第1話 これって、危機なんだよな

文字数 2,073文字

 ぼくの部屋は2階にあるんだけれど、一日中1階に居座っているんだ。
 それもキッチン。いや、陽当たりのいいリビングにというほうが正確かもしれない。
 だから、大げさだけど1階を占拠しているっていってもいいかな。
 パソコンをキッチンテーブルに置いているからなんだけどね。
 
 30年ぐらい前にインターネット工事をしてもらった時に、パソコンをどこに置くかを迷って、キッチンテーブルの端に決めたんだ。
 2階のぼくの部屋に置くと、休日も部屋に籠ってしまうことが分かっていたからさ。
 家族とのコミュニケーションは大切だと考えてのことなんだ。
 もともと、4人家族には大き過ぎるテーブルだったから、スペースは十分にあったし、キッチンだと妻や二人の子どもにも使いやすいと思ったんだよ。
 だから、リビングとのパーテーションを取り外して、広くて快適な空間にしたんだ。
 それ以来、パソコンは何回も買い換えて二人の子どもも巣立ったけれど、置き場所はいまだに同じ場所なんだ。

 ぼくは朝の5時には起き出して、リビングの42インチテレビの前に座って、映画やドラマを観る。スカパー・プライムビデオ・ネットフリックスに入っているから、国内外の映画とドラマの中から何を観るかを悩むという贅沢を味わっている。
 字幕は見えにくいので吹き替え版になるけどね。
 
 7時頃に食パンとコーヒー、気が向いたときは目玉焼きを作って食べる。
 NHKの朝ドラが始まる8時前に妻が下りてくるので、テレビを明け渡すんだ。
 それからぼくはキッチンテーブルのパソコンの前に座って、背中で朝ドラを聴いて、そのまま夜中まで小説を書いている。いや、書こうとしてキーボードを叩いているんだ。
 
 60歳で大阪の「文学の森」って学校に入ってから、3ヶ月に1作品の割合で小説を書いている。
 これは、4月から始まる春季と10月から始まる秋季の半年間に2作品を、土曜日の午後の組会に提出することになっているからなんだ。
 春季の2回目の提出日は2ヶ月後なので、まだまだ余裕があるし、観たいドラマや聴きたい本もあるしと、なかなか取りかかる気がしなくて怠けているときはいいんだけれど、締切りが近づいてくると夫婦関係の危機も迫ってくるって感じなんだ。

 どんなに仲のいい夫婦でも、ちょっとしたことで言い争うことってあるだろ。
 そんなときは、顔を合せないほうがいいんだけれど、妻が料理を作ったり、リビングでテレビを見ていたりしている時も、ぼくの姿が目の端にあるんだよ。
 妻の機嫌が悪いのは、シンクに勢いよく流す水の音や、包丁を叩きつける音で分かるし、なによりも口調に不快さがあふれ出てくるんだ。
 不機嫌なときでも電話のやりとりは、別人みたいに明るい声になる。だったら別人のままでいて欲しいんだけどな。
 妻の機嫌が悪くなると、ぼくの居心地も悪くなる。
 そんなときはなるべく気配を消すようにしているんだけど、ぼくが文字入力に使っている視覚障がい者用のソフト「PCトーカー」はキータッチするたびに、音声で操作ガイドしてくれるんだ。
 たとえばローマ字入力で、
「  K   O  N  N  N  I  T  I  W  A  」
 と入力するとこんな感じで電子音を出すんだ。
 カギ ケイ コ エヌ ン エヌ ニ ティ チ ダブル ワ カギトジ 
 モニター画面には
「こんにちは」
 と表示される。
 KとOの2つのキーを続けて押すと、
 ケイ オー ではなくて 
 ケイ コ
 つまり、Kのキーを押したら、ケイ。
 2つ目のOのキータッチで、ローマ字変換した コ を読み上げてくれるんだ。
 今日は と漢字変換で確定すると、
 コンバンノイマ ニチヨウビノニチ ハ
 と漢字の詳細を説明してくれる。
 ある程度まで書き進めると、ワードの「音声読み上げ機能」で文章をチェックして、おかしい表現や、気に入らない箇所を書き直す。
 いくら気配を消しても、電子音がにぎやかに部屋を埋めつくすんだ。

 これが、気に障るのはよくわかる。
ぼくがヘッドフォンを使えばいいんだけれど、両耳がかぶれているのでかゆいんだ。
 耳鼻科や皮膚科に通って薬も塗っているから、妻も使えとはいえないんだ。
 それに、大きな英字シールを貼ったキーボードに顔を埋めるようにタイピングをしているので、一日中低姿勢というか、とても卑屈な姿勢でパソコンの前にいるんだよ。
 しかも、いつも独り言をいってはため息をついたり、時々背筋を反らせて奇声を発したりするものだから、変な寄生虫でも見ているような冷たい視線を感じる。
 この世から消えろとまではいかないけれど、目の前からは居なくなって欲しいということだと思うよ。
 ぼくはぼくで、テレビドラマの展開が気になったり、似たようなバラエティ番組をよく見てるよなとか思ったりしていらついてしまうんだよな。
 そうなると、妻は一日を2階の自室で過ごして、食事を作るときだけ降りてくるって日が続くんだ。
 険悪なムードは一週間ぐらいは続くんだけれど、このときが一番、小説を書き進められるんだよな。

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