第15話

文字数 1,797文字





〈皇国史観〉とは。

 洋行した奴らが、西洋列強が強いのは一神教というもので「一丸になる」ことが出来ることだと踏んだ。ので、ちょうどよく天皇制を(また、ここでも)利用したのがベース。
 なお、6世紀百済から伝来した仏教を天皇家は丁未の乱(ていびのらん)ののち、信仰することになってる。故に、天皇家は仏教徒なのであり、天皇より仏は偉い、という言い方も出来る。

 そもそも〈記紀〉は、氏族の主観的な歴史を排除し、口伝ではなく、大陸などに向けても二十四史のような正統な〈正史〉(紀伝体の本)が必要とされたのでつくったのであった(Wiki的には紀伝体風という位置づけだ)。よって、それを日本のドグマとして考えるのは本流ではないけど、政府は利用したし、教派神道などは記紀をドグマとして捉えるのが普通だ。

 ポイントとして、〈記紀〉は、氏族の主観的な歴史を排除してつくられたものなのはことのほか重要だ。世の中には「系図屋」と呼ばれる職業がある。系図をつくってもらうと、どんなご家庭も由緒ある戦国武将やらなんやらの子孫なのだー、とか系図屋がでっちあげるのである。あまたある〈氏族〉は、各々系図を持っていた。それじゃ困るから、今の天皇家に連なる家系図(神代からの、疑似的かもしれない家系図)を公式な歴史としたのが〈記紀〉である。

 これは、大和朝廷公式家系図(神話も含む)を、この国のスタンダードとして採用したって話なのである。実際のことはとりあえず文献があやしいの以外は残ってないのでなんとも言えないが、それを踏まえて、記紀神話は読むのだ。

 古来から日本には氏神信仰っていうのがある。自分の祖先を敬う信仰が氏神信仰。で、偉い人の祖先はやっぱり偉いから敬おう、となったらなんか神様ということになっていて、神様の子孫なのだ! みたいな構造になっている。

 で、昔からこの国では、その神様の子孫だというひとを囲って、自分を征夷大将軍とかにさせて実際の政治や権力を牛耳る、っていう方々が現れては消え、また現れる、となっていた。学校で習う日本史とはそれだけが描かれた話だ、と言ってもいい。で、明治政府は遣欧使節団などで遊学して「日本を一丸にするのに」また利用してしまったのが、アウトラインだ。

 日本には、血縁主義であった氏神信仰と、地縁主義であった産土神への信仰がある。

 両者はくっついてしまったし、現在は引っ越しなどにより、産土神と鎮守神が別、というのも一般的になっている。

 血縁主義は、ある意味では難しい。こうなってくると、伝統、トラディショナルなものは、地縁主義が担うことになる。氏神が自分の祖先神でなくても、「産土神と化した氏神」の、氏子に入って、地元のコミュニティに加入する、などが増えるだろう。

 ただ、産土神と言った場合、「生まれた場所」のことと、その神を指すのだから、生誕地を、生まれ育った町のことを、考えながら過ごすことになるのだ。都会のひとは特に、望郷の念がありつつ、田舎には住みたくない、となるひとが多いので、住んでる町の〈地縁〉と、〈産土〉の両方を考えるだろう。田舎に住むにしても、地元コミュニティに所属することが必要であるし。

 これはなにを指すか、というと、僕の得た知識から考えると「ナショナリズムとパトリオティズムは違う」という話なのである。


 ナショナリズム……つまりネイション(国家)主義と、パトリオティズム(無理矢理訳せば、郷土愛)は、全く違う。坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』の特攻隊への賛美は、パトリに基づくもので、それはナショナリズムでは、決してない。そういうことである。


 氏神信仰の血縁主義だけを観るのではなく、産土神信仰に代表される地縁主義を観ないと、坂口安吾のロジックは理解出来ない。要するに、そういうことなのである。

「個人を越えて大きいモノのために戦う」となった場合、それは叙事詩が語る英雄と(文献突き合わせれば)似た行動でもある、というのはそれでも一方には考えとしてあってもいい。けど、敗戦国が戦勝国の皆様や戦争をふっかけた国々の皆様の前でやると、なにか言われる、当たり前だけど。でも、僕の考えでは、それはナショナリズム、つまり「天皇教」、ではない、違うものだと思うのだ。

 ……だが、これは一種の〈ロマン主義〉と言えないだろうか。そして、ファシズムはロマン主義と合理主義の〈成れの果て〉だ。


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