ひかりの下宿、その窓は南側にあり

文字数 3,703文字

 ひかりの下宿、その窓は南側にあり、そちらに向けてなだらかに傾斜している住宅街を遠く見とおすことができる。ところどころに見える窓の明かりは学生たちの部屋なのだろう。大学は夏休みだ。

 夏の夜は蒸し暑く、寝苦しい。ただでさえ夜更かしがちな学生たちであるから、かれらの活動する時間帯はしだいに遅い時間へとズレていく。ひかりにしてもそれは例外ではなかった。

 ひかりは室内へと転じて、壁に掛かる時計を見た。時計の針は二時十八分を指していた。中途半端な時間だ。明日の予定は特にないので早く眠る必要はないし、気に掛かっているレポートに取りかかろうという気にもなれなかった。

 ひかりはもう一度、窓の外へと向き直った。どこかで中学生たちが爆竹でも鳴らしているのだろうか、遠くから破裂音が響いてきた。

 計太を想った。計チャン、全然変わってなかったな。計チャンにはわたしのこと、どう見えたかな。すこしは大人っぽくなったと自分では思うんだけどな。

 ひかりは、夜の住宅街から窓に映る自分の姿へと焦点をずらした。そこには、ジーンズにロゴ入りのティーシャツ、中途半端に伸びた髪を後ろに束ねている自分の姿が映し出されていた。

 うーん……まさか計チャンに会うなんて思ってなかったからなあ。このカッコじゃ、ひかりも全然変わんねえなあ、とか思われちゃったかもなあ。せめて美容院にでも行っておくべきだったなあ。行こう行こうとは思ってたんだけどなあ。タイミング悪かったなあ。まあ、仕方ないかなあ。ひかりはそういったことを半ば声に出してつぶやきつつ、小指と薬指で前髪の具合を整えた。

「よし、じゃあ明日は髪を切りに行こう」ひかりは今度ははっきりと声にしてそう言った。

 ひかりは部屋の隅で山と積み上げられた雑誌のなかから何冊かを選び出し、ベッドにねそべり、そのページをゆっくりと繰り始めた。

 流行の衣服に身を包んだモデルたちの楽しげな笑顔。カタログ式に並べられた商品たち。リゾートやレストランが細心の注意でもって照明され撮影されていた。

 ひかりが求めていたのは、いまの自分にぴったりと合ったヘアスタイルであった。しかし、視線は無意識にそれ以外の情報に横滑り、新たな欲求を産み出した。欲望は際限なく広がり、広がりきった後で削られていく。慢性的な欲求不満は当り前で、それこそが人生の現実なのだ、とあきらめ混じりの結論をしたうえで、ようやく本題のヘアスタイル選びに戻った。

 しかし、ひかりが雑誌の山から抜き出した、ヘアスタイルがカタログ式に並んだ雑誌は、すでにひとつ前の季節のものであり、最近買った雑誌にもすこしは載っているとは言え、こういうことに対してはとことんまで研究しないと気が済まない性質のひかりとしては、もっと大々的に扱ったものでないと満足できなかった。

 時計を見ると、すでに三時三十分を過ぎていた。窓の外はまだ暗かった。

 夜の一人歩きは危険だと計太は言っていたが、震災の時にあれだけ多くの家屋がつぶれ、多くの人が死んだのにも関わらず、ほとんど治安の乱れもなく、少年漫画にあるような暴行や略奪もなかったこの街において、その言葉はリアルではなかった。むしろ夜の一人歩きはひかりの気持ちを安らげた。

 下宿の近くにあるコンビニに向かって、ひかりは夜の街を歩き出した。夜が明けるまでもうすこしの猶予があった。あと一時間ほどすれば空は明けてくるだろう。ひかりはそれまでに目当ての雑誌を買って、戻って来れるようにと心持ち急ぎ足になった。

 コンビニの店員が「いらっしゃいませ」と眠たげな声で言うのにチラリと視線を向けてから、雑誌コーナーへと歩を進めると、そこには計太がいて、バイクか何かの雑誌を睨むようにして読んでいた。

「あれ? 計チャン!?」ひかりは思わず高い声を上げた。コンビニのなかには他にも何人かの学生らしき客がいて、彼らの視線が雑誌コーナーに集まるようだった。ひかりは罰の悪そうな微笑みを計太に見せた。

