「やはり誰かに見られている……」

文字数 4,331文字

「やはり誰かに見られている……」気のせいに違いないと計太は何度も思ったのだが、その想念はいくら振り払おうとしても、頭から離れなかった。

「奴等にすべてを見透かされている。子供じみた奇行も、必死に押し隠しているつもりの情念も、すべてが奴等には筒抜けだ」

 計太は自分のとった行動を後悔していた。

「またやってしまった。何故自分はあんなことをしてしまったのだろう。本当にくだらないことだ。子供じみた奇行で相手の気を引こうとしていたのだ。どうしようもなくあふれ出てくる情念のために自分を抑えることができなかったのだ」

 それは今まで何度となく経験し、そのたびに後悔し、二度と同じあやまちは繰り返すまいと反省しつづけてきたことだった。しかし、またやってしまった。

「奴等は愚かにも同じあやまちを繰り返す自分のことを、どうしようもない馬鹿だと罵り、笑っているのか。それとも、またもや我々の期待は裏切られたと失望しているのか」

「奴等」の表情を計太はうかがい知ることが出来なかった。もはや計太は「奴等」の方をまともに見ることも出来なかった。「奴等」の存在を感じること自体、気のせいに違いないとは思ったのだが、それを確認することすら、計太には出来なくなっていた。

 一度目にひかりの下宿の玄関チャイムを鳴らしたとき、計太は玄関ドアに嵌め込まれた魚眼レンズに視線を向け、そのレンズ穴について思いを巡らせていた。その小さなレンズ穴からは、室内の明るさが確認できた。

 レンズ穴の外側からは、室内の細かいところまで知ることは出来ないが、それでも、ドアの向こうに人影が近づけば、室内の照明がその人影によってさえぎられて、レンズ穴が暗転することから、そこに誰かが立っていることを外側からでも知ることができる。

 そのとき、ドアの内側にいる人物は、魚眼レンズを通して一方的に外側の人物を見ているわけで、そのときの計太のように、外側の人物もレンズ穴に視線を向けていたなら、それで双方の視線は一応交わることになる。

 視線が交わっているにも関わらず、相手の顔を知ることができるのは片方だけという状況を、計太はいつも気持ち悪く感じてきた。自分が外側にいるときもそうだったが、内側の見る側にまわっても、ぞっとした。外側の人物が別のところに視線を向けていたなら、そのようには感じなかった。外側からもレンズ穴に視線を向けているときだけ、その思いは起こった。

 その状況には死の予感があった。気持ち悪いのはそのためだった。どちらの側にいても、向こう側の人物とのあいだに生死の隔たりを感じた。自分と相手のどちらかが、すでに死んでいるように思えた。ときには両方とも死んでいるように思った。すでに世界は滅んでしまって、この世界に生きている人間はいないのではないかと不安になった。地面がぐらぐらと揺れた。

 秩序ある世界を取り戻すために、内側にいるときは急いでドアを開けた。外側にいるときには、なるべくレンズ穴を見ないようにしてきた。

 しかし、そのときはレンズ穴を注視せずにはいられなかった。全神経を集中させて、そこから漏れるほんのわずかな情報も見逃さないように努めた。

 そのとき、レンズ穴が唐突に暗転した。計太はひかりが出てくるものと思い、身構えた。しかし、ひかりは出てこなかった。

 はじめはレンズ穴から見られていると思った。ひかりの視線を感じた。計太はやがてレンズ穴を見返すことができなくなって、ドアの縁や取っ手に視線を泳がせた。何故ひかりが出てこないのか、計太には分からなかった。

 そのまま数分間が経ち、計太は自分の勘違いに気付き始めた。レンズ穴が暗転することが、必ずしも、その向こうの瞳の存在を意味するわけではないことに気が付いた。室内の電灯が消されても、レンズ穴は暗転する、その可能性があることに気付いた。

 計太はそのことを確認するために、一旦アパートの外へと出た。外から見上げたバルコニー越しに、ひかりの部屋の電灯が消えているのを確認した。ひかりが居留守を決め込んだことを把握した。チャイムを鳴らしたのが計太であると知ってのことかどうかは、よく分からなかった。計太としては、知らずにそうしたのだと思いたかった。

 その段階で、計太は発作的にチャイムを鳴らしてしまったことを後悔し始めた。冷静に考えると、かなり無茶なことをしていたと思った。あのとき、ひかりが出てきたとして、自分は何と言うつもりだったのか、まったく想像もつかなかった。ひかりが出てこなくて本当に良かったと思った。

 しかし、本当にひかりは自分と知らずに居留守を決め込んだのかどうか、計太にははっきりとしなかったので、そのまま帰ってしまうのは不安だった。

「仮にひかりがレンズ穴を通して自分の姿を確認したうえで、居留守を決め込んだのだとするなら、その理由は何だろう。俺の挙動から何かを読み取り、その何かに怖れを抱いたのか。もしそうだとするなら、その何かとは一体何だ?」

