第17話

文字数 1,030文字





 自由の定義ってのがある。二択問題があった場合、その二択からも「選ばない」自由がある。選択しない自由。それはともかく、個人が個人を詩的に高めるために客観的なものを扱う(自由主義=ロマン主義)としたら、外界が二の次になる。そりゃまずいとシュミットは、したのだった。

 要するに一致団結して国家に尽くすのが、結果的には個人が「間接性の」価値や尊厳を得る契機にもなるんだぜ、と説いた。で、実際それで進んだのだけど、全体主義ってことになった。で、先の大戦の結果は誰でも知ってる。そうなった。

 ただ、国家に尽くすということは「権力者」がいる。ここでいう権力者とは、歴史で習うあのひとのことだ。で、それに対し、戦後、シュミットは君主について、独自の「主権理論」を展開させたのである。

 いかに絶対的な君主といえども、現実にはその能力に限界がある。そりゃあ、人間だから。
 限界があるゆえに、「間接的な権力者」たちが活動する余地が生まれてくる。
 権力者である君主が「全能」と呼ばれるほど、「間接的な権力者」たちの活動が拡大し、彼の全能性を切り崩すようにその影響力も増大していく。

 ここに、絶対的な権力者ほどかえって権力から疎外され、無力な地位に身を墜とすという「パラドクス」が生まれる。

 この「間接権力」と呼ばれるものを、保護と服従、権力と責任の関係をあいまいにし、支配に伴うリスクと責任を引き受けないまま、その利益だけを手に入れる不可視の権力、とシュミットは定義した。

 いかなる権力のもとでも不可避的に間接権力が生み出される。

 それが、主権権力の悲劇的な限界だった、というところで、この話は終わる。
 ロマン主義の肥大化でダメになったのを決断理論と国家理性でどうにかしようとしたけど、それはできなかった。権力には構造的に限界があった。……というところだ。

 まとまりに欠けてもダメで、じゃあまとまろうとまとまっても、そこには落とし穴があったというお話だったのであった。

 そこで、取り換え可能なシステムをつくろうとしても、それもいろんな角度からダメだった。

 生きてる限り、法や権力とは無縁でいられない。法のもとに自由はあるし、権力からも逃れられない。特に例外状態ってのもあるけど……、それはまだ、今の僕には語れない。


 ……要するに、風船爆弾をめぐる戦中の問題は、こういう思考の流れのなかにあった、というのが僕が半年間、図書館に通って勉強して出した現時点での、ではあるが、答えだった。

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