓球部の人間、特に男子部員に対して、猛烈な嫉妬心を抱いていた。ひかりとともに汗を流し、連帯感を持つ彼らのことがねたましかった。ひかりの口から彼らの悪口が聞きたかった。悪口でなくても、ほんのすこし否定的な物言いであれば、それで良かった。そのほんのすこしの否定的な言葉が、計太には「やっぱり、計チャンといるのが、一番楽しいな」というふうに聞こえるのだった。

 いっそのこと、ひかりが卓球部を辞めて、バスケ部のマネージャーにでもなってくれれば良かったのだが、そうはうまくいきそうになかった。

 たとえ高校生だろうと、卓球部員は卓球部員にすぎないと、計太は自分に言い聞かせたが、それでも、気が気ではなかった。中学生のときの卓球部の男子部員たちは、計太の偏った考えを裏付けるような、根暗な性格の持ち主ばかりであったが、高校生となれば事情がちがう可能性が、やはりあった。

 ひとりでも例外的に明るい性格の男子部員がいて、ひかりと何となく気が合ったりして、必要以上に仲良くなってしまうかもしれなかった。はじめは、精神的距離は計太の方が近いとしても、部活動で苦楽をともにする時間を重ねていくうちに、その例外的な男子部員の方へと近くなっていってしまうかもしれなかった。

 計太は不安だった。バスケ部に所属していることだけでは、その例外的な卓球部員より優位に立てないのではないか、という迷いが生じた。

 その迷いが計太の集中力に影響を及ぼした。シューティングのバランスが崩れてきた。バスケ部にいる限り、卓球部員には絶対に負けないという自信が揺らいで、計太のシューティングから確実性が消えていった。シュートが決まらないという現実が、さらに焦りを生んだ。「このままバスケをつづけていても、自分は例外的な卓球部員に勝てないのではないか」計太の精神は、たやすくは抜けられそうもない悪循環にはまり込んでいた。

 別に「例外的な卓球部員」が実在したわけではなかった。高校の卓球部においても、根暗な部員が多いという計太の持論は通用するように見えた。しかし、その「例外的な卓球部員」は、いずれそのうちにひょっこり現われる可能性もあった。その可能性がある限り、その出現に備えて、万全の対策を練っておくべきだと計太は思った。

 計太は入部して一ヵ月でバスケ部を辞めた。何か文化系のクラブに入ろうと思った。体育会系のクラブでは、どの部であっても、例外的な卓球部員に対抗できないと踏んだのだった。それまでとは全く違った戦略が必要だった。いつも傍にいて、苦楽をともにするような存在ではなく、たまにしか会わないのだが、たまに会うときには、他のやつらとのあいだには持ちようがないような、特別な場をそこに設けること。それができれば、例外的な卓球部員が現われても、十分対応できるはずだった。

 計太は写真部を選んだ。ひかりの写真を撮ればいいのだという考えを思いついた結果だった。雑誌のグラビアのような写真を撮ろうと思った。撮影現場という特別な場を設けて、そこで特別な関係をひかりとのあいだに築こうと思った。

 そうだ、そして、あわよくば、ストライプ柄のパンツも撮らせてもらおう。もちろん直接的にそう頼むわけにはいかないのだから、策を弄さなくてはならない。

「じゃあ、カメラに向かって蹴りを出してみよう!」

 そう指示を出して、ひかりが満面の笑顔で蹴ってきたところを撮れば良い。そうすれば、正確にあの日の状況を再現できるはずだ。またノックアウトされても構わない。カメラを守って倒れよう。ストライプのパンツさえ撮ることができるのならば、多少の犠牲はなんてことない。

 計太はひかりに写真のモデルを頼んだ。

「え? 写真? なんで?」

「俺、写真部に入ったんだ」

「え、ウソ!? バスケ部は?」

「やめたよ」

「えー! ウソー! なんでー!」

 ひかりは不満気な声を上げた。

「なんでって、何となくな。前から写真には興味があったし……」

「ふーん、そうなんだ。でも、バスケ部、やめることなかったのに。もったいないなー」

「もったいない?」

「うん。だって、バスケしているときの計チャンって、かっこ良かったもん」

 計太は言葉に詰まった。取り返しのつかないミスを犯したような気分だった。ノーマークのレイアップシュートをはずしたような……。

「……いや、もう体育会系はいいよ。疲れるし、怪我はするし、歳をとったらすぐにできなくなっちゃうしな。その点、写真はいいぞ。何よりも芸術的だし。これからは芸術に生きようと思うんだよ、俺は」

 計太は必死に取り繕った。意欲を見せて、ひかりの関心を写真に向けようとした。しかし、無駄だった。

「うーん、でも、なんか暗いよね」

 計太はその一言に固まってしまった。

「写真のモデルは、辞退させてもらうね。何だか恥ずかしいから。悪いけど他あたってね」

 ひかりはさらりと言ってのけた。

 それだけのことだった。それだけのことだったが、計太には、重大な出来事だった。

 その日の放課後、計太はコンパクトカメラを手にして、校内をあてどもなくさまよい歩いた。ひかりに代わる被写体が必要だった。

 目の前に花壇があった。ばらの花が咲いていた。その花弁の裏側を撮ろうとして、計太が地面に這いつくばったのは、ひかりのパンツを撮ることの隠喩だったのかもしれない。
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