 計太はそう自問した。答えはすぐに分かった。それは、計太の情念だった。ストライプのパンツが見たい、中学校の制服を着て見せてほしいという計太の欲望だった。

「あのとき、ひかりが出てきたとして、自分はどうするつもりだったのか、発作的にチャイムを鳴らしたのと同じように、発作的にひかりを押し倒さなかったと、果たして俺は言いきれるだろうか」

 計太の情念をその挙動から感じ取って、ひかりは居留守を決め込んだに違いなかった。それは計太の推測にすぎなかったが、あり得ないことだと切り捨てることは出来なかった。

 自分がふたたびここを訪れた用件を、計太は捏造しなくてはならなかった。そして、その用件の内容によっては、その場で何らかの対処を必要とするかもしれなかったので、まだ帰るわけにいかなかった。

 名案は、たやすく思い付かなかった。それでも、計太は睡眠不足の頭で必死に考えた。

 携帯電話で伝えるのではなく、直接にひかりと会わねばならなかった、特別な用件とは一体何であったのか。それも、つい先ほどまで一緒にいたにもかかわらず、そうしなくてはならなかった用件とは何であったのか。それは、ただならぬ用件であったに違いない。

 ストライプのパンツが見たい、中学校の制服を着て見せて欲しいという欲望は押し隠さなくてはならなかったが、それに近い情念を動機として、ふたたびここを訪れたことにするのが、一番しっくりくるように思われた。たとえば、「もう一度、顔が見たかった」であるとか、「高校のときは、何だかおかしな雰囲気になってしまったけど、また中学生の頃のように仲良くやっていきたいな。それを直接言いたかったんだ」であるとか……。

 そのとき、計太は財布なかの一枚の写真の存在を思い出し、それを財布から取り出した。

 そこに写っているのは、空へと伸びる何本かの植物の茎だった。その茎にはまばらに葉がついていて、いくつかの花も見られた。目立つのはピンクの花で八つほどあり、紫のものも混じっていた。背景の空は薄曇りで、建物や山やほかの木々などは一切写り込んでいなかった。

 計太がその写真を撮ったのは、高校の写真部に入って間もない頃で、それは、奇抜な撮り方や大胆な構図こそが「良い写真」の条件だという素人的発想で撮られたものだった。計太は、地面に這いつくばるようにして、低い位置からカメラを構えて、花弁の裏側までよく写るようにしてその写真を撮った。その結果、プリントされたものは、花弁の裏側を撮るという計太の意図に反して、黒々とした茎ばかりが目立つ写真となってしまった。

 思ったとおりの写真とはならなかったが、計太はその写真が気に入った。すこし逆光気味に撮られたために、茎の黒々とした太さが前面に出ているところ、いくつか写っている花の、花弁の裏側ばかりが見えているために、すぐにはばらの花だと分からないところが良いと思った。

 しかし、計太が高校入学時から現在まで、六年にもわたって、それを財布に入れて持ち歩いていたのは、その写真を気に入ったという理由だけではなかった。

 計太がその写真を撮ったその日から、計太とひかりの関係はおかしくなってしまった。中学三年の秋に一ヵ月だけ付き合い、別れた後も、ふたりは会えば話をしたし、ときには、一緒に下校することもあった。別れた後も幼なじみとしてそれなりに仲良くやっていたのである。それが、高校入学してまもないその日を境におかしくなってしまった。

 計太にとって、その写真とその日の出来事の記憶とは分かちがたく結びついていた。その記憶を忘れないために、計太はその写真を財布に入れていつも持ち歩いた。しかし、実際のところはその写真の存在すら忘れがちだった。その写真の存在を思い出したときには、その日の記憶もよみがえった。そういうときには、危うく叫び声を上げそうになった。あたりの物を滅茶苦茶に投げてしまいそうになった。

 今、ふたりが新しい関係を結びなおすにあたって、高校生以来ずっと持ち歩いてきたその写真をひかりに渡すことは、計太にとって不可欠の儀式のように思えた。あの日、カメラのシャッターが下ろされたときから時間は凍結されて、それから六年という年月を経て、時間はふたたび流れ出そうとしていた。それは、時間を解凍するための儀式だった。

 計太は二度目のチャイムを鳴らした。できれば直接ひかりに手渡したかった。「高校のときは、何だかおかしな雰囲気になってしまったけど、また中学生の頃のように仲良くやっていきたいな」と、言葉を添えても良かった。しかし、ひかりが出てくる気配はなかったので、しばらくの後に計太はその写真を投函した。

 計太は一仕事終えたような高揚感のうちに帰宅した。倒れるようにしてベッドに身を投げ出し、次の瞬間には深い眠りに落ちていた。数日振りの深い眠りだった。

 計太が目覚めたとき、窓の外はすでに真っ暗だった。何時間ぐらい眠ったのか、暗い部屋のなかではさっぱり分からなかった。バルコニーに黒猫の姿を求めたが、れねいは未だ帰ってないようだった。

 はじめは悪夢を見ていたと思った。夢の中で、子供じみた奇行に走って、あふれだす情念をぶちまけたような気がした。しかし、それは取り返しのつかない現実での出来事だった。寝起きの頭がはっきりしてくるにつれて、そのことがしだいにはっきりと意識された。

 計太は後悔した。そして、「奴等」の視線を感じ始めた。
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