第4話 歌心ある音作り

文字数 2,718文字

◇◇ 歌心ある音作り ◇◇


普門館学園には中学部がある。
その中学部の合唱部顧問の小谷先生が、所用で高校部に来た帰りしな、どこからか、かすかな歌声が風にのって流れてきた。

ふつう、高音域だけが突出して遠くからも聞こえてくるはずなのに、歌全体が、バランスよい美しいハーモニーとなって、こんなに遠くまで流れてくるのだ。しかも、うねるような、かすかな響きで。

――あら、高校部には合唱部がなかったはず..。

小谷先生は、その方向へ引き寄せられるように、校舎内を歩いて行った。
近づくにつれ、音程が正確で、各パートの声が十二分に響き、それでいて、バランスよく共鳴し合っているのがよくわかる。

――え? 高校部に、いつの間に、すごい合唱部ができていたのかしら?

小谷先生は、声の方向に急いだ。

1分の後には、小谷先生は、とある練習室の前に立っていた。

「吹奏楽部」――プレートには、そう書かれてあった。


小谷先生が、ドアの小窓から、そっと中を窺う。

すると、なんということだろう、パイプ椅子にピッコロやフルートを置いた部員は頭の上に、そしてスーザ・ホンを横に置いた部員たちは首の辺りに、それぞれ手を当てながら、歌っているではないか。皆、微笑みながら、口を大きく開けて歌っている。軟口蓋が上がった状態なのが、わかる。

それで、平均律の基準となる音程を高くしたり、低くしたりして、音程のイメージ練習をしている。丁寧に。そして各自が、全体とのバランスにも気を配っているようである。

小窓から覗いていた小谷先生は

――これって...まんま、合唱部の指導やん..

と、興味をもった。


しばらくして、監督は団員になにやら指導をはじめた。

「…チューナーに頼るな。まず、心地よく聞こえる『自分の音程』を探すんや。その好みの音程感をまず持ったうえで、楽器の音のほうを、それに近づけるんや。」

小谷先生は、部員たちの音感とバランスをとる耳に、舌をまいた。

監督の指導は続く。

「…たとえば、夏、パレーディングしてると、気温の上昇にともなって、ピッチが高くなっていくのがわかるやろ?周りに合わせて高くしていかないと、音は濁ってしまうんや。合わせるべきは、チューナーの針やない。周りの音や。チューナーは、自宅練習用に家に置いとけ。」

――いいこと言わはるわあ。

小谷先生は、自然とうんうんと頷いていた。

「今、君らにやってもらっているのは、のどや声帯で音程をとる練習や。たとえば、音の上げ下げ。アンブシュアだけでコントロールしてはあかん。歌う時と同じく、のどや声帯も使って、音程をコントロールするんや。…ちゅうか、まず、声帯による音のコントロール、足りないぶんはアンブシュアを使う感じやな。」

――勉強になるわあ。

声楽科を出ている小谷先生は、なんか、数年前に自分が受けた指導風景と重ね合わせ、懐かしく思い出していた。

「…では、声帯を響かせる練習はどうしたらいいか。それが、今、みんなにやってもらっている共鳴する場所の確認や。…低音楽器は、首の下側や後ろ…」

監督は、首に手を当ててみせた。

生徒も、それに合わせて当ててみる。

「…そして、高音楽器は、頭頂部やさらに眉間…」

今度は、頭のてっぺんに手をあてた。

「…そして、中音域は、のどちんこ。」

ここで、団員たちが、どっと笑った。

「今ので、声帯、開いたでー。」

またまた、大笑い。

――この団結力と、監督と生徒との心の結びつきが、美しい音、さらに綺麗なハーモニーになっていくんやろな。さすが、関西代表や。

ドアの向こうで聞いていた小谷先生は、なにやら感銘したようす。

数秒の後、合唱部の指導にどう生かそうかなどと考えながら、小谷先生はそっと練習室から離れていった。



午後6時半。

小谷先生が中学部の合唱部の指導を終え退勤する途中、高校部のグラウンドの前にさしかかった。

見ると、向こうの方で、吹奏楽部が練習している。

手には楽器を持たず、どうやらマーチングのフォーメーションを確認しているようである。

はじめは、そう見えた。

しかし、それにしては「一と、二と、三と、四と…」というリズミカルな拍取りが聞こえてこない。

と、次の瞬間、どこからか、かすかなハーモニーが風にのって流れてきた。

団員たちは、しっかりと歌っていたのだ!

――あ、自分の心地よい音感と、周りとのバランスを、解放空間の中でとっているんや。

しばらくして、団員たちは、今度はめいめいの楽器を手に取りはじめた。

――チューナーは、使わせないんや...。さっきのウォーミングアップで声帯を開かせといて、それぞれに各自の音感に楽器の音色を近づけさせ、さらに周りとのハーモニーやバランス、響きを確認させているんやな..。


そう見てとると、小谷先生には、なにやら可笑しみの気持ちが湧いてきた。


――なんや、楽器の音出しも、合唱練習も、同じやん..。


そう思うと、小谷先生は、なにか吹部と一緒に幸せになれたような気がして、軽い足取りで駅へと向かった。



数か月後。

小谷先生は、普門館高校吹奏楽部のマーチングのネット動画を目にしていた。

フォーメーションが超高速で、次々と変わっていく。

その精密さだけでも驚かされるというのに、美爆音は維持されたままなのだ。


小谷先生は、一瞬、別録音ではと疑った。
というのも、中学時代、フルートを吹いていた小谷先生には、パレードですらアンブシュアを維持するのがどれほど大変なのかが、分かっていたからだ。

それを、あんなに走り回って、オーケストラ並みのサウンドが確かに維持されているのだ!

しかも、楽器を振り回したり、飛び跳ねて空中ですら、音は変わらない。

唖然とした。化け物である。


しかし...やがて、高校部の吹奏楽部の指導を思い起こし、ようやく、得心した。


あれは、吹いているのではない。歌っているのだ――と。

たぶん...

喉や声帯、さらには鼻腔や頭蓋骨を響かせることによる音出しが80%、アンブシュアや循環呼吸法などによる音出しが残り20%程度のレベルになって、はじめて実現できる高度な技術ではないだろうか...。

それにしても...

それ以上に、'やらせられている感'がなく、嬉々として幸せいっぱいに、いとも簡単そうに安定感ある美しいサウンドで超絶演技し、見る者、聴く者を、幸せ空間に巻き込み、心を惹きつけてしまう...。

たぶん、心からの美しい叫びができるからこそ、心からの幸せな笑顔も、自然と沸き起こってくるのだろう。なんて尊いことなのだろう。



高校部吹部の'魂'をみてとった小谷先生は、モニターの前で、涙腺が緩んでくる歓びに、独り浸っていた。

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