「ああ、ひかりか。今日はよく会うな」計太は微笑んだ。

「ほんとだね」

「不思議なもんだな。大学入ってから全然会わなかったのに、同じ日に二度も会うなんて、すごい偶然だな」

「そうだね。そういう日なのかも知れないね。今日は、わたしと計チャンの波長が合う日なんだよ。多分」

「ハハ、そうかも知れないな」

「それで、計チャン、迷子の彼女は見つかったの?」

「いや、あれから例のアパート跡に行ったんだけどな。やっぱり空耳だったんだろうな。見つからなかったよ」計太の表情が曇った。「どこに行っちまったんだろうな、ほんとに……で、お前は何やってんだよ。折角送ってやったのに、またこんなところに来ていたら、意味無いじゃないかよ」

「エヘヘ、ごめんね。ちょっと牛乳を切らしちゃって……それで買いに来たんだ」ひかりは咄嗟にウソをついた。計太も本気で怒っているわけではないだろうが、さすがに買いに来たのが雑誌だと知ったらいい気はしないだろう、そう思ってのことだった。

 しかし、牛乳が切れたにしても、すぐに買いに来る必要はないわけで、ウソとしてはあまり上手いものではなかった。それでも、咄嗟に考えたにしてはすんなりと口から出たので、それは本当らしく聞こえた。

 計太にも特にこだわる様子はなかった。「ふーん、牛乳か」と言ったまま、それ以上の追求はしなかった。案外、猫を愛する計太にとって、夜中に猫に与えるための牛乳を切らして、コンビニまで買いに走るのは日常茶飯事なのかもしれず、自然な発言と受け止められたのかも知れなかった。

「計チャン、バイク、好きなの?」ひかりは計太の手にした雑誌を指してそう言った。

「いや、別に好きなわけじゃないんだけどな。何となく目に入ったもんだから、後学のために読んでおこうと思って」

「後学? 何それ?」

「だって、ほら、これからは価値の多様化がどんどん進んでいくわけだろ? なら、いろんな知識を幅広く学んでおくことがとても大事になっていくと思うんだよ。と言っても別にバイクの専門知識の細かいところまで知っておくってことじゃなくて、大体『バイク好き』と言われる人々がこういった雑誌を読んで、どういった欲求を持つのかってこと、つまり、どういった価値観をこういった雑誌によって培っているのかってことを幅広く知っておきたいって俺は思うわけなんだよ」

 計太は一息にそう言って、「そこんところ、どう思う?」とひかりの意見を聞くのだが、ひかりは突然のことにポカンとして、計太の真剣な眼差しを曖昧に見つめるだけであった。店内の他の客も突然始まった計太の演説に唖然として、ふたりを見ていた。

 夜は思ったよりはやく明けてくるようだった。ひかりと計太は並んでゆっくりと歩いていた。

 ひかりの手には牛乳パックの入ったビニール袋が提げられていた。雑誌は結局買えなかったのだが、今のひかりには大したことではないように思えた。

「計チャン、何か変わったね。高校のときに比べると」

「そうか? どう変わった?」

「うーん……なんて言うのかな。大人になったって言うか……ほら、昔はもっと軽やかだったじゃない?」

「軽やか? 何だよそれ、軽薄だったってことか?」計太は冗談めかして言った。

「うーん。それに近いかな」ひかりは案外真剣であった。

「ふーん、ひかりにはそう見えてたってことか。それは意外だな」

「うん。それで、高校のときに比べると、何て言うか、さっきみたいにバイクの雑誌について語ったりするのを見てると、何となく、大人になったのかなあって思ったんだよね」

「ああ、なるほどな。そう言われれば確かにそうかも知れないな。だけど、根本的には何も変わっていないと自分では思うぞ」

「うん、そうかもね。アパートの跡地のなかで久しぶりに会ったときには、計チャン、全然変わってないって思ったし。うん、第一印象はそんな感じだった」ひかりはそう言ってから、明けつつある空を見上げた。また太陽が昇る。はやく部屋に戻らないといけない。朝の光りはまぶし過ぎて、悲しくなってくる。

「ひかりは変わったよな」計太はひかりの感傷には頓着せずに何気なくつぶやいた。

「うそ? ほんとに?」あからさまに嬉しい声が出た。

「うん、何となくだけどな。具体的にどこがどう変わったのか、説明できないけど」

「大人になった?」

「いや、そういう感じじゃないな。むしろ子供っぽくなったんじゃないか」

 ひかりはすこしショックを受けた。やはり日頃から油断なく身だしなみに気をつけておくべきで、ちょっとぐらい大丈夫だろうと気を抜いたならば、そういうときに限って、たとえば今回のように、かつては恋人同士でもあった幼なじみに偶然に出会ったりするものなのだ。ひかりは猛烈に後悔の念にとらわれ、あたりが明るくなるにつれて自分の汚点が明らかにされるように思い、駆け出したい気持ちにかられた。
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